『勇者』
「――ッ!!」
酷い悪夢を見た気がして、比奈口 杏花は目を見開いた。
まぶたに残っているのは、ひしゃげていく親友の姿と、バンパーを歪めたまま真っ直ぐにこちらへ向かってくるトラックのハイビーム。
「比奈口 杏花さん、あなたが死亡するはずはありませんでした」
そして、真っ白な部屋の中で意味の分からない事を言う、銀髪の女の姿。
「ありませんでしたって……私思いっきり、トラックに轢かれて……」
「はい、なので生き返ったとしても全身の骨は折れ、半年は寝たきりで治療の必要があると思います。あなたには選択権がありますが、無傷で戻れるとは言えません。こちらの手違いで、ご迷惑をおかけします」
「……選べるって、他の選択肢は……?」
「もちろん、このまま死んでいただくこともできます」
人間離れした女の人間離れした言い分に、女子高生に過ぎない杏花は頭を抱えた。
それを悩んでいると勘違いしたのか、人外女は一呼吸置いた後説明を重ねる。
「死を選ぶ理由は様々ですが、主に金銭的な理由、または肉体に障害が残ることに大きな不都合を感じる場合、もしくは既に現世に嫌気がさしている人などが――」
「もういい! 別に、死ぬ気は無いわよ。気の滅入ることを言わないで」
趣味は悪い方だと自覚しているが、別に他人の精神的な事情にまで興味はない。
まさか自分が蒐集した裏動画の如き事になるとは思わなかったとは言え、それにしたってこの銀髪白服は距離感が間違っているように感じた。
「……はあ。よく分からないけど、その二択ならさっさと生き返らせて――」
そこまで言いかけて、杏花はふと違和感に気づく。
もう1人、ここに居るべき者が欠けているような。
「……ネルは?」
「寝る?」
「ネルよ! ああと、乙美 稔! 私と一緒に居たんじゃないの?」
「検索……誤死亡リストには乗っていませんが」
「……死んでないの?」
いや、そんなはずは有るまい。
事故の瞬間、とっさに自分を庇った親友は、間違いなく首が曲がってはならない方向へとねじ曲がっていた。
「再検索……ああ、閻魔帳の方に名前が乗っています。正しい死亡者ですね」
「正しい、死?」
「予定通りの、とも言えます。『天命が尽きた』とも言えるでしょう」
淡々と言ってのける眼の前の女に、杏花はふつふつと怒りが湧き始める。
稔とは高校からの付き合いだが、信じられないほどの善人だった。
その命を失わせることが正しくて、自分は生きていくべきだなど。
どうしてこんな女に決めつけられなければならないのか。
「生き返らせてよ」
「無理です」
「なんで! 私には生き返る権利があるんでしょう!? だったらそれをあの子に使ってよ!」
「それとこれとは話が違います。この閻魔帳に記されている者は死ぬべき者であり、あなたはそうではないという話なのです」
「だったらそれ貸して、ネルの名前消して私の名前にしてやるから!」
「あ、ちょっ……止めてください、斉天大聖ですかあなたは!」
銀髪女の掲げる手帳に向けて手を伸ばし、あげく何か良くわからない聖なるパワーに吹き飛ばされて杏花は床を転がった。
地平線すら見えないような真っ白い空間には、埃一つ落ちていない。
床に顔を押し付けても、匂い一つ立たなかった。
「ふう、やれやれ。ここまでする人間は久しぶりです。まあこの本はレプリカなので、書き換えても何の効果もないですけど……」
「……どうして」
「どうしてと言われましても」
黒い髪がべったりと肌に貼り付き、表情の隠れた杏花から嗚咽が漏れる。
この女では話にならないと分かってはいても、納得出来ない事があった。
「どうして、私が正しくない方なのよ。ネルは、私を庇ったんじゃない。『私がトラックに轢かれる所を、ネルが盾になった』んじゃないの。あの時死んでたのが、どうして私の方じゃないの?」
あの時、どうして自分は動けなかったんだろうという後悔。
どうしてあの子は、とっさに自分を庇うなんて馬鹿なことをしたのだろうか。
だったらその生命は、報われてしかるべきの物のはずだ。
「……死に方の問題ではありません。閻魔帳には、死すべき時が記されているだけなのです。故に人は、悔いの残らぬよう生きなければなりません。ですが……」
神や仏の類いが居るとすれば、ネルを憐れむべきだろう。
しかし目の前の女は、何らかの感情一つ向けようとしないじゃないか。
だからきっと、自分の会話している相手は悪魔か何かだ。
言葉を交わした時から、そう考えていた杏花に対し。
「『どうしても』と言うのであれば、一つ、こちらから手段を提示できましょう」
アルビノのような赤い目をした女が、手を差し出した。
……
…………
宴の熱が引いていくように、夜の風が火照った肌を撫でる。
花町から呼ばれた子たちも、思い思いの商売相手を掴んで散っていった。
ネルとキョーカはと言えば、ギルドの幹部であるゴロズに買われた後、一足先にベッドに転がっているのだった。
「う……顎痛い」
うっすらと瞼を開けて、薄暗い自室のベッドで眠っていたのを思い出す。
シャワーで体液を流し、軽く一眠りしてなお、顎関節がジクジクと痛む。
「あー、キョーちゃん。起きたー?」
「んん……寝てる。ネルは大丈夫なの?」
「うん、私は平気ー。今日はキョーちゃんが先だったから」
そう言ってもらえるなら、頑張った甲斐もあっただろうか。
最後の方はもう記憶も朧気だったが、とりあえず変な事は無かったらしい。
「……ゴロズさんは?」
「『カミさんに叱られるから』って言って帰ったよ。立派だよねえ。あれを『ごーほーなんとか』って言うのかなぁ」
「……もしかして『豪放磊落』?」
「あ、そんな感じー」
散々搾った後のはずだが、きっとよろしく『仲直り』するのだろう。
ファンタジー世界の住人の体力恐るべしであった。
ベッドに横になっていると、隣に腰掛けたネルの香りが、ふわりと漂ってくる。
こんな生活のどこで付けてきたのかと思うくらい、甘い花の匂い。
自分の手に染み付いてそうなのは屍肉か消毒用の灰の匂いくらいなのに。
やはり石鹸でも作るべきかと思いつつ、キョーカにそんな知識は無いのだが。
「ねぇねぇキョーちゃん、また死にかけたの?」
「ん……なに、私そんなこと言ったっけ?」
「わかるよー。キョーちゃん、私に付き合ってくれる時はそういう時だもん」
そうだっただろうか。
自分自身でも覚えていないことを、よく覚えているものだと関心する。
そういう細やかな所に目が利くから、周囲から愛されるのだろうか?
喋り方と雰囲気から誤解されるほど、ネルは馬鹿な女ではない。
そう誤解されたほうが都合が良いと、本能的に理解しているだけだ。
「明日はお仕事行くのぉ?」
「……『危ないから止めろ』とは言わないのね」
「だって、キョーちゃんも『汚いから止めろ』とは言わないでしょー?」
それはそうだ。キョーカもネルも、それで生きているのだから。
止めてしまえば宿賃も払えなくなるし、ご飯に使うお金もいずれなくなる。
生きていくには働くしか無いのだ。それがどんな仕事であれ。
「キョーちゃんはグロが好きってのは、こっちに来てから知ったけどねぇ」
「別に……ちょっと昔、こっそり死体の動画とか集めてただけよ。それを言ったら、私だってネルの知らなかった事いっぱいあるわ」
お互い、ねじれの位置に背中を置きながら、ぼそりと呟いた。
「……あんなに大きい家に住んでたのに、学費に困るくらい貧乏だったなんてね。私、知らずに買い物に連れ回しちゃってたじゃない」
「パパとママはねー、贅沢が忘れられなかったから。大変だね」
大変だったのはあなたでしょ、という言葉を、キョーカはぐっと飲み込む。
ネル自身が恨んでない人に向けて、自分がとやかく言う権利もあるまい。
ただネルは、自分には「これが向いている」と考えて、行動しただけのこと。
客観的な評価など、求められてはいまい。
「んー、でも今はキョーちゃんも大変だぁ。なでなで」
「わぷっ、やめてよ、髪が口に入る」
ガラスなんて無い木窓からは、ちょうど空高く登った月が見えた。
正確に言えば、ガラス瓶くらいなら高級品として存在するが、ガラス板の開発にはもう少し時間が掛かりそうだと言った具合か。
魔法がある世界のためか、妙に薬学や印刷系の技術が進歩しているが、よく考えれば元の世界もそうとう、電気工学に依った歪なツリーをしていたような。
「そうだ、今日の新聞、マスターさんから貰ってたんだぁ。居るでしょ?」
「ん……うん。『勇者タダヒト、魔軍四将軍を撃退』。へー、やるじゃん」
「だよねー。タダヒトさん、ニホンの人なのかなぁ」
「タダヒトなんて名前こっちには居ないだろうし、そうなんじゃない?」
夜のとばりの中で明かりになるのは、蝋燭の火と月の光くらいであった。
仄暗い部屋の中、二人で肩を寄せ合って活字を追う。
タダヒトとやらの活躍は、自分たちとは比べ物にならないほど英雄的のようだ。
おそらく、何らかの『特典』を有しているのだろう。
2年ほど前、この世界に降り立つ前に、キョーカがそうしてもらったように。
「そだねー……もし会えたら、おにぎり握ってあげたいなぁ」
「米ないじゃん、この世界」
「うー、おにぎり食べたーい」
「アンタが食べたいだけか……」
キョーカは呆れたように呟くと、読み終えた新聞を畳みバックパックに入れた。
古紙も回収すれば小銭にはなるが、キョーカからすれば仕事道具の一つだ。
店主の好意で古新聞紙をもらえるのは、それで少しでも死者系モンスターが減るならということだろうか。
「今日はもう寝ましょ。たまの機会なんだし、ゆっくり休まないと」
「ん……えへへぇ、キョーちゃんと手を繋いで寝るの、好きだよぉ」
「はいはい、私も大好きよ、ネル」
男の手とは違う、ネルのしっとりと柔らかい指が手の隙間に入り込む。
キョーカがそれを握ると、ネルもまたぎゅっと力を入れて、握り返してきた。
重なり合うようにベッドに倒れ、このまま十年後も同じことが出来るだろうかと想像して、不意にキョーカは、夜の闇に押しつぶされそうなほどの不安を感じた。
歳を取れば当然体力は衰えるし、ネルの肌や髪も特別なものでは無くなっていく。
ギリギリの水準で成り立っている今の生活は、ほぼ『若さ』に支えられたものだ。
「ネルはさぁ」
気づけば、霞がかった意識の中でふと声を出していた。
「生きるの、しんどくない?」
「ん~? どうして?」
「モンスターとか、盗賊とか出るし……街の中で『売り』するのだって、お行儀のいい人ばかりじゃないでしょ?」
キョーカとて、ちゃんとしようとは思ったのだ。
もう少し楽で、未来の見える生活を目指し、二人で這い上がろうとした時期も確かにあり……結果として、元からあった余裕と教養を切り売りして暮らしている。
「余計なことをしたんじゃないかって、たまに思うの。もし天国がここより良い所だったなら、ネルに余計な苦労を負わせてるだけなんじゃないかって」
優しく、朗らかで、けれどどこか風が吹けば消えてしまいそうな親友の笑顔を思い浮かべながら、キョーカは言葉を止められずにいた。
「ネルって前から、死に場所を探してるようなとこあったから」
「ええー、そんなことないよぉ」
「だったら良いんだけど……」
異世界に転生すると決めたのも、その際に貰うチートを「乙美 稔」に指定したのも、結局は自分のわがままだ。
そう自覚しながらも、縋るようにネルの細く柔らかい身体を抱きしめる。
「だいたい、いつも死にそうになってるのはキョーちゃんでしょ~?」
「……まあ、そうでもあります」
「キョーちゃんがいなくなったら、今度は私が女神様に会う番だねぇ」
「ネル」
胸の中に抱いた親友は、にへらと笑ってキョーカの頭を撫でた。
手のひらの暖かさには、人を安心させるための魔力がある。
「神様の下からキョーちゃんを貰いに行くんだよぉ。大変だねぇ」
「……無理しちゃダメよ」
「キョーちゃんもねー。おやすみ」
「ええ、おやすみ」
狭いベッドの中で身を寄せ合えば、緩くウェーブのかかった髪が頬を撫でた。
二人きりの異世界の中で、キョーカは今度こそ微睡みへと沈み始める。
窓の隙間から茶色い蛾が一匹入り込み、蝋燭の火に触れて燃え落ちた。
明かりの消えた室内に、二人の少女の寝息が満ちていった。
勇者にはなれなかった少女達が、糸のようにもつれあって眠っていた。
薄暗い部屋で少女2人が抱き合う絵が書きたかっただけのやつ