六日目 一人と もうヒトリノセカイ
そしていつものように朝が来る。
カーテンを開け、一応世界を確認する。
変わり映えのしない、誰もいない音のない世界のままである。
人のいない街と、人のいない学校。
今日は土曜日であるが、相変わらず車の一台も走ってはいない。
これが、彼の住む世界の日常、一人の世界だ。
だが、今日の朝は今までの全てと違う朝となっているのだ。
変わり続けるこの世界は、昨日また、別物になってしまった。
この一人の世界に、もう一人の人物が現れた。
そして彼は、今日も彼女に会いに行く。
気は乗らないが、このままなにもしないわけにもいくまい。
そして彼は今日も街を目指す。
昨日までとはまた違う感情で。
誰もいない街を、彼は今日も自転車でこいでいく。
昨日のように怯えるわけでもなく、それ以前のように自由を満喫するわけでもなく、彼はただ、目的地に向かって自転車を走らせているだけだ。
つまらない世界だ。
誰もいなかったはずの世界に人が現れただけで、こんなにも、刺激が無くなるものなのだろうか?
それはまるで、この世界に来るまでずっと過ごしてきた、あの、普通の世界のようである。
街には誰もいないのに、彼はなにかしらの束縛感を感じていた。
一人でないということが、彼の心に静かにのし掛かってくる。
それは、大した重さではないだろう。
それどころか、この世界に来るまでは、ずっと背負っていた物でさえあるはずだ。
だが、一度自由であることを知った彼には、それは少し重すぎた。
その重い心のまま、彼は橋を越えて中央街へと入っていく。
静かな街の静かな公園。
その、昨日と同じ公園で、彼女は約束通り待っていた。
当然ながら、公園には彼女以外の姿はない。
彼女は彼に気が付くと、静かにこちらを見てなに何も言わずにただ立っていた。
手を振るほど親しくもない。
会釈ですませるほど他人行儀というわけにもいかない。
お互いがお互いをほとんど知らないにもかかわらず、彼らの関係は唯一無二なものであるのだ。
そんなもう一人の人間の顔を見て、彼は反応に困ったように表情を無くした。
結論は何も出ていない。
彼は静かにそう告げる。
「まだ、なにもわかっていないんだ。僕自身が、向こうの世界に戻りたいかどうかも……」
その言葉に、彼女は少し不機嫌な顔をしながらも、小さく頷いた。
「……それならとりあえず、一緒に人を探しましょう。今は考えるより、行動を起こした方がいいわ……」
彼女のその意見は、彼にとって実に考えがたいものであり、そもそもは昨日否定したはずのものでもあったが、それでも彼は、今日はその意見をなにも言わずにそれを受け入れた。
彼は、彼女自身を否定してしまう以外に、その意見に対する否定的な回答を持っていなかったのだ。
そして、彼は今は彼女を否定できないほどに、世界に対する自信を無くしていた。
「ところであなた、車の免許は持ってる?」
その言葉に、彼は一応小さく頷いて肯定した。
とはいえ、彼自身は運転に対する自信などまったく無かったのだが。
「それなら、車で隣町まで行ってみましょう。あそこなら、誰かいるかもしれないわ」
「……君は、車を持ってるのかい?」
単純な疑問である。なぜ彼女は車を持っていながら、ずっと徒歩でこの街を探し歩いていたのだろうか?
「……私のじゃなくて、父さんのよ。私は、まだ免許持っていないから」
彼女の答はある意味予想できたものであり、それゆえに。彼の心に苛立ちを呼ぶものであった。
「……別に運転してもかまわないと思うけどね。どうせこんな世界じゃ免許なんてもう取れないんだし……」
彼は半ば投げやりにそう呟く。
この、誰もいない世界である。
自動車学校には教官は残っていないだろうし、交通ルールを取り締まる警察官もおそらく存在しないだろう。
この世界になった時点で、全ての社会的ルールは無くなったも同然だ。
だが彼女は、それを否定し続けている。
「そうはいかないわ。私の運転じゃ、咄嗟のときに対処も出来ないし、それに、こんな世界でも、ルールはちゃんと守らないと……」
その言葉に彼はもうなにも言わず、ただ少し呆れた表情を浮かべただけだった。
不安とは裏腹に、彼は恐る恐るながらもなんとか車を運転している。
中心街の外れにある彼女の家を出て、車は南の隣町にある彼女の大学へと向かって走っていく。
相変わらず広い国道には一台の車もないし、コンビニエンスストア以外の店はほとんどシャッターも閉まったままである。
そのコンビニとて、駐車場に車はなく、明かりは灯っているものの中に人はいないのだろう。
前にも後ろにも反対車線にも車のいない、貸し切りの国道。
その国道を、おっかなびっくりと一台の車が走っているのである。
彼女は助手席で、ぼんやりと外を眺めていた。
「ほんとに人、いなくなったのね……」
誰に言うでもなくつぶやく。
彼はちらりと、その横顔を盗み見る。
その表情は、いままで自分に対して向けられていた怒りや呆れといったようなものではなく、一人になったことによる寂しさに満ちていて、どことなく儚げであった。
その顔に、彼も自分の置かれた状況を改めて思い出す。
誰もいない世界で、知らない道を、知らない女性と、知らない車で走っている。
そんな事実を鑑みてみて、改めて彼が、今、いかにおかしな事になっているかわかる。冷静にそんな自分を振り返ってみると、少し笑いがこみ上げてきた。
「……なにを笑ってるの」
その笑い声に、彼女は窓の外を見たまま尋ねる。
「いや、この世界はわからないと思っただけだよ……」
それが彼の嘘偽り無い感情。
この世界のどこまでが真実なのかさえわからない。
『本当は全て夢で、自分の妄想でしかないのではないか?』
この世界に来て六日が過ぎた今でも、時々ふと、そんな考えが脳裏によぎるのだ。
「僕は君の事なんてまったく知らないし、この道に来たこともない。免許は取ったものの自動車を運転しようなんてほとんど考えたことがないし、隣街に行くなんてこと、それこそ今まで一度も思った事なんてない。なのに、今その全てが僕の前にあるんだ。だからこそ実は、全部、僕の夢か妄想なんじゃないかと思ったのさ。まあ夢なら、もう少しマシなものにしてもらいたいところではあるんだけれど……」
彼は自分の感情を素直に口にした。
口にすることで、彼女の反応を知ることで、この目の前の全てが妄想なのか現実なのかを確かめたくもあったのである。
「……」
彼女は否定するでも肯定するでもなく、ただ黙って、その言葉を聞き、
「……あなたって、本当になにを考えているのかわからないわね」
不意にそう漏らした。
「……なにがさ?」
その脈絡もない言葉に、彼はそう聞き返すだけしかできない。
「こんな状況になって、元の世界にも戻りたくないという割には、この世界が妄想かもしれないなんて、矛盾にもほどがあるわ……」
外を見たまま彼女はつぶやいた。
ああ、これは妄想などではあるまい。
まったく、こんな現実的で口うるさい妄想などあってたまるか。
「さあね、僕はただそう思っただけさ。自分が矛盾しているかどうかなんか、考えたこともない」
彼はそう言った。
それは彼のまごう事なき真実の言葉だ。
「……」
彼女はその言葉にも何も返さず、黙ったまま外を見ていた。
だが彼女は不意に、こちらを向き、キッと彼を睨んで言い放った。
「あなた、今信号無視したでしょ?」
彼女の言うとおり、彼は赤信号でも気にせずにそのまま交差点を走り抜けていた。
「別にいいだろ。どうせ誰もいないんだし……」
「……」
二人は黙っていた。それぞれ、似て非なる別の感情から。
「これからも止まりはしないからな。誰もいないことは明白だし、一つ一つ止まっていたんじゃ、かなり時間がかかる」
彼の言葉に彼女は不機嫌に黙っていたが、結局、その信号無視宣言に同意せざるを得なかった。
彼の言うとおり、この世界に誰もいないのは明白であり、隣町まで無数にある信号を待つのと止まるのでは、大きく時間に差が出る事も明らかである。
「……わかったわ」
目を伏せたまま、彼女はそう答えた。
「……で、そろそろ隣街だけど、君は、この街に来たことあるのかい?」
車内に流れている微妙な空気をかき消すべく、彼はそう口にした。
「まあ、何回かは来たことはあるわ。車で来たのは初めてだけど」
彼女はそう言うが、その口調には今もまだ怒りの影が残っていた。
「……いったいどんな街なんだ。僕は、こっちには来たことがないから」
「どんな街といわれても……、取り立てて特徴もない、普通の街よ」
彼の質問に、彼女は少し途惑いながらそう答える。
「普通の街、ね……」
「そう、普通の街。私たちの街より規模も小さいし、取り立てて見るべき場所もない街よ」
その言葉に、彼はその街の様子を想像する。
普通に人々がいて、普通に建物があって、普通に生活がある。
自分の想像力のなさに嫌気がさすが、今となってはそれらの想像も街には存在しないのだろう。
人々もいない。
生活も残っていない。
あるのは、誰もいなくなった異常な建物だけ。
「大学は、ほら、あそこよ……」
誰もいない道の先に、大きな黒い建物が見える。
国道沿いにある、大学と併設された国立病院だ。
「……」
大学が近付くにつれて、彼女の口数が少なくなっていく。
その表情も、不安に満たされていっているのが感じ取れた。
「……」
彼も、彼女にかける言葉を見つけられない。
この世界に来てすぐ大学にたどり着いた彼とは違い、彼女はおそらく『こちら側の世界』で大学に来るのは初めてだろう。
彼女の心中を想像し、一日目に感じた日常が消失した光景を思い出す。
今では遙か遠い感情でしかない、あの時に感じた背筋の寒さ。
心の奥で燻る言い知れぬ不安が、回想の中でさえなお、彼の心に闇を落としていく。
(彼女は、覚悟が出来ているのだろうか……)
横顔を再び盗み見る。
その顔はさらに翳りの色を増し、今にも泣き出しそうにさえ思われた。
だが、そんな彼女の想像から来る不安さえ、その現実の前にはちっぽけなものでしかなかった。
「嘘……」
誰もいないだだっ広いキャンパス。
その、医学部をはじめとした複合学部で構成される国立大学の施設は、ちっぽけな山奥の私立大学でしかない彼の大学とは比べものにならないほど広大だった。
だが、そのキャンパスに誰一人として人がいないという状況は、あまりにも冷酷にこの現実を突きつけてくる。
この街のこの大学を初めて訪れた彼でさえ、一人であることに自由を感じ、この世界に適応しかかっていた彼でさえ、目の前に広がる歪みきった不自然な現実を前にすると、この世界に恐怖を感じずにはいられなかった。
まるで、心の真ん中にぽっかりと、薄暗い、底の見えない穴が開き、全ての希望がそこからこぼれ落ちていくようだ。
そして闇の中に落ちていったものの替わりに、その穴からは、忘れかけていたこの世界への恐怖が湧き上がってくる。
世界に一人。
誰もいない世界。
いや、今この世界は自分一人だけではない。
それが思い出すと不意に我に返り、彼は少し慌てて、隣にいる彼女に視線を向ける。
自分などよりも、彼女の方が遙かにショックは大きいはずだ。
彼女は何も言うことなく立ち尽くし、その、完全に全ての消えた自分の母校を呆然と見ているだけだった。
それは、あまりにも衝撃的な光景だったのだろう。
顔からは全ての表情が抜け落ち、考えることを放棄したかのように、ぼんやりと口が半開きになっている。
そして何よりも彼を震撼させたのは、その感情を無くした顔にも関わらず、彼女の目からはただただ涙が止まることなく流れ落ちていたのである。
「お、おい、しっかりしろよ!!」
その状況に彼は全てよりも優先して、彼女の肩を揺さぶる。
「嘘、嘘、嘘、嘘……」
何の反応もなく、彼女はただそうつぶやくばかりだ。
目の焦点もあっていない。意識さえままならない。
彼女は空虚の中で、目の前に広がる、生命の存在以外は何一つ変わっていない日常の光景をただただ否定しているだけである。
その眼には、もはや彼すらも映っていない。現実全てを拒絶しているのだ。
彼は、そんな彼女の姿に、自分のすべきことを探す。
そして、ここが一人の世界でないことを実感する。
彼女が泣いている。
自分以外の人間が、この世界を恐れ、言葉を失い、計り知れないほどの絶望に取り込まれようとしているのだ。
なぜ、こんなことになったのだろうか?
もう一度、彼女の顔を見る。出会ったときの少し怯えた静かな表情も、その後ずっと自分に見せてきた怒りの混ざった呆れ顔もそこにはない。
その顔は何もかもを失った、完全なる無の表情。
自分もあの時、こんな顔をしていたのだろうか。
「……これが、この世界なんだな……」
そう考えると、彼女がとても小さく感じられ、彼は彼女の小さな手を強く握った。
そうしなければ、彼女がそのまま消えてしまうような気がしたのだ。
彼女が消えたところで、彼にはなんの影響もないはずなのに。
それどころか、彼女に消えて欲しいとさえ思ったはずなのに。
それでも、彼は彼女をこの場に留めたかった。
消えて欲しくないと願った。
「……ありがとう……」
握られた手の強さで、彼女にようやく平静さが戻る。
自分以外の人間の存在を思い出す。
そして真っ赤に泣き腫らした瞳で、この世界のもう一人の人間を見て、ただ、そうつぶやいた。
「……」
彼は何も答えなかった。
答えるべき言葉が見つからないのだ。
ただそれでも、彼女の手をしっかり握り締めていた。
それだけが、今の彼の答なのだ。
「……この世界はやっぱり、誰もいなくなっちゃたんだね。わかっていたはずなのに、そんな事、あの街で充分にわかっていたはずだったのに……」
そして彼女はまた泣き出した。今度は、ありったけの感情に任せて。
彼には、彼女の手を握るだけしかできなかった。
世界には、二人しかいないのだから。
誰もいない広い校内を、二人で歩いていく。
手はまだつないだままだ。
「ここでは、いつも誰かがギターなんかを弾いていたわ……」
彼女が指差すのは、中央広場手前の交差点。
全ての学部へと通じ、人通りの絶えなかったこの道は、ミュージシャン志望の学生達の、格好のお披露目の場所だったのだろう。
当然ながら今は誰もおらず、騒音にも似た音楽も聞こえることもなく、彼にとっては、そんな光景は想像上のものでしかなった。
彼女は教室へと向かうが、彼の学校と同じように、校舎にはどこも鍵が掛けられていた。
彼自身が侵入者となった彼の学校とは違い、どこにも侵入された形跡はなく、広い校舎はどこも、最後の夜のままこちらの世界を迎え、そのままの状況を保っていた。
この世界でここを訪れたのは、自分たちが初めてなのだろう。
再びあてもなく彼らは歩き出す。
広い広いキャンパスを、たった二人の人間が歩いている。
それは、この世界ではすでに当たり前の事であったが、それでも、あまりにも奇妙なものであった。
「ジュースでも飲もうか……」
まとわりつく違和感を誤魔化すように、彼は目に入った自販機に向かう。
硬貨を入れ、適当にジュースを選ぶ。
そういえば、お金を払って物を買うのはいつ以来だろうか。
「……ありがとう……」
適当なベンチに腰掛けてジュースを飲む。
誰もいない大学を見渡しながら、二人は黙って座っている。
「本当に、本当に誰もいないんだね……」
その無人の校舎を見つめながら、彼女は静かにつぶやいた。
「僕の学校も、こんな感じだったな……」
彼は何も言うつもりはなかったはずだったが、彼女の横顔を見ると、思わずそう答えていた。
「やっぱり、誰もいないのかな……」
彼の言葉を聞いて、彼女は寂しげに宙を見つめるばかりである。
その姿を見たとき、彼は自分の胸の中で、何とも言い知れないモノが渦巻くのを感じていた。
なんとも思わなかったはずのもう一人の人物が、いつの間にか、彼の心の中心で静かに揺れている。
まるで、心に開いた穴を埋めるかのように、こぼれ落ちていった希望の代わりを求めるかのように、彼女の存在が、自分の中で大きくなっている。
もう一度、チラリとその横顔を見る。
遠くを見つめる寂しげな目には、人がいた頃のキャンパスが映っているのだろうか?
彼女の目に映る世界と、自分の目に映る世界は別物だろう。
それでも彼は、彼女の見た世界を見てみたいと思っていた。
「……普段は、電車で通学していたのかい?」
尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「いつまでもここにいても、たぶんこれ以上事態は進展しないだろうし、とりあえず、駅にでも行ってみようか?」
さりげなく言う。
彼女の世界に、少しずつ足を踏み入れていこうとする。
「……そうね。駅前なら、誰かいるかもしれないわ……」
彼の意思に気付くはずもなく、彼女もその意見に賛同する。
そして二人は、無人の大学を出て街へと歩き出す。
ささやかながらも存在していた期待と希望は相変わらず裏切られ、その駅前にも、それまでの場所と同じように誰一人として人影は存在しなかった。
中央より少し離れた、特急の止まらない中規模の駅。
日の当たる場所にあるだけに、人のいない不自然さは、彼の街の高架駅とはまた異なったものがある。
静かな不気味さよりも、なにか、寂しさにも似た雰囲気がある。
窓から駅員達の待合室が見えるが、当たり前のように無人で、明かりも灯っていない。
「やっぱり、誰もいないのか……」
なにも書かれていない駅の伝言板を見ながら彼はつぶやく。
「本当に、誰もいないわね……」
彼女も、駅から無人になった街を見てつぶやいた。
彼はこの街に来たのは初めてだったが、それでも、この目の前に広がる光景が異常なことは理解できる。
雑多な駅前。
タクシーのいないタクシーの乗り場と、車が停めっぱなしになったコインパーキングと、山のように自転車の置かれた自転車置き場と、小さないかにも個人経営な雰囲気の食堂と、対照的に典型的量販店なコンビニや薬局、百円ショップと、駅が出来た頃からあるような古い住宅と、小綺麗な学生向けアパートと、塾や派遣会社の入った小規模ビル。
これだけ様々な建物が立ち並ぶ街並みに、全くなんの気配もなく、なに一つ自分たち以外の音が聞こえないのは、やはり尋常な事ではない。
死んだ街。
見た目には、なに一つほころびのない『廃墟』。
まあそんなことにさえ、すでに慣れつつあるのも事実だ。
むしろ彼が違和感を感じるのは、自分の隣で街を見ながら立ちつくしている女性の方である。
彼女の姿を見るたびに、彼の心の中で彼女の存在が大きくなっていく。
彼女はなぜ、この世界にいるのだろうか?
そしてそれは、自分自身にもいえること。
『自分はなぜ、この世界にいるのだろうか?』
考えたところで答えなど出ない。
今は目の前の現実を受け入れていかなければならない。
「この街にも、やっぱり人はいないみたいだ……」
彼はあらためてそう口にする。
そこにも存在していた、見続けてきた現実を、事実として確認するかのように彼はつぶやいた。
独り言も含めて、何度口にしたのかわからない言葉。
それでも、今はもうこの言葉の持つ意味は違う。
この言葉は、人に向けられた言葉だ。
自分自身の中で反芻するだけの言葉ではない。
「……そうね。誰もいない」
答が返ってくる。
それがどんな形であれ。
「どうして、こんな世界になっちゃったんだろう……」
彼女は独り言のように漏らす。
彼に理由がわかるはずもない。
そして、彼はその疑問が嫌でしょうがなかった。
答えはない。
答えに意味もない。
過去よりも、未来よりも、今こそが彼の現実なのだ。
「……帰ろう。ここにもなにもない……」
全てを否定するように、彼はただそう言いきって来た道を戻っていく。
「そういえば、食事はどうしていたんだい?」
帰りの車の中、彼は純粋な疑問として彼女に尋ねる。
「今はまだ家に蓄えが残っているからなんとかなっているわ。でも……」
彼女は言葉に詰まる。
資源は無限ではない。
この世界では、時間が過ぎれば過ぎるほどあらゆる物が失われていく。
彼女の言葉無き言葉に、彼もその事実を思い出す。
今はまだコンビニ弁当やパンの類も食べられるだろう。
だがそれもすぐに腐っていく運命にある。
そうなれば選択肢はぐっと減り、缶詰とインスタント食品だけが、彼らの生命線になりかねない。
そしていずれはそれらも底をつくだろう。
この世界に新たな物が生み出されることはないのだ。
まだまだ先の話だが、実際には、そう遠い未来でもない。
その時、どうすればいいのだろうか?
「あなたはどうしていたの?」
彼女が質問を返す。
「同じような物さ。ずっとインスタント食品ばかりだよ……」
半分は真実だが半分は嘘である。
実際には、彼はコンビニからいくつもの商品を頂戴している。
だがいまは、あえてそのことを口にすることはなかった。
「それで、今日の昼食はどうしようか?」
もう時間は既に一時を回っている。
こんな世界でもつい時間を気にしてしまうのは、生まれてからずっと、現代社会に飼い慣らされていた証拠だろうか?
「いったん、私の家まで行きましょう。確かまだ、冷凍食品がいくつか残っていたはずだわ……」
それを聞くと、彼は自然とアクセルを少し深く踏み込んでいた。
彼女の家は、まさに典型的な中流階級の一軒家といった佇まいだった。
周りの住宅も軒並み似たような感じで、平凡な一家が住む、平凡な家という表現がしっくり来るだろう。
「お邪魔します」
彼女以外誰もいないことを知っていながらも、彼はそう言って彼女の家へと上がっていく。
家の中も外観に違わず実に平凡で、居間には真新しい薄型テレビとDVDレコーダーがあるものの、キッチンはまだガスコンロで、父親の書斎らしき部屋にはそれなりに新しいパソコンと、少し色落ちした分厚いブラウン管のテレビが置かれている。
「……」
家の中では、彼女は特に無口になった。
それもそうだろう。
この家は本当は、彼女にとって賑やかな一家団欒の場所のだったはずなのだ。
長い間ずっと一人で過ごしていて、この世界ですら安息の場所であり続けた彼の部屋とは違う。
壁に目をやれば、猫の写真のカレンダーに、色の付いた文字で様々な予定が書き込まれている。各ゴミの予定もあれば、もう過ぎた先々週には、彼女の父親の誕生日があったこともわかる。
だが、それらは全てもう存在しない過去の物だ。
この世界に来ても、それらはまだ残ったままになっている。
「……これ、冷凍食品だけど……」
調理を終えて、キッチンから彼女が料理を運んでくる。
いかにも既製品といった風合いの、綺麗な楕円形のハンバーグに、色鮮やかなミックスベジタブルが添えられている。
「ありがとう」
ただそう返答する彼。
それ以外の言葉は、別になにも必要ないだろう。
無言のまま、二人はそのハンバーグを食べている。
チラリと彼女を見る。
彼女の箸は、薄いピンク色をした、猫のキャラクターの描かれた少し傷んだものである。
おそらく、この世界に来る前からずっと使っていた物なのだろう。
それに対して自分の箸はいかにも綺麗で、客人用であることがすぐに理解できる。
お互いになにも言わないまま、二人はただ静かにハンバーグを食べる。
彼はぼんやりと会話のきっかけを探してはいたが、さりとて別に話したい話題があるわけでもなく、沈黙は結局食事が終わるまで続くことになった。
「……ねえ、あなたの学校にも行ってみたいんだけど……」
食事が終わると、彼女は思いついたかのようにそう切り出した。
おそらく、彼女は出来うる限りこの家にいたくないのだろう。
それは、赤の他人である彼にも痛いほどよくわかる話だ。
この家は、元の世界の思い出が多すぎる。
たった一人でこの家にいるというのは、まるである種の拷問のようであり、まともな神経では耐えられまい。
もちろん、彼女はそんなことをおくびにも出さないだろう。
それを口にするということは、自分自身の過去さえも否定してしまうことになりかねない。
「ああ、かまわないよ。まあ、この世界云々をさておいても、本当になにもない所だけどね」
彼は自虐的に笑う。
今日見てきた彼女の大学に比べれば、彼の大学など本当になにもない、ちっぽけなミニチュアのようなものである。
そして再び彼女を助手席に乗せ、彼は山の中にある母校へと車を走らせる。
知らない道を、知らない女性と、知らない車で走っていたときも充分に不思議だったが、なまじ道が知っているものになると、その不思議な違和感はますます膨れあがることとなった。
世界が大きく変容してしまったかのように感じる。
いや、実際世界には大きな変化があって、それゆえに彼は彼女を共に行動をしているのではあるが、それ以上に、彼女と二人、車で大学を目指すという状況が、彼の世界にとってありえないモノだった。
「話は聞いたことがあったけど、本当に、山の中なのね……」
あのコンビニを越えて、真っ直ぐな山に向かう道路で、彼女は思わずそうつぶやいていた。
「……ああ、本当になにもない場所だよ」
呆れたように彼はそう応じる。
実際、あの学校の周囲にあるのは、新興住宅街と、大きな工場と、配送集荷場くらいである。
そしてそのどれもが、土地の有り余る山間ならではのものだった。
校舎が見えたとき、彼はいくつかのまずい事態を思いだした。
落ちたベンチと、割れたガラスと、教授の部屋。
どれも、なんとも説明しづらい事実である。
あの頃は、自分は一人だと思っていたのだ。
今さら後には引けまい。
進むほどに彼の心は重くなっていくが、彼は車を走らせるしかない。
広大な駐車場に、彼の乗ってきた彼女の父親の車がぽつんと駐車されている。
たびたび彼女の指摘を受けて、不格好ながらも白い枠の中に駐車された車。
そして、この世界でたった二人残った人間が、校舎の方へと歩いていく。
「綺麗な校舎ね……」
彼女の言葉通り、まだ新しいこの学校は、伝統の薫りの代わりに近代的なデザインと真新しさを残していた。
何も知らずに周囲を探りながら歩いていく彼女の横で、彼は必死に言い訳を考えている。
椅子はまだなんとでもなるだろう。
問題はガラス、そして何よりあの教授の部屋だ。
「……」
落ちた椅子が彼女の視界に入り、彼女は黙ったまま立ち尽くす。
「……なにか、あったのかしら?」
椅子に目を向けたまま彼女がつぶやいた。
「……僕が落としたんだよ。別に、深い理由はない……」
正直に話すが、真実を全ては語らない。
その言葉を聞いて、彼女は椅子まで駆け寄り、彼を手招きする。
「ほら、あなたも手伝って。この椅子を引っ張り出さなきゃ!」
彼女一人では長椅子はさすがになかなか持ち上がらず、彼女は彼に視線を向けて助力を求める。
「……いいじゃないか、別に落としたままでも」
彼女の言葉にそのまま従うのに抵抗を覚え、彼はぶっきらぼうにそう言った。
「なに言ってるのよ。ちゃんと戻さないと!」
彼女はさらに彼を急き立てる。
そうしながらも、一人で必死に椅子を花壇から引きずり出そうと懸命である。
「……」
彼は口を閉ざしたまま、彼女の横までいって椅子を引き上げる手伝いをする。
さすがに二人がかりなら、椅子はすぐに引き上げられ、元あったであろう場所まで戻ってくる。
「どうして、こんな事をしたのよ?」
彼女の口調は少しばかり厳しく、彼に対して弁解の余地を奪っているかのようである。
「さっきも言っただろう。深い意味はないよ……」
彼女の質問の意図も理解する気無く、彼は視線を合わせることなくそう応える。
「……まあ、いいわ……」
彼女も別にそれ以上は追求して来なかったが、そのやりとりの後には当然、二人の間には溝が残されたままになった。
言い出す言葉も見つからず、彼らは黙ったまま校舎内部を見て回っていく。
その間にも、彼の心はいくつもの考えが浮かんでは消されていく。
ガラスのこと、その言い訳、椅子を落とした事への弁解、彼女との和解、そして彼女を言い負かす方法。
彼女のことばかり考えているはずなのに、彼女にかける言葉が失われていき、彼女との距離が遠く遠くなっていくように感じられる。
そして彼女が立ち止まる。
その先にあるのは、当然、ガラスの割られた裏口のドアである。
彼女はその現場の様子がどうなっているのかを確認するべく近付いていき、彼も、彼女の行動を確認するためにその後ろを付いていく。
「……これも、あなたがやったの……?」
割れた窓ガラスを見たとき、彼女が最初に発したのはそんな言葉だった。
「……」
彼は何も答えることなく、ただ静かに彼女の背中を見ていた。
「……呆れたわ。あなた、本当にやりたい放題だったのね……」
振り返った彼女から、半開きの目と、軽蔑の表情が彼に向けられる。それに対して彼もまた、心に黒い感情の蠢きを抑えることなく反論する。
「……中に入るには、それしか方法はないだろう?」
彼に僅かに残っていた良心の判断能力とはまったく裏腹に、その口調はまるで自らの正当性を固辞するかのような、冷たく鋭い物であった。
違う。
言いたいのはそんなことではないはずだ。
だが、もう言葉は戻せない。
気まずい沈黙。
黙る彼女と、何も言うことの出来ない彼。
二人が何も言わなければ、この世界から全ての音が消える。
日はもう傾きかけている。
夕日になりかけの日差しが、二人にも降り注ぐ。
「……実は……」
耐えられなくなったのは彼の方だった。
沈黙はまだいい。
彼女の、自分に向けられた軽蔑の目の色が、彼にはあまりにも苦しかった。
彼の僅かな言葉では、彼女はまだその目の色を変えようとしない。
「……なに?」
冷たく彼女が尋ねる。
「……校舎に、電気が付いていた場所があったんだ。だから、どうにかそこの様子が知りたかった……」
それを聞いて目の前の女性は表情を変える。
今まで浮かんでいた軽蔑の貌が、驚きで上から塗りつぶされていく。
「……人が、いたの……?」
ただそれだけしか、彼女は言葉が出てこなかった。
だが彼は首を横に振った。
そこにあった光景を思い出すと、彼の心は静かに波紋が巻き起こっていく。
あまりにも異常な、この世界がこの世界であることの象徴。
あの時は恐怖のあまり全てが信じられなかった。
二度目に見たときは、浮ついていて何もかもが夢のように感じていた。
だが今、もう一度あの場所のことを思い出すと、この世界の恐ろしさばかりが広がっていく。
忘れようとしていたこと、見ないふりをしていたこと。
あの部屋の主は、いつ、どうやって、どこに消えてしまったのか?
……考えても仕方のないことだ。それはわかっている。
「じゃあ、一体なにがあったの……?」
だが、彼女の言葉があの光景を思い出させる。
なにがあったのか?
そんな事は彼にもわかるはずがない。
彼の態度に気が付いたのか、彼女の声色にも少しずつ恐れにも似たものが宿りつつある。
「……なのか、あったのね……」
核心を突く言葉。
「……」
彼は再びその口を閉ざす。黙っていることは出来ないというのはわかっている。
それでも、彼はそのことを口にしたくなかったし、考えたくもなかった。
「……」
彼女は何も言わずに、割れたガラスの向こう側へと向かう。
「待てよ」
思わず呼び止める。その先に、進んではいけない。
「……この世界で何が起こったのか、私にも知る権利はあるわ……」
彼女の瞳の奥に強い意志が宿っている。
おそらく、もう彼女をここに留めることは出来まい。
全てを見て回り、彼女はいずれ全てを知る。
「……僕も、行くよ」
重い意思を振り絞り、消えそうな声を発する。
それが、彼に出来る限界だった。
それでも、意思は伝わり、彼女は足を止める。
「……わかったわ」
彼女の言葉にも力強さは既にない。
彼の言葉から滲み出る恐怖が、彼女も飲み込んでしまっている。
日はすっかり傾き、大きな窓から入ってくる光たちが、廊下を不気味に染め上げている。
その全てが焼かれたような赤の中、二人はその場所を目指して歩いていく。
「……きれいな、学校ね」
彼女は、全てを誤魔化すように話をする。
「……そうでもないさ」
彼も適当に受け答える。
そんなたわいない話を続けながら、並んで歩いていく二人。
言葉が途切れてしまえば、そのまま二人とも消えてしまう。
そんな事さえ信じてしまえるほど、この世界のこの時間のこの場所は気味の悪いものだった。
そして、エレベーターに乗り、また、あの部屋へとやってきた。
開いた扉も、割れたガラスも、折りたたみ椅子も、あの時のまま廊下に放置されている。
「ここでも、派手にやったのね……」
呆れたように彼女が言う。
だがもはや、彼にはそれに答えられるほど心に余裕はなかった。
「……この中、なのね」
彼女も全てを悟り、緊張した面持ちでそう尋ねるだけである。
彼は小さく、小さく、本当に小さく頷いた。
目を伏せ、全ての判断を彼女に委ねるかのごとく、ただ、首を動かした。
彼女も、同じように小さく頷く。
「……わかったわ……」
彼女の顔が覚悟を決め、決意のものとなる。
ゆっくりと、ガラスを踏み避けながら部屋へと入っていく。
彼は外から、その様子を窺っている。
言葉はない、反応もない。
おそらく、それを見たのだろう。
そして彼も、部屋へと踏み込んだ。
「……」
彼女は、言葉を失ったまま、うつろな目で空を見ている。
その先にあるのは、もちろんあの、主を失ったロープの輪だ。
「……なんなの、なんなのよこれ……」
彼が入ってきたことで、彼女はようやく、言葉を発することが出来た。
「……」
だが彼になにか答えられるわけではない。
ただ静かに、丸いロープの円だけが宙で揺れている。
「この世界は、いったいなんなのよ!」
感情が急速に戻りつつある彼女は、それを制御しきれずに思わず叫ぶ。
「わかるわけないだろ……」
答えるつもりもなく、彼は彼で、ただ自分の心を言葉として漏らした。
現実を、まざまざと見せつけられた二人は、暗い廊下を戻っていく。
「……なんなの、なんなのよ……」
彼女はただそうつぶやき続けている。
「……」
彼はその横で、ぼんやりと考え事をしていた。
この世界全てを、否定してしまう方法。
元の世界でもない。
この世界でもない。
あのひとときに感じた、ただひたすらな自由。
もう一度、あの時間に戻りたいと願った。
「……いまから、もう一回私の学校へ行きましょう……」
車に戻ったとき、彼女は不意にそう提案した。
「……」
その意味が理解できないほど、彼は愚かではない。
彼女は、あの部屋のようなことが自分の学校にも起こっているかの知れないと考えているのだ。
実際、あそこまでのことはないにせよ、理系の学部も多い彼女の学校なら、徹夜で研究をしている人間も幾人かはいたはずである。
それらがどうなっているのか?
彼もそれに気が付くと、心の片隅に小石のように残ったが、同じように、それらの結末を知ることが怖くもあった。
「……行ってみようか」
結局彼を決心させたのは、彼自身の意思ではなく、力強い彼女の瞳だった。
そこにあったのは、全てを知ってなお揺るがないような、固く、厚い決意そのものである。
そして彼は再び、あの知らない街へと走り出した。
車のいない夜の道は、不思議な違和感に包まれている。
時間はまだ七時半ぐらいなのだが、もうすっかり深夜のような様相である。
だが逆にいえば、深夜と考えるとそれほど違和感があるわけではない。
むしろ、昼間に感じる、人のいない重圧に比べれば、自然であるとすら感じるほどだ。
闇だからこそ他の人間のいないことを強く感じるのだが、それが違和感にならないのである。
夜の闇には元々人はいないものだ。
眠らない街と称されるような都会ならともかく、こんな地方都市ならなおさらである。
眠った街はどの世界でも存在している。
ただ、今はその眠りが永遠になってしまっただけだ。
彼女の学校に到着し、彼らは再びそのキャンパスを歩いてみる。
外灯はちゃんと灯っていて、特に問題もなく探索できる。
予想通り、いくつかの棟のいくつかの部屋には明かりがつけっぱなしになっており、よくよく確認してみれば、いくつかの非常扉は鍵がかかっていないものさえあった。
だが、それだけである。
どの部屋にも人がいたという痕跡はあったものの、既に存在そのものはなく、無人の世界だけが残されているだけだ。
最も酷かったのは、書きかけのノートの上にペンが落ちていて、文字が途中で途切れているものさえあった。
「やっぱり、誰も彼もいなくなったんだね……」
彼女はその悲惨な現実を目の当たりにして、ただぼんやりと確認した。
「帰ろう、今日はもう疲れたしね……」
ゆっくりと車を走らせる彼。
二人は黙ったまま、誰もいない夜の道を走っていく。
大学を出たとき、時間は既に九時を回っていた。
「じゃあ、僕は帰るよ……」
適当な言葉が見つからず、彼はぶっきらぼうにそれだけを口にして、自転車にまたがる。
だが横で彼女は、静かに、その言葉を口にした。
「一人に、一人にしないで……」
その言葉に他意も含みもないことを、彼は知っていた。
彼自身、期待もあるわけではない。
そもそも彼は、一人になりたいとさえ思っていたのだ。
だが、彼女の瞳が闇の中で潤んでいるのを見て、そしてなにより、彼女の背後にある、独りで住むには広すぎ、物が多すぎ、思い出が残りすぎている明かりのない家を見ると、彼には彼女を拒むことが不可能だった。
「……僕の部屋にでも、行こうか……」
まったく下心が無いと言えば、嘘になるのだろうか。
それでも彼のその言葉に期待があったわけでもない。
それはただ、この世界に迷い込んでしまった、もう一人の人物に対する同情だった。
彼女は小さく頷き、二人は再び、車で山へと向かう。
「ひとまず、晩ご飯でも食べようか……、さすがに時間も時間だし、お腹が空いた」
彼はそう言って、あの、山を下りたところにあるコンビニへと立ち寄る。
この世界に来てから知った、この世界の彼の拠点の一つだ。
駐車し、明かりの灯り続けている店内へと向かう。
やはり、今までと同じように誰もいないままだ。
「やっぱり、誰もいないの?」
少し遅れて入ってきた彼女が尋ねる。
「ああ、誰もいないよ……、まあ、いつものことさ」
見続けてきた事実を、事実として確認するかのように彼はそう宣言した。
そして彼は慣れた足取りで店の奥へ入っていく。
そこで一応人影を確認するが、やはり今日も誰もいないままである。
「駄目よ、勝手に入っちゃ」
彼女はそう注意する声が聞こえる。
その言葉を聞いて、彼は店内へと戻ってくる。
「そうは言っても、中を確認しないと人がいるかどうかわからないだろ?」
彼の言葉には、少し不満げな感情が混じっている。
この場所で彼女に何かを言われることに、少し苛立ちを感じているのだ。
ここは、自分の場所のはずなのに。
「いずれにせよ今日もここには人がいなかったわけだ。まあとりあえず、一休みしようか」
彼はジュースを取り、いつものようにそのまま飲もうとする。だがその前に、彼女が彼の腕を掴んでその行為を慌てて止めた。
ジュースは床に落ち、それに続いて、彼女の怒りの声が彼の耳に届く。
「ちょ、ちょっとあなた、正気なの!?お金も払わずに勝手にジュースを飲もうとするなんて!!」
彼は、いまさらながら我に返る。
彼女の言っていることは正しい。
物を買うときはお金を払う。
それは社会のルールであり、常識だ。
だが、そんな社会がこの世界のどこに残っているというのか。
お金を受け取る相手もいなければ、そもそもお金の使い道さえもう無い。
彼と彼女以外には、この世界に人間はいないのである。
そんな考えが彼の脳裏をよぎる。
彼女の言葉によって、自分がこの世界に適応していることを改めて思い知らされる。
「……」
彼は、無言でジュースを拾い上げる。
「じゃあ、どうするんだい?今日も散々見てきたように、この世界にはもう人などいないんだよ。お金を受け取る人間もいなければ、僕らに金を払ってくれる人もいない。社会が存在していないんだよ。君にだって、それくらいはわかるだろ!?」
彼は自分の考えの間違いを自覚してなお、彼女に対して考えを改めるように訴えた。
世界が変わってしまったことは、彼女だってわかっているはずだった。
だが、いまさらながら、彼女がそれを理解していないことわかったのは、彼には少しショックだった。
さらにそんな彼の感情を逆撫でするかのように、彼女は彼を見たまま言葉を続ける。
「……それでも、それでも社会のルールは守るべきだわ。いつでも、元の世界に戻れるように、戻ってもいいように、ルールを守り続けないと……」
「ルールねぇ……、今日だって今までだって、この世界ではもう、ルールがまともに意味をなさないって事を実感してきたじゃないか。まあ、それでもルールを守るのというのなら、それは君の勝手だ……、好きにすればいいさ」
彼は突き放すようにそう言ったが、彼女にはその言葉が引っ掛かったらしい。
「それは違うわ。ルールを守るのはあなたもよ」
そういって彼女は彼の呆れ顔を睨む。
「……前々から思っていたけど、あなたは少し、この世界に対していい加減すぎるわ。いいえ、この世界に対してだけじゃない。話を聞いていると、あなたの考え方は、何事にもいい加減すぎるし、それ以上に、諦めきっている。どうして、そんな態度なの!?」
怒りの口調で彼女は言うが、彼はその怒りを聞くと、ますます心が醒めていくのが実感される。
「別に理由なんて無いよ。それが僕、としか言いようがない」
それだけ言って、彼は一つため息をつく。
彼女の言葉に全く意を介さない。
「というか、僕の方から見たら、君の方がよっぽどおかしいと思うけどね。なんでそんなにルールにこだわるんだ?こんな世界にもなってルール、ルール、ルール。向こうの世界に戻れるとも限らないし、戻れたらその時にまた向こうで守ればいいだけの話だろ?」
彼はただ、事実と正論を述べることに徹する。
彼の言葉を聞いたとたん、彼女の表情はみるみる変わっていく。
「元の世界に戻れないって、あなたはそんなことを考えてるの!?」
「普通に考えればそうだろ? いったいどうやって戻るっていうんだ? 自殺した人間さえ消えてしまうような世界だよ? 僕には君がまだ無邪気に向こうに戻れることを信じてる事の方が、よっぽど信じられない」
そんな彼女に対して、嫌味を込めて彼は言った。
「それに、戻ったとしてもそこでまたルールに適応していけばいい。なんでこっちの世界でまでルールにこだわって、それを僕にまで強要するんだ?」
それこそが彼の彼女への苛立ちの理由であり、最大の疑問でもある。
「……この世界から逃がれるためよ。あなたみたいにこの世界に馴染んでしまっては、帰りたいという気持ちまで忘れてしまうわ。そうなったら、戻れるものも戻れなくなる……」
彼女は静かに言う。だが彼には、まだ一つ疑問を残っている。
「それは大体わかった、君が元の世界へ戻りたいのも、そのためになにをするのも勝手だ。だが、それに僕を付き合わせないでくれ」
そう、それこそが彼の意志である。
彼女は自分ではない。
だから、彼女がなにをしても彼にとってはどうでもいいことだ。
互いの意思で協力し合うならまだいい。
だがそこに、自分に対する感情、行動、干渉があるとなると話は違う。
一人の世界と二人の世界は別物なのだ。
「……なぜあなたはそうやって一人になろうとするの?」
彼女の口調は、怒りと寂しさの混ざったような、小さく強いものだった。
「何度も言っただろう、理由は特にない。僕はただ、僕のしたいようにしているだけだよ。それに、今は僕が先に聞いているんだ。君はなぜ、僕の行動にまで干渉してくるんだ?」
彼は再び聞き返す。
彼女は目を伏せ、黙ったまま悩んでいたが、しばらくして、ゆっくりと目を開いて、無表情に彼の方を向き、語りはじめた。
「私は、元の世界に戻りたい。なのに、あなたは私の前で元の世界などどうでもいいという態度をとり続ける。あなたを見ていると、自分が間違っているんじゃないかっていう気持ちになってくる……」
その言葉は今までのどの言葉よりも静かだったが、今までの彼女のどの言葉よりも重かった。
口調は静かだが、そこには強い怒りが押し殺されているのがわかるのだ。
「ねえ、あなたはこんな世界で本当に幸せなの? 誰とも会うことなく、ただ漫然と生きている。それがあなたにとって幸せなの? 私は嫌。こんな世界で、何もない毎日が過ぎていくのなんて耐えられない。どうしてあなたは、こんな世界で平気でいられるの?」
彼女の言葉を聞いても、彼はただ、静かに座っている。
「……別に僕にとっては、こっちの世界でも向こうの世界でも、何も変わらない。他の人なんて意識したこともないし、いてもいなくても同じだ」
彼はただ、そう言った。
「可哀想な人ね……」
そして彼女はただ、そう答えた。
「……」
彼は黙っていた。
なぜ自分が可哀想とまで言われなければならないのか?
その理由は、実際の所、彼にも理解は出来ていた。
だが、どうしてこの世界に来てまで、そのことを言われなければならないのか?
「なぜ? 僕はこの生活にも、今までの生活にもそれなりに満足しているし、少なくとも、君に可哀想とまで言われる筋合いはないな」
その言葉には、強く感情が乗せられている。
彼は自分が否定され、自分が思いがけず可哀想と言われて、怒りが湧き上がっているのだ。
だがそれでも、彼女は怯むことなく、言葉を収める事無く続けていく。
「だってそうでしょう。あなたは元の世界になにもなかったから、このなにもない世界でも満足できるのよ。戻らなくていいのは、戻ってもなにもないからじゃない。違うの!?」
それは憎々しいまでに正しく、彼の存在そのものを言い表しているかのようだった。
彼自身、そのことは理解していた。
別に、向こうの世界に未練もないし、戻りたいという気持ちもない。
忘れ物など何もないのだ。
彼はそれで満足していたはずなのだ。
だが、彼女の言葉は、彼の胸に鋭く突き刺さった。
彼は今まで、自分が不幸かどうかさえも考えたことはなかった。
だが、その言葉が引き金になり、彼は、自分自身の人生そのものが崩れ落ちたかのような気持ちになる。
なにもない。
なにもしない。
なにもかもどうでもいい。
そんな、ただ漠然としたその人生が、この誰もいない世界に来て、はじめて否定された。
いったい自分は、なにに満足していたのだろうか?
「勝手に、人を不幸とか可哀想とか決めつけるなよ。僕は、こちらの世界での今の生活で満足しているんだ」
心は大きく揺らいでいるものの、彼は口ではそう言って彼女の言葉を否定した。
もし彼女の言葉を受け入れてしまったら、彼の中で何かが完全に壊れてしまうことを、彼は心の底から感じているのだ。
だから彼は必死に、この話題を終わらせようとしている。
彼女に、自分への質問をやめさせられるなら、呆れさせても、諦めさせてもかまわない。
とにかく、もうこの話は終わりにしなければ。
だが彼女は、その答えでは赦してはくれなかった。
「じゃあ、なにが満足しているのか言ってみて。なにが幸せなのか。こんな世界で、いったいあなたはなにに満たされているの?」
彼女のその質問に、彼はもう、答える言葉を持っていない。
なにも満たされてなどいない。
一人でいることなど、単に人がいないというだけにしか過ぎない。
その中で彼は自由を見つけたはずだったが、その自由も、もはや無に帰した。
「……自由だったんだ」
そうだ。
自由だ。
自由だったのだ。
この目の前の人物が現れるまで、この世界は自分一人の物だった。
なにもかもが自由だった。
「……僕は、自由だった……」
彼の口からそう漏れた。
「自由?」
不思議そうに彼女は彼を見る。
だが彼は少しうつむいたまま、彼女と目も合わせずにつぶやいている
「誰もいなくなって、僕はなんでも出来たんだ……、なのに、なのに……」
キッと、彼は彼女を睨んだ。
この世界という悪魔が、彼に囁きかける。
もはや、この世界は誰もいない。
君は自由だ。
全ては、君次第だ。
割れたガラス。
落ちた長椅子。
線路の上の自分。
誰も、君を止めはしない。
「えっ?」
驚きに満ちた彼女の顔。
だが、それはすぐに苦悶の表情に変わる。
彼は、自分がなにをしているのかを、ぼんやりと見ている。
目の前で、一つの命が消えかかっている。
一人の世界に現れた、もう一つの命。
そう、最初から存在しなかったはずの命。
ならば、消えても何も問題はない。
「……や、なにを……」
かすれ、自分の息にさえかき消されそうな声が、彼の耳に届く。
だが彼は、なにもせずただそれを見ているだけだ。
手の力を緩めることも、その言葉に応えることもしない。
自由なのだ。
なぜ、それをする必要がある?
もう彼女の声も、彼の耳には届かなくなっている。
誰も、自分を咎める者などいない。
自由なのだ。
自由なのだ。
自由なのだ。
そして、彼はまた一人になった。
手を放すと、それはただ地面に落ちた。
「……」
彼はぼんやりとそれを見つめる。
世界は再び一人の世界に戻った。
全ての自由を取り戻したのだ。
……いや、そうではない。
ここは一人の世界ではなく、二人だった世界。
彼は一人になったが、彼は一人ではない。
そして、目の前に、一つの死体があることに気がつく。
自分が殺したのだ。
理由もなく、ただ自由の元に。
「あ、ああ、あああ……」
声に、言葉にならない。
なにも言えない。
だがもう、もう一人はなんの反応も返さない。
「ああ……」
彼の目の前にあるのは、命ではなく、この世界の全ての物と同じ、ただのモノにしか過ぎない。
再び、一人になったことを思い知らされる。
だが、今度は、彼が彼自身の選択で、一人になったのだ。
ゆっくりと、一歩一歩、後ずさりしてこの場所から逃げようとする。
自分の行為が直視できない。
だがそれでも、目の前のそれから目を逸らすこともできはしない。
それは、あまりにも恐ろしいことだ。
つまづき、尻餅をつく。
だがそれでも、目はずっとただ一点、自分の行為の結果を見ている。
その視線の先には、なんの動きも反応もない。
腰を地につけたまま、それでも後退しようとする。
一歩でも、一歩でも遠く、この場所を離れたい。
この場から逃げ出したい。
「なにが自由だ……」
そうつぶやいていた。
本当に自由なら、ここからそのまま走り去ればいい。
だがそれさえも不可能である。
自由などただの幻想だ。
自分自身によって、自由を失い、その場に束縛されている。
自由を手に入れるために、もう一人の人物を手にかけたのに、結局、自由はどこにもなかった。
入り口の段差で再び転び、外へと転がり落ちる。
それが視界から消える。ようやく一呼吸がつかれる。
逃げなければ。
離れなければ。
消えなければ。
心が冷静になればなるほど、自分の行為が際だってくる。
赦されない。赦されるはずがない。
どこにも自由など無い。
立ち上がり、走ってそこを離れる。
走って、走って、走ってそこから必死に逃げ出す。
振り返ることもない。ただただ、前へと走る。
そして車にたどり着く。
車に乗り込み、キーを取り出す。
キーを見たとき、彼女を思い出した。
この車は彼女の父の車であり、彼女はつい先まで、この車の隣に乗っていたのだ。
『一人に、一人にしないで……』
寂しそうな彼女の声が思い出される。
そして、自分の行為も。
「う、ああ、あああ……」
涙が、自然にこぼれ落ちる。
取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
彼はただ、ハンドルへ突っ伏して泣いた。
彼は今日も、自分の部屋へと戻ってきた。
もうここも、安息の場所でもなんでもない。
自分自身が自分自身である限り、もはや赦しはない。
誰もいない世界。
だが、それは自分自身の手によって作られた、偽りの孤独。
独りになったのではなく、一人になったのだ。
心に安定が戻るほど、自分の行為が恐ろしくなってきた。
なにかを考えるたびに、彼女の顔と、彼女の言葉、そして、彼女だったモノが思い出される。
人間は、簡単にその存在が無に等しくなる。
そして彼は、自身の手で彼女を無にした。
それが、彼は怖いのだ。
その時、彼の脳裏に、ある恐ろしい可能性が浮かんできた。
『この世界に、自分と彼女以外に、人間が存在するとしたら……』
否定は出来ない。
彼女がいたのだ。
他にも人間がいる可能性は充分にあり得る。
もし、その人物が、彼女の死体を見つけてしまったら……。
間違いなく、犯人を捜すであろう。
あれは、明らかに他殺体である。
そんな殺人鬼と自分とがこの無人の世界にいるということになったら、恐ろしくてたまらないだろう。
だが、その殺人鬼こそが自分なのだ。
それを考えれば考えるほど、自分の行為が重くのし掛かる。
死は恐怖そのものだ。それを自分が他人へと与えたのが、なによりも重い。
その未知の訪問者は、必ず、自分を探すだろう。
見つかるわけにはいかない。
見つかれば、自分は必ず赦されないであろう。
彼は、全ての重圧に潰されそうになる。
人から隠れなければならない。
このまま世界から消えてしまわなければならない。
その存在を他人に知られてはいけない。
そして彼は、部屋を完全なる闇にする。
雨戸を閉め、わずかな隙間に新聞紙を詰め、さらにそこにガムテープを貼り付ける。
作業は出来る限り早くすませ、部屋の電気を消し、全ての光を放つ物を遮断する。コンセントを抜き、自然発光する物は、箱に封印し、しまいきれない物は破壊した。
そして、光の差し込まない暗い暗い闇の中、彼は布団の中に潜り込み、全ての拒絶した。
だが闇も、彼に優しくはなかった。
その漆黒の世界で、彼はただただ脳裏に浮かぶ彼女の姿に苦悩した。
自分が殺した人間。
死の恐怖があるからこそ、自分のその行為が恐ろしく重かった。




