◆63
あれだけギラギラと地上を照りつけていた日は沈み、代わりに暗闇の道をうっすらぼんやりと照らす月が顔を見せていた。気温は昼とさほど変わらない暑さが、生ぬるい風が闇夜に紛れ込むイアンたちを包み込むのだった。
「侵入経路はいかがなされますか?」
なるべく闇と溶け込むような色の服を着用し、二人は服飾博物館の裏手にいた。表の入口は人の通りが多いからということと、防犯対策は万全であるため、こちらに来ていた。だが、裏の出入口も厳重なセキュリティがなされているのは事実。裏口を開けるにはパスワードを入力しなければならないらしい。ドアノブの付近にその入力キーは存在していた。これを適当に入力してしまった場合――下手すれば、警報が鳴るかもしれないし、どこかで隠している自動銃が動き出すかもしれない。それに、入口のところを舐めるように見ている監視カメラがあるではないか。これではハッキングをしようにも、危険だ。かくなる上は――。
オクレズが取った行動は、博物館の窓から侵入すること。この施設の一番上には色とりどりのステンドグラスが飾られている。そこを割って潜入するしかない。
「イアン、中に入ったら監視カメラに気をつけろよ」
「はい」
入れたからといって、安心もできない。施設内に仕掛けられたいくつもの監視カメラを掻い潜り、なおかつ館内を巡回している警備員にも気を張らなければならないのである。
こんなところで立ち止まっている暇はなかった。グーダンは言っていた。何としてでも、フロンゼが所持しているレイの言葉で書かれた書物と地図を手に入れて欲しい、と。それが『あの計画』に関わる重要なミッションだ、と。そのことをイアンは知らない。いや、知らせていない。知ったところで混乱するかもしれないし、何より――本人の記憶が下手に思い出されたときの後の反応が怖いから。
二人は音が出ないように、細心の注意を払いつつも、ステンドグラスを割って中へと入った。場所からして、うっすらと覚えている間取り――四階か。シデラ・ブライダズの作品が展示してあったのは三階の北側。階段を探さなければ。
「オクレズさん、監視カメラは壊しますか?」
「細工は止めておいた方がいいかもしれん。なるべく死角に入るように動くぞ」
「わかりました」
そう、いつものイアンたちの行動は奇襲を仕掛けつつの物資奪取であるが、今回はそういかない。騒ぎを起こせば、向こうに帰ることができないかもしれないから。別に大騒ぎは起こしても何も思わないが、問題はレジスタンス拠点への帰還手段だ。海路で来たが故に、楽園の警備が厳しくなれば、船に乗る前にして拘束される可能性が高いから。
「オクレズさん、こっち側にカメラはないようですよ」
「ああ」
なんだか、お菓子工場の侵入時と似た感覚だと思った。特に夜というのはイアンが経験した状況と似ているからである。ただ、それとこれが違うとわかるのは甘ったるいにおいがしないという点だろうか。いや、彼は甘いものは好きである。それはコレクタルス要塞で大量にお菓子を購入して自他ともに思ったことだろう。
どうにか監視カメラと警備員の目を盗んで、館内の三階にあるシデラ・ブライダズの作品コーナーへとやって来た。薄暗い明かりがウェディングドレスとテルバ・メソットルェを照らす。それでもなお、この両作品は――いいや、全作品は輝いているように見えるのである。これがその人物が作り出すマジックとでも言うべきか。
「わかりやすいな」
オクレズの言う通りである。視界はあまりよろしくない暗さだというのに。背景と闇が同化しかけているというのに。美しくも儚さを出すそれら。あまりにも洗礼された美しさにイアンは再び引き込まれてしまった。それではいけないと頭でわかっていても、体がテルバ・メソットルェの前に立とうとしているのだ。なんなのか、この気持ちは。感情は。
「イアン?」
とても悲しそうな表情を見せているイアンに不審を抱く。最初に来たときも同じような状況だった。ということは、このドレスに彼の記憶を呼び覚ますヒントの可能性があるかもしれない。そうだ、可能性。これはただの憶測にしか過ぎない。今のところ、それを目にしただけで悲しんでいるだけだ。もしかしたら――。
『すべてを捨てて、新たな生活を試みようとする人の心境をモチーフにした作品』
オクレズはテルバ・メソットルェの作品説明に気付いた。イアンはそれを見ずとも共感したのかもしれない。いずれにせよ、真意を知るのは彼だけ。まだ記憶がよみがえってこないのであれば――。
「イアン、早いところこれを運び出すぞ」
もうそれに関わらないが賢明なのかもしれない。オクレズはそう思った。イアンとレーラには悪いが、このドレスのことは諦めてもらおうではないか。こちらのミッションに支障をきたす前に。
オクレズの呼びかけに、イアンは我に戻るようにして「はい」と視線をウェディングドレスに向けるのだが――なぜか硬直していた。この目を大きく見開いている様子からして、『何か』に驚いているとわかる。だが、何に驚いているのか。
驚愕している視線の延長線上へと見やった。そこにいたのは警備員でもなければ、監視カメラでもない。ましてや、そこには誰もいなかった。強いて言うならば、あるのはシデラ・ブライダズの作品の服。
「オクレズさん……」
イアンが震えた声でそう言った。何かに怯えているのか。何もないところを見て驚いていることに推測は立てられない。そのため、オクレズは彼が口に出す続きの言葉を待った。ややあって、口を開いたかと思えば――。
「そこに女の人が……」
「女の人?」
何を言っているんだと思っていた矢先――【夜に悲しそうな顔をした老婆が現れるんだってよ】
昼間の男性二人の会話を思い出す。だが、イアンが言うのは女の人――いや、可能性としてはありえなくもない。彼がそう見えているだけであって、他の者には老婆に見えているということもあるから。
存在しない物や見えない物、それらを目視したときに感じるのは全員が全員同じとは限らない。
「なんだか、悲しそう」
感情だけは一緒だったか。いや、幽霊がいるという時点で、何かしらの未練を残しているのだ。その感情は思念だけに様々な万感があるだろう。幽霊に思考回路はない。思いが強すぎたが故に、現世に取り残された哀れな存在してはならない者たちだ。
「気にするな。持ち運びに専念してくれ」
あまりこの場に留まっているのも危険だ。早いところ元来た道を戻って、脱出しないと――割れたガラスに気付かれるかもしれない。
だがしかし、イアンは気になるのか「何か言いたそう」と幽霊がいるであろう場所とオクレズを交互に見てくる。彼は許可が欲しいのだろうか。女の幽霊と会話をする時間と行動を。
――見えない物にどうしろと?
「イアン、俺たちは構っているヒマなんてないんだ。急いでくれ」
徐々に苛立ちの声音が目立ち始めてくる。それでも、とイアンは何かを決意したように「先に行ってください」と幽霊の相手をすることを決めたようだ。
「この人の話を聞いてあげなくちゃならない気がするんです」
「それはただの思念体だ。お前が救ってあげられるような簡単な存在じゃないはずだぞ」
それに関してはやってみなくてはわからないと言った方が正しいだろう。だとしても、オクレズはそういう意味で言ったわけでも、イアンができそうにないからという意味で言ったわけでもない。本当の理由は――彼の記憶の存在。この女の幽霊という存在が彼にとって、どれほどの影響を与える者であるか予想がつかないのだ。わからないからこその恐怖。ここにグーダンがいれば、この悩みなんて解決できるのに。
オクレズはイアンが記憶のきっかけによる暴走をしたときの止める役目としては役不足だと思っていた。
「いいから、早く来い」
切羽詰まった声でそういうオクレズに対して、イアンはというと――。
「先に言ってください。大丈夫です、あとからきちんと追いかけてきますから」
断固として、幽霊の訴えに耳を傾けるらしい。その言葉、信用してもいいのだろうか。半信半疑になりながらも、渋りながら「わかった」と承知するしかなかった。
「夜明け前にトラックのところに来いよ」
これ以上の引き止めは無意味だろう。そう思ったオクレズは、その場にイアンと幽霊を残して博物館からの脱出を謀った。
二人きりとなったこの場で、ずっと佇んでいた女の姿――老婆の幽霊はゆっくりとこちらへ近付いてきた。
「……昼間、俺に会いに来た人?」
思い返すは服飾博物館から出たときに感じた冷たくて寒い風と『誰か』。こうして、半透明なものと対峙すること自体ありえないと思いつつも、平然としている自分がいた。
近付いてくるにつれて、老婆は口を動かし始めた。何も聞こえなかった声も段々とはっきり聞こえてくる。
「お願い」
「…………」
「それを燃やしてちょうだい」




