◆92
もう一人の黒いイアンが攻撃を仕掛けるのに使用している武器は彼自身の体と同じく真っ黒で柄の部分が少し変わった形をしていた。そんな不思議な形の武器は何も彼だけではない。イアン自身もいつの間にかフォーム・ウェポンを所持していて、それを同様の形に変えていたのだ。
夢のような訳のわからない世界なのに、生々しい金属音が耳に響いた。嫌な音に思わず顔を歪める。いや、自分だけではなく、もう一人の自分もあまり好ましい音だとは思っていないようだ。
しかしながら、この耳にうるさい音に構っていられない。やるべきことは一つ。こうしてこちらの存在を消そうとするもう一人の自分を倒さなければならないということ。こうしてぶつけてきたのは武器だけではない。殺気もだ。簡単に口で表せないほどの奇妙な気。
まるで、この状況が好機だと言わんばかり。
「ははははははははははははははははは」
もう一人の自分は何がおかしいのやら。歯をむき出しにして大笑いしている。金属音に混じって不愉快だった。
「大人しく夢を見ていればよかったのに!」
「そうしていれば、本当の幸せを手に入れられたのに!」
「お前は元より願っていた夢が叶っていたというのに!」
次々と出てくる言葉。聞く耳を立てずにイアンは戦う。一刻も早く、この場所を脱出しないと。倒さなければ。こいつは――。
「記憶はすべてにおける可能性の示唆を提示してくれる存在」
その言葉が聞こえたと同時にイアンの足が一歩動く。その動いた足元から真っ白な花びらが空へと舞い上がった。白とも黒とも灰色とも言えない、なんとも言えないその空間の地面は白い花びらによって、美しい花畑へと変貌する。
「っ!?」
穏やかな世界。美しき世界。ああ、ここで寝転がりたい。逢いたいよ。
自分の気持ちとは裏腹に、戦うべき相手をしなくてはならなかった。そうだとしても、この場所が気にかかって。
――この花の名前、何だっけ? 誰かが言っていた。これはねって。綺麗な花。あの子が頑張って編んだ花冠。こうして頭に乗っけてもらえて……。
「泣きたくなるぐらい、全部捨てたい?」
もう一人の黒い自分が嘲笑ってくる。そう、イアンは泣いていた。理由もわからず、ただ一筋の涙を流して。これは悲しいのか、それとも――。
自分と同じ声を聞きたくなくて、剣を振り下ろした。一閃がたまたま宙に浮いていた白い花びらを斬ったとき、世界は反転する。自分は空に足を置いて、向こうは花畑に足を踏み入れている。それがひどく煩わしく思う。
――お前がそこに立つなんて。
激しい憎悪がまとわりつく。
――許さない、許さない、許さない。絶対にだ。そこに立っていいのは俺とあいつだけだ。お前みたいなやつが立つなんて!
「俺の夢から出て行けぇ!!」
客観的に見れば、目は血走っていて、黒い自分を捉えているだろう。そこまでして、憎いか。恨めしいか。羨ましいか。
振り回すは奇妙な形をした剣。ブンブンと振り回されて、形をゆっくり変えていくではないか。剣身からは棘のような物が突き出してきて、イアンの周りを囲っていく。その武器の形は自分を守ろうとしているようだった。
手袋をしていたはずの右手はいつの間にかしていない。髪の毛も伸びてき始めているが、そちらも気にしない。段々と身軽になってきている自分がいた。歯をむき出しにして、怒り狂う自分がいた。誰にも邪魔されたくなくて、ちょっかいされたくなくて、目をぎらつかせるのだ。
「過去は捨てられない」
当たり前だ、そんなもの。知っている、誰もが。過去の記憶があるならば、頭にこびりついて離れることはないのだから。
武器を振り回す中、もう一人の自分は軽々しく攻撃をあしらっていた。それが実に腹立つ。
「過去は記憶だ。その記憶は否が応でも現実へと体してくれる」
この言い方が嫌だった。嫌だった。攻撃することを止めて、頭にこびりついた最悪だと思う記憶を消そうとする。これだけは思い出したくもない。仕方ないとは思っていても、本音は嫌っていた記憶。
「見ろよ、お前の姿とやらを」
「うるさいぃいい!!」
大声でイアンが叫んだときだった。視界は一転して、ガラスの蓋付きの棺桶のようなものの前にいた。ここはどこだろうか。いや、覚えている。思い出した記憶の片隅にあった場所だ。ここにいると頭痛がして、視界がぐにゃぐにゃとしていて――夢を見て?
――何の夢だった?
楽しい、嬉しい夢ではなかったはず。明らかな悪夢。それでも嫌だと思っているから忘れているのか。いや、もうそれでいい。忘れたい。思い出すだけでも不愉快だろうから。
何をしていたんだか、とイアンがゆっくり立ち上がろうとした。そのとき、再びひどい頭痛の波が押し寄せてくる。せっかく立ち上がったというのに、痛みで膝を折った。またガラスの部分に触れる。
――思い出せ、思い出せ。
邪魔な自分の声が頭の中で響く。軽々しい歌を歌っているようだ。それが何とも苛立つ。
――思い出せ、思い出せ。忘れたことじゃない。忘れたわけじゃない。誰かが記憶を消したんだって。
――誰か? 誰かが俺の記憶を? あれ?
――『書』を取り戻せ。
「あ」
急激に頭の中へと入り込んでくる記憶。これは誰の記憶かすぐにわかった。いや、どちらかと言うならば、思い出したくなかった記憶だ。触れたくない記憶。どうしてこの記憶を忘れていたのか。事故事件に巻き込まれたならば、忘れるのではないだろうか。
封じ込めたかった記憶は勝手にこじ開けられた。
【楽園の女王から『書』を取り戻せ、イアン・アリス】
【そうだ。お前はイアン・アリス】
「違う……。俺はそんな名前じゃ……」
思い出す記憶は否定したいものだった。なぜならば、己を否定しているようだったから。俺はイアン・アリスという名前じゃない。前々から頭の中で叫んでいた思い。それでも、一定の感覚でやって来る頭痛は記憶をよみがえらそうとしてくる。
【お前はイアン・アリスだ。前回のイアン・アリスが『書』を奪取し、なおかつ彼とお前の働きによって世界改変者の存在を消した】
前回のイアン・アリス!? 世界改変者!? いや、その人物のことをよく知っている。知っているからこそ、その耳を疑う。
【だが、楽園の女王と名乗る別の世界改変者が現れ、エンジェルズを集め始めている。お前の役目は『書』の奪取と世界改変者の削除。イアン・アリスの使命を果たせ】
【――――としての記憶が邪魔をしているらしい。余計だな】
【イアン・アリスよ、お前に世界改変者からの『書』の奪取と削除を命ずる】
思い出した、楽園の女王とは誰のことか。思い出した、本当の自分とは。
「俺の名前は……」
言いたくても言えない。楽園の女王が、世界の事実を改変した世界改変者が歴史を変えたから。この世界の事実を変えてしまったから。
それが故に本当の名前を失くしてしまった。記憶すらも。
――いや、違う。俺の名前と記憶は……。
ぼろぼろとはがれ落ちるのは本当の記憶ではなく、記憶を隠していたもの。思い出してくる、よみがえってくるあの頃の記憶。喜怒哀楽。みんなは、あいつはもう――。
イアンが思い浮かべる一人の少女。レーラによく似た子。ただ、髪の色と目の色は違う。その子を頭に焼きつけて、拳を強く握る。
『何も守れなかった』
『何もできなかった』
――俺の友人は何も知らない俺に懺悔をしていたんだ。俺だけおいて、みんなは……死んでいったんだ。
今更嘆いても、あの選択肢を変えることはできない。過去を変える術はもうない。大人しく、これからの未来の行く末を成りゆき任せにするしかない。
――そして、俺の使命は――楽園の女王を倒すこと。この世界にとって、癌である存在を消せば。あるいは……。
イアンの目には憎悪が宿っていた。
――全部、あいつが悪いんだ。




