◆62
「ねえ、シデラ」
あまりにも夢中になり過ぎた。何度も声をかけていたらしい。ようやく振り向いたときは呼びかけて十回ぐらいだとか。それほどまでに集中し過ぎていたのか。
「ごめんね。どうしたの?」
せっかく、友達が自分の作品を手伝ってもらっているのに。そうシデラと呼ばれた人物は申し訳なさそうに声をかけてきた友人に顔を向ける。
「ううん、大したことじゃないんだけれども……」
声をかけてきた友人も少しだけ申し訳なさそうである。手を止めていた金具にビーズを通す作業を再開しつつも、黄色の壁に貼りつけられたデザイン画を指差して「これさ」と言う。
「何の意味があって、×××っていう名前にしたの?」
「うーん……そう言われると、答えにくいなぁ」
「自分の作品なのに?」
シデラは小さく頷いた。どうやら、自信はないらしい。
「前も言ったけど、先輩にいけるって言われたけど、自信がね」
「でも、私はシデラの作品は上手くいくと思うよ。私が言うのもなんだけれども」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。せっかく手伝ってもらっているし、励ましの言葉ももらったもん。私が頑張らないとね!」
徐々に自信を持ち始めるシデラは生地についた糸くずを取るために床へと勢いよく叩いた。そして、丁寧に型が崩れないように、しわが寄らないように作業台の上に広げながら「あのね」と作業を手伝ってもらっている友人に語り始めた。
「この作品タイトルの意味、ね……あの人を初めて見たときに決めたの」
「え?」
「買い物袋、拾ってくれたでしょ? あのときね、作品タイトルをずっと考えていたの。何がいいか、何が一番いいのかって悩んでいたら……」
だからね、と話を続ける。
「出会えてよかったって思ってるの。結局はただの恋心でもあるんだけれども、私の制作意欲にもなるというか。ああ、これが運命なんだって思った」
「運命……」
「うん。そういうのって意外にないから、変わった気持ちでいられると思うんだ」
そう言われてみれば、と作業を手伝っている友人は頷く。シデラのその考え方は嫌いではない。むしろ、信じたい方である。
「私も。運命は信じるよ」
おいっ、という呼びかけによってイアンは目を覚ましたように、びっくりした顔をした。どうやらずっと白いチャールストン・ドレスに見惚れていたようだった。
「す、すみません」
とりあえず、目的であるウェディングドレスは見つかったのだから、一度館外へ出るのか。そう思ったイアンは「行きましょうか」と言うが、オクレズはそう言うつもりで声をかけ続けていたわけではない。
「へ?」
「いや、へじゃなくて。なんで、泣いているんだ?」
そのようなことを言われて、初めて気付いた。目から頬に流れる一筋の水。これはまさしく涙だ。なぜに涙を流しているのだろうか。
「あれ? なんで……?」
「おいおい、まさかこの博物館に出る幽霊に憑かれたか?」
「え? 幽霊? まさかぁ」
どちらかというならば、そういう類をあまり信じたくないイアンは驚かさないで欲しいと小さく腹を立てていた。彼は周りの人たちの視線にも気付いたのか、腹を立てることよりもその涙を拭いた方がいいだろうと服の裾で拭き取った。イアンが落ち着きを取り戻したところでオクレズはからかうことを止めて外に出ようと提案をする。
館外へと出て、海風に当たる。先ほどの風とは違って、この風は不快ではなかった。泣いてすっきりしたことが原因なのか。
服飾博物館からしばらく歩いたところでオクレズが「さて」と話題を切り替える。
「ウェディングドレスがあそこにあることはわかった。あとは警備に注意して盗むだけだが……イアン。お前はレーラから頼まれていたテルバ・メソットルェをどうする?」
「どうするって……」
「あいつは写真だけでもいいって言ったんだろ? それともウェディングドレスと一緒に盗むか?」
「できたら、レーラのもとに持ち帰りたいです」
イアンの気持ちはわからなくもない。それもあるし、何より一番の問題として――。
「ウェディングドレスはあっちに引き渡すだけでもいいが、テルバ・メソットルェはゲートなどを通じて俺たちが持っておかなくてはいけない。この意味、わかるよな?」
もちろん、オクレズの言いたいことはわかる。それは、まず博物館で展示物が盗まれたという騒ぎが起きるのは確実だからだ。その犯人を追うべく、船乗り場などのゲートで厳しい持ち物検査をしなければならないだろう。自分たちがレジスタンスの人間だとバレないためにはあまり派手な行動はできない。
そうであっても、イアンは諦めが悪かった。
「迷惑がかかるかもしれません。それでも、俺はレーラのために持ち帰りたいです」
「……そうか」
オクレズはそれ以上何も言わなかった。止めていた足を動かし始めて、イアンは「怒っていますか?」と不安そうに訊ねる。
「ミッションとは何も関係のないことですし」
「ダメではない。要はなんとかすればいいだけの話だから。ただ、グーダンさんじゃなくて、俺でよかったな」
もっともな話である。グーダンはお人好しであっても、ミッションなどに関しては公私を分ける人物だ。イアンがテルバ・メソットルェを持ち帰るという提案は絶対に却下するはずだろう。
「ひとまずはこの町を目立たない程度でぶらつきながら、夜になればまた博物館に行こう」
「はい」
そう言えば、とイアンは何かを思い出したように「あの」とオクレズに質問をした。
「テルバ・メソットルェって、タイトルのあのドレス……どういう意味を持って名付けたんでしょうかね」
「さあな? 俺もお前もファッションに疎いから一生理解はできそうにないだろうな」
「展示作品説明見ました? 俺、見てなくて。それこそお菓子食べたいとか、誰かにフられたとかそんなのばっかりに気を取られちゃって」
「そうだな。俺もシンプルにタイトルだけだったな」
「レーラは知っているのかな?」
そもそも、イアンにテルバ・メソットルェのことを話したのはレーラである。彼女ならば、何か知っているのだろうか。そう思ったときだった。後ろから海風やこの大陸独特の温い風とは違って、冷たい風が通る。思わず身震いするし、背筋が凍りそうなほどに寒かった。その風を感じていたのはどうも自分だけのようで、オクレズは「どうしたんだ?」と二度目の心配をしてくれた。
「寒いか? 暑いだろ?」
「何か冷たい風が……」
「そうか? 俺にはそれが熱風としか考えられないがな」
気のせいではなかった。イアンは少しだけ立ち止まってその冷たい風を待ってみた。だが、いくら待てどもそれはやって来ない。次第に先ほどの風はただの勘違いから来るものと断定するしかなかった。
もう気のせいで片付けよう。なんてイアンが前を向いたときだった。前方に誰かがいた。その誰かがいた、というだけの認識で瞬きをすれば――我が目を疑わざるを得なかった。目を擦ってもう一度前を見るのだが、そこに誰もいない――わけでもない。瞬きした後に誰もいなかったというのに、そこには誰かが存在していたはずなのに。
誰か、という定義において男であるか、女であるかを見分けられないことを差し、また若者であるか、老人であるかを見分けられないことを差したりするのが『誰』である。イアンの視線の先の場合はその定義に当てはまっているのだ。
その誰かは自分たちが行こうとしている方向でずっと佇んでいたはず。まるでこちらに来るのを待っているかのようにいたようだった。この誘いについて行ってもいいものだろうか。恐ろしいと思ったのか、そちら側へ行くことを中止するようにオクレズに提案をする。
「どうしたんだよ」
前方に誰かは見えていないのか、オクレズは怪訝そうにしていた。
「お前、本当に大丈夫か?」
何も感じていないオクレズにすべてを話しても、信じてくれるだろうか。よくわからないのであれば、止めておいた方がいい。イアンの直感がそう告げる。それだからこそ――。
「大丈夫です」
嘘を取り繕わなければならなかった。それに、別の道へ行くという提案も「なんとなく」で誤魔化す。
「どうせならば、あっちの町並みを見てみたいですね」
「そうか? 俺は別に構わないが」
どうやらオクレズ自身も絶対に誰かがいた方向に行かなければならない、行きたいとは思っていない様子。ただそこに道があるから歩くだけ。それだけの理由だった。単純な彼に感謝しつつ、二人はそちらを通るのを避けて、別の方へと向かうのだった。
そこで佇んでいた誰かはそれに対してどう思っているのか。それは誰も知ることはない。




