◆71
そこは本当に何もない世界だった。周りの色は黒なのか、白なのか。はたまた灰色なのか、区別がつかなかった。要は色のない世界と捉えることができる。
そんな世界にどうしてここにいるのかとイアンは思った。ぽつんと地に足がついているのかわからないような状況に、戸惑いを隠せなかった。先ほどまで、デグズとキェレット村の墓場にいたのに。ここはどこなのだろうか。
自分以外の誰もいないという切なさに寂しさを覚える。この孤独さは胸が絞めつけられるほど痛い。誰かいないの? レーラ? グーダンさん? オクレズさん? タツ? エルダさん? ねえ、みんなどこ?
心の奥底から不安が込み上げてくる。早く、知っている誰かに会いたい。そうでなくても、誰かに会いたい。独りは嫌だから。
人を探そうと、足を動かす。すると、目の前に黒い影が現れた。イアンよりも身長は少し低い。それが何かという疑問はなかった。なぜだか自分自身の過去として理解していた。この意味不明な理解力、夢なのだろうか。もし、そうだとするならば、目よ覚めろ。夢よ覚めろ。こんな『悲しい夢』を見たくないのだから。
まさにその通りと言わんばかりに黒い影の過去の自分は楽しいだ、喜ばしいだという感情を見せていない。こちらに見せている感情は負の感情。詳しくはわからない。が、唯一わかるのは自分に対して睨みつけているということだ。それに目など存在しないのに。
ただ単にそう思った。そう思うしかなかった。イアンが黒い自分に何かを言おうとするのだが、それを遮るようにして攻撃を仕掛けてきた。手に持っているのは真っ黒過ぎて何が何だかわからない武器。おそらくは剣状の物であるのはわかるのだが。
負の感情と共にぶつけてくる攻撃を避けた。ゆっくりと振り下ろした剣を引きずるように持ち上げる影の自分はどこか悔しそうにしている。
このまま負けっぱなしでたまるものか。その思いによって、イアンの手にはいつの間にかフォーム・ウェポンが握られていた。最初から持っていたのではない。いつの間にかである。これぞ夢というものか。己が動かしたいようにして動かせる世界。まさに理想とも呼べる実体的存在。
自分の理想にしたいからこそフォーム・ウェポンを剣にするのだが、その手にしている剣は形が妙であった。初めて見るのだろうが、持ち方はとてもしっくりきている。まるで最初からこの手に馴染みがあったかのように。
それでも結局は夢。所詮は夢。気にせずして、理想的な夢の世界を創ろう。目の前にいる黒い敵を倒し、レーラたちを出して――。
黒い剣同士がぶつかり合う。夢の世界だというのに、その金属音は耳元の近くで鳴るようだった。うるさい。剣から手へと伝わる感覚もリアルティで逆に気持ちが悪い。闘え、イアン。眼前の敵をぶった斬れ。
いくら振るっても、振るってもその黒い自分の過去の影には当たらない。一方で向こうも同様のようで少しばかり苛立ちが見えていた。お互いがお互いの戦い方を知っているらしい。それもそうだ。なんせ、相手は過去の自分だから。
過去の自分は未来の自分を知らずとも、結果としては自分自身である。それ故に、己を超えるためにするべきことは、予測不可能にさせること。誰も知らない、自分だって知らない行動を取らなければならない。それはすなわち、成りゆきに任せること。できるか、できないかという問い合わせをしている暇はない。しなくてはならないのだ。
もしも、この黒い自分に負けてしまえばどうなってしまうのか。知る由もないのに、知っている自分がいた。この剣戟に負ければ、己自信を乗っ取られる、と。
負けられない戦いに歯を食い縛っていると、黒い影から「怖いか」と自分と同じ声色を出してきた。
「ここで死ぬのが怖いか」
「お前は誰だ」
反射的にそうイアンは口にした。それが誰なのか知っているのに、正体を問い質す。どうやら向こうもわかっていたらしい。鼻で笑いながら「知っているくせに」と吐き捨てた。
「誰なのか、自分がよく知っているのに」
――ああ、知っているさ。知っている。
それなのに、口に出すのは決まって「誰だ」である。知っているから言わなくてもいいのに。
「大人しく、目を閉じていればよかったのに」
もう一人の自分がばかにしてくる。
「すべて捨てればよかったのに」
投げ出せと言うか。何を? わからない。意味がわからない。いや、わかりたくもない。そのことを知ろうとすれば、するほど周りが歪んでくるから。
「うるさいっ!」
ようやく、誰だという質問以外の言葉を口にすることができた。それは自身の心の中の思いの丈ではないだろうか。自分と同じ声なのが煩わしくて、悲しくて、視界がぐにゃぐにゃになりそうなほど気分が悪くなりそうで――。
「俺の夢の中から出ていけっ!」
黒い自分を斬ろうとするが、軽々しく避けられた。そんな攻撃は見え見えだと言わんばかりに。
「俺の夢? 俺はお前で、お前は俺だ。一緒なんだよ、全部が」
――知っている、お前は俺の過去なのだから。誰よりも知っている、俺の過去なんて……俺の過去?
より一層、視界がぐるぐるぐにゃぐにゃと回り始める。これは何かと言われると、『誰か』にとって不都合なことがあれば、誤魔化そうとするものだ。何かを思い出すことを阻止しようとしている。自分自身の過去を思い出そうとするのを止めようとするなんて。今の自分に知られることを恐れているのは――記憶情報をせき止めているのはお前だな?
――殺してやる。絶対に。
わかった途端に、イアンは憎悪の目を過去の自分に向けた。睨みつけられても、態度は変わらない。なぜならば、自分は悪くないと思っているから。誰が悪いのか。それは過去の自分ではなく、現在の自分?
過去を責めても、何も変わらない。現在をどうするかを決めなければ、意味はない。それこそ、過去を変えることができないのであればなおさらだ。
「黙れっ、うるさいぃ!」
過去の黒い影は何も言っていないのに、怒声を上げる。何がうるさいのだろうか。自分たちは二分十三秒も黙って剣と剣でぶつかり合っていただけなのに。
イアンは剣で斬るという行為よりも、叩きつけるように攻撃をしていた。その攻撃がもう一人の自分に当たったのかは定かではない。ただ一つ言えることは、何かが壊れる音がしたということ。鈍い音が周りに響く中、振り下ろした剣先から視線を変えると――影はいなくなっていた。どこへ行ったのか、という疑問はない。この夢の中でわかっていることは、黒い影を斬ったという実感があるだけ。
それの代わりにあったのは空間に作られたひび。とても嫌な予感しかしなかった。触らずに、そのままにしておくべきだとイアンが一歩だけ後ずさりした瞬間だった。
「うっ……!?」
ひびの隙間から悪臭が襲いかかってくる。夢の中なのに、リアルがあるから現実と区別がつきそうにない。顔をしかめて、鼻を塞ぐと、亀裂は大きく広がっていき、やがてその向こう側を見せてきた。
それはこの世の物とは思えない世界だった。空は真っ赤に燃え上がり、建物のほとんどは崩壊。そして、地面や瓦礫の上にはおびただしいほどの人の死体が。人と言ってもこの世では大まかに二種類に分けられる。右手の甲に楽園の人間であるという証の入れ墨がしてあるか。死体にはあったり、なかったり。それらは楽園とレジスタンス、もしくはノーサイドの者たちの死体であるということがわかった。いや、最初からわかっていた。
不気味過ぎて、吐き気を催しそうなほどの狂った光景。
「これが未来」
不意に後ろから声が聞こえたかと思えば、一気に息が詰まるような感覚に捉われた。初めて感じるようで、感じのなさそうな背中の違和感。夢だから死ぬはずはないとわかっていても、死ぬのではないだろうか。喉の奥の方から何かが込み上げてくる。
――息が苦しい。どうしよう。何があった? 声って、俺? 俺っていうことは――。
誰の声なのか、自分に何をしたのかを瞬時に理解した。それと同時に視界が暗くなってきた。これは目を閉じているからだろうか。
「そう……」
それだけではない。何もかもわかってしまったのだ。立つという状態がつらくとも、足に踏ん張りを利かせて何かを口にしようとするが――。
「イアンっ!」
視界に入ってきたのはグーダンだった。唐突な状況にイアンはびっくりして変な声を上げた途端、何かの記憶がすべて頭の奥底へと押し込められてしまう。
「あれ……?」
自分は一体何をしていたのだろうか。辺りを見渡していると、先ほどまでいた場所とは違う場所――キェレット村の入口に入る細道の前にいた。周りには不審そうにこちらを見るレジスタンスたちがいる。
「お前、大丈夫か?」
「はい……大丈夫ですけど。あれ? 俺って……」
確か、デグズと一緒に墓場の方に行っていたのに、もう戻ってきていたのか。戻ってきた? あれ、おかしいぞ、と先ほどのことを思い出そうとする。彼と行ったという記憶はあるのに、戻るという記憶がないのだ。
「オクレズ、イアンは寝ていたのか?」
受け答えがあまりはっきりしなさそうだな、とグーダンは質問相手をオクレズに変更した。それに彼が答えたのは――。
「さっきまでは普通に話していたんですけどね」
グーダンたちがこちらに来る数分間は無言状態だった、という。これにイアンは違和感があった。当然だ。デグズと墓場に行った事実があるのだから。
「え? いつ戻って……?」
「は?」
オクレズは何を言っているんだ、と眉根を寄せる。
「お前、本当に大丈夫か? リーダーたちが向こうに行っている間、俺と一緒にずっとここの見張りをしていたじゃないか」
――ずっと見張りをしていた?
ますます疑問が増えていく。だが、ここで自分が思っていることを口にすれば、ややこしくなるだろう。そのため、イアンは「すみません」と苦笑する。
「そうでしたね」
記憶の事実を隠蔽することにした。きっと、デグズという人物は夢の中の存在なのだろう。そう強引に思い込むことにした。そうでもしなければ、この心の奥底で思う不快感をなかったことにできそうになかったのだ。
「寝ぼけていたのか。次からは気をつけろよ」
「はい、すみません」
帰るぞ、とグーダンが周りに指示を出し始める。そう言えば、と同盟の件はどうなったのだろうか。近くにいたレーラに「なあ」と訊いてみた。彼らの様子からして、どっちとも取れなかったからである。
イアンの質問にレーラは「それが……」とどこか残念そうにしていた。
「エルダさんが、ね。向こうの人を怒らせちゃったみたいで、交渉決裂……」
「そうなのか。それで、肝心のエルダさんはどこに?」
エルダの姿が見当たらなかった。すでに帰ったのだろうか。気になるイアンが視線をあちらこちらへと動かしていると――。
「楽園の方に行ったよ」
そう教えてくれた。
「ええ? それまたなんで?」
「うーん、何か資料を取りに行ってくるってさ」
資料? そのキーワードにイアンは首を捻る。一体、エルダは何の資料を取りに楽園の方へと向かったのだろうか。




