五日目 二人の ヒトリノセカイ
闇だったはずの世界に光が差し込み、彼の意識が現実を取り戻した。
どうやら、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
飛び起きるように慌てて外を見直すが、なにも変化は感じられない。
相変わらず音もなく、誰もいない世界が広がっているようである。
だが、それが真実かどうかはどうかはわからない。
「くそ、なんてことだ……」
彼は、自分の意志の弱さを呪った。
自分が呑気に眠っている間にも、ここを通った『誰か』がこちらに気づいたかもしれない。
いや、カーテンの向こう側だ。この暗い部屋だ。
たとえそこを通っていたとしても、こちらの存在までは気付いてはいまい。
ましてや、このアパートは完全なる、死んだアパートだ。
人がいるなどと思うはずもないし、気が付くはずもないだろう。
だが、全ては推測の域を出ることはない。
何の確信もない。確信など持てるはずがない。
誰もいなかったはずの世界に、自分以外に人間がいたのだ。
その時点で、彼はなにも信じられなくなっていた。
「どうする……」
カーテンを開けることもなく、電気をつけることもなく、彼は、カーテンの向こうから透ける朝日に包まれた、薄明るい部屋で悩んでいた。
世界は再び、大きく変貌してしまっている。
自分と、もう一人の誰かが、少なくともこの世界に存在している。
逆に言えば、それ以外のほとんどの人間は消え失せたままである。
アパートにも学校にも住宅街にも街にも駅にも、人間は自分以外に誰一人存在していなかった。
つまりその人物と自分とが、この誰もいない世界で対峙していくことになる。
「もう一度、街に行こう……」
人がいた。
人がいる。
それを確認すべく彼は再び街へ出ることを決める。
このままここに籠もっていることも考えたが、それではなにも変えられない。
その誰かを捜さなければ、『この世界』に安息はない。
いや、捜したところで、安息は得られないだろう。
もう一人の人間と出会えても出会えなくても、もはや世界は変わってしまっている。
そして、変わってしまった世界は元には戻せない。
だがだからこそ、世界の現在の状況をこの目で確認しなければならない。
彼は今日も自転車に乗り、街へと走り出していく。
時間短縮の事もあって自動車での移動も考えはしたものの、その案は彼の中ですぐに破棄された。
まず、自動車そのものの確保に微妙な問題がある。
自転車などとは異なり、自動車の場合、鍵が差しっぱなしにされていることなどまずありえない。
確かに、どこかの家の中にまで侵入すればいくらでも手に入れることは可能ではあるが、そこまでして自動車に乗ることは気が進まなかった。
そもそも彼自身が運転にまったく自信がなかったし、それ以上に、あの騒音をまき散らしながら走る乗り物では、相手に自分から居場所をばらしているようなものだ。
それはあまりにも無謀すぎる。
結局昨日と同じように自転車をこぎ出すが、ペダルはいままでに比べて、極端なほどに重く感じられる。
今までのように、幹線道路の中央を走るなどとんでもない。
人目に付かない裏道を探しながら、慎重に慎重に、中央街へと向かっていく。
誰にも、この存在を見つけられていけない。
もう一人の人間の存在を意識すれば意識するほど、自分のほうこそが、この世界に存在してはいけないかのように感じている。
誰も存在しないはずの世界に存在している自分。
あの瞬間までは、それでなにも問題はなかった。
しかし今では、もう一人の人間がこの世界存在していることが、彼の存在を危険なものにしている。
一人の世界に、二人の人間はいらない。
ならば、自分が先に相手を見つけてしまわなければならない。
見つからぬように、見つけ出すために、彼は街をゆっくりと進んでいく。
だが結局誰とも遭遇することなく、彼は再び中心街に到着した。
彼は自転車を駅前に置いて、再び昨日と同じように街の探索へと出る。
自転車も目立たないように、他の自転車の置いてある場所に無造作に放置する。
全ての行動に細心の注意を払う。
不自然さを残してはいけない。
音を立ててもいけない。
自分の存在を、完全に消さなければならない。
この世界には誰もいないのだ。だから自分も消えてしまうようにする。
街には、相変わらず人の気配もなんの音もない。
その無音の世界に少しでも馴染むように、彼はひたすらに慎重に、音一つたてずに影から影へと移動していく。
それでも、自分の生み出す音が自分の耳に入ってくる。
一歩一歩の足音。
歩くときに風を切る音。
心音。
呼吸さえも、この世界では大きく響いているように感じられる。
怯えながら、緊張しながら、それでも彼は進んでいくしかない。
隠れようと思えば思うほど、街には隠れる場所がない事を思い知る。
不安な心を抑えながら、物陰に潜んで様子を窺い、次の物陰を探す。
そしてまた、彼はそこを移動していく。
その時だった。
彼の背後に、何かが崩れる音が響き渡る。
慌てて振り返り、そこから死角になるような場所へ飛び込む。
誰かいたのか。
こちらの存在を確認されたのか。
角にうずくまるように身を隠し、息を殺し、耳をすませて続く物音を確認する。
だがもう音はしない。世界は無音に戻っている。
慎重に顔を出し、落ち着いてその音の発生源を確認するが、そこには誰もおらず、ただ立てかけてあった看板が倒れただけだった。
「なんだよ、脅かすなよ……」
誰もいなかったことで、彼は少し安心して物陰から出て行き、そこを確認する。
やはり誰もいない。
何度も周囲を見回し、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
誰もいない。
風で倒れただけだ。
誰もいない。
そう考えると、何か無性にその倒れた看板に腹が立った。
「勘違いさせるなよ……」
看板を蹴り飛ばすと、滑りながら店先のディスプレイに当たって、シャッターを叩く音が、無人の街に響き渡る。
思いのほか大きな音になったことで彼は少し驚きつつも、そのイライラを少しまぎらわせて満足を得る。
だが、それも一瞬だった。
どこか遠くから足音が聞こえた。
まだ遠く小さな音だが、走っているような、慌てているような、今度は本当に人の作り出した音だ。
誰かがいる。
誰かが来る。
彼は再び物陰に潜み、息を殺す。
そして自分の不用意さを呪う。
自由などもはやどこにもないのだ。
ただひたすらに、彼は存在しないものでなければならない。
それなのに……。
後悔ばかりが彼の脳裏を支配するが、それでも、彼はなんとか現実を優先させる。
耳をすませ、現在の状況を確認する。
いつの間にか音は消えている。
三度の無音が、場を支配する。
「近くに、誰かいるのか……」
もう一度足音を確認すべく聞き耳を立てる。
だがもうなにも聞こえない。
気のせいだったのだろうか?
それとも、相手もこちらの出方を伺っているのだろうか?
待つことも考える。
逃げ出すことも考える。
だがそれでも、彼にはもう前に進むしか選択肢がないように思われた。
誰かいるのなら、その人物を確認しなければならない。
「……行くしか、ない、か……」
この世界を信じるために、音の方に向かい、彼は静かに歩き出した。
商店街を抜け、角から、街の中央を走る国道を見る。
誰もいない街並み、誰もいない道。
だが彼は、そこでついにもう一人の人物を見つけたのである。
反対車線側の歩道、自分と同じくらいの年齢の女性が、少し緊張した面持ちで静かに立っていた。
その姿に、彼は言葉を失った。
彼女は、その片側三車線の国道の反対側で、誰もいない世界の信号が、青に変わるのを待っている。
信号を待つ彼女の態度が、人がいない事を忘れさせるかのようにあまりにも自然で、それでいて車のいないこの世界ではあまりにも不自然で、彼は自らの目を疑ったのだ。
もう一度、彼女を見直してみる。
肩の少し上まで伸びた黒い髪に、小さめな整った顔。
その眼や雰囲気には何か芯に秘めた強さがあり、遠目からも美人とわかるその姿は、まさにこの世界にただ一人存在する人間に相応しいのかのようである。
だが彼は話す前から、彼女に対して、強く明確な不安を感じた。
この世界を手放すことになるのは、彼には耐え難いものだった。
全ての感情が交じり合い、せめぎ合い、彼の心でひしめき合っている。
自分のその感情を自分自身に誤魔化すように、彼は言葉を探す。
「人が、いた……」
思わず口だけでそうつぶやくが、彼の心は変わらず混乱したままだ。
嬉しいのか。
恐いのか。
哀しいのか。
寂しいのか。
今までずっと迷いに迷っていた感情は、他人という現実を目の前にしてなお、形を決めきれず混沌としたものになっていく。
答えなど出ない。
それでも、この世界にいる人物はもはや、彼と彼女だけである。
彼女を避けて生きることは不可能だろう。
今は目の前の現実を受け入れなければならない。
彼は角から出て行って信号を渡り、彼女の元へと歩いていく。
両手を挙げて振りながら、敵意がないことを示す。
「おーい、人がいたのか!」
そう叫びながら、国道を横断する。
「あなたは……」
彼女はそう言って、驚きの表情で彼を呆然と見つめている。
その表情に、思わず彼の足も止まる。
「……君も、こっちにいたのか?」
なんと聞いていいのかわからず、彼は道の中央に立ったまま、しどろもどろにそんなことを尋ねる。
「この世界に、人がいたなんて……」
信じられないという表情のまま、彼女の口はただぼんやりとそう漏れる。
彼は再び、ゆっくりと彼女の元へと歩いていく。
「……」
彼は信号を渡りきり、彼女の目の前までやってきた。
だが来たものの、なにも言葉は出てこない。
人を捜してはいたが、人と出会ったときのことなど、微塵も考えていなかった。
彼は、この世界を信じていたのだ。
この世界には、誰もいないはずだった。
「……」
その誰もいない世界に存在した二人の人間は、お互い、存在していなかったはずの人物を見ながら、互いに言葉を見つけられずに黙っていた。
彼にしても、聞きたいこと、言いたいことはいくらでもあったはずだ。
だがいざその人物を目の前にすると、全て消し飛んでしまい、口は重くなるばかりである。
「……」
音のない世界で黙り込む。この世界でただ二人の人間。
全ての音が消えて、もう一人の人物の息づかいや緊張する心臓の鼓動まで聞こえてきそうだ。
そのことがさらに、彼の口を閉ざしていく。
信号が青になり、再び赤へと変わる。
もはや意味を無くした信号。
だが、それは彼にとってだけだった。
「……そういえばあなた、さっき、信号無視をしたわね……」
長い長い沈黙の後、最初に口を開いたのは彼女の方だった。
冷たい口調でそう言うと、彼女は少し彼を睨むように視線を向けている。
その意外な言葉に彼はまず呆気にとられたが、冷静さが戻るにつれて、徐々に怒りが湧き上がってくるのがわかる。
この女性はなぜ、この世界に来てまでそんなことを言うのだろうか?
「……いまさら、そんなことどうだっていいじゃないか。この世界はもう誰もいないんだ。見てみなよ、どこからも車なんか来やしない」
そんな棘のある彼女の言葉につられて、彼も思わず強い口調で反論する。
彼の言うように、この世界にはもう誰もいない。
その証拠に、普段なら車の通りが絶えることのないこの国道に、今はただの一台も車が走っていないのだ。
そんな状況で彼が信号を無視しても、今更何も問題はないだろう。
だが彼女は違った。
その言葉を聞いてあからさまに不機嫌な表情を浮かべ、再び彼を睨み付ける。
「……そうとは限らないわ。あなたがいたように、他にも誰かいるかもしれないじゃない。その時、あなたのその勝手な行動が、迷惑をかけることになるかもしれない……」
彼女はあくまで静かに、だが強く、冷たく、彼の意見を拒絶する。
「確かに、世界は今は誰もいないわ。でも、いつ元に戻るかもわからない。もし、突然元に戻ったら、あなたの行動はあなただけじゃなくて、他の人たちにも影響を及ぼすかもしれないのよ」
彼女の言葉は完全な正論であり、彼は自分の行動や考えが間違いであることを突きつけられる。
だがそんな正論など、今となっては机上の空論でしかない。
この世界には誰もいないのだ。
現に、彼女とここで出会うまで、彼は誰一人として人間に出会っていない。
「じゃあ聞くけど、君は、この世界で誰か他の人間に会ったのか?」
現実を突きつける。
この世界の、今現在の現実だ。
その言葉に彼女は首を振るが、それでも、彼女の眼は揺らいではいない。
強い意志を持ったまま、彼女の視線は彼を貫いている。
「いいえ。けれど、あなたがいたわ。なら探せば、他にももっと人がいるかもしれないじゃない」
他にも人がいる。
彼女の口からこぼれたその言葉は、彼の耳と心に奇妙な響きを残し、妙に不快な気持ちを渦巻かせる。
こんな世界に、一体誰がいるというのか。
この世界は、自分ただ一人の世界ではないのか?
そうではなかった。
彼女がいた。
それだけでも世界は大きく変容したというのに、彼女はさらに、この世界を僕から奪い取ってしまおうというのか?
「いずれにしてもこの世界は一人の世界ではなかったということね。あなたにもいろいろ聞きたいこともあるし、どこかで落ち着いて話をしましょう」
彼女はそう言うと、彼のことなどお構いなしに歩き出す。
彼は湧き上がる不愉快さを抑えながら、その後を追いかけるように付いていくだけだった。
近くの公園でようやく落ち着いて、二人はお互いの自己紹介をする。
彼女はこの街に住んでいる大学生で、彼と同い年だった。
市外の大学に通っており、五日前、朝起きると誰もいなくなっていたらしい。
その後は、人を探しながらこの街や他の街を歩き回っていたが、彼女も結局誰とも出会うことなく、五日目を迎えていたのだ。
そしてようやく、初めて他の人物、つまり彼と出会ったのだという。
「つまりは、状況的にはこちらと変わらないって事か……」
彼の言葉に彼女はただ静かにうなずく。
二人の話をまとめてもなんら状況は変わることなく、打開策はいっこうに見つかりそうもないままである。
「……そういえば、あの駅前のコンビニの書き置きも君が残したのか?」
再び気まずい沈黙がおとずれる前に、彼は誤魔化すようにそう尋ねる。
彼の言葉に、彼女は静かにうなずいた。
「ええ、誰もいなかったから、申し訳ないけど勝手に持っていかせてもらったの。だってああするしかなかったのよ……」
その答えに、彼は返す言葉を持ち合わせてはいなかった。
この女性は、誰もいないからといって勝手に物を盗っていく人間ではないのだ。
彼女は、自分の行動に罪悪感を覚えているらしく、少しうつむいて言葉を無くす。
「……いやでも、もう誰もいないんだから、お金なんて置いていかなくてもいいんじゃないかな?」
彼は、そんな彼女の様子を見て、安心させるようにそう言った。だがその言葉にまた、彼女の顔に不機嫌さが滲んでいく。
「……まさか、あなたはお金も払わずに物を持っていってるの?」
再び彼女の言葉が詰問口調になり、彼の行為と態度に対して責めはじめる。
こんな世界であろうとも、彼女にとって社会の存在は確かなものらしい。
「……ああ、お金を払う相手もいないしね」
彼は少し迷ったものの、すぐにそれを認めた。
今さらそんなことを隠しても仕方がないし、それ以上に、彼女の振りかざす正論に反発したかった。
彼は彼なりに、自分の行動や考えの正しさを信じていたのである。
それがこの世界でしか通用しないような身勝手なものでも、この世界では自分の方が正しいだろうと。
ましてや、彼女のための言葉で、なぜ自分が責められなければならないのか。
「この世界はもう誰もいないんだ。お金を払う相手もいなければ、お金を得る手段もない。ここは、今まで住んでいた向こうの世界とは全く別の世界だよ……」
それが、彼の率直な意見だった。
誰もいないし、なにもない。
ならばいったいなにに気を遣う必要があるというのか。
「……本当に、本当にそうなのかしら……、もしかしたら、他にも人がいる可能性もあるんじゃない……?」
少し不安げに彼女はつぶやく。
そんな当たり前の不安を、彼はすでに忘れかけていた。
他人など、もういないはずだ。
その、この世界に現れたもう一人の人間を見てもなお、彼は心のどこかでそう信じているのだ。
「……さあねぇ、まあ、こんなところで他に人がいても、今さらこの世界はなにも変わらないとは思うけど」
彼の口調はもはや諦めですらなく、この世界への不思議な安心と信頼さえ感じているものだ。
いや、むしろそれは彼の願望でさえあった。
この狂った世界に、彼は適応してしまっていたのである。
「でも、あなたがいたように、他にも誰かがいるかもしれないわ。こんな世界なんだからこそ、その人達とも力を合わせていかないと……」
彼の願いとは相成れない彼女の意見。
そんな彼女の言葉を、彼はただ訝しげな表情で聞いている。
「他の人間か……、まあ、いないとは限らないけど、探すだけ無駄だと思うよ?」
不安と希望を滲ませる彼女の態度とは対照的に、彼の振る舞いはあくまで、冷静かつ消極的なものである。
同じ世界にいながら、彼と彼女はまったく別の世界を見ているかのようだ。
「第一、探すと言ってもどうやって? まさか、一軒一軒見て回るつもりなのかい?」
「まあ、それしかないかもしれないわね」
平然と彼女はそう言ってのけ、それを聞いた彼は、驚きで肩を落とし、ただただ呆然と彼女の顔を見た。
彼女の心に宿っている希望は、全てを失い、途方もないこの世界を目の当たりにしてなお、折れていないというのだ。
「そこまでして人を探して、いったいどうするつもりなんだ? この街を見てもわかるように、もう世界はなにも機能していないじゃないか……」
彼は言った。
世界はすでに崩壊していると。
だが彼女は、頑ななまでにそれを拒む。
「そんなのわからないわ。人がいないのはこの辺りだけで、他の地域にはまだ普通に人がいるかもしれないじゃない。それに、いったいなぜ人がいなくなったか、その原因も探らないと……」
ああ、そうか。
彼はようやく、そこに横たわる溝の形を認識した。
彼女はどこまでもこの世界からの出口を探しているのだ。
しかし、彼はすでにこの世界の出口を諦めている。
そんな二人が相成れるはずがない。
「まあ、それなら勝手に頑張ってくれよ。僕には関係のない話だ」
そして彼は、彼女の世界を拒絶した。
二人の間の溝は、埋められないほど大きく、そして深いものだった。
「……あなたは、なにもしないの?」
彼女の顔には、あからさまな驚きが浮かんでいた。
だがそれに対しても、彼の方は感情がないままで、まるで自分の世界だけを見ているようである。
「僕は、この世界にまあまあ満足しているんだ。今さら他の人間と会いたいとも思わないし、この世界の原因にも別に興味はないさ。だから、僕はなにもしない。君の邪魔もしないから、君は君で、勝手に君のしたいことをしていればいいよ」
彼の全てを諦めたその言葉に、彼女は静かにその人物を睨みつけた。
その眼に滲んでいたのは怒りであったが、それ以上に、恐怖という感情がその色を強くしているようだった。
「……呆れた。あなたはいったい、なにを考えて生きているの……?」
それまでよりも、彼女の言葉はさらに棘がある。
しかし、それは今までのような嫌悪の感情が生み出す冷たい槍ではなく、まるで彼そのものの存在を恐れているかのような、自己防衛的なハリネズミの棘であった。
「……別に関係ないだろ。どうせこんな世界なんだ。僕は僕で勝手に生きるから、あんたはあんたで勝手に人を探せばいいさ」
自分に向けられた恐怖を感じ、彼は突き刺さるその棘を引き抜くように、心の奥に燻っていた感情を吐き捨てる。
「……あなた、元の世界に未練はないの……」
彼のその態度に対して、彼女はそれまでと異なった、静かで平坦な口調で疑問を口にした。
「……」
さすがに、彼もその質問には回答を悩んだ。
実のところ、彼はこの世界に来てから、向こうの、つまり元の世界のことなど考えたことなど無かったのである。
ただ誰もいないことに怯え、誰もいないことに慣れ、そして、誰もいないことを喜んでいた。
そう、彼は形はどうあれ、最初からこの世界を受け入れていたのだ。
そんな彼にとっては、誰かがいた世界などすでに遠い昔の記憶でしかない。
だからこそ彼は、彼女の質問への回答を持ち合わせていなかったのである。
「……私は、元の世界に戻りたい。したいことだってあるし、友達もいる。確かに、嫌なこともたくさんあるけれど、私は、わたしは……」
何も答えない彼に対して、彼女は、自分の感情を吐露するが、次第に言葉に詰まり、そのまま顔を伏せたままただ黙り込んだ。
「……」
彼女はそれ以上なにも言わず、言うことも出来ず、ただ、その小さな肩だけが震えている。
「……」
彼も何も言わない。彼女にかける言葉もないし、それ以上に、彼は彼で、この世界と向こうの世界の狭間で悩み続けていた。
答えはすぐ近くにある。
そして、本当はそれがなんなのかにももう気がついている。
だがそれを明確にしてしまえば、全てが終わってしまう気がする。
終わらせられない。
この世界に適応してなお、彼の最後の感情によって残されたなにかが、彼を心の欠片をまだ向こうに留めているのだ。
音もないこの世界の、音もない静かな街に、彼女の嗚咽だけが響き渡る。
その隣で、彼は黙ったまま考え込む。
この世界と向こうの世界。
自分はどこにいるのだろうか。
そんな空間で、どれほどの時が過ぎたのだろうか。
「……ごめんなさい、取り乱してしまって」
しばらく泣き崩れていた彼女はようやく冷静さを取り戻し、そう謝罪する。
だがその言葉さえも聞こえないほどに、彼は悩み続けていた。
「……僕は、これからどうしたいのか、自分でもわからない……」
彼女の言葉に気が付かないまま、彼はただそう口にする。
その言葉は嘘だったが、今は、それ以上の答えは見つからない。
この偽りは彼女に対してのものではない、自分自身の本心が、自分に真実を突きつけられないのだ。
「……正直に言えば、向こうの世界の事はこっちに来てから考えたこともなかった。さっきも言ったように、僕がこの世界に満足しているのは確かなんだ。だけど、向こうのことを考えると、やはりなにかが引っ掛かる。もう少し、考える時間が欲しい……」
こちらは、彼の純粋な感情である。
いまさらなにが引っ掛かっているのかは、正直なところ自分でもわからない。未練など無かったはずなのだ。
だがそれでも、向こうの世界の事を考えると、なにかが心の片隅に残っているように思えてしまう。
「……今日のところは、一人にしてもらえないか。まだなにもしていないけれど、僕はもう自分の部屋に帰らせてもらうよ。とにかく、今は一人で考えたいんだ。また明日、ここに来るから、その時にもう一度この話を……」
彼は彼女を見ることなく、ただ、一方的に自分の言葉だけを並べていく。
彼女の顔を見れば、負けてしまう気がしたのだ。
彼女に負けるのか?
それとも、精一杯抑えていた自分の心にだろうか?
そして彼は、そのままその場を後にしようと歩き出す。
彼女はなにかを言おうとしていたが、彼は振り返ることなく立ち去っていった。
そして彼は今日も、この自分の部屋に戻ってきた。
この世界が変わってしまうよりも前から、変わることのない彼の日常の場所。
だが、外の世界は今日もまた変わり続けているのだ。
毎日がそうだ。
今日もまた、彼自身にとって信じられないことが起こったのだ。
この世界に、自分以外の人間がいた。
それが信じられない。
だが、彼女はいた。
それは間違いようのない、揺るぎない事実である。
彼女を見て、彼女と話し、彼女に対して様々な感情を抱いた。
その事実が消えることはない。忘れることも出来ない。
たった一人の存在が、世界を大きく変えてしまった。
いつも通り、変わりのない日常を過ごそうと考えても、彼女の存在が心の片隅に残り続け、彼女の言葉の一つ一つが、彼の心で耳鳴りのように響いている。
彼女は、この世界と戦い続けている。
この世界を否定し、自分であることを守ろうとしている。
自分はどうだろうか?
彼の心はこの世界に浸食され、もはや向こうの世界のことなど遙か彼方に霞むばかりで、その存在さえも忘れかけてしまっている。
『……あなた、元の世界に未練はないの……』
そんな忘れかけたはずの世界を背に、彼女の言葉が思い出される。
彼女の後ろには、見たこともないような人々と、どこかで見たような、だが、もう忘れてしまった人々が、ただなにもすることなく立っている。
そこに彼女がいて、自分がいて、人々がいるのだ。
元の世界。
向こうの世界。
人々で溢れていた世界。
もはや彼の心から、その世界は消えていたはずだった。
彼にとっては、『世界』とはすでにこちらの世界になろうとしていたのである。
だが彼女は言った、向こうの世界に戻りたいと。
彼女がいたことで、彼の世界はもう一度大きく変容する。
自分は今、どこにいるのだろうか?
不愉快だった元の世界でもなく、自由だったこちらの世界でもなく、また新しい世界が、彼の心を飲み込もうと、高く高く波打っている。
考えても答えなど出ない。
ただ彼の前には、世界があるだけなのだ。
彼女は、この世界の正体を探るという。
他の人間がいないか探すという。
果たして、他に人間などいるのだろうか?
全ての可能性は、もはや否定することはできない。
この世界に彼女がいた。
それだけで、この世界には無限の可能性があるといえるのだ。
彼はずっと、これからの事を考えていた。
この世界もまた、彼のいないところで変貌を遂げていくのか?
いつしか、世界に人々が戻ってくるのか?
もはや彼にはそれを想像することは出来ない。
ここは、一人の世界のはずだ。
長椅子を蹴飛ばしても、ガラスを叩き割っても、コンビニからお金も払わずに物をとっても、道路の真ん中を自転車で走っても、ホームから下りて線路を歩いても、信号を無視しても、誰もなにも言わない。言う人間さえ存在しない。
そんな世界ではなかったのか?
世界を思い出そうと考えれば考えるほど、彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
この、一人の世界に存在している、もう一人の人物。
全ての可能性の元凶。
彼は全てを忘れようと、窓の外に広がる風景に目を向けた。
誰もいない、無音の世界はまだそこに広がっている。
だがそれは、今となっては表面上にしか過ぎない。
この闇の下のどこかで、彼女もまた、眠りについているのだろう。
そしてそれは、彼女だけなのだろうか?
この世界で夜を迎えているのは、彼女と自分だけなのだろうか?
その答えは出ない。なにもわからない。
彼は横になって、闇の中で思考を走らせる。
彼女と、これからどうやってこの世界で過ごしていくか。
一人で生きることも、二人で生きることも想像できない。
今の彼には、なにも想像できなくなっている。
世界は、彼の想像よりも早く変化を繰り返しすぎたのだ。
どれが真実で、どこまでが妄想なのか?
彼が信用するべき物はなにか?
本当は、やっぱり世界には誰もいなくて、目を覚ませば大学はいつものように人が溢れていて、僕は音のない街で、彼女に出会うのだろうか?
全ての可能性。
否定も肯定も出来ぬまま、彼は漆黒の中に身を委ねていく。
「まあ、もう一度話してみよう……」
そうだ、彼女のことをなにも知らないのだ。
たとえどれだけ話が合わなくても、いけ好かなくても、彼女の存在そのものが彼にとって不快であるとさえいえたとしても、この世界に彼女が存在しているのなら、彼女について知らなければなるまい。
なにも知らぬままでは、事態は確実に悪化する。
結局彼は、ただそれだけの結論しか導き出すことしかできなかった。




