◆33
終始無言状態。レーラの発言以来、イアンは何も声をかけなかった。それは彼女も同様である。
【どうしてもあなたの死だけは視えてこないの】
人の死が視える能力。大いに万能ではないにしろ――あまりレーラは好きではないはずだ。誰かが死ぬのは悲しい。誰かが隣にいなくなるのは寂しい。死を知るのはつらいことだろう。
どこかの誰かさんは、そういうことがあっただろうか。
イアンが最後のデータを運び終えたとき、レーラが「ねえ」と声をかけてきた。それにどぎまぎする。声をかけてくるなんて。何を彼女は言うのか。しかし、彼が想像していた言葉とは違うことを言うのだった。
「そろそろガンが私たちのプログラムを作り終えている頃じゃない?」
「……そうだな。様子を見に行ってみようか」
あの発言はなかったことにされているのか。そうだとしても、レーラの様子を見る限りだとなんとも思っていないようではあるが――。
「どうしたの? 行かないの?」
「いや、行く」
何かに引っかかりながらも、レーラのあとを着いていくと――そこにはプログラムを構築し終えたガンの姿があった。彼は「できたよ」と歓声を嬉しく思っているらしい。
「あとは二人の脳情報をこっちに移すだけだね」
「ガン、色々とありがとうな」
「お礼を言うのはこっちの方さ。レーラ、現実の友達に協力してもらえるように要請してくれないかい? 最終段階として、現実世界の偽装チップとこちら側がリンクしていなければダメなんだ」
「うん」
「イアンはここでレーラと待っていてくれないかい? 私は二人の脳情報データを移す作業をしなくてはいけないから」
「ああ」
ガンは少しもの惜しそうに小さく手を振ると、意識を集中させるために目を閉じた。下からは白いケーブルが。
「『記憶保存容量確認中』『 “データ:イアン” のデータを抽出』『 “データ:イアン” を “プログラム:イアン” に保存中』『……保存中……』『保存完了』『 “データ:レーラ” のデータを抽出』『 “データ:レーラ” を “プログラム:レーラ” に保存中』『……保存中……』『保存完了』」
瞬く間に抜け殻となっていた二人の体は復活した。彼らが目を覚ました頃にはガンの頭からケーブルは引っ込んでいる最中だった。
「……お別れだね」
本当にこれでお別れなのか。体が重く眠気が生じる中、イアンはそう思わなかった。
「そんなことはないさ」
うら悲しそうな表情から一変して、ガンは驚いたように目を丸くした。
「子どもたちに読み聞かせでした話に、友達には永遠のさよならはないって書いてあった。俺たちはまたいつか会えるよ」
「信じよう」
ガンの優しそうな笑みを最後に二人は意識が急激に遠のいた。
やがて、イアンが目を覚ますと、そこは自室だった。二ヵ月ほど前にグーダンから与えられた質素な部屋。最初こそ薄汚れたベッドと小さなテーブルだけだったのだが、少しずつ物が増えた。小さなテーブルの上には自身の日記。日記と言っても、日誌に近い。今日は何があったのか、いつは何があったのか。
記憶がないことが恐ろしいのは知っていたから、もしもまた、自分の記憶がなくなったときにこれを読めば思い出すかもしれないのだ。それだからこそ、毎日とは言わずとも書いてはいる。
黒く汚れた壁には子どもたちが描いた絵がある。それを眺めつつも、何をしていたかを思い出した。そうだった、コンピュータの世界に行って――。
「本当に行ったのか?」
自分のベッドの上で寝ていたとなれば、あれは完全なる夢だったと言える。だが、夢だという割にははっきりと覚えている物事。青白い奇妙な世界、ガンというプログラムの友達、巨大なデータのごみ捨て場――。
一緒にいたのはレーラだ。彼女に訊いたが早い。レーラのもとへと向かうと、彼女は自室で茫然としていた。
「レーラ?」
「なんか、壮大な夢を見た気がする……夢?」
「それは俺も思っていたことなんだ。コンピュータ室に行ってみるか?」
「うん……」
どうやら、レーラは寝起きが悪いらしい。不機嫌そうな表情で金色の長い髪を後ろに括った。そうして、重たい足取りで自分のあとを着いていく。
コンピュータ室は拠点の地下にある。奥の階段を利用して、行った先だ。そこへと二人が赴けば、偽装チップの施術をした担当者とグーダンが渋ったような顔をしてコンピュータのモニターを見つめていた。
「グーダンさん? どうされました?」
「ああ、二人とも目が覚めたか。いや、なぜか知らんが、うちのコンピュータがウィルスにやられたようでな」
「ここの管理は僕がしているから、勝手に誰かがネットワークを使用したとは思えないし。いや、使える状況じゃないんだよね」
「どういう意味ですか?」
「うちのコンピュータはウィルスに対する耐性が弱くてね。コンピュータの設定をネットワークにつながないようにしていたんだけど……これもまた潮時かな」
初期化でもするか、と操作をしようとしたとき、その手をイアンが止めた。
【私は一度、ここに捨てられた】
【記憶を失う悲しみは嫌と言うほど知っている】
ガンだけではない。その苦しみを知っているのは。
「グーダンさん、俺らが部屋で寝ていたのはどれぐらい前ですか?」
「えっ? えっと、二人がここに倒れていたときから換算するなら十四時間ぐらいは経ってるが……」
「コンピュータウィルスにかかったのはいつから?」
「三時間ぐらい前に発覚はした」
ここまできて、レーラはイアンがやろうとすることに察した。だが、それは危険な賭けとも言える。せっかく何事もなく現実世界へと戻ってきたというのに。
「い、イアン……!」
レーラの呼びかけ。声音からして――。
【どうしてもあなたの死だけは視えてこないの】
死を心配してくれている。
イアンは顔をレーラの方に向けると――。
「俺は平気」
死ぬことよりも、怖いことを知っている。おそらくガンは運良く助かった。あの混沌とした情報の大海から。大切にしていた記憶を失いながらも。
「グーダンさん、もう少し時間をください。俺、友達を助けに行かなきゃ」
イアンはグーダンたちを押し退けて、タッチパネルに手の平をかざした。行くべき場所がある。行かなければならない場所がある。そこで悲痛の叫びを上げている友人がいるのだ。助けたい。その一心が自分の心を支配していく。
「イアン、友達って――」
グーダンが話を聞く前に、イアンは崩れるようにして倒れようとした。床で体を強打しないように支える。コンピュータの画面には『インストール完了』の表記があった。