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ゲス不倫の代償

作者: 森本英路


 スマホの着信音、通話を求められた。その画面を見ながら僕は、取ろうか取らまいか迷った挙句、結局どぎまぎしながら受話器マークを右にスライドさせた。途端、予期せぬ怒号である。


『この浮気男が! 毎度毎度、腹が立つわ!』


「え!」


『とぼけんな! 別れるって言ったのに、まだあの小娘、囲ってんじゃん! 見たっていう人いるんだよ、あなたと二人で歩いているとこ』


「ちょい待って、人違いですって」

『人違いィィ? そうね! あの小娘、若いだけのどこにでもいる女だもん、見間違いとか人違いとかなんとでも言えるわよね』

「若いだけ? どこにでもいる?」

『ああそうよ、若いだけのどこにでもいる女』

「ちょっと、待てよ」

『待て? ああ、やっぱりだ! だったらこっちだって考えがある。銀座のローランドに行かせてもらう。欲しいダイヤのネックレスがあるの。3.0カラットでスリーエクセレントのハートアンドキューピット。不倫認めたからには嫌とは言わさん』

「不倫て。っていうか、ちなみにそれっておいくら?」

『五千四百万が、今なら千九百八十万だって』

「え!」

『えって! 小娘囲っといて、えェェって? こっちが言いたいわ!』

「だから、何も関係ないって」

『し、信じられない。なによ、わたしに向かってその言い草! 慰謝料もらう! あんたの会社のカードで欲しいもの、なんでも買ってやる』

「だからァ、人違いだって」

『うるさい! 黙れ! このゲス男! ゲスの極み! 買うって言ったら買うの。文句有る?』

「………」

『文句が有るの? 無いの?』

「ない」

『それと車を買い替えたいの。ベンツ、クーペにするわ』

「………」

『文句が有るの? 無いの?』

「ない」

『はぁー腹立つ、今夜はホスト行こ。ぱーーーっと騒がないとやってられないわ』


 言いたい放題で、通話が切れた。僕はスマホを片手に立ち尽くすことしか出来なかった。


 思い出すのも腹立たしいんだが、ちょっと前に、僕は痴漢の濡れ衣を着させられた。片手はつり革、もう一方はスマホを持っていて、通勤ラッシュの中、それを顔に近づけていた。だが、どういうわけか、外国の女性に騒がれた。「チカンー」っと叫んだその女性は、何度もそういうことをしていたのだろう、車両内ではめんが割れているようだった。その女性は他の乗客の非難を浴びて、僕はというと嫌疑が晴れて事なきを得た。


 あの時は生きた心地がしなかった。知らない白髪のおじさんが最初に「痴漢詐欺だ」って声を上げてくれたのがよかった。あれがなかったら僕の人生、どう転んだか分からない。白髪のおじさん曰く、「あんたが金持ってそうに見えたんだろ」


 確かに、僕のスーツはオーダーだった。時計もヴァシュロン・コンスタンチン。それに目を付けんだろう。つり革を持つ手の袖からそれが見えていた。にしても、金持ちなんて大勢いるはずだ。その中でわざわざ僕が狙われるなんて、さっきのこともある、女難の相が出ているとしか思えない。早紀に満足に会えてないのも、やっぱり女性に関して巡り合わせが悪いのかも。


 仕事運の方は絶好調だった。昨日、四百億の契約を無事成立させた。図面やら書類やらで会社で寝泊まりしていた佐々木と武田、それだけでなく夜の営業にもこの二人は当たってくれていた。二人の手前、この僕が帰れっこない。「社運をかけて」って事あるごとにはっぱをかけていたのは僕なんだ。


 早紀に会社を辞めさせたのが、まずかったか。あのまま事務をやってもらってもよかった。それならこんな苦労はしなかった。けど、僕は社会的に責任ある立場なんだ。けじめはつけなければならなかった。結局、会社を辞めさせて、秦野に家を買ってあげた。


 早紀は可愛い女だ。歳の差は二十歳はたち以上も違っていた。娘のようでもある。一緒に風呂に入って体を洗ってあげるのが、僕の楽しみだった。


 電話にびっくりして呆然と立ち尽くしていた僕は、道玄坂を渋谷駅に向かう途中だった。歩道を行き交う多くのサラリーマンや若者は、僕に一瞥もくれないにもかかわらず、かすりもしない。もしかして、邪魔だとも思っていないのかもしれない。会社ではそんな仕打ちを受けたことがない。すれ違うにしても皆、挨拶するなり、頭を下げるなりしてくる。無性に腹が立ってきた。


 僕は、手にあるスマホを見て、言った。


「この勘違い女め! 浮気って? 笑わせるな! 僕は早紀に一途なんだ!」


 ふと、目の前に男が立っていた。その横には女が並んでいた。髪の毛はふわーっと盛りに盛られている。どう見てもキャバ嬢だった。


 へ? と僕は思った。確か、十分か二十分前に、この二人は僕を追い越して行った。思い返せば、後ろから二人がせまってくる時、どけよっていう威圧感に襲われたし、追い越して行く時にこの二人から反社会的な匂いもした。


 電車での外国の女性は記憶に新しい。先を行く彼らの背中を見ながら僕は、絡まれないで良かったと思ったものだった。


 その彼らが、道玄坂を途中で折り返し、わざわざ登って来ていた。彼らが、好きで苦労するタイプの人間ではないのは明らかだった。男はサングラスに金髪、赤い皮のジャケット。手首にはロレックス。もう一方の手首には金のブレスレット。そして足元は、わに革の先がとんがった靴。女はというと、眉間に皺を寄せている。茶髪にカールを掛けていて、マントのような膝まであるカーディガンを羽織っている。まるで安っぽいタカラジェンヌ。ヒールが高すぎてつま先で立っているようだ。


 やはり、男は僕に用があるようだった。


「おにーちゃん」


 声を掛けられてしまった。手間を掛けさせんなよとでも言いたいのだろうか、女はというと、腕を組んでにらみを利かせている。その目つきにはいらだちと共に明らかに、この貧乏人がと、さげすみの色をもはらんでいた。


 そりゃないよ。僕はこれでも一部上場の大会社の部長なんですけど。給料も他のどのサラリーマンより多いはずだし、庭付きの大きな一軒家買う財力もある、っていっても、神奈川県の奥地なんですけどね。


 でも、ちょっと今は後悔もしている。庭付きなんかじゃなくても、川崎あたりのタワーマンションでよかったんじゃないかと。昼休みとか空いた時間で家に帰れる。


 それを言えば、早紀に会社を辞めさせるにしても、子供が出来てからでよかったんじゃないか。部下の手前もあった。二十歳はたち以上も歳が離れているんだ。社内で噂にならないはずがない。独身貴族をおう歌していた僕が結婚すると社長に言った時も、ほっとしたぞと喜んでもらえたはいい。が、早紀の名前を出したら、いたく驚かれてしまっていた。


 どうも社長は、僕が社内結婚するとは思っていらっしゃらなかったらしい。大学の同期が外資系とか一流商社に勤めていたのは知ってらっしゃったし、その繋がりから、三十路みそじ越えの独身令嬢をパーティーやら社交の場に、僕がとっかえひっかえ連れて来ているのも御存じだったようだ。社長にしてみれば、早紀はどこにでもいる若いだけの女だった。


 あ、そうだ。電話の女、あの女も『どこにでもいる若いだけの女』って言ったっけ。早紀の事ではないのは分かっていたけれど、大人げなくそれで切れてしまった。


 早紀の悪口を言われると無性に腹が立つ。部下に対してのけじめと言いつつも結局、僕はそれが嫌だった。早紀とは元々部所が違ったし、結婚したら辞めなければならないという社内規定はない。


 男は僕をじっと見ていた。っていうか、ガン飛ばされている。ああ、分かってますよ。僕は言った。


「これ、拾いました。ここで」


 手にあるスマホを男に向けて差し出した。


 男が言った。


「あんがとね、拾ってくれて」


 男はスマホを手に取った。それだけでは済まないよねと僕は思った。伝えなければならないことがある。


「あのぉー」


 ところが、女の威圧する目。手間を掛けさせんじゃないよとその目はまた僕を威嚇している。男はというと、へらっと笑った。


「礼か?」


 そう言うと僕の肩を、ポンポンポンポンポンと五回重く叩いた。


「あ、ん、が、と、ね」


 彼らに言わせれば、どうやら僕は、拾った“礼”が欲しいらしい。だけど僕は、スマホ拾ったぐらいで代償一割を請求するほど腐っちゃいない。そんなことより、あなたは自分の心配をしなければならない。一割どころか、もっと高い代償をあなたは払わなくてはなりません。ま、あんたにとってはこんなこと、慣れっこなんでしょうけど。


「いや、どういたしまして」


 僕は作り笑いではなく、本当の笑顔を見せた。それを、苦笑いだと女はとったのだろう、勝ち誇ったように高笑いを上げていた。


「じゃぁ、にーちゃん」


 自分の女が楽しんでいたのに満足したのだろう、男はそう言うと肩で風を切るように、行き交う人らの中を女と一緒に道玄坂を下って行った。


 電車の外国の女性といい、僕はツイているのか、ツイていないのか。


 ため息を一つついた。ま、いいや。にしてもあの二人、昨日は楽しんだんだろうな、うらやましい。僕も二、三日休んで早紀とイチャイチャしよっと。大事な契約も無事取ったし、新婚なんだから誰も文句は言わないっしょ。










( 了 )


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