7,ひた隠しにした目的地
太陽が完全に昇りきる前にはその場を後にして東へと歩き始めていた。
仮眠を取れたので身体は軽い。朝食を取った後に襲ってきた眠気は、今やすっかりなくなっている。やはり睡眠は大事だ。
いくら睡眠は大事とは言っても、昨晩ひとつ残念なことを知ってしまった。身体が鈍っているその事実を、嫌でも感じてしまったのである。実際に動かしてみれば一目瞭然で、こう、と思っても身体がそれについてきてくれない。毎日毎日こうしてシュマと二人で歩いてはいるが、裏を返せば歩いているだけなのだ。そろそろ対人相手に組み手でもしたいのだが、以前シュマとやって嫌がられたのを思い出す。
終わった後にはぼそりと「君、性格悪すぎるぞ」と呟かれたのだ。言っていた当人は型があまりに素直で、次にどんな攻撃を仕掛けて来るのか、アズリアにはわかりやすくて仕方なかった。型どおりで正確無比と言えば聞こえは良いが、実戦ではそれだけで勝てるはずもない。他人との実戦の中で型から外れた、自分なりの戦い方が身についてくるものだ。
おそらく、シュマの場合はアズリア以上に経験が少ないのだ。積み重ねればきっと化けるだろうに。もったいない。
彼が化けたらどうなるか、個人的にはとても気になっている。流石に「化けろ」と言ったところで簡単に化けてくれるものでもないので、こればかりは時間と時期が必要になってくるけれど。
「アズ、方向はこっちで合ってるのか」
「間違っちゃいないけど、何かあったのか」
「河がある」
前方へと目を凝らせば、アズリアにも河が見えてくる。気が引き締まる思いで前を見据えた。
先程の湖から流れ出ていた小川を遠目に眺め、沿うように歩いてここまで来たのだが、眼前にある河はアズリア達の進路を遮るように横たわっていた。まるで、ここが分かれ目だとでも言うように。
河にぶつかれば北か南かに進路を変えるしかない。河を渡ることも考えたが、ナダの集落の人々がこの河を渡ったとは考えにくい。集落ごと移動しているのだから、渡るには荷物が多すぎる。それに、向こう側へ渡ったとしても、その先にあるのは獣道ばかりの険しい山々しか存在しないのだ。いくらなんでも、わざわざ通りにくい道を通ったりはしないだろう、というのがアズリアの考えだ。好き好んで行きたい場所でもない。
となると、やはり北か南のどちらかになる。
「――南じゃねえ?」
たったひと言。それだけを発するのにえらく時間を要した。
「……どうしてそう思うんだ」
たっぷりと三呼吸の間を置いてシュマが尋ねてくる。
この辺りの地形を頭に思い描く。
「河向こうは山、北に向かっても山だ。これから寒くなるって時にわざわざ自殺行為する奴はまずいない。余程の事情でもない限りは。物好きがいるかもしれないが、今回は却下だな。集落で動いてるんなら、子どもだっているはずだ。集落にいる全員を危険にさらす道のりを選ぶわけがない。チェシーも言ってたろ、山を避けて東に行ったって。だから、山のない南じゃねえかなと」
「なるほど、それは確かに言えるな……」
理由を話してみると、渋々ながらシュマも認めた。
「――シュマ、おまえやっぱり、この依頼やめておくか?」
その苦々しい顔つきを見てしまって、言わずにはいられなかった。振り返ったシュマが本気で驚いていても。
「君らしくもない。ここまで来ておいて、今更なにを言うんだ。ギルドは複数行動が基本だというのを忘れたのか? それに君ひとりでやるなんて無茶だろう。護衛だって、君の武器じゃ小回りが効かないし……だったらまだ、二人の方が――」
――ああ、やはりそう捉えるのか。
シュマの言葉でそれなりに自分が信頼されているのだと知る。けれど、そうではない。
「誰が一人でやるなんて言った」
「じゃあ、どうするんだ」
「やめるって言ってる。請け負った依頼を、放棄する」
うろたえていたシュマが、今度こそ絶句して立ち尽くした。
四日前、ギルドの本部前で依頼を受けるかどうかを言い合って、半ば無理矢理請け負っておいて――本当に今更だ。それも、アズリアからやめると言うことになるなんて。普段の自分からはとてもではないが考えられない。
「今度はなにを言い出すんだ!? 依頼を放棄するなんて、君の口から出た言葉とは思えない! 本当にさっきからどうしたんだ、おかしいぞ!」
両腕を掴まれ、必死の形相で訴えられる。通常では決してお目にかかれないシュマの様子がおかしくてたまらない。こいつでもこんな表情をするのかと、新しい発見をした。
あれだけ依頼を受けるのを渋っていたのは、アズリアではなくシュマだった。あれはたかだか数日前のことなのに、もう何か月も経っている感じがする。
「答えろ、アズ。返答によってはただじゃおかないぞ!」
理由なんてひとつしかない。
「だっておまえ、行きたくないんだろ? ――南に」
激昂していたシュマの瞳が、すっと色を失くした。
――彼を見ていてわかったことがある。
昨日何気なく話していた故郷の話。シュマが南の出身だということ。ギルドに対する誇りの強さ。それと、ともに行動していて知り得たシュマの言動と、アズリアが持っていた知識。
曖昧だったそれらが決定的になったのは、今回の依頼を受けるよりほんの数日前の出来事。とある荷運びの依頼を受けた後に、シュマと別行動を取ったあの時だ。
南方へ行きたくない理由。それは見たくないものがそこにあるからではないか。
全てを合わせて考えると、出てくる答えがひとつある。
いつかは言わなければならないと思っていた。いつかは口に上る会話だと思っていた。――そのいつかが、もう少し後になると思っていただけで。
強張ったシュマを見下ろす。真正面から見返して、アズリアは告げた。
「南に向かうんなら必ず通らなきゃならない場所がある。そこを通り抜けないと、南にある町には行けないからな。おまえが行きたくないのはその場所だろ? 三年前に焼け野原になった南の境目の村、トーアの」
誰もが知るギルド発祥の地。そして恐らく、彼が忌避していた自らの故郷。
見開かれたシュマの瞳が、大きく揺らいだ。
++
生きていかなければならなかった。
当たり前のそのことが、義務のように変化したのはほんの三年前。
シュマがギルドに所属することになる、たったの三か月前の出来事だった。
予想通りだとでも言いたそうに見下ろしてくるアズリアは、シュマの目から見ても至って平然としていた。つまらない、なんでもないことだとでもいうように。
二人で行動をともにするようになってから、南に向かう依頼がなかったことが幸いだった。受けてしまえば、嫌でもあの場所を通る。アズリアが言ったように、そこを通らなければ南方へ行けないからだ。
そうして数日前、それは起こった。ただ一度だけ、別行動を取る羽目になった事態が。
それはとある依頼だった。内容は、言ってしまえば単なる荷物運び。頼まれた荷物がふたつあり、それぞれの場所へ運ぶのに、二人で一緒に運ぶのでは効率が悪いと提案したのだ。ただひたすら南へ行きたくない一心で、意見を曲げなかったことを覚えている。そうして自分は西へ、アズリアは南へ向かったのだ。
結局、二人で行動しなければならないと主張していたアズリアが折れる形になったのだが、後になってギルド本部から盛大に怒られた。二度とやるものかと二人して誓うことになったのは別の話だ。
帰りたいけど帰れない。今その場所にシュマの故郷はないのだから。帰れば嫌でも思い出してしまう。故郷がたったの一夜で無残な廃墟と化したあの日のことを。
――なんて、そんなものは言い逃れに過ぎないと、もう知っている。
本当は帰る勇気がないだけなのだ。怖くて思い出したくないから、帰りたくないだけで。正視することも出来なくて、言い訳を重ねて、目を背け続けている臆病な人間。それが自分なのだ。怖い。辛い。見たくない、聞きたくない、思い出したくない――だけど。
「――だからと言って、こんな中途半端な状態で放り出すわけにはいかないだろう。依頼を出した人はどうなるんだ。今俺たちがやらなければ、いつまで待たされるかもわからない。人手がない今、単なる私情で勝手に依頼を投げ出すのはまずい。それに、これ君を指名してきたんだ。俺たちがこなさなければならない依頼だろう」
アズリアの腕を放し、精一杯の虚勢を張って彼を見上げた。今のシュマは、ギルドの一員なのだ。震えそうになる足に力を込め、大地をしっかりと踏みしめる。今いる場所は、ここなのだと。
依頼と、私事と。
葛藤する心の内で答えは出ない。片一方へと傾く心に委ねてしまいたい気持ちが強いけれど、本当にそうしてしまうにはあまりにもずるい。
それは自分の心の平穏を保ちたいがためで、逃げていることに変わりないのだから。
「じゃあ訊くけどな、このまま続けてもいいのか? この後におまえがやっぱりやめたいなんて抗議したって、俺は聞かねえぞ」
立ちはだかるアズリアを見返した。答えはもう、決まっている。
「望むところだ」
よぎった後悔を振り払う。握った手のひらがかっと熱くなった。
それをアズリアがどう思ったかはわからない。けれど、シュマの答えを聞いて頷いたのである。
「わかった。余計な世話だったな。そんじゃあ、とっとと向かうとしますか」
先にアズリアが南へと足を向ける。その背中にほっと息を吐く。遅れてはいけないと後ろから早足で歩こうとした時、アズリアの背中が「ああ、そうだ」と思い出したように言った。
「な、なんだ」
跳ねた肩に気付いたのか気付いていないのか。彼は首だけ後ろにめぐらせて、平然と言ったのだ。
「安心しろよ。おまえ一人で行くんじゃねえから」
出しかけた足が止まる。
何を、言っているのだ。
「俺もいるから」
一緒に行ってやるから――そう聞こえた気がした。
「そんな当たり前のこと、言われなくてもわかってる! そもそもギルドは複数行動が鉄則だろう!」
「そっかそっか。なんか言っておきたかったんだよ。気にすんな」
後ろ手に手を振られ、その場に残されて呆然とする。叫んだ喉が熱い。
一人だったらきっと行けなかった。向かおうとすら思わなかった。それどころか胸の内に封印して、思い出すこともやめていたかもしれない。
だけど、一人じゃない。
追いつけなくてむかつくし、腹も立つ奴だけど、一人ではないのだ。
不器用な優しさが、今はありがたい。ほんの少しだけ。
だけどやっぱり悔しいので、笑いながら先を歩いていこうとするアズリアの背後に迫る。そうして溜めに溜め込んだ鬱憤は、前方の背中を蹴りつけることで発散した。
「ってえな! てめえ、何しやがる!」
案の定、たたらを踏んでこちらを向いたアズリアにしれっと言い放った。
「油断していた君が悪い」
「気付くかよ、そんなチビの動きなんて」
アズリアにうめかれ、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「人の気配に敏感になる術に長けていないと、今の君じゃ到底かわせないな。君もまだまだだということだ。鈍いのも問題だと思うぞ」
言い終えると同時に駆け出した。
「って、おい。言い逃げかよ!」
「追いつけるものなら追いついてみるといい!」
前へ、前へ。風を切って走る。
「言ったなこら、上等だ!」
次第に笑えてきた。
体格差は明らかで、すぐに追いつかれてしまうのも目に見えている。そんな馬鹿馬鹿しいやり取りも、今は楽しくて仕方なかった。足が軽いのだ。今までの足取りが嘘みたいに。
背中に翼が生えたなら、きっとこんなに早く走れるのだろうか――なんて、そんなことさえ思えるくらいに。
前へ、もっと先まで。行こう、行けるところまで。
そうして見つけるのだ。ナダの集落を。