4,敵わない相手
あれからひと言も発しようとしないシュマを気にかけながら、少し言い過ぎたかと反省する。いつもよりやけに食ってかかってきたものだから、ついつい説教じみた真似をしてしまった。けれど、本当はアズリアだって言える立場にはいない。
感情に流される時だってあるし、考えていることもすぐ顔に出たりする。世界の広さは知っていても、わからないことの方がたくさんある。どちらかを挙げるなら、アズリアは教える側ではなく、シュマと同じく教わる側につく位置だ。未熟者がでしゃばって偉そうな口を叩く、アズリアのしたことはきっとそれと同じだ。
そうして歩を重ねること早三日。
街道の端に灯りが見えたので、そちらへと足を向ける。間もなく陽が傾き始める頃合いだ。こぢんまりとした木造の家が徐々に見えてきた。遠くからでも分かるように、外壁を白く塗ったのだと話してもらったことを思い出す。なるほど、確かに目立つ。
硝子が買えずにいたようで、窓は開け放たれたままだ。以前訪れた時と違うところ、そして変わらないところを交互に見つけながら、アズリアは中にいるであろう人を思って苦笑を宿す。
あれからどうしているだろう。懐かしいと呼ぶには短いので、久しぶりと称するのが妥当だろう。
「休憩所? 茶店か何かなのか」
隣にいたシュマが扉に下げられた木札の文字を読み上げた。
興味津々で建物を眺めるシュマは、珍しいものでも見るようにしげしげと見やっている。
「茶店って言うよりは食堂に近い。一番似てるのは酒場だな」
「酒場?」
眉をひそめられ、シュマの言いたいことがなんとなくわかった。
つまりは、『あんな騒がしく粗暴な者たちがいるところか』ということだろう。名前で印象が固定されてしまうのだから、個々の持つ名前は馬鹿に出来ない。
「勘違いすんな、店の雰囲気が似てるんじゃねえよ。役割っつーか、店のあり方っつーか、そんなもんだ。受け売りだけどな。入ればわかる」
疑問は消化していないという顔つきのシュマだったが、黙ってアズリアに道を譲ってきた。どうやら、ことの次第を見守ろうという魂胆らしい。ぐだぐだ文句を言われるよりはいいけれども。
アズリアが扉を押し開けると、上の方でからんと涼やかな音が鳴った。不思議に思って見上げてみると、扉の内側に、ちょうど拳大くらいの鈴がついていた。音の正体はこれか。
「いらっしゃい――おや」
奥から甘ったるい声がした。アズリアの姿を認めるなりこちらへとやってきたその人は、人目もはばからずに抱きついてくる。
「久しぶり、チェスティア」
「アズリアじゃないか。いやだね、誰かと思ったよ。なんだ、どうしたんだい。突然来たりして」
アズリアも彼女に応えて抱きしめ返す。その途端ふわりと、甘く優しい香りが鼻腔をくすぐった。懐かしい、彼女の香りだ。
「元気そうで良かった」
「それはこちらの台詞だよ」
記憶の中にある彼女とは違う。そのことに安堵しながら、彼女の腕を軽く叩いた。
「背、また伸びたんじゃないか? いやだねえ、男の子は成長するのが早いんだから」
「そうか? 自分じゃあまりわからないんだけどな」
背丈など気にしたこともない。身近に自分より小さなシュマがいるため、そちらに目がいくからか。
「たまには鏡を見るといい。前より男前になってきてるよ」
「じゃあ、チェシーに釣り合うにはもうすぐか?」
「そうだねえ……いいや、まだまだだね。あと五年は早い」
チェスティアはくすくす笑いながらアズリアを解放した。波打った髪は後ろでひとつにまとめ上げられ、淡く微笑する表情は実際の年齢よりずっと若く見える。もっとも本人にありのまま言ったら、女性に年齢を聞くものではないと怒られるから言わないけれど。
「今日はお友達も一緒なんだね? 何て名前だい?」
本来の目的を忘れたわけではないが、彼女のひと言で思い出される。正直、シュマの存在を忘れていた。
「ああ、紹介もしないで悪い。こっちはシュマ。今は俺と一緒に依頼をこなしてる」
なぜか固まっていたシュマの体を押し出し、チェスティアに見せた。シュマが普段取っている生意気なあの態度は鳴りを潜め、呟きにも声にもならない音を発している。なんだかいけにえを差し出したかのような、非常に複雑な気分に襲われた。
「シュマ? 初めまして、私はここの店主でチェスティアだ。みんなチェシーって呼んでいるんだよ。あんたもそう呼んでくれると嬉しい」
チェスティアが差し出した手を握り、消え入りそうな声で「ああ、よろしく……」と言ったのが聞こえた。
意外だ。シュマがここまでしどろもどろになるとは。
「それで、何か用事があって来たんだろう? どんな用事だい? 時間のかかる話なのかい?」
話が早い。
「チェシーに教えてもらいたいことがあってきたんだ」
「ふうん?」
間延びした返事に品定めされる。
「それじゃあその辺に座っていておくれ。お茶を飲んでいくくらいの時間ならあるんだろう? すぐに淹れてくる」
言うなりさっさと身を翻して奥へと引っ込んでしまう。取り残された身としては、大人しく座っているしかないようだ。
「とりあえず座ろうぜ。――シュマ?」
また固まっている彼を小突いてみるも、反応がない。シュマは一点を見据えたまま、なんとも言い難い表情で目を見開いていた。その様子を見るに、緊張しているわけではないようだけれど。
「どうかしたのか?」
「別に、どうもしない」
辛うじて言葉を返される。どうもしないという顔ではないから尋ねてみたのに。
単に驚いているだけならこうも気にならなかったが、何か覚えのあるものが含まれている気がして妙に引っかかる。アズリアの視界の端で、胸元を握り締めながら何か考えている風情のシュマに、それ以上は何も言えなかった。代わりに、木製の椅子を引いて先に席へと座る。
しばらくすると、アズリアからひとつ分席を空けた椅子にシュマが腰を落ち着ける。隣でも向かいでもないところがシュマらしい。相変わらず話しかけるなという雰囲気を全身で発していたから、彼の主張に暗黙の了解をし、声をかけないでいた。
使い込まれた太い木造の食卓は、表面をなでると少しだけざらついた。触れた手に温かい感触が伝わってくる。枠だけの窓から入ってきた日差しが、温もりを残していったのだろう。優しい温かさにふと眠気を誘われる。
ひとときとは言え、こうしてのんびりと座るのは何日ぶりだろうか。最近は食事を取る時間でさえ依頼書とにらめっこをし、立ち食いや歩き食いは当たり前、ひどい時には丸一日何も食べないで過ごしたこともあったのだ。流石に空腹で倒れそうになったので、二度とやるものかと誓った。
そこまで考えて、ギルドの待遇はあまりいいとは言えない事実に思い当たる。多少なりとも、改善してくれてもいいのではないだろうか。そう思うとシュマが主張していた階位ごとの仕事の割り振りも、共感したくなってくる。
ただ、全面的に支持するにはギルドの体制が整っていないし、人手も足りなさ過ぎる。今はまだ、シュマの意見に同意できない。時間が経てば、あるいは賛成出来るかもしれないけれど。
「おまたせ――おいおい、あんたたち仲が悪いのかい? 意外だね」
湯気の立つ茶器を乗せた盆を携え、苦笑いしながらチェスティアが戻ってきた。
改めて自分たちの座る位置を見直してみる。この場所になったのはアズリアのせいではない。
チェスティアは二人の斜向かいに当たる席へと座り、手慣れた様子で卓の真ん中に茶器を置く。白い陶器に注がれているのは、底まで透き通った淡い緑色の茶だ。器から微かに甘く、香ばしい香りが立ち上っている。
「チェスティアさん」
器に手をつけようとしたところで、シュマが彼女の名前を呼んだ。
「チェシーでいいよ――私に何か言いたいことがあるって顔だね?」
おっとりとしていても、チェスティアの観察力は時に目を見張るものがある。
「あなたもギルドの人間ですか」
ここに来る前、シュマにチェスティアのことは軽く話した。ギルド支部を作ろうとしている知り合いがいること、その人に会いに行こうとしていること。
シュマの問いかけを横で聞いていて、内心首をひねる。何か引っかかる言い方だ。どうしてわざわざそんなことを尋ねるのか。
「残念だけど、私は違う。あんたたちのような人を手助けするのが私の仕事だよ。今も昔も、ギルドにいたことはない。まあ、知り合いなら何人かいるけどね」
「なら……っ」
歯噛みし、詰まらせた言葉の内側。隠れていたシュマの感情にようやく気付いた。その、抑えられていた激情に。
「どうしてギルドの階級章を髪飾りにしているんですか? それは、ギルドに属している人間の誇りだ! ただの装飾品として使われていいものじゃない!」
卓を叩き、立ち上がったシュマがチェスティアに食ってかかる。声を荒げ、鋭い目を向ける様子は、まるで獣の威嚇にも似て。
――そうだ、シュマは怒っていたのだ。アズリアに向けられていなかったから気付かなかったけれど。
どれだけ理不尽であっても、アズリアやギルド本部の人間に不満をぶつけようとも、シュマがギルドにいること自体を嘆くのを、一度として聞いたことはない。ましてや辞めるなんて、ひと言も口にはしなかった。それはきっと、ギルドという価値のある場所に所属していることを、彼なりに誇りに思っていたからだ。
だから許せなかったのだ。チェスティアが、ギルドに属する証である階級章を、ただの飾りとして使っていることに。
「おしゃれでいいだろう? 何を怒っているんだい。これをどう使おうと個人の自由だ。誰が何と言おうとこれは私のもの。人からもらったんだから、私のものに間違いないよ」
シュマの怒声に堪えた様子はまるでない。かっとなって言い返そうとしたシュマの裾を卓下で掴んで押し止める。黙っていろと伝えるために。怒りの矛先がこちらに向きかけたが、チェスティアだけを一心に見ることで回避する。
「――そうだね、でも」
チェスティアはシュマへと微笑みかけた。
「まさか、二度も同じことを言われるとは思わなかったよ」
何かを触れようとして、行き先をなくした彼女の手が卓の上で重ねられる。視線を投げかけているシュマより遥か遠く。彼女の眼差しは目の前にあるどれも見ていないように思えた。
シュマがすとんと腰を下ろす。彼なりに何かを察して、結果何も言えずに。
「ちょっと、やめとくれ。二人ともそこでしんみりしないでおくれよ。傍から見たら私がいじめてるみたいじゃないか」
言葉を失くしたアズリアたちに破顔する。今度は真っ直ぐ、シュマを映して。
ふわりと咲いた陽だまりの下。そよぐ花にも似た、心地よい空気が戻ってくる。寂しく笑むよりも、こちらの方が彼女らしい。
「チェシー」
「なんだい?」
それに準じて、早々と話題を変えてしまう。
「ここ最近、ナダの集落と遭遇したって話を聞いたけど、それについて教えてほしい」
「それが目的のお話かい? もう筒抜けになっているとは、ギルドの情報網は侮れないね」
大仰に肩をすくめてみせるが、口元は反対に笑っている。言葉ほど残念がっているとは思えない。
「その支部を作ろうとしている人間がよく言う」
「おや、これでも褒めているんだよ。このご時世、情報の伝達と正確さにおいてギルドの右に出るものはいないだろう。今でこそ中央の本部だけだが、これが全国規模で展開してみな。速さと便利さは今までの比じゃなくなる」
彼女の悪戯めいた目が、これから起こる期待と楽しさを物語っている。
想像してみてもそれは凄い事態だ。今ある本部と、加えて各地に支部が作られたら、情報の共有が即座に広範囲へと及ぶ。
「仮に支部ができたとしても、伝達手段はどうするんだ。出所からいちいち人を走らせたんじゃ面倒だぞ」
現在の伝達方法は人づてに伝えられることがほとんどだ。情報が目的の場所までたどり着いた時にはもう新しい情報へと変わってしまっていたり、既に伝えられていた後だったりということは珍しくない。人員不足以上に深刻な問題だ。
「ああ、それはね――」
「アズ」
ずっと黙っていたシュマがようやく口を開く。チェスティアはシュマが何を言うのか興味を持ったようで、言いかけていた口をつぐんだ。聞きたかったのだけれど仕方ない。
「話がずれてる。すぐ横に逸れたがるのは君の悪い癖だ」
じっとりとにらみを効かせられ、これは素直に従うより他になさそうだ。ついでに言うなら、チェスティアではなくアズリアに言うところがシュマらしい。
今日はよく保った方だろう。シュマの常日頃の行動を思い返せば、最低でも二度は怒鳴り散らしているところだ。一度声を荒げたことは不問にしておこう。
「こればっかりはどうにもなんねえよ。俺の性分だからな」
「そんな大して役に立ちそうにないものは、今すぐ捨てることをお勧めする」
「無理無理。俺の半身でもあるんだ。そう簡単には失くせねえよ」
何せ、生まれてきてから十五年もともに過ごしてきたのだから。
「そぎ落とせば、そのでかい図体もだいぶ小さくなるんじゃないか?」
「心配するな。多少変わることになっても、おまえが俺よりチビだっつー事実は一切変わらねえから」
視界の端で、チェスティアが面白そうに見守っているのがわかった。完全に傍観するつもりだ。そんなことなど知らないシュマはいよいよ身体をこちらに向けて、応戦する気満々である。
「小回りが効く、と言ってもらいたいな。でかいだけで邪魔にしかならない君より、いくぶんかはましだ」
「へー、チビっつーことは認めるんだな? そうかそうか、やっとおまえにも物の分別が理解できるようになったとは、俺も嬉しい限りだ」
「そうだな。君がその間違った見解を改めるようになるのはいつになることやら。その日が来るのを願って止まない」
「こねえよ」
「いいや、来る。絶対に」
「――あっはははは! もう限界!」
突然上がった笑い声に、シュマがぎょっとしてそちらを見やる。堪えきれずに笑い出したチェスティアがそこにいた。
「仲が悪いのかと思ったけど、そんなことはなかったみたいだね。安心したよ」
浮かんだ涙を指先で拭い、突いていた頬杖をしまって、彼女は椅子に深く座り直す。
いつもの調子を見知らぬ他人の前でやらかしてしまったせいか、横にいるシュマは決まり悪そうにあらぬ方向へと視線を外している。ちらりと確認してみれば、横顔が少し赤らんでいた。指摘をしたら、したでまた口やかましくなるに違いない。後で来る報復も面倒なので黙っておくのが正解だ。
いつだって口は災いの元になるのである。
「最近はお客さんも滅多に来ないし、来ても華やぐ話題なんてなかったんだよ。あんたたちみたいに面白い子なら、いつでも歓迎するよ」
自分で言うのもなんだが、それはきっと『面白い』ではなくて『見ていて飽きない』が正しい。
「こいつと一緒にするな」
「こんな奴と一緒にするな」
シュマはそっぽを向いたまま憎々しげに、アズリアはため息を吐いて呆れながら。二人呟いた言葉が途中から見事に斉唱したものだから、再び上がった笑い声には口を閉ざすしかなかった。
これはもしかしたら、いい笑い種にされるのかもしれない。
チェスティアが見知らぬ誰かに話している姿が容易に想像でき、話題の当事者となる側から考えると複雑な気分だった。いくら仕方ないとはいえ、あんまりだ。