背負った十字架を降ろす時
辺りは真っ暗な路地裏。
『ハァ、ハァ、ハァ』
膝に手を当て乱れた呼吸を少しでも整えようとする。
全く人気のない夜中に一体どれだけ逃げ回っているのだろうか。忍び寄る見えない影が、徐々に大きくなる靴音を響かせている。その靴音からただひたすら逃げ回っている。
はっきり分かっているのは恐怖感だけ。
『あいつに殺される、殺される。捕まったらもうお終わりだ』
どれだけ遠くに逃げても、あいつの靴音は確実に近づいてくる。
逃げなければいけないのに徐々に走るスピードが遅くなる。体が重く走りにくい。背中が重い。何かに押し潰されそうになり、立っていられない。
あまりの背中の重さに地面に腹ばいになってしまった。どれだけもがいても起き上がれない。背中には重力以上のものがかかっていて体を押さえつけている。
両手両足をバタバタさせながら開いていた両足は自然と閉じ、両手は肩の高さまで上がり、指先までピンと伸びきった状態で体は硬直していった。一段と息は荒くなる。
『ハァ、ハァ、ハァ』
体が押し潰される。腹ばいになっている自分を中心に地面にひびが入っていく。
次の瞬間、地面が俺の重さに耐えられなくなり、地面は体と同じ十字の穴を開けて、俺はその中に落ちて行った。何十メートル、何百メートルいや、底があるのかという終わりの見えない穴の中を一瞬にして落下している。
辺りは真っ暗だ。
これが俺の犯した罪の罰なのか。頭では分かっている。取り返しのつかないことをしてしまったと。名誉のためにもああするしかなかったのだと。一生この罪から逃れることができないなら、いっそのこと・・・。
『井上さん。大丈夫ですか』
深夜の見回りをしている看護婦さんの呼びかけで目を覚ました。
看護婦さんは驚いた表情だ。俺の体は全身が寝汗でびっしょりとなっていた。
『悪い夢を見ていたようです』
看護婦さんに事情を説明したが、ただならぬ汗を心配している様子だ。とりあえず寝汗で濡れたパジャマの着替えを手伝ってもらった。
『迷惑かけてすみません』
『いいえ。それより本当に大丈夫ですか?』
『はい、大丈夫です』
『そうですか』
優しい笑顔を見せて俺をベッドに寝かせてくれた。
『また何かあったらナースコールで呼んでください』
そう言って彼女は病室を出て行った。彼女は周りの噂など鵜呑みにしない性格なのかその噂を耳にしていないだけなのか、こんな俺にも優しく接してくれている。それは俺が前回入院していた時に彼女はまだ働いていなく、当時の入院理由を知ったら彼女の俺を見る目は一変するかもしれない。
俺がこの病院に入院するのは2回目だ。前回この病院に入院していたのはもう14年は前のことになる。彼女にとっては小学校高学年ぐらいのことだろう。その噂の真実を知っている人は5人だけ。今となっては俺を含め3人しかいない。
そう俺には他人には話せない過去がある。そしてこれからもこの真実は俺達だけの秘密である。これは俺の過去に犯した重い罪なのだ。背負い続けなければいけない罪なのだ。
病室をノックする音で目を覚ました。扉を開けて入ってきたのは朝食を運んできてた看護婦さん。
『井上さん、おはようございます。あれから寝られましたか?』
『はい。すみませんでした』
『別にいいんですよ』
そう言いながら彼女はいつも通り朝食の準備をしてくれる。
『もう少しで退院ですね。リハビリも順調ですし、だいぶ歩けるようになりましたから』
『ええ、お陰様で』
『今日も頑張ってください』
この病院へ入院したのは二週間ほど前。歩道橋の階段から足を踏み外してしまい、階段を一気に転げ落ちて足を負傷してしまった。幸い他に大きな怪我はないのだが、過去にあった事故で足が不自由になっており、今はこの病院に入院して歩けるようにリハビリを行っている状態だ。
並べてもらった朝食を食べながら今日一日の予定を確認している。俺は41歳の独身だ。身寄りもなく、見舞いに来てくれる親友もいなければ彼女もいない。これは自業自得なのだ。みんなは一体、今どうしているのだろうか。
そうあれは今から20年以上前の大学生時代。みんなと過ごした4年間は本当に充実した学生時代だった。
幼い頃から祖父母に育てられたのだが、幼稚園の時に祖父が小学2年の頃に祖母が他界して、俺を引き取ってくれる親戚はいなくなった。それから高校卒業まで児童養護施設で育った俺には大学に進学できることは本当に恵まれていたのだろう。
長く育った地元を離れ、奨学金をもらいながら大学生活をスタートさせた。そこで出会ったのが健、潤、剛、好美の4人だった。有原 健と上田 潤、そして横山 剛は地元が同じで付き合いが長かったらしい。その3人は同じサークルに入ることにし、そこに福田 好美と俺がたまたま入部した。
俺は幼少期から一人で過ごすことが多く、友達付き合いはほとんどなかった。周りの人と話すことはいつも必要最低限のことで、学校が終わればすぐに施設に戻っていた。体を動かすことが好きで、朝・夜とランニングすることが日課となっていた。それは大学に入っても変わらず続くことになる。
唯一の娯楽と言えば漫画を読むことだった。その間だけ漫画の世界に入り込み、現実の世界から逃避することができた。高校まで人と接することを避けてきた俺が大学で自分の殻を破ろうと選んだのが漫画サークルだった。
漫画サークルには4回生の優しい3人の先輩と入部した5人の計8人のサークルで、自分の好きな漫画や漫画家の話をしたり、漫画の本を持ち寄ったり、たまにはみんなで実際に漫画を描いてみたりと今まで感じたことのない居心地のよい場所ができた。俺達5人は同じ学科でもあり、授業も一緒に受ける中で打ち解けるのに時間はかからなかった。
『へぇー、そうなんだ。俺もこっちで独り暮らししようかなって考えていたんだけど』
向かいの席で少し後悔したような面持ちで話すのは剛だった。
『そうだったな。大学に受かってからどうするかずっと悩んでいたっけ?でも結局引っ越しするのが面倒だってことでやめたんだよな』
口をもぐもぐさせながら剛の横で話す健。剛のもう片方の隣で潤は静かに頷きながら大盛りのカレーを食べている。
『私も独り暮らしだよ』
そう話しながら俺の横で手作りの弁当を食べている好美。
俺達はいつもこの並びで昼食を食べていた。
『俺もこっちに引っ越ししとけば良かったかな。面倒臭かったというか、何となく出ていきづらかったというか』
『マンションの管理人さんもいい人だしな』
『そうなんだよな。お隣さんも作りすぎたとか言って食事分けてくれるし』
剛と健が話を続ける。
『それにお前が引っ越すなって言っていたしな』
そう言って健のことをちらっと見る剛。
『だって剛がいなかったら、潤と二人っきりだぜ。話続かねぇよ』
照れくさそうに答える健。
『えっ、俺のせいなの』
カレーを食べながら久しぶりに会話に入ってきた潤。
『俺も友達思いの優しい人間だからな。友達にこう言われると引っ越しできなかったんだ』
『仲いいんだね。羨ましいな』少し寂しそうな好美。
『何言っているんだよ、好美。それに剛は卒業式で号泣しながら『俺はやっぱりここが好きだ』って叫んでいたんだ』
『その話はやめろって』剛は慌てて健の話を遮った。
『これがその写メ』そう言って健が俺と好美に携帯を見せてくれた。
『やめろって』健の携帯を取り上げる剛。すかさず潤が同じ写メを見せてくれた。
『ホントだ。泣いてる』クスクス笑う好美。
『これからは5人でいっぱい思い出つくろうぜ。そうだよなっ、稜』諦めたように剛は言った。
『うん。これまで友達付き合いとかなかったらから不安だったけど安心した』
『私も。みんな、これから宜しくお願いします』好美はかしこまって少し頭を下げた。
それを見た剛も『稜、好美。これから宜しくな』と言いながら頭を下げた。顔を上げた剛は『ついでにお前らもな』と言って両隣に座る潤と健を照れくさそうに見た。
『何だよ、この流れ。辞めようぜ』そう言いながら健の顔を見る潤。そして何も言わずに二度ほど頷く健。
『うん。でも嬉しい反面怖かったりするから。実は私、いじめられていたんだ。だから友達なんていなくて。だからそんな地元から逃げるようにこっちの大学にきたの』
好美は中学時代の辛い思い出を話してくれた。
それから人と接することが怖くなって高校に進学してからも人と接することを避けてきたようだ。両親はおらずお姉さんと二人暮らしをしていたようだが、お姉さんの負担にならないように自立しようとの考えもあって地元の大学には進学しなかったとのこと。
『そっか、好美も両親いないんだ。俺と稜もなんだ』そう剛が言うと好美は剛と俺の顔を交互に見た。俺は静かに頷いた。
『俺は中学入学と同時に事故で両親が死んじゃって。俺は一人っ子で、これからどうなるのかって時に父の弟さん夫婦が一緒に暮らそうてって言って、家に引っ越してきてくれたんだ。叔父さん夫婦には子どもがいなくて中学3年間を自分の子どものように育ててくれた。本当に優しく接してくれていたんだけど、叔父さん夫婦に子どもができてから自分の居場所がないような気がしちゃって、高校進学と同時に独り暮らしをすることにしたんだ。叔父さん達はこのまま一緒に暮らそうって言ってくれたんだけど叔父さん達にも悪い気がして』
剛の言葉が詰まった瞬間に健がボソッとつぶやいた。
『剛はこう見えて意外といい奴なんだ』
『意外だろ』剛の隣で潤が続けて言う。
剛はフッと笑って続けた。
『結局独り暮らしをすることにしたんだ。一緒に住んでいた家も叔父さん達で住んでくれたらいいって言ったんだけど、叔父さん達は心配してくれて。家は元々俺の父が継いだ家だってことで、大学卒業と同時に家は返してくれることになっている。そのあとは俺の好きにしたらいいって。だから今は叔父さん達に家を貸してあげているんだ』
『でも、いきなり独り暮らしって寂しくなかった?』俺は尋ねた。
『どうだろうな。叔父さん達にも多少は気を遣っていたところもあったからいつかは出て行こうと決めていたし。それに俺が住んでいるマンションから自転車で30分ぐらいしか離れていないから、今でもたまにご飯を一緒に食べさせてもらっている。だから寂しいって感じはしなかったかな』
『俺達が心配してしょっちゅう遊びにいってあげていたしな』健は潤に目を合わせながら言った。
『確かに。健と潤は学校でも一緒にいるのに家にまでついてくるんだぜ』
『本当に仲がいいんだ』
『だからかな。あんまり寂しい感じがしなかったのは』
『でも、子どもはかわいいってずっと言っていたよな』健が続けて話した。
『そうなんだよな。俺は兄弟がいないし特に小さい子どもと遊んだこともなかったら、叔父さん夫婦の子どもがかわいくて、かわいくて』照れたように話す剛。
『へぇー。子ども好きなんだ』『意外だろ』冷やかす好美と潤。
『こればっかりは否定できないな。自分でもびっくりだよ』
『いいパパになれるんじゃない』
『だったらいいけど』
『その前に彼女をつくらないといけないけどな』
『お前もだろ』
そう言って健の首に手を回した剛。
俺と潤と好美はその姿を見て笑っている。会話の中心にいるのはいつも剛だった。
そんな剛の明るさに健や潤は惹き付けられたのだろう。そして俺も好美も自然と打ち解けることができたのだろう。そして俺と好美と剛には両親がいないという共通点があった。お互いその辛さを分かっているからこそ、分かり合えることがあった。
健はとにかくお調子者でムードメーカー。潤はあまり自分から話はしないけれど、周りのことをしっかり見てくれているお兄さん的存在。二人とも剛とは幼稚園からの友達で、剛の両親が亡くなった時も強がる剛のそばにずっといてあげていたのがこの二人。だから健と潤は剛と同じ境遇の俺や好美の気持ちも分かってくれていた。
どこか気を遣わせているようで悪い感じがするなと二人に話したことがあったが、そんなことはないとはっきり言ってくれた健。そんな器用なこと俺らにはできないと、ただみんなと楽しく過ごしたいだけだと言ってくれた潤。二人ともいつもの笑顔で答えてくれた。まさかこんな優しい二人の笑顔を、近い未来に自分が奪い去ってしまうことになるとは思ってもいなかった。
俺は大学進学の際に地元を離れ、アパートで独り暮らしをすることにした。施設では自分のことは自分でするのが決まりになっており、ご飯の準備も当番制だったので住む場所が施設ではないだけで特に大きな変化はなかったのだが、剛とは違い、独り暮らしをするのにどこか寂しさを感じていた。
施設では俺と同じように両親がいない者同士が共同生活を送っていた。それぞれが施設に入ることになった理由は様々で、中々施設の暮らしに慣れることができない人もいる。というよりも自分がそうであった。いきなり祖母がいなくなり、見知らぬ施設に入ることになったのだから。
そんな俺を気にして優しく接してくれた施設の職員の方。一緒に学校に行き、帰ってからは一緒に勉強してくれた年上のお兄さん、お姉さん。そうして俺は徐々に施設の暮らしに慣れていくことができた。
高校卒業までをこうした恵まれた環境の施設で育った俺は自然とお兄さん的存在になっていた。そう、7歳の俺に優しく手を差し伸べてくれたあの日のお兄さんのように。
施設に入ったばかりで戸惑いを隠せずにいる子に自分から声を掛け、少しでも不安を無くしてもらえるようにと優しく接していると徐々に気を許し本当の兄のように慕ってくれるようになった。そのためか、学校で友達がいないことも苦ではなかったのかもしれない。施設に帰れば兄と慕ってくれる弟・妹が待ってくれている。少しながらこの施設の中で家族というものを実感していたのだろう。
卒業式でも泣かなかった俺が施設を出ていくことになった日、心配をかけないように必死に涙をこらえながら笑顔で見送ってくれた施設のみんなを前に涙したこと。だからなのだろうか、帰っても誰も迎えにきてくれない静かな空間があまりにも不自然な気がして仕方なかった。もしかしたら俺の方こそが兄と慕ってくれる弟や妹のことを必要とし心の拠り所にしていたのかもしれない。
しかしこんな寂しさを感じる生活にもすぐに慣れてしまうのだと感じていた。施設の生活に慣れたあの頃のように。今度は年上のお兄さんではなく、新しくできた同い年の友達が俺の不安と寂しさを取り除き、楽しい新しい生活を一緒に送ってくれるのだと。そんなみんなへの信頼感が自然と自分の中にはあった。
俺が住むことにしたアパートは大学が学生に紹介していた物件ということもあって他にも学生が数名住んでいるようだった。アパートは駅の近くにあって、駅から大学までは定期的にバスが走っている。そのためアパートに住んでいる学生はバスで通学する人もいれば俺のように自転車で通学する人もいた。
自転車は施設で働いていた人がもう使わないからということで、よかったらと言って俺にくれた。なかなかおしゃれなデザインでみんなからも好評だった。
地元から電車で通っている剛・健・潤は駅からはこのバスに乗って大学まで来ている。そして好美もアパートから歩いて駅まで行ってバスに乗って通学していたため、授業が終わってみんなで帰るときもみんなはバスで俺だけが自転車で帰っていた。
多少の雨でも自転車で通学していたが雨が激しかったある日、バスで行くことにした。バス停に着くと好美が驚いた顔で『おはよう』と声を掛けてくれた。
『おはよう、ってもうお昼回っているけどな』
今日はたまたま1限目と2限目が休校となったため、午後の3限目からの授業となっていた。
『そうだね。この雨だから自転車はやめたの?』
『うん。結構激しく降っているからな。この中を自転車で行ったらさすがにびしょ濡れになるなと思って』
『そしたら、学校で3人にイジられまくりだね』
『そんな面倒臭いのはマジ勘弁だよ』
そう言うと好美はクスクスと笑っていた。
そんな話をしているとバスが来た。お昼すぎの時間帯ということもあり、バスに人は少なく、空いている二人席に好美が座ったのでその隣に座った。
『アパートってここの近くなの?』
『うん。ここから5分ぐらいかな』
『私もそんなところ。そういえば稜君と一緒に行くのは初めてだね』
『うん。俺はずっと自転車だったから』
『寝坊したときは剛君、潤君、健ちゃんと一緒になったりすることもあるんだ』
好美は真面目な性格でいつも時間にゆとりを持って行動するタイプ。大学にも早く行って図書室で自習したりしている。
『剛と健は基本ギリギリにしか来ないからな』
『レポートを写させてほしい時だけ早いんだよね』
『そうそう。でも潤は普通に早く来るけど』
『うん、潤君はしっかりしているから。でも潤君も電車乗り過ごしたみたいで、たまたま私もその日寝坊しちゃって一緒になったことがあったんだ』
『潤がいなかったらあの二人はヤバいんじゃないかな』
『確かに。二人がふざけているときも潤君がいつも突っ込んであげているからね』
『潤がいなかったらただのうるさい二人なだけだし』
いつもは剛や健が会話の中心になっているため、好美とこうして二人でゆっくり話をするのは初めてだった。あまり女性と話をしたことがなかった俺はどこか少し緊張していた。
すると二人の携帯が同時に鳴った。
『剛君からだ。まだ来ないのかだって』
メールを確認した好美はそう言いながら返信しているようだ。俺も携帯を確認したが同じメールで剛は俺と好美に一斉送信していた。
するとすぐに好美から『もうすぐ着きます』と返信メールが来た。
『今日は早い日みたいだね』
『だからこんなに大雨になったのかな』好美はまたクスクスと笑った。
また二人の携帯が同時に鳴ったときにはバスは大学に着いていた。メールの『オッケー』の一言を確認してバスを降りたところに3人は待っていてくれていた。
『あれっ、稜も一緒?』
『バスって珍しいな。雨が降っているからバスにしたん?』健と剛が続けて聞いてきた。
『こんな雨の中、自転車で来たらびしょ濡れになるからな。そんなことになったらお前らの恰好の餌食になるだろう』
そう言う潤を見ながら、さすが潤だなと俺と好美は驚いて目を見合わせた。
『2人が早く来たからだよ』ニコニコしながら好美が答えた。
剛と健はどういう意味か分かっていない顔をしていて、潤は何か悟ったように頷いている。思わず俺は笑ってしまった。
『これはバスで剛と健の悪口言っていたな』剛と健を指差しながら潤は言った。
『えっ、そうなのかよ』
『どうして潤は入ってないんだよ』また健と剛が続けて言う。
『俺は二人と違ってそんなに悪い子じゃないから』意地悪そうに笑って潤は言った。
『本当かよ?』と健と剛が言いながら、俺の方を見た。
『そうかもな』笑いながら答えた。
『えっ、そこは否定するところだろ。コノヤロー』二人は俺の首を軽く絞める格好をした。
剛も健も笑っている。その様子を見ながら好美と潤も笑っている。そして首を絞められている俺も笑っていた。たまの雨も悪くないなと感じた。
彼らが早く来たのは自習をするためということでは当然なく、ただ学食を食べたかったというだけだった。ちょうど今まで3人で学食に行っていたのだという。3人と合流して3限目の授業の教室に向かった。
『ふー、やっと1日終わった。5限目まであるとしんどいな』
時間は18時30分を回っていた。木曜日は1限目から5限目まで授業がみっちりある日だ。
『でも今日は1限目と2限目がなかったからいつもよりマシだったけどな』
『それに剛君は途中寝ていたけどね』
『早く帰ろうぜ。稜も一緒に』
バス停には5限目を終えた学生で長い列ができていた。いつもはここでみんなと分かれ、自転車置き場に向かうところだが、今日はそのままみんなと一緒に列に並んだ。しばらく待つとバスが来て、ギュウギュウ詰めのバスに乗り込んだ。
『朝来るときは空いていたからよかったけど、これは中々きついな』
今にも顔がくっつきそうな距離感の健に話しかけた。
『かわいい子だったら別にいいんだけど、今日は残念ながら稜が俺の前か』
『そんな楽しみ方があるんだ?』
『まぁな。でもこの前は急ブレーキの際にまさかの剛とチューするはめになったけど』
『それは災難だったな』
『あぁ、久しぶりのチューが剛だからな。思い出しただけで気持ち悪くなる』
『目の前で見ていた私はおもしろかったけどね』
『好美や潤に笑われるのはまだいいんだけど、見ず知らずの人にも笑われたのはキツかったな』人の熱気で充満したバスが駅に着いた。
『じゃあな』
『うん、バイバイ』
剛、健、潤は駅へと歩いて行った。
朝から降り続いていた雨はすっかり止んでいた。19時を回っていて、太陽もとっくに落ちている。たまたま好美と帰る方向が一緒だった。こんな時間に女の子と一緒に歩いて帰るということが初めてのことで、好美のことを送っていくべきかどうか悩みながら一緒に歩く。できれば俺の住むマンションの途中に好美のマンションがあればいいなと思いながら。
お互いが持っているビニール傘が地面にコツコツと当たる音が響く。朝のバスからずっと一緒だったから、話す話題が何も思い浮かばない。しばらく無言の時間が続いた。少しソワソワする俺を知ってか思い掛けないことを好美が言ってきた。
『稜君と一緒にいるとなんか落ち着くな』
不意を突かれた感じでしばらく好美の横顔を見ていた。
『何でなんだろう。いつもはあの3人が騒がしいからかな』
何か話さないといけないとばかり思っていた俺とは全く違うことを好美は感じていたようだ。
『私、こういう無言の空間って意外と好きだったりするんだ。でもこれまでは無言が続くと気まずさから何か話さないといけないって思って必死に話題を探したりしていたんだけど、稜君と一緒だと何故だかそんな気がしないんだ』そう言った好美は少し恥ずかしそうに俯いてしまった。
そんな好美の言葉がうれしくもあり、俺は好美とのこの空間を少し気まずく感じてしまっていたのかと好美に対して悪い気もした。
『女の人とこうして二人でいることがあんまりなかったから、正直どうしたらいいかよく分からないんだ。時間も遅いし家まで送っていった方がいいのか、でもそうしたら変な気があるんじゃないかって勘違いされるのかなって』
『そっか、色々考えてくれていたんだ。でも送ってくれなくても大丈夫だよ、やっぱ悪いし。別に稜君のこと疑っているとかじゃないよ』
『うん、分かっている』
『あれ、もしかしてわざわざ遠回りしてくれている?』
『いや、そんなのじゃなくて本当にたまたま方向は一緒みたい』
『本当に?だったら送ってもらおうかな。私のマンションまでもう少しだから』
次の三叉路をどっちに進むのかと思っていたら、好美は思いがけない方向に曲がった。この先は行き止まりだった。
『ありがとう、ここでいいよ。私このマンションに住んでいるんだ』
好美が指さす方向には一軒のマンションがある。ちょうどそのマンションがこの道の突き当りだ。
好美は二歩ほど前に進み、振り返って『ありがとう』と笑顔で言った。
俺を見送ろうと立ち止まった好美の横を、俺は何も言わずに通り過ぎそのまま歩き続けた。好美はすれ違う俺の顔をじっと見るように再び振り返り、何も言わずに歩いてついてくるのが分かった。ただ、傘がコツコツと地面に当たる音だけが響く。
俺は好美が指さしたマンションの駐輪場を指差した。好美が小走りで駐輪場に回り込み、見覚えのある自転車を発見して俺の顔を見た。
『えっ、もしかして』
『うん、そうみたい』
顔を見合わせて笑いながら、一緒にマンションのエントランスに入っていった。大学に入学して二ヵ月が経って、好美と同じマンションだということが判明した。
このマンションは5階建てで、各階に5部屋ずつある造りになっている。俺は4階に住んでいるのだが、このマンションの人と顔を合わせることはほとんどなく、どんな人が住んでいるのかは知らなかった。かろうじて知っているのは引っ越してきた時に挨拶をしにいった隣部屋に住む別の大学の学生と、たまに朝の時間が一緒になる会社員ぐらい。
好美は一階に住んでいるとのことだった。好美は朝早く大学に行くのと、バスの時間もあって一緒になったことはなかった。また帰りも一緒の時間に大学を終わったところで好美はバス、俺は自転車ということもあり一緒になったことがなかった。どの辺りに住んでいるのかという話をしたことはあったが、好美は女性ということもあって、どこまで突っ込んだ話をしていいのか分からなかった。そういうこともあり、割りと近くなのかもという程度で話は終わっていた。
最後別れる際に『あんまり稜君とはプライベートな話したことなかったもんね』と好美は言っていた。知らずの間に好美とは少し距離を取っていたのかもしれない。それは今まで女性との付き合いが少なかったからなのか、自分の性格がそうなのか自然とそんな接し方になっていた。女性を好きになったことがなかったため、この時はまだ自分の気持ちがどういうものなのかを気付いていなかった。
『えっ、マジかよ』
『普通は気付くって』と好美から昨日のことを聞いた剛と健が驚いていた。
『うん、でも今までマンションで会ったことなかったしね』
『さすがに一緒のマンションだって思いもしなかったから』好美と俺は顔を見合わせた。
『でも、ちょうどよかったじゃん?』そう言いながら剛と健を見る潤。
『何が?』俺と好美もつられて剛と健を見た。二人はニヤニヤ笑っている。
『確かにそうかもな』
『うん、確かに』
『だから何がいいんだよ?』
『そろそろ稜の部屋に行きたいなって話していたんだ』
『帰るのが面倒くさくなったら稜にお世話になることもあると思うんだ』
『よく考えたら学食ではそろってご飯食べているけど、みんなそろって食べに行ったこともないし、親睦会も兼ねてたこパでもしようかって』
『今日の朝の電車で決まったんだ』
『稜の家でやることに勝手に決めたし、もちろん俺達はそのまま泊まっていきます』
『よろしくな』
『同じマンションなら好美も来やすくていいんじゃない?男の部屋に男ばかりだったらヤバいかな?』
『大丈夫、せっかくだから行くよ。たこ焼き好きだし』
『さすがにノリがいいな』
こんなやりとりがあって明日、たこ焼きパーティーをすることになった。
朝目覚めたと同時に窓の外から聞こえる音に誘われてカーテンを開けた。数時間も降り続けているのであろう雨によって地面は濡れている。内心、良かったと思っていた。簡単に朝食を済ましスーツに着替え、玄関口に置いている自転車の鍵を持たずにいつもより早く部屋を出た。
小雨の中を傘を差してバス停へと向かう途中、見慣れた傘を差すスーツ姿の女性が前を歩いていた。
『おはよう』走って駆け寄りそう言うと女性は笑顔で『おはよう』と答えてくれた。
『いよいよ今日だね、緊張してきちゃった』
『大丈夫だよ、卒論はもう提出しているんだし。あとは練習通り発表するだけ』
『うん、でも今日が大学に行く最後の日なんだね』
『4年間あっという間だったな』
恵みの雨の中を好美と話をしながらバス停に行くと、そこには3人そろって少し緊張した面持ちでベンチに座っていた。
『おはよう』
そう二人でスーツを着た3人に声を掛けると、いつもの無邪気な笑顔を取り戻したようだった。
『おせーよ』
『今日は雨だから稜もバスで来るかなと思って』
『早く来て3人で待っていたんだ』
『今日が5人で大学に行く最後の日だからな』
『うん』そう好美と一緒に頷いて、バスに乗り込んだ。
すっかり肌寒くなった2月上旬。大学に入学してから3年と10ヵ月が経過して、今日が大学卒業に向けた最後の関門である。3年の時に俺達5人は同じ研究室に入って卒業研究に取り込み卒業論文を書き上げた。今日は教授達の前で作成した卒業論文の発表日。
とは言ってもすでに卒業論文自体はすでに提出してあり、パワーポイントを用いて研究内容発表するもので、この発表によって単位がとれないことはまずないのだが、教授や来年発表することになる後輩達が大勢集まる環境で発表するため、みんな緊張している。発表時間は一人15分程度でそのあと教授からの質疑応答を乗り切って大学最後の講義は終了となる。俺達は午前中の発表だった。
『やっと終わったな』そう言いながらスーツのネクタイを緩めている健。
『剛と健はかなり噛んでいたけどな』相変わらず潤が剛と健の発表をイジっている。
少し早い昼食を食べようと食堂に向かっていると『時間もあるし最後にアレやっていく?』剛が指さした方向に献血バスがあった。
献血をしてくれる学生を求めてこうして大学に献血バスがくることがあり、自分達の血液が困っている人の役に立つならと献血を何回かしていた。
中には飲み物やカップラーメンがもらえるのを目当てにしている者もいたのだが。
剛は献血を受ける前まで『稜とは同じ血液型だから気が合うな』と言っていたのだが、はじめて献血を受けてから数週間後に届いた血液検査結果のはがきに驚いていた。
ずっと自分の血液型をA型だと思っていたらしく、検査結果がO型だったことに血液型が変わったとびっくりしていたのだ。
『どうりで剛とは気が合うと思っていたんだよな』と同じO型の健に言われるようになったので嫌そうな顔をしていた。『これからは占いの結果も教えてあげるね』と当時血液型占いにはまっていた好美が自分と同じ血液型に変わった剛に話しかけていた。
急いでいるわけではなかったので、昼食の前にみんなで献血をしてから食堂に向かった。飲み物とカップラーメンがもらえたことに健は相変わらず満足そうな表情だ。
『でも、こうしてみんなそろって学食でご飯食べるのも最後なんだね』
食事中悲しそうにつぶやいた好美。
『仕方ないさ、ずっと一緒にいられるわけじゃないんだから。でもこれでみんな無事に卒業なんだし、夜は稜の家でたこパだからな』
発表が終わりいつもの笑顔を取り戻した剛が好美を慰めるように言った。
昼食を食べ終えた後、みんなでバス停に向かった。雨は止んでいて、きれいな虹が架かっていた。虹をバックに好美が写真を撮りたいと言ったため、5人で写真を撮ってからバスに乗った。
『じゃ、17時に稜の部屋に集合な』そう言って3人は駅に歩いていった。
俺と好美は歩いてマンションに帰った。
『17時に行くね』
『うん、それまでに掃除しなきゃな』そう言って好美と別れた。
入学した頃とは変わり、すっかり好美とも話すようになった。好美の屈託ない笑顔に惹かれるのに時間はかからなかった。
あの日から俺は多少の雨でもバスで通学するようになった。少し寝坊したり、自転車では汗を掻きそうな暑い日だったり、何かと理由を考えてバスで通学していた。好美と一緒に登下校できるかもしれないと期待しながら。
好美は少し天然なところがあって、そんな俺の気持ちなど気にしていなかっただろうが。
17時前頃にインターホンが鳴った。除き穴から見るとスーツから着替えた3人が立っていた。ドアを開けると好美もやってきた。
『それじゃ、買い物に行きますか』そう言って5人で近くのスーパーに向かった。
これまで俺の家に集まるときは決まってこの道を通ってスーパーに買い出しに行ったが、こうして5人で歩くのもきっと最後になるのだろう。5人揃っているのにもかかわらず、珍しく無言の時間が続く。それぞれがもうすぐ訪れる別れの時を恐れているかのように。
『珍しく静かだな』そう言うと、みんなが少し驚いたようだった。
『稜は変わったな。初めの頃は遠慮しているようで自分からあんまり話さなかったのにな』
自分でも大きく変わったことは自覚していたが、剛に言われて改めて実感した。
『剛と健とずっと一緒にいたら、変わりたくなくても変わるんだよ』
『確かにな、ずっとこいつらと一緒の俺も同じ意見だな』
『俺も剛と一緒の扱いかよ。なんか言ってくれよ、好美』
『みんな変わったよ。みんな大人になっちゃった。私も変われたかな。あの頃の私は自分でも好きじゃなかったけど。みんなのおかげで私も大人になれたのかな・・・。いいや、今日はいっぱい飲んじゃお』少し真面目に話しつつ、最後は強がっているような口調な好美のおかげで、絡み合っていた糸が解けるかのようにいつもの雰囲気に戻った。
剛と健がふざけ合い、潤がつっこみを入れる。俺と好美がそれを見て、手をたたいて笑う。
そう、この4年間慣れ親しんだいつもの空気感がたまらなく心地よかった。
袋いっぱいに入ったビールを持って部屋に帰ってきた。男性陣はみんな結構いける口で5人が集まるときはかなりの量の酒を買うようになっていた。好美もそんな男達にうまく付き合ってくれている。こたつにたこ焼き用のホットプレートを出して、みんなが定位置に着き缶ビールを持って準備する。
こたつを囲む俺と好美と健と潤。健の後ろにあるソファーにあぐらをかいて座る剛。
『それでは、4年間お疲れ様でした』剛の乾杯の音頭で5人が缶をぶつけ合う。
『あー。やっぱうまいな』
そう言いながら買ってきたつまみの袋をあけ始める3人。俺と好美はキッチンでたこ焼きの準備を始める。準備と言っても好美がほとんどしてくれて、慣れた手つきで切った野菜を運ぶのが俺の役になっている。生地の準備は3人の役目で、食べたい分だけ遠慮せずにつくるため、最後の方は具がなく生地だけ焼いていることも何度かあった。
一通りの準備ができたらみんなでこたつを囲んで焼き始める。3人はもうとっくに2本目の缶を開けていた。何度もやっているおかげでたこ焼きを丸めるのもすっかりうまくなった。たこ焼きが焼きあがったら、『乾杯』と剛が再び乾杯の音頭をとり、本日2回目の缶がぶつかり合う音が響いた。それからはこれまで何度もこの部屋で繰り返されてきた光景が続く。
ソファーに立って歌いだす剛。近所に迷惑だからと必死にやめさせようとする潤。だんだん酔ってきて床に酒をこぼす健。空いた缶を片づけたり、少なくなった材料の準備をする好美。酒を飲み、たこ焼きをつまみながら大学生活の思い出話をし、これからの人生について珍しく真面目に話し込んだりもした。この部屋での最後のたこ焼きパーティーはあっという間に過ぎていった。
22時を過ぎた頃には、3人は泊まる準備をし始める。
『稜、風呂入ってもいい?』と健が尋ねてきたので『うん、ご自由に』と答えるとじゃんけんに負けた剛が渋々風呂の湯をためにいった。
俺は3人分のバスタオルを渡して、順番に風呂に入っていく3人。その間に好美は食器を洗ったり散らかった部屋の片づけをしてくれていた。
『稜も先に風呂入ってこいよ』風呂から上がってきた剛が言ってきた。
ドライヤーで髪を乾かしていた健や、風呂上がりのストレッチを終え好美の片づけの手伝いをしている潤もそのようにすすめてきたので、おかしいなと思いながら風呂に入った。
20分ぐらい風呂に入ってでていくと部屋の電気が消えていて、少しの明かりがこたつの上にあった。それはろうそくの明かり。みんなは定位置について早く座るように手招きしている。
『今年はみんなで祝えないから。少し早いけど、誕生日おめでとう』
剛はそう言うとシャンパングラスを持ち上げ、3人もグラスを持ち上げた。
『このグラスとシャンパンは俺達から』と微笑む潤。
『このケーキは好美の手作りだぜ』と何故か自慢そうな健に、照れ笑いの好美。
『稜、早く。腕しんどい』と剛が言ったので、注がれていたシャンパングラスを持ち上げ、みんなのグラスにぶつけた。
『稜君、火消して』と好美に促されたので、おもいっきり空気を吸い込み『ふー』と一息でろうそくの火を消した。部屋は一瞬真っ暗になり、みんなが拍手して祝ってくれている。
その後、電気を点けた剛が『サプライズでした』とニッコリ笑った。好美がケーキを切り分けてくれて、シャンパンを飲みながら少し早いバースデーケーキを味わった。
『みんな、4年間本当にありがとう。これからも元気で頑張ってね』
『こっちこそ。男4人の相手してくれてありがとう。好美も元気で。またみんなでたこパやろうな』
日にちが変わろうとする頃、一通りの片づけをしてくれた好美が帰るのを4人で見送った。
好美が帰った後は男4人で歯を磨き、寝る準備を始める。健と潤はこたつをどけて床に押し入れから出した布団を引き、毛布を上にかけて寝床を作る。3人は片道1時間の電車通学なのでこっちで飲み会があったりして夜遅くなると、俺の家に泊まってしまうこともしょっちゅうあったため、俺の部屋のことは熟知していた。剛はベッドで俺と並んで寝ていた。
『電気消すよ』と言って部屋の電気を消す。
するとみんなの携帯が一斉に鳴った。好美からのメールだった。
『これからもみんなと繋がっていたいです』この一文と笑顔の5人を虹が繋いでいるかのような今日大学で撮った写真が添付されていた。
『きれいに撮れているな』『また集まろう』『次はGWかお盆かな』と一言返信し『これからもずっと友達』と剛が締めくくった。
そこからは大学4回生らしいしょうもない男子トークをしていたが、しばらくすると床の方からは二人のいびきしか聞こえなくなった。
『二人とも寝ちゃったな』
『相変わらず飲みまくっていたからな』
『でも稜と好美と出会えて本当によかったよ』
『どうしたんだよ?急に』
『あのさ、稜』真剣な剛の横顔を見て嫌な予感がした。
『実は俺・・・、好美のこと好きなんだ』
不意なタイミングでの告白ではあったが、どことなく勘付いてはいた。ただ、それを確かめようとする勇気は俺にはなかった。
『そうだったんだ、好美には言ったの?』俺は冷静を装って答えた。
『いや、まだ何も言ってない』
『そっか。でも好美は就職してそっちに行くんだからチャンスはいっぱいあるんじゃないん?』
剛は地元での就職を決めており、好美は剛の隣町での就職を決めていたので、剛と好美は卒業してからも会おうと思えばいつでも会うことのできる距離になる。俺も二人とは隣の市で就職を決めていて、二人と会えない距離ではない。ただ好美との距離として考えると、今こうして同じマンションに住んでいるのとは変わり、今度は剛の方が俺よりずっと近い距離になる。健と潤はそれぞれ地元から離れた場所で就職し、独り暮らしをする。そう今日からはそれぞれの新たなスタートの準備を始めることになる。
『稜は・・・、うん。そうだな』何か言おうとしたその言葉を飲み込んだのが分かった。
『おやすみ』その言葉を最後に眠りについた。
『稜、ありがとうな』『お邪魔しました』
10時頃、すっかり酔いが醒めた3人と一緒に部屋を出た。
階段を下りて向かったのは好美の部屋。そこには数名の作業服を着た男性が荷物を運んでいた。今日、好美はこのマンションから就職先の近くのマンションに引っ越しをする。部屋から好美が出てきて二人で3人が帰るのをマンションの前で見送った。
『稜・・・、ありがとうな、好美もありがとう』剛は他にも何か言いたそうな表情だった。
『じゃあな』
『バイバイ』
そう言って歩き出す健と潤につられて剛も手を振って歩いていった。3人の姿が見えなくなりそうなときに振り返って健は飛び跳ねながら大きく両手を振っていた。潤と剛は片手を振っている。3人に応えるように、好美と二人で手を振ると3人は再び歩き始めた。
『稜君』
そう呼ばれて好美の顔を見ると、好美は俯いてしまった。
『どうした?』
『あの・・・、帰っちゃったね、何か剛君は言いたそうだったけど』
『うん』
好美も何かしらの違和感を感じ取っていたようだ。俺は夜のことを思い出していた。言葉を飲み込んだ剛のことを。
『ふーっ』とため息をついて気持ちを落ち着かせる。俺は覚悟を決めた。
『あのさ、好美』次は好美が俺の顔を見た。
『あのさ・・・、ありがとうな』目を逸らしながら言ってしまった。
いざ思いを伝えようとすると、フラれてしまう恐怖からか言葉でてこない。そしてフラれてしまってからの付き合い方を考えると、思いを伝えることが怖かった。結局俺の覚悟は自分の保身に負けてしまった。
『うん、こっちこそありがとう』
ちょうど荷物の運搬作業は終わったようで、好美は部屋の最終確認だけしてマンションを後にするのを見送った。
俺は一人部屋に戻った。つい今朝まで狭く感じていた部屋が急に広く感じる。もうこの部屋でみんなと集まることはない。ついさっきまでここにあった賑やかな空気は一瞬にして一人で生活している日常の空気に一変したのがどこか寂しかった。
するとインターホンが鳴り響いた。除き穴からみるとそこには剛が立っていた。
『忘れ物?』ドアを開けて尋ねた。
『うん、忘れ物』そう言った剛だったが部屋の中に入ってこようとはしなかった。
『大事なこと聞くのを忘れていた。稜は・・・』そう言うと言葉を詰まらせ俯いてしまった。再び言葉を飲み込んでしまった姿を見て俺は剛が何を言おうとしているのか悟った。そして、何と答えようか考えた。顔を上げ、俺の目をまっすぐ見つめる剛。
『稜は、稜は好美のことどう思っている?』
予想は当たっていた。この一言とまっすぐな目から剛の本気さが伝わってきた。剛は気付いていたのかもしれない。俺の好美に対する気持ちを。
『4人の男と仲良く付き合ってくれる、優しい友達だよ』剛はじっと俺の目を見ている。
『本当にそれだけか?』念を押してきた。
『好きだよ』剛の目をまっすぐ見つめた。『好美のことは好きだよ。剛や健や潤と同じように友達としてな』そう言うと剛はいつもの笑顔になっていた。
『そっか、分かった。変なこと聞いてごめん。今までありがとう、稜』
『いいよ、別に。じゃあな』
『うん、バイバイ』そう言って、剛は帰っていった。
ドアを閉めて、玄関に座り込んだ。剛の目はまっすぐな目をしていたが、俺はどんな目をしていたのだろうか。剛は俺の言ったことを本心として受け取ったのだろうか。剛の忘れ物は何だったのだろうか。俺はとっさに嘘をついた。それは何故なのか。これまでの関係を壊さないように、そしてこれからも友達としていられるようになのか。いや、そんなことじゃなかった。本心を言ったところで俺たちの関係が簡単に壊れたりしないことは4年間一緒にいた俺自身が一番分かっていた。剛はただ俺の本当の気持ちを知りたかっただけなのではないか。
だが、その期待に応えることができなかった。俺が本心を伝えることができなかったのは、さっき好美に俺の本当の気持ちを伝えることができなかったから。好美に打ち明けられなった俺の気持ちを剛に話すのは違うと感じた。ただ自分が弱かっただけなのだ。俺は後悔した。好美に本心を伝えていればと、そうすれば剛にも本当の気持ちを話せたのにと。
剛は一度は飲み込んだ言葉を、勇気を出して伝えてくれた。それなのに俺は本心を伝えてあげることができなかった。俺には剛のような勇気がなかった。俺は剛の本当の忘れ物を渡してやることができなかったのかもしれない。
俺は顔を洗い鏡に映る自分の目を見て、さっきの剛のまっすぐな目と比べていた。鏡に映る目にはまっすぐさはなかった。剛の目から本気さを感じ取った俺に対して、剛はこの目から何を感じ取ったのだろうか。みんながそれぞれ別々の道を歩みだすこの日、勇気を振り絞って本心を伝えられたのは、剛だけだった。
剛から久々に連絡があったのは社会人となって初めての7月の終わり頃だった。お盆休みに健と潤が帰ってくるということで、久々に5人で集まろうという内容のメール。俺は迷いもせず、参加の旨を返信した。
電車で1時間以上かけて、初めて3人の地元に行った。駅前にあるビルの居酒屋に行くと入り口近くの個室から懐かしい声が聞こえてきたので、その部屋の戸を恐る恐る開けると4人が座っていた。半年前とは変わらないあの4人が温かく迎えてくれた。
『全然変わってないな』と言う剛の正面に座り『お互い様だよ』と答えると、『その返しが稜君っぽいね』と横の好美に言われた。剛の隣に座っている健はすでに店員さんを呼び、ビール5つを、好美の前でメニューを広げていた潤は適当に何品か注文していた。
学食でのテーブルの座り位置と同じになったためか、見慣れたこの光景が大学生活を鮮明に思い出させた。いつもの剛の乾杯の一言で始まり、ビールを飲みながら楽しかったあの頃の話で盛り上がった。そして今の生活についても。仕事内容がどうだとか、朝が早い、残業が多いなど、みんなそれぞれが頑張っているのが伝わってきた。
『俺、彼女出来たんだ』健が急にニコニコしだして言ったので、そこからは恋愛話に切り替わった。まずはみんなで健に質問攻め。どこで出会ったのか、どんな人なのか、写メはないのか。
『みんなはどうなんだよ』質問からなんとか逃れた健が聞いてきた。
今日、ここにくるに当たって、あの日からずっと気になっていたことを健が聞いてくれた。
『俺は全然ダメだな』と最初に答えると、『俺も』と潤が続いた。
しばらく間があった後、好美は黙って頷き、剛もいないとだけ言った。それが本当なのかどうかは分からなかったが嘘をついているようには見えなかった。ただ俺は好美が頷く前にチラッと剛のことを見たのを見逃さなかった。少し神経質になりすぎているのだろうか。
話していると、健と潤はたまに会っているようで、都合があえば週末に家飲みをしているとのこと。剛と好美は一回だけ飲みに行ったようだが、好美が飲みすぎて剛が家まで送ってあげたそうだ。そう話す好美の頬はすでに赤くなっていた。
久々の再開はあっという間に過ぎ、18時から始まった飲み会は22時過ぎに終わることになった。好美も電車で来ているとのことだったので一緒にビルを出て駅に歩いていくのを、3人が見送ってくれた。学生の頃とは逆の光景で、また集まることを約束して3人と別れた。
好美とは帰る方面が一緒で、好美は2つ目の駅で降りて、歩いて帰るとのことだった。2つ目の駅に着いて電車のドアが開き、好美が降りて『バイバイ』と言っている間、俺はずっと内に秘め続けた思いとさっきの二人の間が気になって、ドアが閉まった頃には俺はホームに降りて電車は動き出していた。
『時間も遅いから送っていくよ』好美は目をキョトンとさせていたが『何かあってからじゃ遅いから』と言うと好美は素直に受け入れてくれた。
改札を出たとき『稜君と一緒に帰るのは久しぶりだね』と言う好美。
どこか神経質になっているのか『は』という一言だけがやけに耳に残った。
『あの雨の日だったよね、初めて一緒に帰ったの。あの時も送ってくれるって言ってくれたんだよね』
『そうだったな、覚えていたんだ』
『うん、そうしたら同じマンションだったし』
あの日のことを懐かしく話していたのだが、俺にはどうしても言っておきたいことがあった。この4年間伝えられずにいた気持ちを。
『あのさ、好美』
『何?』
『好美・・・。顔赤いけど大丈夫か?』結局本人を目の前にすると言えなかった。
駅から歩いていたのだが、好美は少し足がおぼつかない様子で今まで見たことがないほど酔っているのが分かった。10分ほどで好美が住んでいるマンションの前に着いたのだが、歩くのも少し危なっかしさがあったので部屋の前まで送り、役目も終わったので帰ろうとしたときだった。
『少し上がっていく?』酔っているためなのか、予想していなかった言葉を好美から聞いたので、少し躊躇したのだが、『じゃ、少しだけ』と部屋に入った。自分の気持ちを伝える機会を窺うことにした。
大学の時でも好美の部屋に入ったことは一度も無かったので、初めて女性の部屋に入るという緊張感があった。好美らしいきれいに整理された部屋で、キッチンには調理道具や調味料もあり生活感のある部屋だった。
『飲み直す?』
『かなり酔っている様子だけど大丈夫?』
『うん、飲みたいテンションなんだ』
居酒屋では好美がそんなに飲んでいたのかは気付かなかったが、このハイテンションな好美に付き添うかたちで近くのコンビニに買い出しに行った。
袋を下げて好美の部屋に戻ってきたときには22時30分を回っていた。
チューハイの缶を開け、乾杯した。初めての女性の部屋ということもあり、目のやり場に困っていたのだが、好美はそんなこともお構いなしに羽織っていた薄手のカーディガンを脱ぎ、Tシャツ姿になって両手を組み、伸びをする白い腕に見とれてしまっていた。
俺は終電の時間を気にしながら好美としばらく飲んでいたのだが、1時間ほど経ってそろそろ帰らないとヤバいかと思っていると好美は完全に酔っていて口数も減り、今にも寝そうな状態だった。こんな状態の好美に気持ちを伝えても意味がないので、次の機会にしようと帰ることにした。俺が部屋を出た後、好美に鍵をかけさせないといけないと思い、好美に声を掛け、体を支えながらドアの前まで連れて行った。
立っているのがやっとな好美に『じゃ、帰るから』と別れの言葉を告げて部屋を出た。好美が部屋の鍵を閉めてから帰ろうと、鍵が閉まる音が聞こえるまで待っていると、聞こえてきたのは、弱々しい好美の一言だった。
『あの時、勇気があったらな』俺は何のことか分からなかった。
『私の初恋の人は稜君だったんだよ』好美は俺がまだドアの前にいることを分かっていて話しているのかどうかは定かではないが、その二言目を聞いたとき自分の中から理性というものが存在しなくなった。
『あの引っ越しの時、勇気をもって伝えていれば違っていたのかな』
少し前までの神経質な状態だったら、『違っていたのかな』という言葉に引っ掛かることがあったのだろう。だが今は違う。今まで聞いたことのないほどの大きな心臓音と鼓動の速さが判断を鈍らせ、まるで大胆な行動を後押しするような感じがした。その行動がどんなリスクを伴うのかを考える冷静さなど当然残っているはずもなかった。
好美の言葉が本心かどうかは関係ない。ただ自分の求めていたものが、このドアの向こうに確実にある。好美が鍵をかけてしまう前に決して開けてはいけなかったドアを開けてしまった。そこには座り込んでいる好美がいた。そうあのとき、剛が戻って俺に質問して帰っていった後の俺のように。俺は部屋に入り、ドアを閉めた。
『ガシャ』自分で鍵も閉めていた。
『俺も好美のことがずっと好きだった。そして今も』そう言って座っている好美の腕を取り、自分の方に引き寄せて抱きしめていた。
好美は目をつぶり、全く抵抗しなかった。自分と同じ気持ちだからなのか、酔って意識が朦朧としていたからなのか、それとも抵抗していたのを全く気付かなかった、いや、気付こうとしなかったからなのか。ただもう自分で自分を抑えることができなかった。好美もきっと同じ気持ちなのだろうと抵抗しない好美を抱いてしまった。
目が覚めたとき一瞬自分がどこにいるのか分からなかったが、ベッドに裸の状態で寝ていることに気付き、昨晩のことが蘇っていた。そして好美がいないことに気付いた。脱いでいた服を着ていると、トイレから服を着た好美が出てきて、目が合った。
なんと言っていいか分からない状況の中、『ごめん、酔いすぎて昨日のことあんまり覚えてないの』好美がそう言うと口を押えて『ごめん気持ち悪くて、帰ってくれる?』とだけ言い残して再びトイレに入った。俺は何も言えずに部屋を出た。
『ガシャ』鍵が閉まる低い音が聞こえたのはすぐのことだった。
歩いて駅まで向かう途中、さっきの好美の言葉を思い出す。
『あんまり』とは好美は一体どこまでを覚えているのだろうか。心臓の鼓動が徐々に早くなってきている。昨日自分が取った行動に対する後悔の念に押し潰されそうだ。
二日酔いのせいか痛む頭を振動させないように電車の席に着いた。こんなにも後悔するならば、何故あんな行動をとってしまったのだろうか。こういうことが起こらないようにいつも冷静でいたはずだったのに、結局自分も本能のまま生きる動物なのだと思い知った。
なんて自分はせこい人間なのだろうか。あの時は自分の気持ちを伝えらえず後悔したが、結局昨晩も自分から気持ちを伝えようとはしなかった。それだけではなく、明らかに冷静でない相手から当時の気持ちを聞いて舞い上がり、自分も同じ気持ちだと伝えた。まるで後出しじゃんけんだ。その不公平なじゃんけんに正々堂々と勝ったかのように、ご褒美として抵抗できない相手を自分のものにしてしまった。自分勝手さに嫌気がさす。俺が欲しかったのは好美の過去の気持ちではなく、今の気持ちのはずだった。
すべてあの日から始まっていたのだ。昨日の好美の言葉が本心なのかは分からないが、あの好美の引っ越しのときにすべて伝えていればこんな形ではなく好美と結ばれていたかもしれない。好美もあの日のことを俺と同じように後悔していた。あの日勇気を出していたのは、わざわざ俺に確認するために戻ってきた剛だけだった。
その日一日は何も手がつかない状態で、気分もよくなかったためずっと部屋で横になっていた。目が覚めたら夢でしたというオチを少なからず期待していたが、当然そうなることはない。翌日からは酔っていたことを言い訳にするとか、好美も同意の上だったとか、何とか自分を守る理由を考えてもいたが、そんなことは信じてもらえないだろう。素直に謝ろうかと考えもしたが、何と言っていいのかも分からなかったし、そんな勇気がなかった。結局自分勝手な人間なのだと改めて自覚することになり、自分はまだ出来た人間だと思っていたことに愚かさを感じずにはいられなかった。結局何もすることもできず、憂鬱なまま社会人はじめてのお盆休みを終えたのだった。
お盆休みが終わってからも好美とのことを気にかけてはいたが、好美からも連絡はなく、仕事に追われながら毎日は過ぎて行った。あの日の罪悪感が薄れつつあった頃に電話があった。携帯の画面に表示された名前を見たときに、何か嫌な予感がして無視してしまった。メールではなく電話というのが引っ掛かってしまったのは、どこか自分の中でやましい気持ちがあったからだろう。少なくとも、大学の頃ならこんなことはなかったのだから。自分からかけ直すか考えていると、再び携帯が鳴ったことにドキッとしながら、意を決して電話に出た。
『もしもし』
『もしもし、今大丈夫?』
『うん』
『あのさ、年末って空いていたりする?またみんなで集まろうかって話をしていて』
『みんなで?』
『うん、5人で飲めないかなって』
『うん、でもちょっとまだ予定が分かんないんだよな』
たいした予定などないくせに何故か行けない雰囲気を出してしまった。
『実はさ』
そう聞こえた声にはいつもの明るさはなく、何か大事なことを話したいのだろうと感じたが、その言葉を最後に数秒の沈黙があった。
『実は話しておきたいことがあるんだ。どうにかならないかな』
『うん、分かったよ。それよりみんな集まれるの?』
俺が一番気がかりである好美のことだけ聞くのも違和感を抱かれるかもしれないため、あえて『みんな』という言葉を選んだ。
お盆のときに飲んでいるときから健と潤は正月にも集まろうと言って楽しみにしていたので、この二人は来ることは分かりきっていた。
『うん、健と潤はどうせ暇だって』想定内の答えだけが返ってきた。
『みんな』という中に何故か好美は含まれていない。あたかも好美は当然来ることができると分かっているかのようだった。
『好美も来るしさ』
俺より先に好美に確認したのだろうか。それにしても具体的な日にちが決まっていない中で、来ると言い切れるのはどうしてなのだろうか。一瞬のうちにいろんなことが頭をよぎったが結局結論がでることはなく、自分が深読みしすぎなのだと言い聞かせた。
『じゃ、日が決まったら連絡してくれる?』
『うん、そうするよ』俺が行けそうだということで安心したのか少し声に明るさが戻っていた。
電話を切ろうかとしたときに咄嗟に疑問に思っていたことが声に出てしまっていた。
『でもどうしてわざわざ電話してきたんだ?』
相手にとって何か嫌な質問をしてしまったような気がした。
『どうしても・・・。どうしても稜には来てほしくてさ。メールで断られたらどうにもならなさそうだったし、電話だったら説得でもして来てくれるようになるかなと思って』
『そっか、分かった。じゃあな』
『うん、バイバイ。また日が決まったら電話する』
また電話をするということは、断られるのを避けるためだろう。そもそも何故俺がみんなに会うことを渋るという前提で電話をしてきたのだろうか。思い当たる節がないわけではなかったのが、その嫌な予感があたっているのなら、どうしてそれを知っているのだろうかということが怖くなり、それを聞くことは自分にとっても勇気のいることだった。
勇気のない俺には当然聞くことはできず何も言わずに電話を切った。話し方からして何か重要なことなのだろうか。どうしても来てほしいようだ。
間違いなく好美も来るのだろう。俺がこんな風に悩んでいることを電話口で知っていたのだろうか。
再び電話がかかってきたのは、あれから2週間ほど経った12月の初めだった。
『年末なんだけど、29日でもいいかな?』
『うん、特に予定は入れてないから大丈夫』
『ありがとう。場所なんだけど、今回もこっちでいい?』
『うん、いつも通りまかせるよ』
『じゃ、駅に着いたら連絡してくれないかな』
『前と同じ場所じゃないんだ?』
『みんなで飲みたい場所があるから、迎えに行くよ』
何か考えがあるようだ。
『よろしくな』そう言って望みを叶えることにした。
当日は初雪が散らつく肌寒い日で、マフラーにコートを慌ててタンスから引っ張り出して、師走の忙しさを感じながら、電車に乗った。みんなはあの日の出来事を知らない。一体どんな顔をして好美に会えばいいのだろうか。一夜の過ちとして、何もなかったかのように前の関係に戻れることをどこかで願っているのだが、そんな夢のようなことは起こらないのだろう。
太陽が沈んだ駅の改札を抜けると懐かしい顔が出迎えてくれた。
『久しぶり。今日はありがとう』
『どこかただならぬ感じだったからな』
『詳しいことは後で話すから車に乗って』そう言って連れて行かれたのは一軒家だった。
『今ここに住んでいるんだ』
『確かしばらく貸していたんだったっけ?返してもらったんだ?』
ガレージに車を止めようとしている横顔を見ながらそういえば学生の頃に家を貸してアパートに住んでいるという話をしていたのを思い出した。ガレージにはすでに一台の車があった。シルバーの普通車は新車のようにピカピカとしている。
『色々あってな』
そんな話をしながら車を降りると家の扉が開き、中から健と潤が顔を出した。先にきた二人がいつものように泊まっていくつもりで乗ってきたのだろう。
『久しぶり。早くこいよ、始めようぜ』
二人に急かされるように家に入ると、後ろに立っていた好美と目が合った。特に言葉を交わすことなく会釈だけして、人の家で子どものようにはしゃぐ健に連れられてリビングに行くと、懐かしいものが準備されていた。
『待っていたんだぜ。腹減ったし早く焼こう』
こたつの上にはあの時以来となるたこ焼きの準備がされている。他のみんなもやってきてあの時のように4人はこたつの定位置につき、一人は後ろのソファーに座った。健や潤もこの家に来たのは初めてのようだ。
『今日は集まってくれてありがとう。やっぱりみんなとはたこパかなって思って。忘年会始めますか?』
ソファーから聞こえる声に『イェーィ』とノリノリのテンションで答える健と潤。この二人はまったく変わっていないようだった。すでに材料も準備されていて、みんなで焼き始めた。机には酒やつまみも用意されていて、後はたこ焼きが焼きあがるのを待つだけだった。
たこ焼きが焼きあがってきたころに健がふたを開けたビールを回してくれて、それぞれが飲み物を手にしたとき、
『一年間お疲れ様でした。これからも宜しくお願いします、乾杯』
ソファーからいつもより丁寧な音頭で始まった。
あのときと変わらない光景のように思えたが、いつもと違うことに気付いた。
『好美は飲まないんだ?』
潤も同じことに気付いたようだ。
『うん、私はいいや』少し俯きながら答える好美に『酒で何かやらかしたな?』ニヤリとしながら冷やかす健の声に思わず俺はドキッとして好美を見てしまった。
『そんなんじゃないよ。いろいろあって禁酒中なの』
訳ありげに話す好美だったが、それはいつもの好美のように思えた。
『何なんだよ、気になるな』
『いいじゃん別に。しつこいと彼女に嫌われるよ。ねぇ、稜君?』
予想にもしていなかった好美のフリに言葉が詰まってしまったが、咄嗟に『そうだぞ』と一言だけ返した。すると健は黙り込んでしまい、その姿を見た潤が『あーぁ、言っちゃった。こいつ振られたんだってさ』満面の笑みで答えた。
『もう吹っ切れたからいいんだけど、何でそんなにうれしそうなんだよ』
怒りながら潤を睨む健。
『なんで別れたんだよ?』
『その話はいいだろ』
健は後ろのソファーに振り返りながら勘弁してくれと手を合わせていた。それから健の話題で盛り上がった。
だが俺はまだこの雰囲気に乗り切れていなかった。好美になんて話しかけたらいいかずっと悩んでいたが、まさか好美から話しかけられるとは思わなかったので、逆に好美のことを余計に気にかけてしまったのだ。避けられるのも仕方がないと覚悟もしていた。だが好美はそれからもいつもの笑顔であの頃と同じように接してくれた。好美の心境を疑いながらもこの慣れ親しんだ雰囲気の居心地のよさが、徐々に俺の硬さを取り除き、いつのまにかあの日のことはなかったかのようにみんなと酒を飲んで盛り上がっていた。
『稜は泊まってく?』
『いや、明日朝からちょっとあってさ。終電でもいいからそのうち帰るよ』
『そっか、俺達は泊まっていくんだから稜も泊まればいいのに』
俺はどうやって駅まで帰るか考える必要があった。みんな酒を飲んでいるし送ってもらうことは当然できない。
『送っていくから大丈夫だよ』後ろから会話に入ってきた。
『でもみんな酒飲んでいるし』
『大丈夫、ちゃんと送るから』
ソファーに座ってそのように言うと手招きした。手招きされた人物がゆっくりと立ち上がり、ソファーに座ったのを見て嫌な予感だけがした。
『みんなに集まってもらったのは、報告したいことがあるからなんだ』
どこか神妙な面持ちだ。
『実は、俺達もうすぐ結婚するんだ』
あまりに突然のことにこたつに入っている3人で顔を見合わせた。
『ごめん、驚かせちゃったな』
まだ状況が把握しきれてない段階で『いや謝ることじゃないだろう。おめでとう』と笑顔で言った潤はさすがだと思った。
『おめでとう』潤に続いて笑顔で言ったのだが、自分でもあきらかにうまく笑えていないことが分かった。
健も落ち着いて、さっきされていたことの仕返しのように質問した。
『全然気付かなかったよ。いつからなんだ?』
『夏にみんなで会った後ぐらいからかな』俺はドキッとした。
『でもあまりにも急だな』
確かに俺達はまだ大学を卒業し働き始めて1年目。それにあの日の後からだとすると、付き合って4ヶ月なのだから大学からの親友だとしても結婚を決意するには少し早いような気がした。
好美はずっと俯いたままだったが、手でお腹をさすったのを見た瞬間何もかもが分かった。
『だから酒を飲まなかったのか』潤も気付いたようだ。
『うん』好美はそう言って小さく頷いた。
『どういうこと?』状況を理解していないのは健だけだった。
『子どもができたんだ』好美の横から声がした。
俺は小刻みに頷きながら、すべてを理解した。わざわざ電話にしてきたのもこのためだったのか。
『だからみんなを集めたんだ?』そう言って二人を見た。
『ごめんな、こんなことで集まってもらって。でも直接言いたかったんだ』
『謝ることじゃないだろう。おめでとう』
今度はうまく笑えただろうか。口から発した言葉と俺の気持ちは一致しているのか自分でも分からない。ただ人として、自分に嘘をついてでも今はそう言わないといけないと言い聞かせた。その後みんなが話していた内容はまるで頭に入っていない。適当に相槌を打ちながら、うわの空だった。
ただはっきりと目に焼き付いているのは、ソファーに仲良く座って、健と潤の冷やかしに照れて見つめ合っている二人の姿である。親友の幸せを素直に喜べない自分が嫌になって仕方ない。しばらくこの和やかな雰囲気にイマイチ乗り切れていなかったとき、トイレへと席を立った。一人の空間で心を落ち着かせ、いつも通りでいようと心掛けて戻ったときには、健と潤の姿がなかった。
『酒が少なくなったから買い出しに行ってくるってさ』
健のこたつの定位置に座りながら説明してくれた。好美はキッチンで後片付けをしている。
『まだ飲める?』
『あぁ』
そう言うと残っていた二つの缶ビールの蓋を開けて、一つを渡してくれた。
俺はそのビールを持ち上げて、『おめでとう』と言いながらビールを差し出した。
『ありがとう』照れ笑いを浮かべながらビールをぶつける。
『カーン』という音が響いた。
『なんか懐かしい音だね』こたつの上のホットプレートを片付けにきた好美だった。
『お前は向こうに行ってろって。やっと稜と二人で飲めるんだから』
『はい、はい』
もうすっかり新婚のような二人のやり取りに思えた。
『どうしても来てほしいって、こういうことだったんだな。だからわざわざ電話してきたのか』
『うん、稜にはちゃんと話しておきたかったからさ』
『でもそうならそうと言ってくれたらよかったのに』
『いや、直接話しておきたかったんだ。特に稜にはな』声のトーンが少し低くなった。
『あの日のこと覚えているか』俺の目をまっすぐ見ながら尋ねてきた。
『・・・あぁ、覚えているさ』
あの日というのはきっとあの日のことだろう。本心を伝えていればと後悔したあの日。だから忘れることはなかった。
『あの日は何か悪かったな、いきなり変なこと聞いて。それに前の日には俺の気持ちを稜に言っちゃっていたし。俺、ズルかったのかな。あの日からギクシャクしているような気がしてさ』
あの日ことを後悔しているのは俺だけだと思っていた。だがそれは違った。俺の目を見る剛の目がそう語っている。そうだ、剛もずっと後悔していたのだ。
剛はあの日勇気をもって聞いたに違いない。そしてその前夜、勇気をもって本心を言ったに違いない。だが俺はその勇気を無駄にした。俺は何故か本心を隠して、嘘をついてしまった。剛はきっと俺の本心を俺の口から聞きたかったのだろう。
でもそれは叶うことはなかった。それで剛も後悔していたのかもしれない。俺の本心を知ることができなかったのだから、いや知っていて聞いたはずなのに俺がその思いに応えなかったのだから。俺たちの関係はそんなことでは崩れることはないと剛も思っていただろうに、俺が剛に遠慮したように思えたのかもしれない。剛は自分が俺に気を遣わせてしまったと思っているようだった。
『いや、そんなことはないさ。ただ自分でも自分の気持ちに自信がなかったのかもしれない。剛に言えるほど本気の気持ちだったのかどうか、それだけのことだったのだと思う』
あの日から確かに俺達には大学の頃にはなかった、距離が少しあったようにも思うが、それは距離をとっていたのではなく、ただ単に会うことがなかったから。毎日のように会っていたのが、大学を卒業して働き始めたらそんな簡単に会うことはできない。そして久々に会ったのがあの日から半年後のお盆だっただけで、距離を取っていたということではない。
確かにあの日はあまり剛とは話していなかったかもしれないが、それは久々という恥ずかしさがあったからで、別に避けていたわけではない。でも剛にとってはあの日の後ろめたさがそう思わせたのだろう。
『夏にみんなで飲んだ翌日に好美に言ったんだ、俺の気持ちを。好美は動揺していた感じだったけど、それからも何度か会って付き合うことになってしばらくしたとき、子どもができたみたいって好美に言われて。一応気を付けてはいたんだけど、すべてを受け入れる覚悟をして結婚することにしたんだ』
このときはあまり深く考えず、二人が結婚するまでの経緯を聞いていた。
『結婚式とかは?』
『お互い親類がいるわけじゃないしさ。好美には悪いけど今は特に予定はしてないんだ』
『俺達3人だったらいつでも集まれるから、また5人でいつもの感じでよかったらやろうか?大したことはできないかもしれないけど、健と潤も集まりたいだろうし』
『ありがとう』
そして二人で笑った。大学の頃に戻ったような感じだった。
『ピンポーン』インターホンが鳴ったので好美がドアを開けにいった。二人が帰ってきたようだ。
『噂をすればだな』『確かに』そう話していると『どんな噂をしていたんだよ』と大きな袋をもった健が後ろに立って言ってきた。
『どうせ健の悪口だよ』隣の潤が健に向かって言った。
『なんだよそれ、というか前にもこんなやり取りがあったような気がするな』
『確かにあったよね』戻ってきた好美が笑いながら言った。
それからもう一度みんなで飲み直して、そろそろ終電の時間になろうとしていた。
『稜、時間大丈夫か?』潤が気にかけてくれたので『そろそろかな』と時計を確認して立ち上がった。すると好美も立ち上がり『駅まで送っていくよ』と言ってくれた。『よろしくな』剛が好美に声を掛けた。
初めからこうするつもりだったようだ。ガレージに止まっていたきれいな車は好美のものだったようで、好美は車を家の前に回してくれた。
『また集まろうな』俺は3人に見送られながら助手席に乗って、好美は車をゆっくりと発進させた。
駅までは車で10分ほどだが、好美と二人きりの空間というのが妙な緊張感をつくりだしていた。このまま無言でいるのも気まずいが、なんて話しかけても分からない。みんなと一緒にいたついさっきまで忘れていたが、今日ここに来て好美が笑顔で話しかけてくれるまで俺はただただ不安だったことを思い出した。お盆のあの日の出来事が好美の中でどのように消化されたのだろうか。
『あの日のこと覚えている?』無言を断ち切ったのは好美だった。しかもあの日のことに触れてくるとは思ってもおらず、緊張のせいか掌がジワっと汗で濡れた。
『うん』前を見ながら小さく頷いた。
『後悔している?』
好美の顔を見ることができないので、どんな表情をしているのかは分からないが、ゆっくりで丁寧な口調はいつもと変わりはないようだ。後悔しているのかというこの質問は重くのしかかった。
後悔していることに間違いはないが、そう答えることは好美に失礼なのではないかとも考えた。しばらく考えた後に出した答えは自分の素直な気持ちだった。
『ごめん、後悔している。好美の気持ちも確認せずにあんなことをしてしまって。自分勝手だったってずっと後悔していた。次会う時はどんな顔をして会ったらいいのかも分からなかったし。だから剛から連絡が来た時も、正直行っていいのかどうなのかって思ったけど、電話でどうしてもってことだったから今日は来たんだ』
『あの日のことそんなに考えてくれていたんだ』
『今日も会うまでドキドキしていた。でも今日会ったときはいつものように接してくれたよな』俺は正直な気持ちを伝えた。
『正直に言うね』好美は前置きをした後言葉を続ける。
『私もあの日のことは後悔している。だからあの日のことは私の中で忘れることにしたの、無かったことにしたの。ごめんね。だから稜君との関係もこれまでと何も変わらない、大切な友達。それ以上でもそれ以下でもないの』
これが好美の出した結論のようだ。好美の中ではもうあの日は過去の一夜の過ちでもなく、何も無かったことになっている。それは剛と結婚するためにも必要なことなのだろう。彼女の気持ちを聞いて俺もそうすることがいいのだと思った。あの日は何もなかったのだと自分に言い聞かせた。
『そうだな、その方がいい。剛と結婚して幸せになるんだし、おめでとう』
好美の方を向いて伝えた。
『ありがとう、幸せになれるかな?』照れて笑っているようだ。
『大丈夫だよ。剛は明るくていい奴だから。あいつの周りには自然と人が集まってくるし。俺もその一人で、そのおかげで俺にも大切な友達ができた。健や潤、そして好美も。正直そんな剛が羨ましくもあったけど、剛が友達で本当に良かったって思っている。だから大丈夫、剛なら大丈夫。俺が保証する』これは俺の本当の気持ちだ。
人としてとか、雰囲気で言ったとかではなく、これは俺が大学の頃から剛に抱いていた気持ちだった。
『うん、ありがとう』
会話が終わった頃にちょうど駅が見えてきた。
『今日はありがとう。早く帰らないと健が部屋をぐちゃぐちゃにしているかもよ。俺の部屋がそうだったから。片付けるのも大変なんだよな』
『稜君が言うと説得力があるね』
『経験者だからな』そんな冗談も言えるような関係に戻れていた。
『こんな遅い時間に送ってくれてありがとう。剛にもありがとうって伝えといて、ついでに健と潤にも』
『ううん、こっちこそ遠いのにわざわざ来てくれてありがとう』
『友達と会えるんだから、行くに決まっているさ。またみんなで集まろうな』
そう言いながら車を降りた。
『また集まろうね、バイバイ』好美は助手席の窓を開けて手を振りながら言ってくれた。
『バイバイ。帰り、気を付けてな』そう言って手を振り好美が帰っていくのを見送った。
『ふーっ』少し息を吐いて駅の改札口に向かった。
肩の荷が少し降りたような気がした。自分の中であの日のことについて思い悩む必要はもうない。あの日は何もなかったのだから。
最終電車が来るまでの間、ホームの椅子に座り好美に対する感情を無くすように努めていた。好美は剛と結婚し幸せになる。そこに俺の存在は邪魔なだけだ。そしてお似合いな二人を見て、自分の中でひとつの恋に踏ん切りがついた。心から友達の幸せを願えるようにならなければと思いながら電車に乗った。
それから数日後、一人で新年を迎えた。みんなとは新年の挨拶メールをして、次にいつ会えるかなどと盛り上がった。次の休みと言えばGWになるが、その頃は剛も好美も出産の準備で忙しいだろう。次会うとするならば、無事出産が終わった後になるのかと一人で思いながら、みんなと会えるのを楽しみに今年一年仕事を頑張ろうと誓った。
それから6ヵ月が経った6月下旬に携帯が鳴った。久しぶりに剛からの電話だった。どんな電話なのか検討はとっくについていたというよりも、ここ数日はこの電話を待っていたと言っても過言じゃない。
『もしもし?』
『稜?久しぶり、さっき無事に生まれたんだ』
久しぶりに聞いた剛の声は息が上がっていて、生命の誕生の喜びが声だけで十分伝わってきた。
『おめでとう。ずっと連絡が来るのを待っていたよ。好美も大丈夫か?』
『ありがとう。好美も痛かったって言っているけど、大丈夫そう』
『よかったな、好美にもおめでとうって伝えておいて』
『ありがとう、好美も喜ぶよ』
健や潤にはこれから電話するとのことでこのときは簡単なお祝いの言葉を伝えるだけで終わった。健から電話がかかってきたのはそれから10分後ぐらいのことだった。剛から電話があって潤を含めた3人でお祝いをしようということだった。
健は3人の中で、連絡がきたのが最後だったことが悔しかったという愚痴を少し言いながらも、いつにするのか、どんなことをするのか楽しみに話していた。二人の都合と好美の体調も確認しながら日にちを決めることにして、俺はいつでも大丈夫だと伝えた。
健から連絡があったのは2週間経ってからだった。今週末に剛の家でお祝いをしようということで、二つ返事で了承した。好美は出産後、一週間ほどで退院して剛と二人で初めての子育てに奮闘しているとのこと。
当日、駅に着いた俺を健と潤が車で迎えに来てくれた。3人で出産祝いを買ってから剛の家に向かった。剛と好美は俺達からのプレゼントを喜んで受け取ってくれて、生まれて一ヵ月もならない子どもを見せてくれた。手足が小さく自分で動くこともできないこの子の笑顔につい見とれ、健と剛と一緒にずっと囲んでしまうほどだった。子どものことをよく天使と表現するが、まさにこのことかと実感していた。
『自分の人生をしっかり考えて生きてほしいって感じかな』
好美の腕で抱かれている息子の名前について剛は説明してくれた。生まれてくるまで、男の子か女の子なのかはあえて聞いていなかったようで、いろいろ名前の候補も考えていたようだったらしいが、生まれてくる子どもが人生を大切にしてほしいと、二人で相談してあらかじめ決めていたらしい。
それからも正月やGW、お盆と集まれるときは剛の家に集まって飲むことに加え、二人の子どもの成長を見るのも楽しみになっていた。
泣くことしかできなかった子どもがハイハイするようになり、つかまり立ちするようになったかと思えば歩くようになり、そしていつのまにか走り回るようになっていた。まるで我が子の成長を見ているかのように、二人の子どもを見守っていた。
そしてあれは4年の月日が流れたお盆に集まったときのこと。
二人の子どもは4歳になっており、初めの頃は人見知りをしてよく泣かれていたが、何回か家に行っているうちに俺達の顔も少しずつ覚えてくれているようで、一緒に遊ぶようになっていた。俺達3人は相変わらずで結婚する予定のものはいない。こうして子どもと遊ぶことは新鮮で喜ばせようとおもちゃを買ってきては甘やかすなと二人に注意をうける大人達だった。
そして事件が起きたのは屋外のアスレチックにみんなで出かけた時だった。長い滑り台や大きなジャングルジムに高さのあるターザンロープ。子どもと一緒にアラサ-の俺達も子どもに戻ったかのように遊んでいた。
『子どもは元気だな』
一通りの遊具で遊び疲れた健が3つあるブランコの真ん中に乗っている二人の子の背中を押しながらつぶやいた。
『落ちないようにちゃんと見とけよ』横のブランコに乗っている潤が健に注意を促した。
『大丈夫、そんなヘマしないよ。でも子どもっていいよな。二人が羨ましいよ。ブランコでこんな笑顔になるんだぜ』
『本当かわいいよな』俺もブランコを漕ぎながら健に同調した。
よく晴れた青空のもと芝生にレジャーシートを広げみんなで買ってきた弁当を食べようと剛と好美が呼びにくると、『パパ、ママ』と言って二人に駆け寄る姿が微笑ましかった。
6人で歩いていると不意にその子が俺の足もとに抱きついてきたので、そっと抱っこしてあげた。
『稜は気に入られているよな』健が横目で羨ましそうに見ながら続けた。
『でもどことなく似ているところがあるような気がするんだよな。だから稜がお気に入りなのかな?』
『稜は子どもの世話が俺らより慣れているからな。施設で小さい子の面倒も見ていたんだら。変な嫉妬するなよ』
この二人のやり取りをみんなで聞いていたが、どことなく空気が変わったような気がしたのは気のせいだったのだろうか。
みんなで昼食を終えて片づけをしていると、一人いないことに気付いた。
『一人で遊びに行ったのかな』少し目を離した隙に一人で遊具に遊びに行ったのかと子どもを心配している剛と好美。
片付けもそこそこにみんなで手分けして探そうとしたとき、子どもの大きな叫び声が聞こえてきた。慌てて声のもとに駆け寄るとそこには血まみれの子どもが倒れていた。紛れもなく二人の子だった。剛と好美は二人で抱きかかえたが、出血の量も多く意識もない状態だった。
二人も気が動転している様子で血の気が引いている。すかさず潤が救急車を呼んで、状況を説明して応急処置の仕方も聞き俺達に伝える。二人からその子を引き取り俺と健は潤の指示に従い、止血をしながら救急車の到着を待った。剛と好美も励まして5人でその子の名前を呼び続けていると救急車がサイレンを鳴らして入ってきた。俺はその子を抱きかかえたまま救急車に向かって走り、降りてきた救急隊員に状況を説明し、そのまま救急車に乗り込んだ。剛と好美も救急車に乗り、健と潤は剛の車を運転して病院に向かうことになった。
救急隊員の処置を見ながら俺達はただただ手を合わせて祈ることしかできなかった。
『お父さん、お母さん。気をしっかりしてください。この子の名前と年齢を教えてください』
隊員の呼びかけに小さな声で答えていた。
『4歳ですか、血液型の検査も特にされていませんか』との問いかけに『はい』と頷いた二人。俺が驚いたような顔をしていたので隊員の方が説明してくれた。
『子どもの正確な血液型は4歳頃にならないと分からないんです。昔だと生まれたばかりの赤ちゃんから血液を採取して血液型の検査をしていましが、それが正確ではない場合もあるんです。そのため、大人になって病院で検査したときの血液型が親から聞いた血液型と違うということもよくあります』
てっきり俺は生まれたときに血液型の検査もするものだと思っていたのだが、最近ではそうではないらしい。
『輸血が必要になるんだったら、俺の血を使ってください』
剛が心配して隊員の方に言っている。
『まずはお子さんの血液型の検査からです』隊員の方が説明すると『俺はO型だからどの血液型でも輸血できるはずです』涙ながらの剛の姿から必死の気持ちが伝わってきたのに加え、一つの違和感を抱き始めていた。
『確かにそうですが、基本は同じ血液型の血を使います。それに今説明したようにご両親の血液型も合っているとは限りませんし。仮に一致していたとしても血縁関係者間では輸血に使うことはしないんです』
俺は詳しいことは知らないが、専門の方が言うのだから間違いないのだろう。
『それだったら大丈夫です。その子の血液型を調べてください。そして使えるんだったら俺の血を使ってください』
『お父さん、落ち着いてください。出血はありますがお子さんの傷は浅いです。輸血も十分ありますし、大事には至らないはずです』
隊員の方は剛を諭すようにゆっくり話していた。
好美は涙を浮かべながら剛の手を握っている。剛も大事に至らないという言葉を聞いて落ち着きを取り戻したようだった。近くの病院に搬送され、あとは治療室で処置をすると説明を受けた。俺達3人は待合室で無言で待っていると、潤と健が心配そうに駆けつけてきたので、二人に大事に至ることはないようだと説明すると安堵の表情を浮かべた。
すると処置が終わったようで治療室から主治医の方が出てきた。どうやらジャングルジムに一人で遊んでいる際に誤って転落し、運悪く下に落ちていたガラスの破片で手首を切ってしまったようだ。出血は多かったが幸い傷は浅く大事には至らないようで、傷跡は残るだろうがしばらく入院して様子だけ見て、すぐに退院できるとのこと。
続いてベッドに寝た状態で出てきた我が子を見た瞬間、二人は込み上げてくるものを我慢できずに声を殺しながら、頭を撫でていた。
その日俺達はタクシーで帰ることにし、目を離してしまった後悔のため口数の少ない車中となった。それと同時に俺には気になって仕方ないことがあった。剛はただただ動揺していただけだったのか、それとも・・・。
何も無かったことにしていたはずのあの日が、事実として今蘇ろうとしていた。
それから1週間後、剛からメールがあった。無事退院できる見通しがたったとのことで、迷惑かけて悪かったという内容だった。俺達3人も謝ることしかできなかった。そんな中、健が退院祝いをさせてくれないかと提案した。そんな気遣いを剛も悪いと思っただろうが、怪我させたことを謝りたいという健の気持ちを察して、今週末に退院祝いをすることになった。
3人で剛の家を訪れると、3人で出迎えてくれた。子どもは手首に包帯を巻いてはいたが、変わらず元気に走り回っていた。俺達が買ってきた退院祝いのプレゼントも喜んでくれた。ただどことなく重い雰囲気を感じ取った。それは自分たちの子どもを大きな怪我にあわせてしまったことに対する後悔からなのか、それとももっと別のものなのか。その時はまだ分からなかった。
その日はみんなで遊園地に出かけることにしていて、剛の車で出発した。遊園地は少し山を登ったところにあり、道中右手に海が見え始めたときには車の中で歓声が上がった。しばらくはそのきれいな景色を見ながらのドライブとなった。そして途中のスーパーでお菓子や飲み物を買い出しに寄った時のことだった。
俺達3人は車から降り店に向かって歩き始め、好美は子どもをチャイルドシートから降ろしていた。運転席の剛は疲れたのか降りずにボーっと考え事をしながら携帯をいじっているようだった。
チャイルドシートにしばらく座っていたのが窮屈だったのか、車から降りると駐車場を走り回ろうとするのを好美が注意すると、その子は俺の方に寄ってきて両手を挙げた。万歳のポーズで抱っこをねだるその子を俺は何も考えずに抱きかかえてしまった。好美の携帯が鳴ったのはそれから数十秒後のことだった。
好美は携帯を見ると驚いたようにしばらく携帯に見入っていた。その後、好美は顔を両手で覆いだし俺達が歩いてきた先をずっと見つめていた。その際好美は携帯を落としたので、俺は子どもを抱っこしたままその携帯を拾い上げると、携帯はメールの画面だった。見るつもりはなかったが、自然と剛が好美に宛てたメールが目に飛び込んできた。
俺はハッとして好美が見つめる先を見たが車はすでに動き出していた。抱いていた子ども好美に預け車に向かって走り出した。運転席の剛は目元を服の袖で拭いているようで、込み上げてくるものを我慢しているようだった。今の剛は完全に気が動転している。車を停車させてちゃんと話をしないといけないと思い、全力で走り寄った。
剛はその状態で信号のないT字路に向かっている。T字路の先は行き止まり。ガードレールによって海に落ちないように守られているが、ガードレールの数メートル先は海に面している断崖絶壁。ただただ嫌な予感がした。剛はそのT字路を曲がりもせずに、そのまま突っ込んでしまうのではないかと。
メールの文面からすると冷静な判断はできないほどの心境だろう。忘れていた、いや、何も無かったことにしていたはずのあの日が確実にあったこととして再び現れ、救急車の中で抱いた違和感の正体がすべてはあの日から始まっていたのだと後悔した。
俺はT字路にさしかかろうとする剛の車の前に『剛』と叫びながら無我夢中で飛び出して両手を広げた。
その一瞬、剛と目が合った。剛は我に返ったのか急ブレーキを踏み、俺を守るようにハンドルを大きく右に切った。俺は目の前に迫る車に対して逃げ遅れ、足を轢かれてしまった。それと同時に大きなクラッシュ音が響き渡った。剛は急に飛び出してきた俺を必死に避けようとして、横にある電柱に衝突していた。フロントガラスは割れ、エアバックは作動していたが、歪んだ車の中に見えたのは出血している剛だった。
俺は足を引きずりながら必死に駆け寄り、何度も名前を呼び続けた。何とか救出しようとするが、足が痛く体が言うことをきかない。健と潤も急いで駆け付けてくれ、俺は運転席の窓から腕を伸ばし剛のことを引きずりだそうとしたが一人の力でどうにかなるようなものではなかった。
『剛、何やっているんだよ。早く手をつかんで出てこいよ』泣きながら俺は叫んでいた。
『お前に謝らないといけないことが俺にはあるんだよ。今度は全部話すから。嘘もつかずにちゃんと話すから聞いてくれよ。殴られてもいい、絶交されてもいい。だから早く出てきてくれ。生きて出てこいよ、早く』涙が止まらなかった。
『生きて出てきてくれ。もう一度話をさせてくれ』という言葉を数分間何度も繰り返した。
気が付けばあたりにはパトカー、救急車、消防車が到着しており、2人の救助隊の人に俺は体を抑えられ車から離れるように引っ張られながらも離れまいと抵抗した。
すると伸ばしていた手の先にぬくもりを感じた。
『ごめんな、こんな形で降ろすことになって。ずっと重たかったんだ。稜は悪くない。だからお前まで背負わないでくれよ』とか弱い声が聞こえた。
一体何のことを言っているのか分からなかったが『剛、頑張れ。もうすぐで助かるから』と励ます俺に対して『ごめんな、そしてありがとうな』それが剛の最期の声になるとは知る由もなかった。
握っていた手も離したようで、俺の手から剛のぬくもりが消えた。すると俺の掌に何かを置き、ギュッと握らせた。俺は救助隊員の人に抱きかかえられるように車から引き離された。
それからのことはほとんど記憶になかった。救急隊員に治療してもらい、救急車に乗せられたのを最後に次に目を覚ましたのは病院のベッドだった。左足には包帯が巻かれ吊るされている。俺は一体どれだけ眠っていたのだろうか。そして剛はどうなったのだろうか。
様子を見に来た看護婦さんが目を覚ましたのに気付き、主治医の先生を呼びに行った。先に看護婦さんだけが戻ってきて、先生からの説明があると説明してくれた。看護婦さんは思い出したように、ベッド横の机の中からあるものを取り出した。
『あの、これ。ずっと握っていらしたようです』そう言って俺の手にそっと乗せてくれた。これがあの時、剛が俺に託したもの。それは変わった形のペンダントだった。ペンダントを開けてみると、仲睦まじい家族3人の写真。それを見た途端涙が溢れてきた。
先生が来たので、涙を拭ってペンダントを大事に引き出しに戻した。先生の問診にも普通に答えることができ、意識はしっかりしているのは自分でも分かった。脳とかには異常はなく、重症なのは足の怪我だけとのことだったが、先生のせっかくの丁寧な説明も頭には入っていなかった。俺が知りたいのはそんなことではなかった。剛のことだけが気になって仕方がなかった。
その様子を見ていたのか、病室の入り口から二人の男性が入ってきた。
『先生どうですか?』
『意識ははっきりしているようです』
『そうですか』そう言って、入ってきた二人は俺の方を見た。
『警察の者です。少し確認させてください』
『剛は、剛はどうなりましたか?』質問されるよりも前に、自分から質問していた。
二人は顔を見合わせて、現実を教えてくれた。最悪の結末だけにはなっていてほしくないという俺の願いは、はかなくも打ち砕かれた。込み上げてくるものを我慢することができなかった。しばらく両手で顔を覆い、人目をはばからずに涙した。
すると警官が本題を聞いてきた。
『あの時何があったのか話していただきたいのですが。目撃者の方は何人かいるのですが、実は色々と話が食い違う点がありまして』
もう一人の警官が続けた。
『運転手の様子がおかしくスピードも出ていたという証言もあります。ブレーキ痕はありましたので、運転手は車を停車させようとしていたはずです。運転手はあなたが通行するのを見落として急ブレーキを踏んだが間に合わずにハンドルを切ったのか。私達にあるのはあくまで目撃者の証言と、現場での検証結果だけで、単なる前方不注意による事故なのかははっきりと分かりません』
俺の鼓動は早くなった。淡々と話す警官が何を確認したかったのかを理解した。
このままでは剛が悪者になってしまうかもしれない。そうすれば好美やあの子までもが。俺は目を閉じてどうするべきなのかを考えた。これは全部あの日から始まった。剛の勇気に俺も勇気を出して応えていれば。そしてあの日、理性を抑え好美と接していれば。
やはり起きた現実を無かったことにはできなかったのだ。数年間忘れることはできたとしても、頭の中では無かったことにできたとしても、それが過去に確実にあったこととして残っている。新しく生まれた生命として。確実にあったことを証明するのがあの子なのだ。
『ただ、あなたが急に車の前に飛び出したと言う人もいるのも事実です。運転手の方に話を聞くことはもうできません。もう当事者はあなたしかいないのです。真実を知っているのはあなただけなのです』
複数の目撃者がいたことが救いだった。このように証言してくれた人がいなければ俺は何と答えていただろうか。この警官の話を聞いて俺は覚悟を決めた。俺はしばらく黙りこみ一瞬で頭の中に一つのストーリーを作り上げた。
『俺は自殺しようとしました』
二人の警官に部屋に残っていた主治医の先生と看護婦さんも驚いた表情だった。
『俺は車に飛び込んで、自殺しようとしたんです。それが紛れもない真実です』
二人の警官には思いもしない発言だったのだろう。
『あなたのご友人はあなたが飛び出したのにはきっと何か理由があるはずだとおっしゃられていましたが』健と潤がそのように言ってくれたのだろう。
警官は俺の発言の真偽を確かめようとした。
『ええ、ちゃんとした理由はあります。彼が俺の好きだった人と結婚して幸せそうだったのが羨ましかった。その幸せそうな顔を見ているのが辛かった。だから彼に轢かれて死んでしまおうと思いました』
自分でもなんて最低な人間なのだろうと話をしながら思った。だがこれが俺の作り上げたストーリー。こうすることでしか俺の犯した罪は償えないと思った。さっきまで涙していた男が急に淡々と酷いことを言いだしたのだからさすがの警官も疑いの目で俺を見ている。
『目撃者がいるんですよね。彼は死のうとした俺を守ろうとして急ブレーキをかけハンドルを切って命を落とした。それだったら検証結果もおかしくないでしょう』俺は念を押した。俺の心情をくみ取ってくれという思いを込めて。
『当事者は、真実を知るのは俺しかいないんですよね。俺はなんて馬鹿なことを』
再び込み上げてくるものを我慢できなかった。これは演技なんかではなく本当に後悔の念からくるもの。『馬鹿なことを』この一言は5年前の自分自身にあてた言葉だった。これ以降警官が俺のもとに訪ねてくることはなかった。
俺の願いは叶ったようだ。病院内でも俺がどんなに最低な人間なのかの噂は広がっている。リハビリをしながら浴びる周囲の視線が気にもならなくなった。これが俺の覚悟だった。だが想像以上に辛いことでもあった。あの日のことが夢に出てくるようになったからだ。好美と関係を持った夜。そして剛が亡くなった日のことが。それは耐えられるものではなかった。いっそうのこと、このまま死んでしまいたいと思った。
そんなある日、お見舞いに来てくれた人がいた。病室の扉をノックして恐る恐る扉を開けた女性は子どもの手を引きながら入ってきた。すでに女性は目に涙を浮かべていた。
『ごめんなさい』そう言って泣き崩れてしまった母親の姿を見て、子どもは心配そうに手で涙を拭ってあげていた。
『ごめんな』俺はそう答えるしかなかった。こんな小さい子には何が起きているのかまだ分からないだろう。ただ俺が誰なのかは分かっているようだった。
『パパ、天国に行っちゃったんだ』
その言葉に俺も涙が止まらなかった。
男の子として母親に心配させないように我慢していたのだろうか、二人の大人が涙しているのを見て、その子も泣き出した。
自殺しようとして生き残った身勝手な人間と、その身勝手な自殺志願者の命を守ろうとして自らの命を落とした人の遺族。はたから見れば異様な光景だっただろう。その両者が涙を流して謝罪をしているのだから。
好美は一通の封筒を渡してくれた。俺はそれを受け取り、思い出したようにベッドの横にある机の引き出しから看護婦さんに渡されたものを好美に渡した。
『剛が最後に俺に残したもの』好美にそう言って渡すと、再び泣き崩れた。
看護婦さんが異常に思ったのか駆けつけ、これ以上言葉を交わすことなく好美とその子は部屋を出て行った。
数ヵ月の入院とリハビリの後、仕事も辞めた。リハビリによって杖もなく歩けるようにはなったが、完全にはよくならずに、時より引きずらないと歩けないときもある。生活をするには支障もない程度ではあるのだが。
何ともやりきれない後悔の念が背中に重くのしかかる。過去にとらわれながらも確実に1日が始まり、終わっていく。そうして日常が早々と過ぎていく。そして迎えた剛の一周忌。俺は何も考えずに剛の家に向かっていた。そこに行って何をするかなど考えがあったわけじゃない。ただただ会いたかった。会って謝りたかった。
車で向かう途中、近くのスーパーで供え物を買った。供え物にしては決して相応しいとは言えないかもしれないが、剛が好きな物と言えばこれしか思い浮かばなかった。
家の近くに行くと電柱の陰にこっそり隠れてしばらく様子を窺った。何の気配も感じなかったので実際に家の前まで来てみたが、家に誰がいるのかも分からないしインターホンを押すこともできない。それ以上どうすることもできなかった。
結局何もできずにそのまま帰ろうとするとドアの向こう側で話声が聞こえてきた。俺は咄嗟に電柱の陰に身を潜めた。家から出てきたのは見覚えのある顔。1年ぶりにみんなの顔を見た。だがそこでみんなに声を掛ける勇気はなかった。
特に潤と健には合わす顔がなかった。二人は俺のことをどのように思っているのだろうか。好美は子どもの手をしっかり握っている。その子は身長が少し伸びたようだ。好美は少し痩せただろうか。4人は車に乗ってどこかに向かったので、俺も急いで車に乗って後を追いかけた。
しばらく走っているとスーパーに入っていったので、俺も気付かれないように駐車場に車を止めて様子を窺った。車から降りたのは好美だけ。5分ぐらいすると彼女は2つの小さな花束を持っていた。両方の花束には1本ずつまっすぐ伸びた向日葵が一際目立っていた。
好美が車に乗ると、再び4人はどこかに向かったので、その後をついて行った。家から4、50分走ったぐらいだろうか、信号を左折すると目の前にはすごい上り坂が現れた。車でもしっかりとアクセルを踏み込まないといけないぐらいだ。
この坂を上りきったところの駐車場に車を止めているのが見えた。その近くにはお墓が並んでいる。みんなでお墓参りに来たようだ。俺は車から降りずにみんなが戻ってくるのを待っていた。しばらくして4人は戻ってきて、車に乗って帰っていったのを見届けてから俺は車を降りてお墓に向かった。
剛のお墓を見つけるのに時間はかからなかった。好美が供えた花の中にある2本の向日葵が目印となっているからだ。俺はお墓の前に座って、まだ煙の出ている線香の横に剛の好きだった缶ビールを供えた。そして手を合わせ剛に話しかけた。
『剛、本当にごめん。こうすることしかできなくて。俺は何も分かっていなかった。お前が全部知っていたことすら分かっていなかった。あの日、俺と好美に何があったのかすべって知っていたんだな。そして好美の妊娠が分かった時、すべてを背負い込む覚悟をしてくれたんだよな。好美が不安にならないように、たとえその子が剛の子どもでなかったとしても、自分の子どもとして育てる覚悟を。
でも怖かったよな、辛かったよな。たくさんの愛情を注いで育てているその子が、成長するにつれてどこか友達に似ているような気がするのは。我が子だと信じているその子が、その友達と仲良くしている姿を見るのはもう耐えられなかったんだよな。本当に、本当にごめん。そんな剛の気持ちも知らなくて』
合わせた手に額をつけ、涙ながらに謝った。『ごめん』という言葉を何度も繰り返し、しばらく立ち上がることができなった。
『また来るな』そう言って涙を拭きながら車に戻った。車に戻るとダッシュボードにしまっておいた封筒を取り出した。中にはところどころ涙で文字が滲んだ手紙が3枚入っている。それは俺の涙も含まれてはいるが、ほとんどは俺が読む前からすでについていた。
『きっと顔を見ると何も話せなくなると思ったので、話したかったことをすべて手紙に書きます。
稜君、剛君のことを庇ってくれてありがとう。そして私たち家族のことを守ってくれてありがとう。警察の人に話を聞いたとき、きっと稜君はすべてのことを理解したのだと分かりました。みんなには隠し続けてきた私と剛君の秘密に気付いてしまったのだろうと。だからすべてのことをここに記します。稜君にはすべてのことを知っておいてほしいから。
稜君と関係を持ったあの日の翌日、剛君から電話がありました。私はまだ稜君とのことで動揺していて、電話越しで様子を察したのか剛君は心配して部屋に駆けつけてくれました。優しく声を掛けてくれる剛君に、私は何も話さずにいたけど、剛君はずっとそばにいてくれた。そしたら涙が出てきて。そんな私を剛君は抱きしめてくれた。私は剛君の優しさに甘えちゃって、同じことを繰り返してしまった。それから剛君は私に謝ってばかりだった。どうして勢いであんなことをしてしまったのだろうって。稜君が車で話してくれた気持ちと同じだったのだと思う。でも当然私にも責任がある。それは稜君に対しても同じ。だから気にしなくていいと言ったのだけど剛君は自分の取った行動を後悔している様子だった。
そんな時でした、体調が少しおかしいと思ったのは。そしたらあの子が私のお腹にいたの。素直に嬉しかった。ただ同時に不安でもあった。この子をどうやって育てたらいいのかって。この子の父親は誰なのだろうって。気付いたら剛君に電話していた。赤ちゃんができたって。そしたら剛君はすぐに会いに来てくれて、結婚しようって言ってくれた。でも私には剛君に話していないことがあった。それを隠すことだけはどうしてもできなかった。どう思われてもいいから真実だけを伝えようと、稜君とのことを話しました。
それでも、結婚しようって、この子が誰の子どもであっても俺は父親になる覚悟があるって言ってくれたの。本当に嬉しかった。涙が止まらなかった。だから剛君は分かっていたの。生まれてくる子どもが自分の子どもじゃないかもしれないってことを。それを覚悟してこれまで一緒にいてくれたの。
そして結婚の報告を直接したいって言ったのも剛君。どうしても自分の口から稜君に言いたいんだって言っていた。剛君は稜君に対して何か後悔していることがあったみたい。親友の稜君のことで、もう後悔はしたくないって。稜君と私の間には何も無かったことにして、これまでと変わらない関係でいてほしいとも言ってくれた。剛君は、稜君のことも私のことも恨んでいない。剛君が恨んでいたのは剛君自身だったの。
この子に対して、剛君は本当に優しくて立派なお父さんだった。でも成長する我が子が大好きな親友に似ていくのが辛かったのかな。耐えきれなくなったのかな。
稜君、本当にごめんなさい。こんなこと今さら知らされても混乱するだけだよね。この子ができたとき稜君にもちゃんと話しておけばよかったのかな。
でも剛君の覚悟は本当に嬉しかった。剛君となら幸せになれるって思ったの。でも剛君はずっと不安でいっぱいだったのだって最近気付いた。あの日私と関係を持ってしまった罪悪感。その責任を自分が取らないといけないのだという覚悟。この5年もの間、剛君が全部背負い続けてくれていたの。
重く大きい十字架を一人で背負い続けてくれていたの。
だからあんなことをしてしまった剛君のことを許してあげてほしい。嫌いにならないであげてほしい。剛君は本当に稜君のことが好きだったから、そんな稜君に嫌われたままだと、また天国でも十字架を背負うんじゃないかって。
本当は私も背負わないといけなかったのに、剛君だけが悪いはずじゃないのに、一人で十分過ぎるほど背負い続けてくれた。だからその十字架をもう降ろさせてあげたいの。
勝手なことを言っているのは分かっています。都合のいいことばかり書いて本当にごめんなさい。
そして健ちゃんと潤君は稜君のことを信じています。何か理由があるんだって信じています。でも今は稜君が剛君を悪者にせずに、私達を守ってくれたことを無駄にしないためにもこの真実は誰にも話していません。いつか必ず二人には話します。そしてこの子にも真実を話そうと思います。
それまで2人が守ってくれたこの子は私が何があっても守り続けます。私のことを信じてください。 好美』
あれからこの手紙を何度読み返したことだろう。好美のきれいな字が手の震えによってか乱れている箇所がある。この手紙を書きながら好美はこれから剛に代わって背負っていく覚悟をしたのだと分かった。それを好美だけに背負わせてしまっていいものなのか自問自答しながら、俺はどうすることもできなった。
それから定職には就かず一人でひっそりと生活をしている。自分だけが幸せになることにどこか引け目を感じずにはいられない。年を重なるにつれ、一年が経過する早さを実感しながら、毎年剛の命日にだけ好きだったビールを持ってお墓参りをしている。
そしてあれは俺が剛に会いに行って12回目のときのことだった。2本の向日葵が目立つお墓に、煙のたつ線香。今年も好美はお墓参りに来たようだ。俺は好美に会うのを避けるために、時間を遅くしていている。毎年きれいに掃除されているお墓に、買ってきたばかりのビールを置いて、手を合わせ目を閉じて心の中で剛に話しかける。
『ごめんな』と最後に心の中でつぶやくと懐かしい声が背後から聞こえた。
『謝らないで。稜君まで背負い込まなくていいから』振り返ると好美が立っていた。
心の中で剛に話していたつもりが、いつの間にか声に出ていたようだ。
病院で手紙を受け取って以来の再開。化粧っ気もなく、ぼさっとした髪の毛からも今の好美の苦労が見て取れた。あの手紙にあったように、子どもを守ることだけに生きているのだろう。
『やっぱり、稜君だったんだね。命日の後お墓参りに来ると、必ず剛君の好きだったビールが供えてある。毎年来てくれていたんだね、ありがとう』涙を流しながらも必死に笑顔でいようとしている。
俺は好美に会ったらずっと伝えようと思っていたことがある。剛には毎年ここで話していたが、好美にはまだ言えていない。それは好美が心配していたこと。
『好美。俺は剛のことを許すも何も、初めから恨んでもいないし、嫌いにもなっていない。剛は俺の大切な親友だ。あいつがいなくなっても変わりはしない。俺は今までもこれからも剛のことが大好きだから』好美はじっと俺の目を見ていた。
『ありがとう』そう言って好美はその場で泣き崩れた。
好美は子どもとお墓参りにきて帰った後、俺が来るのではないかと思いもう一度来たらしい。命日には必ず子どもをつれてお墓参りに来ているとのこと。
ビールは健と潤が供えてくれているのかと思っていたようだが、もしかしたらと思ったようだ。健と潤は毎年仏壇に手を合わせに来ているようで、その際必ずビールを供えてくれていると話してくれた。それも俺がお墓に供えているビールと同じ缶ビールを。二人は自分達の分と剛の分の3本を、そこに好美が1本供えて合計4本を供えるのを毎年続けているとのこと。昔みんなでよく飲んでいたことを忘れないようにしたいらしい。
そこに俺が俺の分を自分で供えに来るのを二人は待っているようだとも教えてくれた。
『ごめん、二人にはまだ話せていないの』神妙な面持ちだった。
『気にしなくていいよ。好美は子どものことを一番に考えていればいい。俺の方こそ何もできなくてごめん』
『もう謝らないで。稜君にも感謝している。私達のこと、あの子のことを守ってくれたのだから』
あの子はこの4月、高校に入学したらしい。小さい頃から家庭の事情を察して、我儘も言わず、ずっと我慢させているのを悪いと思っていたようだが、中学の部活でやっと打ち込めるものが見つかってそれに取り組む姿がうれしいのだと笑顔で話してくれた。
そして首にかけていたペンダントを取り出した。それは俺が剛から受け取り、好美に渡した十字の形をしたペンダント。
『剛君はこのペンダントに家族3人の写真を入れて肌身離さずつけていた。ペンダントにしては変な形だなと思っていたけど、これが剛君の覚悟だったんだね。忘れないようにこの十字架をずっと背負ってくれていたのだと思う。だから今度は私が背負う番』ペンダントを見つめながら話す好美。
『来年も来てくれる?』
『ああ、もちろん』
『来年は健ちゃんも潤君もあの子にもここに来てもらう。そして稜君に会ってもらって、ここですべてを話してもいいかな?』
『本当にいいのか?』
『剛君にもちゃんと聞いてもらいたいから』
『うん、分かった』
『だから稜君まで十字架を背負わないでね、稜君には稜君の人生を生きてほしいの』
これが好美の覚悟だったのだろう。
みんなと顔を合わせることになる剛の命日までもう少しという頃、久しぶりに健からメールが来ていた。どんな内容なのかドキドキしながら確認すると、次の週末に潤と3人で会えないかということだった。
あの件以来、一切会ってもいないし連絡すら取っていなかったが、数日後会うのだから今会ってもいいだろうと思い、近くの喫茶店で会う約束をした。
当日、喫茶店で待っていると、昔の面影を残した二人が入ってきて、目が合うと俺のいるテーブルに座った。いざ会ってみると何を話そうかと考えていたことすら出てこなかったが、潤の方から話しかけてくれた。
『久しぶり、元気だったか?』
『うん、久しぶり。いろいろ迷惑かけて悪かったな』
『いや、いいんだ。理由があったんだろ』
続いて健が話し出した。
『好美からすべて教えてもらった。あの時何が起こったのか。そして3人に何があったのか』
昔よく聞いていた声とは違い、トーンが少し低かったのが気になった。
『そうか。好美が2人にはちゃんと話すって言っていたから』と自分で言いながら腑に落ちないことがあった。好美は一年前、剛の前で話したいと言っていたはずだ。それなのに先に話してしまったのだろうか。
不思議に思っていると健が続けた。
『好美に直接聞いた訳じゃないんだ。好美が手紙で残しておいてくれていたみたい。もう好美から聞くことはできないんだよ』
健が言葉を詰まらせると潤が健の背中をさすりながら教えてくれた。
『稜、落ち着いて聞いてくれ。三週間前に好美は死んだんだ』
頭の中が真っ白になった。久しぶりにしてはきつい冗談だと思いたかったが、俯いて涙をこらえる二人を見て冗談ではないことは明白だった。それから健は話すことができなくなっていた。
潤は好美に何があったのかを話してくれた。シングルマザーとして一人の子どもを一生懸命育てていたこと。その過労が祟ったのか、仕事中に倒れて帰らぬ人になってしまったのだと。
『遺品を整理していたら俺ら二人に宛てた手紙が見つかったって、あの子が俺達に渡してくれた。その手紙ですべてを知ったんだ。日付は13年前だったから、書いた当時はきっと渡せなかったんだな。好美はいつか必ず真実を話すって言ってくれていたから、健と二人で好美が話してくれるまでずっと待っていたんだけど。こんなことになるなんて』
潤は途中から涙を流していた。
『明日は三七日なんだ。気持ちの整理がついたら稜も来てくれよ』
俺は涙を流しながら黙って聞いていたが何も頭に入っていなかった。ただ好美がもうこの世にはいないということと、明日行かなければいけないということだけは分かった。
『あの子はまだ何も知らないはずだから』最後に健がそう言うと、二人は帰っていった。
翌日の夕方、俺は二人に言われたように剛の家に向かった。近くの駐車場に車を止め、しばらく家の様子を窺っていると何人かの人が出入りしている。そこには健と潤の姿もあったが、声を掛けることができなかった。
この十三年間、この家に来ることをずっと避けていた。名前を言えば自殺しようとした、剛の友人だとばれるかもしれない。好美のいない今、俺はどんな顔をしてお参りしたらいいのだろうか。そして、あの子にはどのように接したらいいのかが分からなかった。
家の前までは行ったが、インターホンを押す勇気はなかった。結局家の周りを何周も歩いていると、終わったのだろう、家から人が出てきて帰っていく。人がいなくなったタイミングで行こうかとも思ったが、それも出来ずじまい。
俺は車に戻り、持ってきていた好美の手紙を読み返していた。あともう少しで、みんなそろって真実を伝えられていたはずだったのだが、それは叶うことはない。健と潤はすでに知ってはいるが、あの子はこのまま何も知らずに生きていく。それがいい。すべてを知る必要まではない。知らないままにしておく方がいいこともある。あの子は優しい剛と好美の子どもだ。それは変わることのない真実。ただそれだけ。
そんなことを思いぼんやりとしていると気付けば21時を回っていた。一体何をしにきたのだと思いながらなんとなく歩いて近くのスーパーに行った。食品コーナーに行くとたこ焼きが置いてあったので、懐かしいなと思いながら買っていた。
電子レンジで温めて、スーパーの袋に入れて歩いて戻る途中、前から歩いてくる男性と肩がぶつかった。
『すみません、すみません』
俺はぼんやりと歩いていたので謝りながらただただ頭を下げていた。少年は何も言わずに歩いて行った。暗くてよく見えなかったが、ちらっと見えた少年の目はどこか悲しげだった。
何か嫌なことがあったのだろうか。こんな時間に物思いにふけながら歩いているのだから何か事情があるのかもしれない。そう、今の俺のように。振り返って少年をしばらく目で追っていると俺が出てきたスーパーに入っていった。
車に戻り、少し冷めたたこ焼きを一人で食べた。5人揃ってたこパをしていたあの時を思い出しながら。
それから数日たった剛の命日。
朝起きた時から左足の調子が悪く、歩こうとするも少し引きずりながらでしか歩けなかった。この日はいつもより早く家を出発することにしていた。それは去年好美に会ったとき、17時ぐらいに集合することにしていたからだ。とは言っても詳細はまた連絡をすると言ってくれていたのだが、当然その連絡はくるはずがない。
そして誰も来ない約束の時間に遅れないように車で向かおうとするもなかなかエンジンがかからなかった。最近エンジンのかかりが悪くなっていたのが気になっていたが、10年以上乗り続けているのだからガタがきてしまったのだろう。何回か繰り返すと何とかエンジンがかかったので、急いで向かった。
坂前のスーパーに寄っていつものように剛の好きだったビールを買って車に戻ると再びエンジンがかからなかった。しかも今回は何回繰り返してもダメ。ここまで来て剛に会いにいかないという考えは当然ない。好美とも約束していたのだから。
結局俺は車をあきらめ、あの坂に歩いて挑むことにした。初めてこの坂を歩いて上ったが、足のせいもあって上りきるのに10分以上かかり、お墓の前に着いた時には体中から汗が噴き出していた。
お墓はいつも通りきれいに掃除されていたが、目印となる向日葵はなく線香の煙も上がっていない。いつものようにビールを供えたが、今年は2本。剛の分に加え、好美の分も買ってきた。
天国で二人は会えているだろうか。久しぶりに会って何を話しているのだろうか。俺はいつもより長く剛に話しかけていた。一年前好美は俺に十字架を背負わなくていいと言ってくれた。自分のために生きてほしいと言ってくれた。みんなにすべてを話して、あの関係に戻ろうと言ってくれていた。
だから俺は、今日ここでみんなに会って真実を伝えることができたなら、俺は自分の人生を生きようかと思っていた。ちゃんとした職に就こうとも思っていた。
俺は俺でずっと苦しんでいた。誰にも言えずに、このままずっと十字架を背負っていかなければならないのかと。俺もずっと真実を打ち明けたい気持ちだった。好美がすべてを話すと言ったくれたことで俺は安心できた。あと一年の辛抱なのだと。みんなに何と思われるかという恐怖もあったが、それ以上に真実を隠し続けているという十字架のほうが重かった。
好美がいなくなった今、健と潤はすべてを知っている。知らないのはあの子だけだ。もしかしたらお墓参りにあの子がやってくるかもしれないと思い、しばらくそこにいたのだが、実際彼がここに来たとしてもどうすることもできないのだと思い直し、歩いて車の止めてあるスーパーまで戻った。坂を上るのも大変だったが、下るのも今日の足の調子だと一苦労だった。
足を引きずりながら必死な俺を横目に、悠々と上っていく車。運転手の男性と目が合った。暑い中こんな坂を足を引きずって歩く俺を憐れむかのような目。助手席には何か黄色いものを抱えている人。それが何なのか俺には関係のないことだ。
そんなことよりも、これ以上誰にもこの姿を見られたくないという思いで坂を下った。掻いた汗をひかせるためにスーパーに入って少し涼みつつ、ふと文具コーナーに寄って履歴書を買っていた。
車に戻りエンジンをかけると、調子よく今回は一度でエンジンがかかった。今後の人生について考えつつ、家に戻った。
それから俺は41歳にして就職活動を始めた。この10数年間まともな職には就いていない。しかもこの年齢だ。就活サイトに登録もし、ハローワークにも通い詰めた。ただ現実はそんなに甘くはない。今の仕事をこなしながら6ヵ月続けていたが、なかなか決まることはなかった。
そこで、就活の支援センターに行ったのが3月の初めの頃。中にはたくさんの人がいたが自分よりも若い人ばかり。就職活動をしている学生や20代後半から30代前半かと思われる転職活動の社会人。ライバルがこんなにいるのかと少し億劫になってしまった。
そんな俺の担当をしてくださったのはまだ20代半ばの男性の方だった。どこか懐かしいような感じがしたのは気のせいだろうか。それはこの男性の名前があの子と同じ名前だったからなのだろうか。
この人は一回りも年が離れている俺に真摯に向き合ってくれ、就職活動の話だけでなく私生活についての相談も乗ってくれる優しい男性。だが、俺の複雑な人生のすべてを話すことはなく、話したのは偽りの人生。何故こんなことを話してしまったのかは分からないが、生きているのが辛くなり自殺をしようとしたことや仕事を辞めたこと、そしてこれからの不安。ただ驚いたことに、その男性も同じような経験をしていたということだった。どうやら自分の人生に嫌になってしまったようだ。
だが、一人の少年との出会いで人生が大きく変わったらしい。働いていた仕事を辞め、今の仕事に転職したのもその一つとのこと。その少年がどのような人物なのかを尋ねると、『私よりも大変な道を歩み続けることを決断した、強い心を持った人間です』とだけ教えてくれ、それ以上多くは語らなかったが『でも彼にも、私達と共通点がありますが』と言っていたのが印象的だった。
その少年が男性の人生を変えるきっかけになったように、今度は自分が俺の人生を変えるきっかけになりたいと話してくれた。この人の真剣な目を見ていると、自分でも一歩踏み出せるような気がした。
そして、この人に会うことができたのもその見ず知らずの少年のおかげなのだと感謝の気持ちがあった。
それから、何度もその男性のもとを訪ね相談に乗ってもらっていた。この男性はどの人にも親身に接しているのだろう、周りの人からは『先生』と呼ばれているようだ。先生は書いてきた履歴書を見るとよく、字がきれいだと褒めてくれた。これまで人に褒められることから遠ざかっていたので、そんな些細なことが嬉しかった。
少しずつ順調に進みつつあった6月に歩道橋の階段から足を踏み外し、転げ落ちてしまった。そのまま気を失ったようで目が覚めた時には病院のベッドだった。少しずつうまくいきかけていたタイミングでの出来事にとことんついていない人間なのだと不運を恨んだ。
この病院は14年前のあの時に入院していた病院。あの時から働いていた看護婦さんは俺のことをよく覚えているようで、病院内で悪い噂が広がっているようだ。そう、親友の車の前に飛び出して自殺しようとした人がまた入院していると。
そんな簡単には過去のことを忘れてはくれない。特に俺みたいな人間の場合は尚更だ。幸い頭に異常はなく、2週間の入院とリハビリで退院できるとのこと。
俺を担当してくれている看護婦さんは20歳代だろう。過去に入院していた時の俺のことは知らない。彼女は噂も気にせず、優しく俺に接してくれる。
リハビリは順調だったのだが、この病院に入院し始めた初日からだった。夜中に魘されてしまうほどの嫌な夢を見たのは。
辺りは真っ暗な路地裏。人気のない夜中に逃げ回っても忍び寄る見えない影。徐々に大きくなる靴音。あいつだ。きっとあいつが俺を恨んでいるのだ。新たな人生をスタートさせようとしている俺に怒っているのだ。俺が今さらになって幸せになりたいと思っていることを怒っているのだ。
もう逃げられない。背中が重い。重みに耐えられずにそのまま地面に腹ばいになった。背中には大きな十字架が乗っていった。そのまま俺は地面に十字の穴を開けて落ちて行った。
頭では分かっている。取り返しのつかないことをしてしまったと。名誉のためにもああするしかなかったのだと。一生この罪から逃れることができないなら、いっそのこと…。
こんな夢だった。今さら就活など始めなければよかったのだと思った。初めてこの夢を見た次の日からこれまでの人生が鮮明に蘇ってきた。楽しかった学生生活や無かったことにしたはずのあの日。親友を失った日のことや、それからの今に至るまでの日々。
そして次の日も同じ夢を見た。その次の日も。中には看護婦さんが心配して駆けつけてくれることもあるぐらい魘されていた。
いつものようにリハビリの部屋に行くと一人の少年がいた。その横で俺も一通りのリハビリを終え休憩していると、『こんにちは』と同じく休憩中の少年が声をかけてくれた。
『こんにちは』と返事をして、たわいもない会話をした。
彼は全国でも陸上の強豪として知られる地元の高校の3年生で、長距離の選手としてインターハイの出場も決まっているらしい。練習中に足首の怪我をして最後の夏のインターハイに向けてリハビリをしているとのこと。足首の怪我は順調に治りつつあって、早く練習を再開したいのだと笑顔で話してくれた。
俺も昔は持久力には自信があったなと思っていると、彼はふと呟いた。
『いろんな人のためにも頑張らないといけないんです』
上着で見えなかった首からぶら下げていたものを取り出しながら。
彼の手の中には忘れることのないペンダントがあった。手首の古傷が目立つ左手の掌には確かにあの十字架のペンダントが。
思わず俺はその子の名前を発していた。
『どうして名前を・・・』
彼は驚いているようだ。
初めて会った人だと思っているのだから当然だろう。まさか俺が4歳まで毎年会っていた父親の友人とは知る由もない。ましてや自殺しようとして父親を死に追いやった身勝手な人間が目の前にいるとは思いもしないだろう。
『こんなに大きくなったのか。お母さんも亡くなって、辛かったよな。本当にごめん』
俺は涙ながらに謝っていた。俺はそれ以上彼と目を合わすことができずにその場を立ち去り、病室に戻った。
その日の夜も同じ夢を見た。重い十字架に押し潰される夢を。きっと彼に会ってしまったことを怒っているのだろう。翌日、恐る恐るリハビリの部屋に行くとそこに彼の姿はなかった。もしかしたら彼がいるのではないかと思っていたので安心した。
リハビリは順調に進んでいたので、リハビリ自体は今日が最後で明日退院予定のため、今日彼に会うことが無ければ、もう彼に会うことはないだろう。いつものようにリハビリをこなし、病室に戻ろうと部屋を出ると、そこには彼が立っていた。ペンダントを握りながら。
彼に導かれるように病院の中庭に出た。彼は俺に背を向け、空を見上げている。一度大きく深呼吸をして振り返った。
『あなたが父と母のもう一人の友人の方ですよね?』丁寧な口調だ。
『去年の誕生日に母から話したいことがあると言われました。そして会ってほしい人がいるとも言われました。本当なら去年の父の命日に一緒にお墓参りに行って、父の前で僕にそのことについて話すという約束だったのですが、その日を待たずに母は亡くなりました。
それから僕は一人でした。父に母もいない。僕には父の記憶はあまりありません。父親は僕が4歳の頃に事故で亡くなりました。それも父が運転する車に自殺しようとして飛び出した人を避けるために事故を起こしたと。そんな身勝手な人間のために父は命を失いました。私は父親を失いました。
ただ、母はその事故のことを多くは語りませんでした。恨んでも恨みきれないその身勝手な人間のことを決して悪くは言いませんでした。僕はそれが不思議で仕方なかった。でもそのことについては聞いてはいけないのだと思い、ずっと心の奥底にしまっていました。
あなたなら何かご存じなのではありませんか。このペンダントを見て僕のことを分かったあなたなら、母が僕に何を言いたかったのかを知っているのではないですか。
母はずっとこの十字架のペンダントを身に付けていました。僕が欲しいと言っても、父がずっとしていたこの十字架のペンダントをしないといけないのは私なのだと言って。私にはこの十字架をつける責任があるのだと言っていました。
そして昨日あなたとお会いした後、母が時折古い携帯電話を見ていたことを思い出しました。その携帯の待ち受け画面は学生時代に大学で取ったと思われる虹をバックにした5人の写真でした。父と母、そして3人の友人と撮った写真。
二人の友人の方は仏壇にお参りに来てくださるのでお会いしたことがあります。ただもう一人の方が誰なのか私は知りません。そしてその携帯の保存メールには亡くなる寸前の父からのメールがあることに昨日気付きました』
そう言って彼はその携帯電話をポケットから取り出した。好美が昔使用していた携帯電話である。彼はそのメールを読み上げていた。
『あの日に一番こだわっていたのは俺みたいだ。あの日のことは無かったことにしたらいいと言ったけど、やっぱりあの日を無かったことにするのはできないんだな。俺の覚悟はたいしたものじゃなかったみたいだ。本当の親子を見ると涙が止まらない。
好美、愛している。みんなに宜しくな。こんな父親で悪かった、ごめん。俺には背負いきれなかった。あの子のこと宜しくな』
剛が好美に送った最後のメール。
俺はあの時、好美が動揺して携帯を落としたのを拾った際にこのメールを読み、すべてを理解して剛のもとに走りだした。そしてあの事故が起きてしまった。
『僕にはこのメールの意味がよく分からなかった。でももう一度この待ち受け画面を見たときに感じたことがありました。今の僕は写真の中の父ではなくどこかあなたに似ていると。あなたなら何か知っておられるんじゃないですか。僕は本当のことを知りたい』
目の前にいるこの子は俺のマンションに戻ってきてまで俺の本心を聞こうとしたあの時の剛と同じ目をしていた。あの時の俺は剛の期待に応えてあげられなかった。あの時本心を伝えていればと何度も後悔した。だからもう嘘をつくことはできない。大きく息を吐いた。俺は覚悟を決めた。真実を伝えようと。
ベンチに座って彼に話した。剛のこと、好美のこと、大学生活のこと。彼が生まれる前に俺達の間に何があったのか、剛がどんな覚悟をしたのか。そしてあの日どうして剛が死んでしまったのか。何故剛がそのペンダントを身に付けるようになり、それを好美が引き継いだのか。二人が罪悪感と覚悟という重い重い十字架をずっと背負い続けていたことを。
『ごめん。二人にこんな重い十字架を背負わせてしまって』
彼は黙って聞いていた。そして最後に彼に告げた。
『俺が君の本当の父親なんだ』彼はその言葉を聞いて足早に立ち去っていた。
彼は溢れんばかりの涙を必死にこらえていた。俺は一時間ほどそのままベンチに座っていた。もしかしたら彼が戻ってくるかもしれないと思っていたが、彼は姿を見せることなく、ただ沈んでいく太陽を見つめていた。
病室に戻って病院食を食べ、寝ようとしても中々寝つけなかった。いや、寝たくなかった。入院してから毎晩、忍び寄る靴音から逃げ回り、背中の十字架の重みに耐えきれず地面を割って落ちていく夢を今晩も見ることになるのかと思うと怖かったからだ。
それに今日俺は秘密を彼に話してしまった。剛は天国で怒っているのではないかと不安だった。ただいつの間にか寝てしまったようだ。気付いたら俺は夢の中にいた。
忍び寄る靴音から逃げ回り、背中の十字架の重みに耐えきれず地面に這いつくばっている。同じ夢だと思った。このまま俺は地面の中に落ちていくのを覚悟した。俺に追っていた靴音が大きくなり、徐々にその正体が明らかになろうとしていた。真っ暗闇の中、月明かりがその者の顔を照らした。
その正体は紛れもなく剛だった。それもひどく怒った表情をしている。今まで見たこともないほど険しい顔だ。俺は分かっていた。怒った剛が俺に十字架を背負わせ仕返しをしているのだと。剛が背負い続けていた罪悪感と覚悟の重みをこの十字架で俺に味あわせているのだと。
剛はこんなにも重い十字架をずっと背負い続けていたのだ。俺はもう耐えきれないと思った。地面にひびが入り始め、今にも俺は地面に吸い込まれようとしている。
『ごめん』一言そうつぶやいて、俺は地面に落ちる覚悟をした。
いつもなら落ちて目を覚ますのだが、今日は中々目が覚めない。どうやらまだ夢の中にいるようだ。地面の中をさまよい続けているのかと思ったが、俺はまだ地面に這いつくばっている。それに何故だか背中の重みが軽くなってきている。すると懐かしい声が聞こえた。
『稜、何しているんだよ』
這いつくばったまま声のする方を見ると、そこには怒った顔の剛がいた。
『ごめんな、剛』と謝ると剛は眉間にしわを寄せて、俺に向かって怒鳴った。
『バカヤロー。どうして稜が謝るんだよ。どうして稜までこんなもの背負っているんだよ』剛は必死に俺の背中の十字架を持ち上げようとしていた。
『遅くなってごめん。やっと会えたな。だけど何で稜までこんなもの背負って生きているんだよ。お前まで十字架は背負わなくていいんだよ。それに稜は俺に謝ることないんだよ。俺は稜を轢き殺すところだったのに、稜は俺達を守るために悪者にもなってくれた。
毎年墓の前で謝ってくれているけど、謝るのは俺の方だ。本当にごめん。だから俺達のために背負ってくれたこの十字架を降ろしていいんだよ。俺は稜のことを恨んでもいないし、仕返しをしようとも思っていない。稜は俺の大切な親友なんだから』
剛が涙ながらに語ってくれた言葉に俺は胸を打たれた。すると剛の横にもう一人いるのに気が付いた。
『稜君、これ以上自分を責めないで。自分のことを許してあげて。この十字架を背負う必要はないの。あの子にも本当のことを話してくれてありがとう。今二人であの子にも会いに行ってきたの。大丈夫、あの子ならきっと分かってくれるから』
懐かしい顔、懐かしい声。剛と好美が俺の背中にある重い十字架を降ろしてくれている。
その光景を見て涙が溢れてきた。
『本当にこの十字架を降ろしていいのかな?』
二人に尋ねると、二人は頷きながら答えてくれた。
『いいんだよ、降ろして。稜は背負う必要ないんだよ』
『早く降ろして、自分のことを許してあげて。私達には感謝の気持ちしかないんだよ』
その言葉を聞いたとき、スッと背中が軽くなった。ずっと俺を苦しめていた大きく重たい十字架はなくなっていた。
二人が差し出してくれた手をつかみ起き上がると、3人で肩を抱き合って涙した。
『ありがとう』と二人を見ると『ありがとう』と二人も返してくれた。
久々に清々しい朝だった。小鳥のさえずりに部屋に差し込む太陽が心地よい。二人の笑顔が今でも脳裏に焼き付いている。どことなく体も軽い感じがした。退院の手続きを終え、中庭のベンチに座った。横には彼が座っていた。
『父と母に会えましたか?』彼の方から話しかけてくれた。
『俺のことを助けてくれた』頷きながら答えた。
『僕も会えました。二人が夢に出てきたのは久しぶりで、これで3回目です。そして話してくれました、昨日あなたが話してくれたことと同じことを。二人はあなたが大切な親友なのだとも言っていました。あなたがずっと僕達家族のことで十字架を背負っていたこと、それを降ろさせてあげたいということ。そして今、僕がしているこの十字架のペンダントの意味も。
だから次は僕がこのペンダントをします。そこまでして守ってくれたこの命を僕は自ら断とうとしてしまったことがあります。その罪と父と母の分までしっかり生きる覚悟を十字架として背負っていきます』
彼もいろいろなことを経験してきたのだろう。だが、二人が言っていた通りこの子は現実を受けとめ前に進もうとしている。それから彼は母親である好美との思い出や今の生活について話してくれた。
『僕が自分の名前に恥じないようにしっかり生きていれば、今度は僕のところに二人で来て、十字架を降ろしてくれるのかな』そう言いながら立ち上がった彼に『きっと来てくれるよ』と言った。
彼は歩きながら『それまでしっかり生きなきゃいけないな』と言って振り返り、『今度の父の命日は3人で来てください。父と母が喜びます』笑みを浮かべながら丁寧にお辞儀してくれた。
再び顔をあげた彼は聞こえるか聞こえないかの声で何か言っていた。俺が大きく頷くと彼は背を向け帰っていた。だんだん小さくなっていく彼の背中が大きく立派に見えた。
よく晴れた青空。二人が会わせてくれたのだろう。彼の最後の一言ははっきりとは聞こえなかったが、俺の耳には『お父さん』と言ってくれたように聞こえた。きっとこの大空から剛と好美も見守ってくれていただろう。
俺は二人が言ってくれたように、自分の人生を歩み出した。退院後も就職活動をして無事に新しい職が決まったのは7月のこと。こんなに必死になったのはいつ以来だろうか。どんな形であろうともあの先生が教えてくれた【報われない努力はない】のだと実感した。
引っ越し等もあり就職活動でお世話になった先生に直接お礼を言いに行くことができず、手紙を出すことにした。先生とあの子の名前が同じなのは何かの縁だったのかと手紙を書きながら思った。
引っ越しも終わり、部屋の片づけも一段落して冷蔵庫を開けると3本のビールが入っている。剛の好きだったビールだ。先日健と潤に剛の命日に3人でお参りに行かないかとメールをした。二人は快く了承してくれたが好美の命日はどうするかということになったので、好美の命日はあの子がいないからやめておこうと説明した。
そしてそれぞれ1本ずつあのビールを買ってきてほしいとも伝えた。剛と好美の分は俺が買っていくので、また5人で集まろうと最後に送ると二人は喜んでくれていた。
俺は剛の命日に持っていく3本のビールを見て、もう剛と好美に謝ることをやめようと誓った。きっと二人もそれを望んでいるだろう。あの子との接し方はこれから考えていけばいい。あの子は剛と好美が育てた子ども。今さら本当の父親なんて彼にとっては大きな問題ではないはずだ。誰よりも二人の愛情を感じ取っているのは彼自身なのだから。
剛と好美が背負ってきた十字架を彼は別の形で背負っていく覚悟をした。一体彼はその十字架はいつ降ろすことになるのだろうか。
窓から見える夕焼け空がきれいだった。今日は好美の命日だ。
きっと二人はあの子の応援をしていたのだろう。テレビのスポーツニュースにはインターハイの5000mで高校新記録を出して優勝した選手がインタビューを受けていた。
『これからの目標を教えてください。やっぱりオリンピック出場ですか』
そう言わせたいインタビュアーのようだが、彼の答えは違った。
『毎日毎日を後悔なく生きることです。名付けてもらった自分の名前を大切にして、自分を信じて生きることです』
そう答える彼の首元には銀色のチェーンがかかっていて、胸元には十字架のついたペンダントがぶら下がっている。彼はその十字架をギュッと握りしめた。
俺はベランダに出て空を見上げた。二人がそこにいるような気がした。
剛の命日までもう少し。久しぶりに5人で集まるのが楽しみだ。
遠くの空にはきれいな虹が架かっていた。そう、あの時のようなきれいな虹が。