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三日目 ただそこにある、ヒトリノセカイ

 そして朝はいつものように来る。その朝がどういう形であれ。

 手早く着替えをすませて部屋を出る。

 夢は夢、願いは願いでしか無く、人は相変わらず誰も存在していない。

 もはや、彼にとっては人のいないこの世界の方が現実であり、人のいた世界など、夢の彼方へと消えてしまいそうだった。

 そのことを認識して、思わず首を振る。

 これは悪い夢だ。いつかは覚める。

 そう自分に言い聞かせて、彼はまたその終わることのない悪夢を終わらせるべく歩いていく。

 家の中に引き籠もっていようと、全てを見なかったことにして忘れてしまおうと何度も何度も考えた。

 だが、それではなにも変わらない。

 世界は変わってしまっているのだ。

 自分が変わっていないフリをしてもどうにもならない。

 幾度も世界の形を思い出すたびに、彼の中でそんな感情が強くなっていた。

 それになにより、もう彼の脳裏から、あのアパートの死体は、死んだような住宅街は、死体のない自殺の現場は消えることはない。

 そして彼は、『いつも』と同じように、学校へと向かう。

 人のいた頃は学校へ行って日常を過ごしたが、人がいなくなってからも、学校へ行く日常はあまり変わってはいない。

 ただそこに人がいなくて、その存在を探し求めることが日常に変わっただけだ。

 それに、昨日の夜のことも確認しなければならない。

 蹴り飛ばした長椅子は、相変わらず花壇の中に落ちたままである。

 誰もいないということは、長椅子を戻す人間もいないということ。

 当たり前のことだ。

 その当たり前が、今更ながらに重かった。

 そして当然のように、E棟一階の自分が脱出した扉は開けられたままだったし、侵入した北東の端の扉のガラスは割られたままだった。

「……」

 彼はその前に立ち、割れたガラスを見つめる。

 一枚、その破片をすくい上げる。

 この世界では誰もそれを片付けはしない。おそらくはずっとこのままだろう。

 キラキラと日差しを受けて、まるで世界とは無関係に、その破片は輝いている。

 足下に目をやれば、そこでも、割れたガラスはおのおのが自由に、光を浴びて虹色の輝きを放っている。

 誰もいなくなった世界。

 ただ自分だけが、その異常な世界に生まれた、ありえないような光を見ている。

 人がいて、日常の営みが存在していたのなら、見ることはなかったであろう光。

 自分一人が独占することの出来た虹。

 そう考えると、なにか全てが馬鹿馬鹿しくなってきた。

 ここは、誰もいない世界なのだ。

 今更ながらに、それがどういう事かを理解できた気がした。

「そうだ、誰もいないんだよな」

 彼はそうつぶやいて、上を見上げた。

 この時間では、E棟八階の明かりはわからない。

 再びあの部屋へと向かう。

 もはやそこには恐れなどなくなっていた。

 それでも誰もいない校舎内は、夜とはまた違った不気味さを持っている。

 光が各所から差し込んでいるにもかかわらず音もなく気配もないその空間は、今までの日常からは、大きくかけ離れすぎている。

 エレベーターも昨日のまま一階に止まっている。

 ボタンを押せばすぐに扉は開く。

 昨夜はあんなに不自然に明るかったエレベーターの中が、今は逆に少し薄暗く感じる。

 八階のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと上がっていき、すぐに目的地にたどり着いた。

 その遅さにもかかわらず、時間は昨日よりも短く感じられた。

 恐怖におののいていた廊下も、今日は明かりが差し込み、厳かな雰囲気すらある。

 そして角を曲がると、あの部屋が確認できた。

 投げ出された折りたたみの椅子と、開けっ放しの扉。

 なにもかもは昨日のままだが、夜とは明らかに違う。

 ゆっくりとそこに近付き、昨日と同じように中を覗く。

 散らばったガラス片が燦めく床と、本棚に隠れて少し暗い部屋。

 ガラスを踏まないように、部屋の中に入っていく。

 そこも、昨日となにも変わっていない。

 つけっぱなしの電気。

 乱雑な本棚。

 整理された机とその上の封筒。

 そして、垂れ下がったロープと輪。

 ここでなにが起こったかは見ただけで察しがつく。

 だが今の彼にとってはすでに、そんなことさえどうでもいいことであった。

 事実としてあるのは、そこに誰もいないことである。

 それだけで充分だ。

 封筒に手を伸ばし、中を開けて読んでみる。

 仕事の悩み、人間関係の悩み、その他諸々の細かい悩み。

 悩みばかりが膨れていった様子がわかる。

 静かに、封筒を机に戻す。

 悩みなどもうあるまい。

 悩んでいる人物がいないのだ。

 全てはもはや関係のない世界。

 部屋を出て、校舎を出て、再び外へと出る。

 もはや昨日とは全て違う。

 恐れることなど、なにも無いのだ。

「街へ行ってみるか……」

 再び決断する。

 だが、一つ大きな問題があった。

「どうやって街まで行くか、だな……」

 昨日歩いてみてわかったことだが、街は遠い。

 歩いていては、また日が暮れてしまうだろう。

「そうだ、自転車……」

 アパートの前の自転車置き場は誰も鍵をかけていなかったはずだ。

 学生が多いとはいえ、こんなところで車も持っていない人間は少数派だし、それ以前に、こう隔離され特定の人間いない場所では、治安どうこういうこともなかったのである。

 そうと決まれば、彼はアパートまで走って帰っていき、自転車置き場へとたどり着くと、早速自転車を物色し始めた。

 いくつかの自転車は律儀に鍵がかかっていたが、大半の自転車には何の防犯対策もされておらず、自由に持って行くことが出来そうである。

 その中から適当に乗りやすいものを見繕い、一気に街に向けてこぎ出す。


 その足取りは、今までの彼からは想像出来ないほど軽いものだ。

 世界がひっくり返ったかのように、今の彼には全てが明るいものに見える。

 邪魔する者も存在しない無人の学校の中庭を駆け抜け、街へ向かう下り坂に走っていく。

 車など一台も来ない。

 誰もいない車道の真ん中を、自転車でひたすらひたすら走って下りていくのだ。

 風を切り、頬をかすめていく。

 この広い広い道を、ただ自由に走っている事を実感する。

 自分を邪魔するものは、もうなにもない。


 徒歩だった昨日とは違い、あっという間に街外れのそのコンビニまでたどり着いた。

 自転車を店の前に停め、今日もそこへと入っていく。

 昨日と同じように、中には誰もおらず、ここもなにも変わってはいなかった。

「やっぱり、誰もいないんだな」

 自分の知らない場所が変わることなく無人であることが、この世界がこの世界である事を実感させてくれる。

 昨日と同じようにジュースを取り、躊躇いもないままそのまま飲み干す。

 結局、誰もいないのだ。

 代金など払う理由もない。

「そういえば、そろそろ昼時か」

 高くなった太陽に気付き、携帯電話の時計を見やる。

 こんな世界でも思わず時間を気にしてしまう。すでにそれは生活のリズムの一つになっているのだろう。

 昼食を選別し、余っていた弁当を手に取る。

 どうせ賞味期限も切れている。

 もし誰かがいたところでこのまま廃棄されるのだ。

 これを食べてもなんの文句も言われまい。

 そんな風に、いまなお店や社会性を気遣っている自分が少しおかしかった。

 コンビニのカウンターをテーブル代わりにその弁当を食べる。

 客など来ない。

 店員などいない。

 たった一人、自分だけの場所だ。

 ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて、そのコンビニ弁当を食べる。

 時間も同じように、ゆっくりと流れている気がする。

 場所も、時間も、なにもかもが自由だ。

 もはやなにも自分を縛るものはない。

 食べ終わって、ゴミをカウンター裏のゴミ箱に捨てる。

 そして彼はジュースを一つ持ち出してその店を後にする。

 再び彼は自転車をこぎ、中心街へと向かう。

 普段なら車の波が絶えることのない幹線道路も、今となっては当然ながら人気もなければ走っている車もなく、道の果てしない先までもが見える気がした。

 誰もいないその道の真ん中を、風を切るように自転車を走らせる。

 信号も車も自分止めることなどない。

 ひたすらに、その道を中心街に向かって自転車をこいでいく。

 周りの店は、大半がシャッターを閉めたままだ。

 ペダルを踏むたびに、先に進むたびに、世界が自分のものになる錯覚を受ける。

 進めば進むほど、誰もいない世界に自分一人がいることを実感するのだ。

 そうして走っていくと、いよいよ中心街のビルの森が見えて来た。

 橋を渡ると、そこはもう中央街である。


 予想できたことであり、わかっていたことではあったが、そこもすでに、死んだ街と化していた。

 普段の活気などどこにもなく、ただ静かに、建物だけが残っている。

 住宅街や学校以上に、この街に人がいない事は異常な事態という感じが強い。

 街には、人がいるべきなのだ。

 そんな街中央を走る片側三車線の国道。

 その真ん中を、彼は自転車で走り抜けていく。

 周囲を見回しても大抵の店の閉まったままだし、オフィスとおぼしき建物にも電気はついていない。

 いくつかある二十四時間営業のコンビニやインターネットカフェだけが、中に明かりを灯したまま無人となっているばかりである。

「やっぱり、ここにも人はいないか……」

 その光景を目の当たりにした彼の心には、不安や恐怖と同時に、安心感にも似た感情がよぎっていく。

 誰もいないということは、自分一人ということである。

 それは孤独であると同時に、自由でもあるのだ。

 今の彼はそれを知っていた。

 そしてまた車道の中央を走って街を探索する。

 本当に、この街は誰もいないのである。

 駅前の広場にたどり着いて、その街の姿はより鮮明になっていく。

 普段なら人行き来が絶える事のなく、活気に満ち溢れているであろうこの場所に、自分以外誰一人いないのだ。

 そのことは、本当に街が、世界が死んだことを実感させられる。

 自転車を降りて、その広場を自分の足で歩いてみる。

 誰もいない街と世界。

 自分の生み出す音以外には無音であり、ただそこに自分だけが存在していることを感じる。

「自由なんだ! 自由なんだ!! 自由なんだ!!」

 思わずそう叫ぶ。

 それでも、誰もなにも答えない。

 誰もいないのだから、全ては自分が決める。

「まあ、無茶はしないさ」

 叫んだあと、少し恥ずかしくなって自分の状況に彼は苦笑する。

 だがそもそも、恥を誰に対して感じるのだろうか。

 なにをしてもいいといわれても、彼の良心はまだ、今は無き元の世界に縛られたままであることを思い知る。

 そんなことを考えると、不意に、この世界を自分の目で確かめてみたくなった。

 誰もいないことを、明確に信じたくなった。

 そして彼は、引き寄せられるように高架上の駅へと上がっていく。

 人と音の象徴のような駅という場所がこの世界ではどうなっているのか、それを知ってしまいたい。

 電気が消え、薄暗い改札。

 閉じた改札を乗り越え駅内部へと侵入していく。

 当然そこにも誰もいない。

 暗い駅構内には、ホームへの階段から光が差し込んでいるだけだ。

 あえて階段ではなく、最後の夜に止められたとき以来停止したままのエスカレーターを登り、そのホームへと出る。

 そこもやはり、何もかもが止まった街と同様に、全ての機能が失われ、ただ静かにそこに存在していた。

 昼間ならいつも人々で満ち溢れ、活気と何かしらの音が充満しているはずのこの駅が、今や完全に沈黙の中にあるのだ。

 この駅には誰もいない。そんな場所にただ自分だけがいる。

 沈黙が耳に刺さり、無が自分を押し潰そうとしてくる。

 だがそれこそが、この世界を自分に実感させるのだ。

 不思議な充実感が彼の心を満たしていく。

 一人の世界とは、こういう事なのである。

 向かい側のホームへと移動しようと、ホームから線路に飛び降りる。

 線路とホームの高さは、意外にも大きな差があり、少しバランスを崩してしまう。

 だが電車など来ない。

 ゆっくりと立ち上がり、バラストを踏みしめながら歩く。

 線路の先を見つめる。

 遠く遠く線路は続いているが、もうここを電車が走ることはないだろう。

 彼は気まぐれに任せ、ホームを離れ、より向こう側へと歩いていく。

 側壁が低くなり、街が見渡せる場所まで来る。

 高架の上から街を見ると、街にはやはり誰もいないことが確認できた。

 誰一人歩いていない、一台の車も走っていないその街は、さながらミニチュアである。

 まるで、今までの現実との乖離を象徴しているかのようだ。

 もはや全てはあの時までとは違う。

 自分の人生は、完全に別世界を歩いている。

 そんな感情が、彼の心を満たしていた。


 そして彼は、駅を出て街を見て回る。

 誰もいない街を、彼は一人歩いている。

 シャッターの閉まった商店街。

 歩く人々も、客も、店員も、誰もいない世界。

 ただ太陽光だけが、変わることなく明るく街を照らしている。

 この光さえも、もはや自分一人だけのものなのだ。

 この街には何度も来たことがあるはずなのだが、今は全てが別物なのである。

 思わず駆け出す。

 だがどれだけ走っても、もはやこの街では誰ともぶつかることも、誰に呼び止められることもない。

 現在の彼の元にある自由とは、そういうものなのだ。

 その自由を満喫しながら、彼は鼻歌を歌って歩いていく。

 思わず足取りが軽くなっていることを、自分でも実感できる。

 邪魔するものがなにもないことは、これほどに心を解き放ってくれるものなのか。

 思えば自分は、いつもなにかに気を遣っていた。

 目の前から人が歩いてくれば無条件に横に避け、街の中に立つ客引きや露天商、あまつさえストリートライブをしている若者達とさえ、目を合わせないようにしてこそこそと歩いていた。

 店では万引きと間違えられることを恐れて、必要以上に堂々と振る舞って見せたこともあるし、逆に店員の目に怯えきっていたこともある。

 だが、それらは全て、あちら側の世界での話だ。

 この世界はもはや、自分ただ一人だけの世界なのだ。

 何も恐れることはなく、何処にでも行けるし、なんでも出来る。

 一人になって、彼は、ようやく自由を手にしたのである。


 街が夕焼けで赤く染まり始め、彼は帰路へと着く。

 無人の自由を満喫したことにより、彼の心はかつて無いほどに充実していた。

 この一人の世界は、彼の理想郷だったのだ。

「世界は、こんなにも自由だったんだな……」

 車の来ない幹線道路を走りながら、彼は思わずそう呟いた。

 大方の店は閉まっていて、考えようによっては不便極まりない世界ではあるのだが、それでも、そこは彼にとって大きな問題ではなく、誰のことも気にしないで生きていることが、彼の心を自由にしているのだ。

 今まで自分は、そんなにも他人に縛られていたというのか。

 自転車の上で、自分の人生を振り返ってみる。

 他人と関わらないように生きてきた自分。

 小中高と友達もなく、大学でもゼミでも、出来うる限り一人になりたがった。

 だが、一人になりたいと願い、人と関わることを避けていても、あの世界で一人になることは不可能である。

 誰もが自分と関わることが無くとも、そこに他人が存在している限り、自分の人生に彼らは干渉を続けてきた。

 たとえ直接に関わることはなくとも、彼らの放つ雑音は自分の耳に入ってくるし、彼らが自分に向ける視線は、自分に突き刺さった。

 一人でありながら、彼はずっと、他人に怯えていたのだ。

 しかし、そんな日々はもう終わった。

 今の彼は、本当にただ一人の、世界で唯一の存在となった。

 それが、彼の求めていた自由だった。


 アパートへと戻ってきた頃にはすっかり日も落ちて、あたりはもう夜の闇に沈んでいた。

 アパートは相変わらず静かで暗かったが、この死した建物にも、彼はもはや何も感じなくなっている。

 音がないことも人がいないことも、彼の中では当たり前になるつつあるのだ。

 そして、変わることのない自分の部屋で、彼は変わらない日常を過ごす。

 雑誌を読み、ゲームをして、無為に時間を過ごして、夜が更けて行くのを待つ。

 人がいようともいなくとも、この生活に変化はない。

 そしていつものように風呂に入り、いつもように床につく。

 もはや学校はなく、別に早く起きる必要性もないのだが、日々の習慣を変える理由はなかったのだ。

「ははは、自由も大したことはないな……」

 常夜灯だけが灯る薄暗い部屋で天井を見ながら、彼は自分自身の行動に苦笑する。

 だが、それこそが自由なのである。

 自分の自由さがあるからこそ、彼はこうしていつも通りの生活を選んでいるのだ。

 それが許されない自由など、自由とは名ばかりの束縛そのものでしかない。

「明日は、なにをしようか……」

 夢と現実の狭間で、彼は遠足前日の子供のように、明日の計画に思いをはせる。

 なんでも出来るからこそ、この想像が楽しくてたまらない。

 別の街に向かってみようか?

 それとも、あの中心街を少しずつ自分のものにしていこうか?

 駅ビルのデパートにも興味がある。

 あの中を自由に探りまくるのもいいだろう。

 どこも閉じられているだろうから少し荒事にはなるが、別に問題ではあるまい。

 ガラスの一つでも叩き割ればいいだけの話だ。

 そういえば、そろそろ今あるゲームも飽きてきたな。雑誌やマンガも新しいのを補充しておきたい。

 たしかに、この世界ではもはや『新しいもの』は創作されることはないだろう。

 だが、世界には既に読み切れないほどの本やゲームの数々が既に用意されている。

 本屋やゲーム屋に行けば、知りもしない、見たこともないものがいくらでもある。

 時間も無限にあれば、そこで消費されるものも既に無限に存在しているのだ。

 無限の自由が、彼の脳裏を甘美に染め上げていく。

 薄い夢の中で、彼はただ自分の想像を楽しんでいた。

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