二日目 全てが消えた、ヒトリノセカイ
その朝も、いつもとなんら変わりないように思えた。
携帯のアラームで目を覚まし、時計を見る。
八時三十分。
昨日と同じ時間だ。
だがデジタル式のカレンダーは、無情にも一日進んでいた。
テレビをつけるが、相変わらずどのチャンネルも砂嵐で何も映っていない。
どうやら世界は昨日と同じままらしい。
カーテンを開け、ベランダから外を見る。
眼下には、人影のない、まるでミニチュアのような世界が広がっている。
車も走っておらず、相変わらず音のない世界がそこにある。
人間だけでなく、動物などもいなくなってしまっているのだろうか?
「少し、住宅街の方に出てみようか……」
そう考えて、手早く着替えをすませ部屋を出る。
どの部屋からも相変わらず人の気配はなく、アパートは死体のままだった。
街に向かう前に、一応、もう一度大学へと向かう。
もしかしたら、自分以外にもこの世界に人が残っていて、学校を訪れている可能性もあるだろう。
出会えなくても、なんらかの変化が起こっているかもしれない。
だがそれらの期待は無情にも裏切られ、彼は再び、誰もいない校舎を見ることとなった。
駐車場には相変わらず一台の車も止まっておらず、全ての扉には、鍵がかけられたままである。
昨日散々歩き回ったときと、なんら変わっているところはない。
掲示板もまったく変化無く、校内のどこにも、人の気配は存在していない。
やはり、それは異常な事態である。
そのことを改めて実感する。
本来いるべき人々がいないだけで、この世界はこんなにも印象を変えてしまうのか。
そこはよく来たはずの場所であるのだが、彼にはもはや、まったく知らない場所のように思えた。
そんな無人の大学をあとにし、彼は今度は反対方向の住宅街へと向かう。
そこにもまた、不気味な光景が広がっていた。
立ち並ぶ家々と、まったく人の気配のない街並み。
人のいない街というのは、これほどに恐ろしいものだったのか。
「誰か、いませんか!?」
彼は思わず声を上げて叫ぶ。だが街は何の反応もない。
音のない住宅街に、自分の声だけが響くばかりである。
人がいないことが、彼に重圧としてのし掛かってくる。
ゆっくりと街を歩き、慎重に、軒先を一軒一軒覗いてみる。
だが、どこにも誰もいない。
いくつかの家でインターホンを押してみるが、当然のように反応がない。
予想できていた事態とはいえ、それはあまりにも虚しさばかりがつのる結果だった。
悪い夢だ。
世界がこんなにも静かになり、全ての人が消えてしまうことなどあり得るはずがない。
だが、この夢は一向に覚める気配はない。
その住宅街を、何度も何度も歩き回る。
同じところをぐるぐると回り、見落としがないかを確認しながら進んでいく。
しかし歩けば歩くほど、誰もいない自分だけの世界ということが突き刺さる。
時間が過ぎていき、ただ太陽だけがその位置を変えていく。
それ以外に、街に変化はない。
おしゃべりをする主婦も、遊び回る子供達も、あてもなくさまよう野良猫さえも、この街にはもういない。
自分一人だけが、この街を歩いているのだ。
そのことが、彼の心に影を落とす。
それらの感じている事一つ一つは、小さな違和感にしか過ぎないのだろう。
だがその違和感に世界が覆い尽くされたら、それは恐怖にまで成長する。
どこを見ても、どこまで行っても、違和感はぬぐい去れない。
むしろ、そのおかしな世界を認識させられ続け、それに押し潰されそうになる。
誰もいない。
なにもない。
誰もいない。
それが、こんなにも恐ろしいことだったなんて。
いつの間にか太陽は高く上がり、時間はもう二時になろうとしている
「そういえば、腹も減ったな……」
人はいなくても、自分は生きている。
人を求め、夢中になって歩いたためか、時間が過ぎることさえ忘れていたが、不意に、空腹が自分に襲い掛かってきた。
「帰ろう……」
意識を放した途端、彼の心は折れてしまった。
どれだけ探しても、誰もいない。
今まで考えないようにしてきたその事実に、気がついてしまったのだ。
足が動かない。
意識していなかったのだが、目から涙がこぼれ落ちる。
寂しさもある。
恐怖心もある。
だがなにより、世界そのものへの違和感が、彼の心を大きき揺さぶっている。
住宅街の道路の真ん中で、膝をつき、地面に手をつき、彼はただ泣いた。
一度心が折れるともはや、その感情を抑えることは出来なかった。
だが、なにも変わらない。
住宅街の中心で声を上げて泣こうとも、世界は彼になにも与えてはくれない。
泣いて泣いて泣いて、彼はようやく、自分自身を取り戻した。
どれほどの時間が過ぎたのか。
携帯電話の時計を見ればすぐにわかるのだろうが、彼はそんな気分にもなれず、ただ静かに立ち上がって、自分の部屋へと戻ろうと歩き出した。
足取りが重い。
だがそれでも、あの部屋へと戻らねば。
あそこだけが、この異常な世界でもなんら変わりない、ただ一つの安息の場所なのである。
まるで死んだような、音のない世界の中を、再び歩いていく。
誰もいないこの世界なのに、律儀にも信号は休むことなく赤と青を示し続けている。
赤信号でも止まることなどない。彼はただその道を渡っていく。
車など来ない。
もし、不意に車が来て、この身体が跳ね飛ばされたとしたら、それはどれだけ幸せなことだろうか。
それは、あらゆる意味での、この世界からの解放なのだ。
だが世界は解放されることなく、彼は無事に向こう側の歩道へとたどり着いてしまった。
振り返り、道に一瞥をくれる。
車も人もいない。
それなのに、ただ信号だけは変わることなく変わり続けている。
彼には、それが皮肉に感じられた。
部屋に帰り、買い置きのカップラーメンを食べる。
いまのところガスも電気も普通に通っていて、お湯も普通に沸きあがった。
こうして自分の部屋に籠もっていつもと同じような生活をしていると、まるで世界から人が消えたことなど嘘のようである。
だが、そんな感情は一瞬にしか過ぎない。
結局なにをしていても時間をもてあまし、落ち着かなくなる。
横になって寝ようとしたり、本を読んだりして時間をごまかそうとするが、結局することもなく、ぼんやりとした一刻の中にいるだけである。
普段ならこの時間は、学校にいて授業を聞いているはずだ。
授業の中にあっては、休講ならいいのにと考えることもしばしばだったが、いざその存在自体が消えてみるとこのざまだ。
なにをしていいのか、全くわからないまま時間が過ぎるのを待っている。
「……」
いても立ってもいられず、もう一度大学へと向かう。
まだ自分は、あの人の多かった大学を信じているというのか。
今までずっと、人がいなければいいと思っていた。
雑踏と雑音の中、彼は渋々授業を聴き、他人にただ憂鬱さを感じていた。
だが、本当に全てが消えてしまうと、そこに残ったのは自分一人だけとなり、まるで無に押し潰されそうになっている。
坂を上り、校舎と校庭を見渡す。
希望と期待がないわけではないが、彼はもはや半ばそれを諦めている。
そしてそこはやはりなにも変わることなく、昨日と、そして朝と同じ、無人の校舎だけが存在していた。
「ははははは、そうだよ、もう誰もいないんだ。何度来ても同じだ!」
自暴自棄になって叫ぶ。
だがその声が校舎に響いても、何の反応もない。
それがますます、自分自身の孤独感を浮き彫りにするばかりだ。
「ははは、ははは、はははははは」
それでも、彼には笑うことしかできなかった。
笑っても笑っても、世界にはなんの変化も反応もない。
校舎に空しい笑い声だけがこだまし、人がいないという現実だけが返ってくる。
「ははは、ははは……、くそ!!」
不意に、そんな自分の状況が忌々しくなり、怒りにまかせて横にあった長椅子を蹴り飛ばす。
椅子はただ転がり、花壇の中に突っ込んでいった。
「……本当に誰もいないのかよ!いるなら出てこいよ!!」
何度叫んでも、返ってくる言葉はない。
自分の感情など、この世界に何の影響も及ぼさない。それが現実である。
だが、今この世界を支配している現実そのものが、あまりにも虚無的であり、信じがたいものである。
それでも、それが現実なのだ。
「街へ、街へ行こう……」
その誰もいなくなった日常の象徴にいたたまれなくなり、逃げるように中心街の方へと歩き出す。
バスは来ない。だから、自らの足で。
中心街へと向かう道には何もない。
あの大学は本当に郊外住宅街の端に建てられたもので、あの住宅街以外には、本当に周りに何もないのである。
住宅街の人間も学生達も、バスを含めて車がなければ何処にも行けないのが、あの学校の現状だった。
山間にある二車線の道を下りながら、彼は車を持っていないことを少し後悔していた。
免許そのものは大学入学と同時に必死に自動車学校に通って取ったのだが、バイトもロクにしていない自分には車など持つ余裕もなく、食料品の買い出し以外では滅多に街に行かない日々が続いていた。
それでも、大学の学食があれば充分な食生活をおくれていたし、そのことに問題を感じたこともなかった。
だが、人がいなくなったということは、学食も機能しないということである。
道を下りながら、いまさらながらそんな事実に気付く。
「ああ、そうか、どこかで食べ物も確保しておかないと……」
そうぼやいて、彼は自分がこの異常な世界に順応しつつあることを認識してしまう。
思わず首を振って否定するが、否定しようとも肯定しようとも、この世界に人がいないことは変わらないのだ。
道にはこの時間にもかかわらず一台も車の姿はなく、相変わらずの異常な雰囲気である。
木漏れ日の差し込む道を、延々と歩き続ける。
バスで行けば二十分少々のこの道も、徒歩で歩くには果てなく長い。
一時間ほど歩いただろうか。
それはどこまでも続く、無限と思われたその道にも終わりが来て、彼はようやく、住宅街と街の境目に当たる交差点にまでたどり着いた。
ここでも信号は相変わらず意味もなく変わり続けていて、その向こう側の角のコンビニエンスストアは、人がいなくなった瞬間のままらしく、昼にもかかわらず看板の電気が灯ったままだった。
ようやくたどり着いた自分の生活区域とは違う場所に、彼は思わず走り出していた。
小さな希望。
自分の知らない場所だからこそ人がいるかもしれないという、無根拠な希望。
そんな希望に後押しされ、交差点を斜めに横切ってそのコンビニに駆け込む。
だが、予想されたように、彼自身本当は気が付いていたように、そこに人影など無かった。
無人の店内には操作すべき主を失い、雑音となった有線放送が流れているだけである。
「本当に、誰もいなくなったんだな……」
不自然なその空間に、消失したのが彼の周りの世界だけでなく、全ての世界の人間であることを改めて実感させられる。
このコンビニはバスの窓からよく眺めはしたものの、近くにバス停もなく、足を踏み入れるのはこれが初めてなのだ。
「しかしまさか、こんな形でここに来ることになるとはなぁ……」
彼は思わずそうつぶやいた。
人がいなくなったとはいえ、それまで来たこともなく、元々人が多く存在している場所ではない片田舎のコンビニエンスストアは、外の無音無人の世界に比べれば幾分、違和感は少ないように感じられる。
コンビニのように店員が客に対して不干渉で、半ばオートメーション化されたような場所では、他に人がいるいないなどほとんど関係ないのだ。
そう考えると、心はかなり落ち着きを取り戻した。
ここは元々知らない場所だ。
そこに人がいようといまいと、自分にとってなんら関係ない。
「そういえば、喉が渇いたな」
冷静になってふと気が付く。
夢中になって歩いているうちは考えもしなかったが、今日の半日を街の探索とここまでの移動に費やし、ろくに水分も取らなかった身体は、ずいぶんと渇いていたのである。
「ジュースでも買うか……」
買うといっても店員もおらず、代金を払う意味すら見いだせない状況ではあるのだが、彼はなんとなくそうつぶやいていた。
だがそのつぶやきは、彼自身が招いた現実によって忘れられることとなった。
ここまでの彼の行動が衝動的であったため、彼は財布を家に置いたままだったのである。
少し悩んだあと、彼はある選択をした。
「……まあ、あとで誰かがいたらその時に一緒に払えばいいか……」
自分に言い聞かせるように言い、店の冷蔵庫から、一本のペットボトルジュースを取り出す。
代金を払いたくても、払われるべき人間がいないのだ。
今は仕方あるまい。
そしてそれは同時に、この不条理な状況への精一杯の抵抗でもあるように思われた。
人がいない。
だから自分はこんな事をしているのだ。
誰もいないから仕方ないのだ。
人がいればいいだけのこと。
なぜ人がいないのだ。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
そんな感情を振り切るかのように、一気にそのジュースを飲み、喉を潤す。
それでも、彼の心が満たされることはない。自分はこれほどに、人が恋しかったのか。
あらためてそれを思い知らされる。
だがそれと同時に、彼は街を確認することなく引き返そうと考えていた。
時間はいつの間にかもう夕暮れにほど近い。
夜の街は怖い。
誰もいない。何もない。
そのはずなのだが、恐怖は押し寄せてくる。
『もしかしたら、自分も同じようにいつの間にか消えてしまうのかもしれない……』
他人が全ていなくなっても、消失への不安、自分の死への恐怖は消えはしない。
みんなが消えたから自分も消えても大丈夫。
そんなことは全く思わない。
自分一人だけだとしても、生き続けていたい。
必死に命にしがみついていたい。
そんな感情が、本当に無を認識させる夜の無人の街を避けさせるのだろうか。
「戻ろう。今日はもう遅い……」
そして、来た道をまた戻っていく。
歩くたびに孤独を認識するが、それでも、生きていることは幾分の救いになる。
相変わらず、その二車線の道には一台の車も通らない。
そんな道を山と夕日に向かって歩くその光景は、まるでたった一人地獄へと歩いていく罪人のようでもあり、唯一の救いを与えられた人間のようでもある。
今の彼は、事実そのどちらでもあった。
この誰もいない世界は、充分に地獄ということができたし、そこで唯一残った彼は、ただ一人救われた人間でもあった。
大学まで戻ってくる頃には、ほとんど日は落ち、薄闇が風景を支配していた。
人がいなくとも、周囲の明るさを感知して起動する外灯は光を灯し、校内はただ静かな明かりに包まれている。
その闇に少しおびえながら、校内を横断して自分の部屋へ急ぐ。
この狂った世界の中で、あそこだけが唯一の安息の場所なのである。
その時彼が上空を見たのは、ほんの気まぐれだったのだろう。
この世界でも星は出ているか?
月は出ているのか?
ただそれだけを確認したかっただけでしかない。
だが、彼の目に映ったものは、星や月だけではなかった。
それは、にわかには信じがたく、ずっと求めていたはずのものであり、それでいて、彼の心に染みついた恐怖という感情を、最大限まで高める光景だったのである。
「……電気が、ついている……?」
校舎E棟、教授達の部屋がある棟の八階の一部屋に、明かりが灯っている。
昼間は周囲が明るすぎて、そして上方に注意を払うことがなかったので確認できなかったが、この薄闇の世界でははっきりとわかる。
校舎の中に、明かりがついている場所があったのだ。
彼は、自分自身の心音が高まるのを感じていた。
だが、それが喜びからなのか、それとも恐怖からなのか、その感情の正体を認識することは出来ない。
ぼんやりと、その明かりを見つめる。
誰かいるのだろうか?
しかし、だとすれば話は少しおかしい。
この校舎は、どこも鍵が開いていないのである。
ならば、あそこにいる人物は、『この世界』に来てから一度も外に出ていないのか?
いや、それとも、出てきたあと再び鍵を内から閉めたのだろうか?
もしくは、やはりあの部屋には誰もおらず、こちらの世界になる前から電気がついていて、そのまま部屋の主がいなくなってしまったのだろうか?
あらゆる状況が、彼の脳裏で展開され、消えていく。
全ての可能性が、今否定できなくなっているのだ。
いずれにせよ、あの部屋に何か事情があるのは間違いないだろう。
彼は迷った。
あそこに行くべきか?
それとも見なかったことにするべきか?
全てを知ることは恐怖だったが、何も知らぬのも恐怖であった。
あの部屋に行き、この世界で他人に会うことも。
見なかったことにして、この世界を保ってしまうことも。
今の彼にとってはどちらも等しく恐ろしいものである。
迷いに迷ったあげく、彼はそこに向かうことを決意した。
誰かいるのならその人物に会っておきたいという感情が、この世界に存在する人物への恐怖に打ち勝ったのである。
だが、校舎はどこも鍵が閉まっていて、中に入れそうもない。
中の人物は、侵入者を拒んでいるのだろうか?
もしそうならば、ここで何かすることも、その中にいる人物にとっては不都合なことなのではないだろうか?
それでも、彼は中に入ることにした。
もしその中の人物が自分を拒んでいるというのなら、それこそ不愉快きわまりない。
考えれば考えるほど、その、中の人物が苛立たしく思えてきた。
あの部屋の位置からいって、自分がこの校舎をさまよっていたことも、怒りにまかせて叫んだのもわかっていたはずだ。
それでも『奴』は出てこなかったのである。
彼は、E棟から出来うる限り遠い場所の窓を一枚叩き割った。
この音の闇の世界では、そのガラスの粉砕音は予想以上にけたたましく響き渡る。
おそらく、『奴』にも聞こえただろう。
『奴』はどう動くだろうか?
それはわからないが、彼は中に行くしかない。
慎重に、慎重に校舎の中へと入っていく。
校舎内は、どこにも人の気配はなく、非常灯以外の明かりもなく、何の音もなかった。
ただ廊下に、自分の足音だけが反響する。
自分以外の音がないか耳を澄ませながら、慎重にその闇に覆われた廊下を歩いていく。
ガラス張りの廊下に、月明かりに照らされて影が伸びる。
普段の生活での校舎とはまったく異なった状況が、彼の心になんとも言い得ない感情を落としていく。
相変わらず、校舎はなにもかもが死んだように静まりかえっている。
『奴』はまだこちらの動きに気がついていないのだろうか?
ゆっくりと、A棟からB棟へ、B棟からC棟へと、『奴』の居場所に向かって間合いを詰めていく。
どこもかしこも、昼とはまったく異なった姿をしている。
毎日のように歩いていたはずのこの校舎が、まるで別の世界のように感じられる。
実際、この世界は別世界だ。
同じ形をしていても、なにもかもが変わりすぎている。
誰もいないはずの世界ではあったが、それでも恐怖と重圧に潰されそうになる。
『この先には、進んではいけない』
心の奥底で、なにかがそう訴えている。
だがそれは、ただ恐怖からくる一過性の感情にしか過ぎない。
首を振ってその心の叫びを否定する。
ここまで来たら、もう先に進むしかない。
そしていよいよ、彼はE棟へとたどり着いた。
まず、一階のそれぞれの扉と窓の鍵を確認する。
どこも開けられてはいない。
ならば、『奴』はまだあそこにいるはずだ。
ボタンを押し、エレベーターを待つ。
エレベーターは八階に止まったままだった。
沈黙、静寂、虚無の中、番号が移動するのを見つめる。
暗がりの中ぼんやりと映る番号が動くたびに、背筋が寒くなっていくのを感じる。
『この先には、進んではいけない』
しきりに本能はそう訴え続けている。
自分でも脂汗をかいているのがわかる。
袖で額をぬぐうが、その脂汗は変わらず顔を不快に湿らせている。
それでも、先に進まなければならない。
『奴』の意図を確認しなければならないのだ。
そして、エレベーターはその扉を開いた。
中には誰もいない。
校舎内とは違い、不自然なまでの明るさがその個室には存在した。
静かに足を踏み入れ、八階のボタンを押す。
扉が閉まり、エレベーターは上へと移動していく。
エレベーターの動く音だけが個室の中に響き、ゆっくり、ゆっくりと目的地へと上がっていく。
心臓の音がますます速く高まっている。
四階。
五階。
六階。
七階……。
瞬間瞬間が長い。
早く着いて欲しい。
だがこのまま、八階までたどり着かなければいい。
そんな相反する感情が、今も心の中で交錯し続けている。
だがそんな無限とも思われた一瞬は終わり、目的地に到着して、扉は再びゆっくりと開いた。
廊下はやはり暗黒に包まれており、ここまで来ても、人の気配は感じられなかった。
彼は重い足を必死に踏み出し、静かにエレベーターの外へと出る。
二歩目、三歩目、ゆっくりと、その場所へ向かって歩いていく。
後ろで、エレベーターの扉が閉まる音を聞いた。
彼は振り返ることが出来なかった。
なにかしらの考えがよぎったわけはない。
ひたすらに、目の前の恐怖と戦うことに必死だったのだ。
角を曲がり、教授達の部屋が並ぶ廊下に顔を出す。
まっ暗い廊下の、奥から二つめの部屋から、下で見たように明かりが漏れているのがわかる。
やはり、あの明かりは見間違いではなかったのである。
一歩ずつ、一歩ずつ、その扉へ近付いていく。
その時には、彼はすでに事の異常さに気がついていた。
光の漏れている部屋からも、人の気配は感じられなかったのである。
だがそれでも、彼は前に進んでいく。
ここまで来ていまさら引き返す勇気を、彼は持ってはいなかった。
そしてついに、彼は扉の前にまでたどり着いた。
ドアにある磨りガラスの向こうには、確かに光が見える。
だが耳を澄ませても、なんの音も聞こえはしない。
背中はすでに冷たく濡れている。
ここにきてからどれほどの時間が流れてたのか、もはや彼には感じられない。
ただ、背中の冷たさだけが感じられるばかりである。
彼が黙れば、世界は沈黙する。
なんの音もなく、目の前に光の溢れた扉があるだけだ。
意を決意して、彼はその扉を叩いた。
「誰か、いませんか?」
反応はない。
声が止み、ノックが終われば、再び廊下から全ての音が消える。
もう一度、彼はより強くドアをノックする。
「誰か、誰かいないんですか?」
ただ声だけがその暗い廊下に響き渡り、再び静寂がおとずれる。
やはり、電気がつけっぱなしだっただけで、ここにも誰もいなかったのだろうか?
普通に考えればそうだろう。
だが彼はどうしても、それを確認しておきたかった。
ここが無人の世界であることに、確信を持っておきたかったのだ。
「無理矢理開けますよ? いいですか?」
確認するかのように、弁明するかのように、そして自分に言い聞かせるかのようにそう言って、彼は近くにあった折りたたみ椅子でその扉の窓を叩き割った。
甲高い粉砕音が響き渡る。
そしてそれが止むと、空間は再び音の闇に包まれる。
中からは何の反応もない。誰もいないのはもはや確実だろう。
(このまま引き返そう)
心は未だにそう訴えるが、ここまで来て、ここまでして引き返せるものか。
粉々に砕け散った窓から、恐る恐る手を入れて、中から扉の鍵を開ける。
「……失礼します……」
ゆっくりと、ガラスを踏まないように部屋へと足を踏み入れる。部屋は本棚で入り口部分と奥の部屋の部分に区切られており、扉を開けただけでは中を確認できない。
ゆっくりと、本棚から顔を出し、向こう側を覗き見る。
そして彼の眼に、見てはいけないものが飛び込んできてしまった。
乱雑に、雑多な本達が並べられている壁一面の本棚。
床に散らばった書類と、対照的に小綺麗に整頓された机。
その上に置かれた一つの小さな封筒。
そして、なによりも異常だったのは、天井の梁にロープがくくられており、そのロープの先は、丸く輪を作っていたことだった。
だが、そのロープには主はいない。
ここは、地獄とこの世の狭間となっていた。
「……」
なんの声も出はしない。
この部屋の主がどうなったかわからないが、そんな人物さえも、この世界は消してしまっていたのである。
様々な種類の、ありとあらゆる恐怖が、彼の中を渦巻いているのが自分でもわかる。
この部屋の状況も充分に恐怖であったが、そんな状況さえもおかまいなく無に返すこの世界が恐怖であった。
だが、なによりも恐ろしかったのは、そんな世界に、ただ一人自分が存在していることである。
彼の中に後悔が湧き上がってくる。
ここに来たことを後悔しているのだ。
やはり、この世界は地獄だった。
彼は一歩ずつ、すり足のように後退していく。
早く部屋から出たいが、その光景から目が逸らせない。
置かれていた荷物に躓き、後ろに倒れ込んで尻餅をつく。
だがそれでも、もはや立ち上がろうという気さえ起こらない。
彼はその体勢のまま、後ろへ必死に、だがゆっくりと下がっていく。
割れたガラスの破片が手に刺さる。
痛い。
見なくても、両手から血が滲み出ているのがわかる。
だがそんなことは気にしていられない。
一刻も、一刻も早く、この部屋を出なければならない。
暗闇の廊下に飛び出し、振り返ることなく駆け出した。
角を曲がり、慌ててエレベーターのボタンを押す。
八階に止まっていた扉はすぐに開くが、それさえも待ちきれず、こじ開けるように開ききっていない扉の中に身体をねじ込む。
ボタンを必死に押す。まずは一階を、そして扉を閉じるボタンを連打する。
出来るだけ遠くへ行かなければ。
早く自分の部屋へ戻らなければ。
ゆっくりと閉まる扉がもどかしい、ひたすらに閉じるボタンを押し続ける。
「早く、早く、早く、早く……」
エレベーターが下りていく速度がやけに遅く感じる。
行きとは違った意味で時間が長い。
ようやくエレベーターは目的地に到着し、その扉が開く。
再びこじ開けるように彼はそこから抜け出し、一番近い扉へと走る。
鍵を中から開け、外へと転がるように飛び出す。
闇を抜け、ひたすらに自分の部屋へと走る。
内庭を突っ切り、坂を駆け下り、田んぼの横の道を突き進む。
外灯に照らされた、光の灯らないアパートの屍が見える。
必死に走る。
階段を駆け上がり、おぼつかない手つきで玄関の鍵を開け、部屋へと飛び込む。
そして内側から鍵を閉め、彼はようやく一息ついた。
今日も、自分の部屋に戻ってきた。
ここだけは、何も変わらない。
この狂った世界での、唯一の安息の場所。
シャワーを浴び、血塗られた手を洗い、包帯がわりにタオルで巻く。
そうしてその後は、極力、今までと同じような生活を送る事だけを考える。
たった一人だけの世界ということを意識しないように、なにも変わらないように生きるのだ。
だがそれでも、些細な隙間からあの世界が自分の生活へと浸食してくる。
テレビをつけたとき。
空腹を覚えたとき。
音が途切れたとき。
手が痛むとき。
それだけで外を意識してしまう。
誰もいない。この部屋は今までもそうだったはずだ。
それでも世界の変化がこの部屋にも滲みだしている。
世界から逃げるように、すぐに眠りにつこうとする。
明日への希望は捨てきれない。
起きれば、あの日に戻っている。
心がどれだけこの狂った世界に順応しつつあろうとも、それを信じたいのだ。
だが、脳裏から世界が離れない。
瞼を閉じれば、誰もいない校舎が、アパートの屍が、主達を無くした住宅街が、車の来ない道が、コンビニでのジュースの味が、それでも変わり続ける信号機が、漆黒の校内が、不自然なまでに明るいエレベーターが、そして、乱雑な部屋で蛍光灯に照らされたロープが浮かんでは消えていく。
この世界が現実かどうかはわからない。
だが、今日自分が見たものは、自分自身にとって真実以外の何物でもない。
恐怖と孤独とが束になって、心の中をかき乱す。
まるで夢を見ているように、心に誰もいない世界が映される。
眠っているのか目覚めているのかわからぬまま、その不確定な幻想が続いていく。
『ああ、夢だったのか……』
悪夢のような光景ばかりであるにも拘わらず、彼は不思議と安心感を覚えた。
不意に目が覚める。部屋は闇、音はない。
時計は夜中の二時を指している。
なにかを確認しようと、彼はカーテンを開け、外の様子を確かめる。
外に光はない。夜の闇はまだ眠ったままだ。
いつもと、なんら変わるところはない。
そうだ、いつもこんなに静かで、こんなに暗くて、こんなに誰もいなかったんだ。
それは、いつの『いつも』?
まるで誰もが寝静まった夜のように、昼にも人はいない。
この夢のような、信じられるはずもない狂った現実。
全て思い出してしまった。
この世界には誰もいないのだ。
彼は、ぼんやりと外を見つめ続ける。
夜の街の静けさは、以前は不自然に感じたものだったが、今はこれこそが真っ当なまま残っているものである。
誰もいない夜の街の不自然さは、誰もいない昼の街の不自然さに比べればなんということもない。
誰もいなくなった街を眺める。
夜の街は、それでもいつもと変わりないように見えた。
明日の朝には、また今までの『いつも』とは違う日常が始まるのか。
そして再び、彼は眠りについた。いつもの『いつも』に戻れることを願って。




