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四日目 崩れ去った、ヒトリノセカイ

 そして今日も、いつものように朝が来た。

 いつもの時間にアラームが鳴り、いつものように目を覚ます。

 世界の全てが変わってしまっても、彼は自由にその時間に目を覚ますのだ。

 着替えを済ませ、彼はいつものようにぼんやりとした朝を過ごす。

 なにも変わらない日常。

 変える必要もないだろう。

 テレビが付かないのは玉に瑕ではあるが、今さらそんなことは些細な問題だ。

 そして今日も、誰もいない世界へと踏み出していく。

 外に出れば、また無音で人のいない世界が広がっている。

 そんな中自転車をこいで、いつものように大学へ向かう。

 数日前までは、あの集団の中で授業を聞くためにここに来ていた。

 昨日までは、誰か人がいないかを確認するためにここに来ていた。

 だが今は、またここに来る意味が変わっている。

 自由な世界を確認するのだ

 ガラスは割れたままだ。

 ベンチは落ちたままだ。

 車は相変わらず一台もなく、掲示板には何ら新しい情報もなく、扉はガラスの割れた場所以外は閉ざされたままである。

 そんな変わらぬ世界に安堵して、彼は今日も街へと向かっていく。

 無人の道、無人の街。

 これが手に入れた自由。

「さて、今日はなにをするかな」

 胸の奥に湧き上がる楽しみを抑えながら、彼は駅前のベンチに腰掛けてその日一日の過ごし方を考える。

 昨日の夢と繋がった今日の現実。

 悪夢でしかなかったはずの世界が、今では彼の理想郷となった。

「まあ、飯でも食べながら考えるか……」

 そう言って、駅前のコンビニに入る。

 もはや彼は、既にこの世界において、コンビニエンスストアというものに興味を失いかけていた。

 この極度にオートメーション化された場所は、人がいてもいなくても、中での行動の違いは代金の支払い程度でしかない。どんな場所のどの店でも、そこにさしたる差は見出せないのだ。

 無限に全てを楽しむ自由と時間があるのに、なぜわざわざ同じような場所に来なければならないのか?

 生活ではない娯楽としての日常に、代わり映えのしない退屈など必要ない。

 だからこそ彼は昨日散々この辺りを歩き回ったにもかかわらず、結局一度もこのコンビニに入ってはいなかったのである。

「コンビニは、どこも大して変わらないんだよな……」

 彼のぼやきが、彼の現在のコンビニ観を示している。

 この世界におけるコンビニなど、今となっては向こうの世界を象徴するかのような、変化のない停滞そのものだ。

 だが彼はその退屈な場所の中で、彼の世界の崩壊を見ることとなった。


「……なんだ、これ……」

 その店の変わり映えしない店内の、変わり映えしないレジに置かれていた、ありえないはずの一枚の紙切れ。

 彼は思わずその紙を手に取り、書かれていた内容を確認する。

 そしてそこに書かれていたものこそが、彼の世界を覆す象徴そのものだった。

『すいません。誰もいないみたいので、勝手にペットボトルの紅茶とチョコレートを持っていきました。お金を置いていきます。お釣りは要りません。申し訳ありませんでした』

 丁寧に破られたメモには、丁寧な字でそう書かれており、そのメモの脇には、丁寧に五百円玉が置いてあった。

「……」

 その書き置きが意味すること。それは実に簡単なものである。

『この世界に、自分以外の人間がいる』

 いつのまにか、考えもしなくなっていた可能性。

 忘れていたのか。

 忘れようとしていたのか。

 もうそれすらもわからない。

『誰もいない』という一文が、この書き置きを残した人物もまた、この無人の世界の中にいたということを表している。

 そのメモを見て、彼の心の中には、複雑きわまりない感情が渦巻きはじめる。

 嬉しいのか。

 不安なのか。 

 怒りなのか。

 安心なのか。

 悲しいのか。

 自分自身でも、その感情がどれなのかわからない。

 それまでの事実は、再び事実ではなくなった。

 誰もいないはずの世界に、誰かがいる。

 彼は慌てて店を飛び出し、あたりを見回す。

 だが、どこにも誰もいない。

 静かな街はいまでも、自分が来たときと同じように静かなままだ。

「……」

 なにかを叫ぼうとした。

 だが、なにも声にする事が出来なかった。

 人がいるという事実は、彼の心を大きく迷わせている。

 誰もいないように振る舞いたい自分が、そのもう一人の人物との接触を避けたがっているのだ。

 だがそれでも、この世界にもう一人いるはずの人間に会いたいと思う自分もいる。

 彼は自転車を置いたまま、街の中へと歩き出す。

 その、『誰か』と出会うために。

 その『誰か』がいないことを確認するために。


 駅前の商店街には、今日も誰もいない。

 つい先ほどまでは、それを当たり前として受け入れていた自分。だが今や彼の感情は、再び大きく揺れている。

 彼の視界には見えていなくとも、どこかに、誰かがいるのかもしれない。

 あの書き置きを残した人物のように、自分以外にも人がいる可能性は充分にある。

 その気配を探るように、彼は、ゆっくりと商店街の奥へと歩いていく。

 静かな街の奇妙な光景。

 アーケードに光は漏れているが、その下には自分以外の誰も歩いてはいない。

 全ての店はシャッターを下ろし、街に相変わらず人影はない。

 昨日とまったく同じだ。

 もう見慣れた光景。

 この世界はどこもそうなのである。

 問題は、それが間違った認識であったこと。

 人が『誰も』いないのではない。『ほとんど全て』いないだけにしか過ぎないのだ。

 自分一人だけではなく、自分以外の別の人間がこの世界に存在している。

 0と1。

 数字にすればさも小さいかのように錯覚するその差は、実感としては果てしなく大きいものに感じられた。

 商店街を歩き回っても、やはり彼以外の人間はどこにもいない。

「なにかの間違いだったのかな……」

 コンビニでのメモを思い出す。

 いや、間違いのはずはない。

 あの駅前のコンビニに誰もいないなど、この世界以外には考えられない。

 では、あのメモを書き残した主はどこへ行ったのか?

 この世界はすでに四日目を迎えている。

 となれば、かなり前の段階であのメモが残され、書いた本人はすでに遠くへと行ってしまったのではないか?

 そう考えたところで、彼の心に以前の平穏が戻ってくるわけではない。

 人がいる。

 人がいた。

 その事実は揺るがない。

 この世界にいるのは、自分一人ではないのだ。

 そうして人捜しをしながら街をさまよっている内に、日も傾き始めていた。

 結局一日中探し回ったものの、誰一人他の人間は見つからず、そのコンビニに残された痕跡のみが、他人がいたという証だった。

 彼は再び駅前のコンビニに戻ってきた。

 店の中には相変わらず誰もおらず、ただ来たときと同じようにあのメモだけが残されている。

 もう一度、いや、何度も何度もそのメモを見直してみる。

『すいません。誰もいないみたいので、勝手に紅茶とチョコレートを持っていきました。お金を置いていきます。お釣りはいりません。申し訳ありませんでした』

 どれだけ見直してみても、それは世界の崩壊そのものだ。

 普通の世界なら、このコンビニに誰もいないことなど考えられない。

 ましてやメモを残していくような人間だ。

 誰もいないからといっていきなり書き置きを残して商品をもっていくはずがない。

 その人物も、この誰もいない世界を彷徨っているのだろうか。

 彼もまた、その人物に向けて何かメッセージを残そうとも考えたが、自分の存在を知られることに少し不安を感じた。

 だがもしも、もしもその人物が、一人であることに喜びを感じているとしたら……?

 そう考えると、自分の存在を極力隠しておかねばならない気がした。

 少なくとも、相手より先にこちらがその人物を見つけねばなるまい。

 彼の心の中で、未知なるもう一人の人物に対する恐怖が大きくなっていく。

「戻ろう……」

 誰もいない街に、人がいる。

 そのことが、彼の背中を強く押していた。


 彼は自転車に乗って、再び自分の部屋に向かってこぎ出す。

 今日の行きまでとは異なり、その足取りは果てしなく重い。

 慎重に、隠れるようにしながら、彼はゆっくりと自分の部屋に向かう。

 そして誰もいない道を進んでいる間もずっと、見も知らぬ他人の影が脳裏にちらついている。

 いったいどこにいるのか。

 どんな人物なのか。

 なにをこの世界に感じているのか。

 なんの情報もないが、その人物の存在を否定することはできない。

 あのメモが鮮明に思い出される。

 この世界にもう一人の人間がいたという、なによりの証拠だ。

 そして、彼もこの世界に存在している。

 自分はこれから、どうしていけばいいのだろうか。


 ようやく彼は中央街を抜け、幹線道路を越え、見知らぬコンビニの先の、街から大きく離れた住宅街付近まで戻ってくる。

 誰もいない世界。

 どこにも人の気配はないままである。

 帰りがけに大学の様子を覗いてみるが、相変わらずガラスは割れたまま、長椅子は落ちたまま変わっておらず、ここに人の来た気配はない。

 その人物は、中心街からどこか別の場所に行ったのだろうか?


 結局彼が自分の部屋に戻って来たときには、あたりは真っ暗になっていた。

 他の部屋に電気もつかないままのため、アパートは本当に暗い。

 道路の街灯は点いてはいたが、アパートそのものは闇の中に融けてしまっている。

「ここにも、誰もいないな……」

 街での出来事の後この暗さを見ると、初日に見た恐怖とはまた違った想いが浮かぶ。

 少なくとも、このあたりにいる人間は自分一人らしい。

 まだ見ぬ人物は、いったい今、どこでなにをしているのだろうか?

 自分の部屋に戻っても、彼はそのことばかりを考えていた。

 その人物もおそらくは、一人でこの世界をさまよっているはずである。

 そいつも、誰か他の人物を捜しているのだろうか?

 ならば、自分を見つけようとするのではないか?

 いや、向こうには自分が存在している事はわからないはずだ。

 なにも証拠は残していない。

 いや、証拠は残っている。残してしまっている。

 大学には、割れたガラスと落ちた長椅子がそのまま放置されているのだ。

 彼は自分の浅はかな行動を悔やみ、心に生まれた綻びからさらに恐怖が染み込んでくる。

 もはや彼はそれまでの日々と異なり、この部屋にいようとも安心することが出来なくなっていた。

 すぐさま部屋の電気を全て消し、誰もいないかのように振る舞う。

 このアパートは無人である。

 相手にそう思わせねば。

 音もない暗闇の中、カーテンの隙間から彼はずっと外を見ていた。

 周囲に相変わらず人の気配はない。

 ただ一面の闇が、その眼下に広がっている。

 やはり、このあたりには誰もいないのだろうか?

 学校にも人の来た気配はなかったし、あの書き置きにしても、いつ書かれたものか全くわからない。

 人は来ない。それでも彼は窓の外に睨み続ける。

 一瞬も見逃すことは出来ない。その一瞬に人が通り過ぎてはなんの意味もないのだ。

 ただただ、彼は夜の闇を見つめている。

 時間だけが流れていく。

 人が来ないことを確認しなければ。

 人が来ることを確認しなければ。

 僅かな隙間から見える、変わらない闇の世界。

 なんの動きもない。

 音のない暗黒は、時が止まったままのように何も変化が起こらない。

 どれだけ時間が流れたのか?

 今何時なのか?

 それさえももうわからない。

 闇の中、静寂の中、彼はまばたきさえ惜しむほどに、カーテンの隙間から変わらぬ外を見つめていた。

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