10 森の魔獣とウィズイン・ユー・ウィザウト・ユー
ときわが走る後ろを、原田はぴったりとついていく。≪灯火≫の術の効果範囲の関係上、どうしても仕方ないことなのだ。
本当に仕方がないのだ。原田のせいではない。
彼の目線の先は、ふりふりと揺れる女子高生の尻肉。研究熱心な彼は、スパッツを履いているからといって嘆くことはない。ぴったりとした布地がトレースする筋繊維の動きを、間近でつぶさに観察していた。
唐突に、森の空気が変わった。
ときわはすぐに察した。何度か感じたことがある、マナの場に踏み込んだ時の感覚だ。生温く絡みつく空気。四方から見られているような、むずむずする不快さ。
ときわは緊張した声で、後ろにいる原田に声をかけた。
「センパイ、今の――」
原田はぱっと目線を上げ、何事も無かったかのように取り繕う。
「けっこう勘が良いんだね、キミ。視線を感じたのかな?」
その答えに、ときわはごくりと息を飲む。
彼女は問う。
「大丈夫でしょうか?」
「安心していいよ。見ているだけだ、決して触ったりしないから」
ときわは余裕のある原田の言葉に、こくりと素直に頷く。
少しだけ安心した。
いざという時は原田を守らねばと思っていたときわは、自分の思い上がりが恥ずかしくなった。謙遜ばかりしているけれど、きっとこの魔法使いは自分よりも経験が上なのだ。
とそのとき、悲鳴が聞こえた。
若い女性のものだ。
「センパイ! 今の悲鳴は……」
「近かったね、急ごう」
そこからほんの数百メートルも進んだところ。倒された自転車の奥で、木々の隙間を這うように逃げる一人の女性。
そのすぐ後ろには、黒い直立二足歩行をする獣人がいた。
ときわは黒い影を見ると、声をあげる。
「なにかいるっ! ――あれは、イノシシ? イノシシ人間!?」
イノシシ人間はじりじりと歩を進める。
一刻の猶予も無かった。ときわは投げ捨てるように自転車から飛び降りると、走りながら両手にマナを集めていく。
「くらえっ、永遠闇地獄っっ!!」
突然巻き起こる真紅の炎。怪奇イノシシ人間は驚きおののき、ぶっふぉー!とやかましい鼻息とともに、ばたばたと四足で走り去っていった。
「ありがとうございます、助かりました。」
「すごいね、ときわちゃん。ボクの出る幕なんてなかったな」
「いえ、それほどでもー。えへへー」
照れつつもぽりぽりと頭をかくときわ。
「走っていたらあいつが急に横から飛び出してきて、ぶつかってきたんです。大丈夫でしょうかぁ、ちゃんと走れればいいんですけど」
女性は心配そうに、倒れたままの自転車を見る。素人のときわから見ても高そうな自転車だ、壊れてなければいいのだが。
「おや、これは」
倒れていた自転車に近づく原田は、サドルに傷を見つけた。
倒れた時にでも、木の枝かとがった石で切ってしまったのだろうか。
悲しそうに傷を見つめる原田に、女性は言った。
「ああ、切れちゃいましたかぁ。でも、走るには問題ないし、そこはいいんですけど……」
「ときわちゃん、ボクは少し魔力を補給させてもらおうと思うんだけど、少し時間をもらえるかい?」
「え、いいですけど、何するんですか?」
「エア頬ずりだよ」
「エア、え、なに?」
「秘密。あんまり未成年に見せるものじゃないからね。後ろを向いていてくれないかな」
原田はおどけたように顔の前に人差し指を立てる。
「あ、はいっ、すみませんでした!」
師匠から聞いたことがある。魔術師にとって自分の開発したオリジナルの術式は、携帯電話のメール履歴とは比較にならないほど大切な秘密なのだ。
原田が見せたくないと言ったのも当然だし、失礼なことをしてしまったと思ったときわは、慌てて後ろを向いて気を付けをする。
対して、原田は紳士だった。未成年への態度も、女性への気遣いも持っている。
原田はサドルを手に取ると、わずか5ミリの間隔を正確に開け、頬をゆっくりと上下に動かす。恍惚の表情を浮かべ、息をゆっくりと吸い込む、吸い込む。まるで吐き出すのがもったいないかのようだ。
「え、ちょ、なにしてるんですかぁっ!」
被害女性の悲痛な叫び。
「え、見てわかんない? エア頬ずり。安心してよ、触ってはいないからセクハラじゃあないよ」
「うわっ、そんな、キモっ! 直接触ったり舐めたりしたほうが、まだましですっ!」
「なに言っているんだい。直接触れたら、サドルに残ったぬくもりとボクのぬくもりが混じって、キミの体温がわかんなくなっちゃうじゃないか」
「変態っっ! なにそのセリフ! マジでキモイ! 死ね!」
きゃあきゃあと聞こえてくる黄色い悲鳴。ときわは気になって仕方ないが、鉄の自制心で耐えていた。
肩越しにときわは聞く。
「もういいですかー?」
しばらくの沈黙のあと、
「ああいいよ」と答えが返ってくる。
ときわが振り向くと、女性はぐったりと放心状態で、近くの木にもたれかかるように座り込んでいた。対してつやつやとした表情の原田。
「よかったらこれを使うといい」
そういうと原田は背負ったリュックから新品のサドルを取り出すと、彼女のサドルと交換した。
ようやくときわは理解できた。
「ああ、エナジードレインって言ってたんですね。やっぱセンパイはすごいや」
再びレースに戻り、走り出す原田とときわ。ときわは先ほどから気になっていたことを、原田に質問してみた。
「ねえセンパイ、DOGMAって会社、すごいんですか?」
原田はびくりと肩を震わせた。
「なっ、ドグマだって? キミ、どこでその会社を知ったんだい」
初めて見る、動揺する原田の姿。
ときわのうなじの産毛が逆立つ。
フレームに書いてあったということは、自分の乗るFX3のTrecと同じように自転車メーカーなのだろう。そう思って気軽に聞いたのだが、自分はどんな地雷を踏んでしまったのか。
「……いいかい、ときわちゃん。その会社の名前は、キミみたいな少女が口にしていい名前じゃない。忘れるんだ」
彼の頭に浮かんでいたのは、マニア向けビデオ作品を作り続ける、大手映像作品メーカーだった。
「は、はいっ!」
ときわは背筋を伸ばし、緊張したような声で返事をした。
やはり原田は、未成年を優しく守る紳士だった。
二人の魔法使いがドタバタをしているほんの数km先。ワイルド山村は真っ暗な山道を苦も無く走っていた。頼りにするのは、暖かなオレンジ色の二筋の光のみ。
彼が早い理由は単純だ。ここは、彼の通学ルートなのだ。
道がボロいだとかイノシシが出たとか、山村にとっては日常のことだ。ふん、他県民は帰れ。そう言って強がるものの、ダイナモの重さは確かにかなりのハンデでもある。
モンテカルロのライトの先で、赤い反射板がきらめく。一人の男性参加者が、自転車を押して歩いていた。
山村はスピードを落とし、声をかける。
「すみませーん!」
男たちは20代前半だろうか。振り返ると笑顔で手を振ってきた。
「お、兄ちゃんも参加者か。頑張れよー」
「ありがとー、おいちゃん」
お兄さんじゃねえのかよ。そう言いながら男は笑う。
「ところでおいちゃん、シルクハットをかぶった黒っぽい服装の男を見なかった? マウンテンバイクに乗ってるやつ」
その言葉で男から笑みが消える。苦虫をかみつぶしたような顔に、山村は察する。
「もしかして、なんかされたの?」
山村の問いに、男は自分の自転車を指さして答えた。
「知ってるもなにもさ。見ろよ、この曲がったフレーム。そのマウンテンバイク野郎にやられたんだよ」
うわー。山村は思わず言葉を失う。
お前も何かされたのか? 男の問いに、山村は答えた。
「友達がぶつけられかけてさ、一発ぶんなぐってやらねえと」
「おー、お前、なかなか根性あるな。――よしっ、それならこのライト貸してやるよ。崖から落ちんじゃねえぞ!」
男は遠慮する間も与えず、山村のモンテカルロにガチャガチャと自分のライトを取り付けた。
「おお、これぶちくそ明るいじゃん! ありがとー、おっちゃんっ!」
「ああ、がんばれよ。俺の分までぶん殴っといてくれ!」
電池式ライトを装備した山村は、ダイナモのスイッチをオフにする。
「うおお、これ、軽いっ! 走りやすくなったぁっ!」
モンテカルロは上昇気流を捕えたワイバーンの様に、一足ごとに勢いよく加速していった。