◆1
誰かが悪いわけでもない。そんな思いを抱きながら青年は目を覚ました。それと同時にここはどこなんだと不安な気持ちが駆り立つ。
「……どこだ?」
記憶が曖昧のようである。思い出したくても、前後の記憶がはっきりとしない。覚えているのは平和と見せかけての絶望だった気がする。だが、それは夢なのか。それとも事実だったのか。今の世界の情勢は一体どうなっているのか。
眠っていた場所は薄暗くて小汚いベッドの上。だが、どこか生活感はあるからして住人はいるのだろう。その上で腰掛けるようにして座り直した。辺りはしんとしているように見えて、部屋の奥のドアから僅かながらに人の気配がしているようだ。
これからどう行動を起こしていくか、と小さなため息と共に手で顔を覆っていると、左手の薬指に銀色に輝く指輪を見つけた。ここにそれをしているということは、自身は既婚者かあるいは婚約者がいると憶測づけられる。
相手は誰だったのか、思い出そうとしていると、部屋のドアは開かれて一人の少女が入室してきた。開けた途端、目を覚ましている自分にびっくりしたのか肩を強張らせるのだった。
「あっ、起きたんだ……」
声と人の存在に気付き、顔を上げた。その少女をじっと見つめる。金色の長い髪を一つに束ねており、こちらを見ている青緑色の目は澄んでいて美しかった。彼女の容姿を見て一驚したように声を出そうとする。
「…………」
しかしながら、あまりの驚きのせいで思い出したことが引っ込んでしまった。無理に思い出そうとしても、何も思い出せないことが悲しい。
「……ごめん」
なぜに謝るのか。もしかして、誰かと勘違いをしているのだろうか。それに少女は「違う」と否定をした。
「誰と間違えているか知らないけど、私はレーラ」
「レーラ?」
少女――もとい、レーラから自己紹介を受けて、我に戻ったかのようにして慌てふためいた。どこか恥ずかしそうに、右手で隠しきれない顔を隠す。
「あっ、すまない……」
「別に寝起きだから仕方ないってのもあるから、許してあげる」
「本当にすまない」
どうも悪気ではない様子。伏し目がちに再度謝罪をした。そんな青年をさほど気にしないのか、レーラは持ってきたボトルからコップに水を注ぐと、それを渡してきた。
「あなたヴレィス峡谷付近で倒れていたから、うちのリーダーが運んできたの」
「ヴレィス峡谷?」
レーラからそう言われると、どことなく記憶がよみがえってくるようである。狭くて足場の悪い岩場、必死になって逃げる自分を追いかけてくる武装した者たち。彼らはこちらを敵だと思っていたのか。今となってはきちんと足もあるし、透けてはいない。自分は生きている。そのリーダーという人物が助けてくれたのだろう。
「ねえ、あなたってどうしてあんなところにいたの?」
あとでリーダーと呼ばれている人物にお礼を言いに行かなくてはと思案していると、レーラが怪訝そうに訊ねてきた。声音からして、答えようにはただでは済まない気がしてたまらないのである。
「あんなところにいた、と言われても。俺もよく覚えていないんだ。何も言えない」
これが事実であり、真実だと断言する。今ある記憶の中には敵対心を持っている武装した者たち。それ以外は、今は思い出せそうにない。
「あなたって、ヘヴン・コマンダーの人?」
「いや? 俺はそんなんじゃない」
「でも、ヴレィス峡谷にいたんでしょ? 私、知っているからね。物資を運んでいた人たちの荷物を奪おうとしていたのを見たから」
「それでも俺は知らない」
「…………」
記憶にないということに加えて、その『ヘヴン・コマンダー』というキーワードを聞いてもいまいちピンと来ていない。これらから考えられることは、自分はそれらとは無関係であると言える。それが故にきっちりと否定をした。
しかしながら、レーラは否定を認めたくないようで「私、見たもん」とふくれっ面を見せてくる。これに困っていると、ノックがかかり、誰かがまた入室してきた。今度は若い女の子でもなければ、同年代の青年でもない無精ひげの中年男性であった。彼はこちらを一瞥すると「目が覚めたか」と優しく声をかけてくるのだった。
「見つけたときはひやひやしたからな。調子はどうだ?」
「どこも痛くはありませんが、あなたが俺を助けていただいたリーダーという方ですか?」
「うーん、確かに俺が行き倒れになっていたきみを助けてここまで運んだが……悪いけど、きみは余所者だ。俺のことはグーダンとでも呼んでくれ。それと、ここで療養している間はこの部屋から出ないでくれよ」
完全に自分のことを腫れもの扱いをする男、グーダン。無理もないだろう、見知らぬ者が彼らのことを知ろうとするなんて。死にかけていたところを助けてもらっただけでも感謝しなくては。
謝礼を言うが、お礼なんてどうでもよさそうにグーダンは「それよりも」と話を変える。
「きみはどこから来たんだ? あそこにいたってことはヘヴン・コマンダーの人間? その割にはやつらの軍服は着ていないようだしなぁ」
「俺はそのヘヴン・コマンダーではありません。俺はあの場所で武装した人たちに追いかけられていただけです」
こちらも言い分に関してははっきりとさせなければ。誤解を招いたまま終わらせたくはなかったのだ。
「ということはあいつらに追われていた身か。そんじゃ、なんであの場所にいたかぐらいは言えるよな?」
「そ、それは記憶が曖昧で……。俺が覚えているのがあの人たちに追われていただけです」
それ以外は何も思い出せないという。しかし、ここで黙っていたレーラが「嘘」とあやしんでいた。
「リーダー、この人の言うことを信用しちゃダメ。見たでしょ、あいつらが彼らを襲っていたのを」
「それは事実だな。だが、知らないし思い出せないって言っているし……なあ、きみ。もし、行く宛もない、自分がヘヴン・コマンダーではないと証明したいならば、俺たちレジスタンスのところで働かないか?」
グーダンの発言にレーラはその場で倒れそうになるほど驚愕した。ありえない、おかしな話だと頭を抱える。
「待って。リーダーだってこの人のこと信用していないでしょ? それなのに?」
「レーラ、人にはいくらでもチャンスが存在するんだ。要は、彼は自分にかかった疑いを晴らさせるためにな。聞けば、どうもヴレィス峡谷での前後の記憶がないらしい。それにヘヴン・コマンダーの軍服も入れ墨もない。グレーな存在かもしれんが、こちらとらこの前の抗争戦で人手不足なんだ」
「入れ墨?」
曖昧過ぎる記憶に何かを思い出そうと思考を巡らせた。こちらに銃器を構えて追いかけてくる彼らは濃い緑色の服を着ていた。統一感のある雰囲気の武装連中。
グーダンは何かを思い出そうとしている中で、右手を取った。
「ここを見てみろ」
右手の甲を指差した。
「ヘヴン・コマンダーに限らず、楽園の連中は必ず右手の甲に入れ墨が入っているんだ。それはどんなスパイだろうが誰だろがな。こちらに潜り込んでくるやつらは大抵右手を隠していた」
この説明にレーラは黙るしかなかった。ここを取り仕切り、決定権のあるグーダンに意地でも逆らえばどうなるかわかっているからである。だとしても、そんな彼女を責め立てることはないようだ。
「安心しろ、レーラ。ヘヴン・コマンダーは……楽園の女王は必ず倒すし、本物の世界平和が来るようにしてやるから」
右手を離したグーダンはこちらを見ると、手を差し伸べてきた。
「俺たちはこの世界を取り仕切っている『楽園』の連中に対抗するレジスタンスだ。きみの名前を訊いていなかったな、教えてくれ」
差し伸べられた手を見て、思う。記憶もなければ、行く宛もない。自分には邪見扱いされているようなヘヴン・コマンダーの人間でもない。あやしさ満点のこんな自身を受け入れてくれる人がここにいる。
それならば、グーダンたちの願いを叶える手伝いでもしてあげようではないか。
青年はその武骨な手を取った。
「俺の名前は……イアン・アリスです。よろしくお願いします」
何も持たない青年――イアンに少しばかり居心地が悪いにしても、居場所ができるのだった。