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四日目 彼女の、一人の世界

 その日も彼は、いつもの時間に目を覚ます。

 いつもの時間にアラームが鳴り、いつものように目を覚ます。

 だが横になったまま、迷いをかかえて天井を見つめている。

 耳元では携帯のアラームが鳴り続けているが、それを止めることもなく、ぼんやりと意識を宙に舞わせている。

 彼女の顔はまだ消えない。

 全てが夢だったらよかったのに。

 彼女と出会わなければよかったのに。

 そんなことを考えながら、時間が過ぎていくのを待っている。

 もう一度彼女に会いたいと思ったはずのに、寝て目が覚めると、すべてが怖くなってしまっていたのだ。

 彼女がなにを考えていたのか、それを知りたい。

 だが当然、それは自分にとって重い重い枷になる。

 それを考えると、すべてを投げ出してしまいたくなる。

 ……それは、出来ない。

 罪はもはや、消えることはないのだ。

 それならば、彼に出来ることはただ一つだ。

「行くしか、ないな……」

 重い身体と心を持ち上げて、彼は今日も街へと向かう。


 街には相変わらず人々が闊歩している。

 しかし、それらの人の中に、彼女の姿は見つけられない。

 この世界には、人が多すぎるのだ。

 彼は人の波の中を、泳ぐように先に進む。

 どこにも彼女はいない。

 そもそも、これだけの数の人間の中から、あてもなくたった一人を捜し出すことなど、不可能に近いだろう。

 ここは一人の世界ではない、無限の人間の世界だ。

 諦めるのか?

 罪を忘れて生きていくのか?

 それは、誤魔化しにしか過ぎない。

 なによりも、彼女に対する

「……」

 彼は考え、走り出す。

 手段など選んでいる場合ではない。

 罪の重さが消えないのなら、今さら全てが壊れてしまっても、なにも変わるまい。

 彼が目指すのは、彼女の日常の象徴。

 彼女の世界に踏み込まなければ、もはや彼は彼女に会えないのだ。

 それが意味することは、彼にだってわかる。

 彼女の世界を壊してしまうかもしれない。

 彼女の日常を滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。

 だがそれでも、この罪を償わなければ。

 彼女の恐怖を、せめて消してしまわなければ。

 どうすればいい?

 どうすれば、彼女の中から自分は消えることが出来る?

 わからないまま彼は走る。

 答えよりも、今はただその機会が欲しかった。


 彼がたどり着いたのは、彼女の家である。

 その平凡な住宅街の中の平凡な家は、あの世界と同じ場所に、あの世界と同じように存在していた。

 だが、全てがあの世界とは違う。

 ガレージに車は止まっておらず、今は人が不在であるものの、家には人間が生活している雰囲気が漂っている。

 それを見ると、彼の心はますます重くなっていく。

 今の彼がしようとしていることは、この日常の破壊であるとさえいえる。

「……彼女は、今はいないみたいだ……」

 自分自身に言い訳をするように、彼はことさらわざとらしくそう声に出してつぶやく。

 彼女はいない。

 だから、今からこの場を離れるのは当然だ。

 それは逃げでしかない。

 だが、この象徴の前で、いつ帰るともわからない彼女を待つことなど、想像しただけで心がひび割れ、砕け散ってしまうようである。

 彼女を捜さなければ。

 そうだ、逃げるんじゃない。

 これは、進展なんだ。

 言い聞かせるように、彼は踵を返してその場を後にする。

 その早足な足取りが、彼の心情を表しているかのようであった。


 そして彼が向かったのは、彼女が通っている隣街の国立大学だった。

 そこもまた、あちらの世界でしか知らない場所である。

 最寄り駅で降りると、そこもまた、あの世界と同じ風景の違った光景が飛び込んできた。

 タクシーのいないタクシーの乗り場と、車が停めっぱなしになったコインパーキングと、山のように自転車の置かれた自転車置き場と、小さないかにも個人経営な雰囲気の食堂と、対照的に典型的量販店なコンビニや薬局、百円ショップと、駅が出来た頃からあるような古い住宅と、小綺麗な学生向けアパートと、塾や派遣会社の入った小規模ビル。

 これだけ様々な建物が立ち並ぶ街並みを、雑多な人々が行き交っている。

 学生、主婦、子供、サラリーマン、近所の老人。

 誰も彼も、向こうの世界には存在しなかった人々。

 彼女の姿を探すがここにはいない。

 知らない街を歩いて、彼は大学を目指す。

 周囲には、あの大学の学生とおぼしき若者達が同じように歩いている。

 彼女も、毎日この道を歩いて通学しているのだろうか?


 こちらの世界でのその大学は、まさに圧巻だった。

 広大なキャンパスと、そこに溢れかえるな学生達。

 小さな彼の大学とは、人間の数がまったく違いすぎる。

 見回しても、どこにでも多くの人間がいる。

 これほどの学生が、一つの場所に集まる事が彼には驚きである。

 彼はその光景に、彼女の家の前で感じた物とはまったく逆の絶望感を感じていた。

 ここはある意味、街と同じだ。

 無数の人間が、それぞれの目的でそれぞれの人生を歩いている。

 この中なら彼女を捜すことなど、限りなく不可能に近いのではないか?

 それでも、彼に出来ることは捜すことだけだ。

 あの時と同じように、校内を歩いて回る。

 だが、今はここには人がいて、捜すべき人間はたった一人だ。

『ここでは、いつも誰かがギターなんかを弾いていたわ……』

 彼女がそう言っていた場所には言葉通り、二人組の男子学生が座って騒音にも似たフォークギターを鳴らしていたが、大半の学生は彼らに目も向けず自分の目的のためにそこを通り過ぎていく。

 しかし、彼は思わず足を止める。

 別に彼らの歌に興味があったわけではない。

 彼女の日常を、少しでも知りたかった。

 彼女も別に、足を止めて聞き入ったことはないだろう。

 だが、彼女はここでいつも誰かが歌っていたことを知っていた。

 だから、自分もそれを感じたかった。

 彼女の言葉としてではなく、自分自身の現実として。


 そうやってただ立っていると、彼の背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「そもそもここは、禁煙場所のはずよ! そのタバコを拾って、喫煙コーナーで吸いなさい!」

 少し神経質な、怒りの混じった声。

 ゆっくりと振り返る。

 それはやはり、彼女だった。

 話相手は当然彼の知らない人物だったが、彼女がその人物に対してなにかしらの注意をしていたのは、火を見るよりも明らかだった。

「まったく……、っ……!」

 振り返り、彼女も彼の存在に気が付く。

 目が合い、言葉もなく緊張した面持ちで見つめ合う二人。

「……話がしたいんだ。とりあえず、座れる場所まで行こう……」

 彼女も静かに頷き、二人は歩いていく。

 あの時と同じ適当なベンチ。

 彼はあの時と同じように、自販機でジュースを買う。

「……」

 彼女に渡す。受け取りはしたが、彼女はなにも答えなかった。

「……なんで、また現れたの?」

 相変わらず彼女の言葉は冷たい。

 恐怖もあるが、それ以上に、強い拒絶がある。

「もう一度だけ、君に会いたかった……」

 彼はただ、静かに言う。

 包み隠さない本当の言葉。

「あなたは、向こうの世界に満足していたんでしょ? 残念ね、こっちに戻ってきて。この世界では、私を殺しても自由にはなれないわよ」

 精一杯の嫌味を込めて彼女は言った。

「……そういう君は、戻ってきて満足だろうね」

 少し腹を立て、彼は思わず彼女にそう言い返す。

 彼女に謝りに来たはずなのに、なぜ、こんな事ばかり口にしてしまうのだろうか?

 こんな、彼女の日常を壊すだけのために来たのではないはずだ。

 その時、ふと疑問がよぎった。

 果たして彼女は、この世界で満足しているのだろうか?

「まあ、さっきはなにか揉めてたみたいだけど……」

「……見てたの?」

 彼のつぶやいた言葉に、彼女はハッと目を見開く。

 その態度は、明らかに動揺を隠しきれていない。

「……偶然だよ。なんだったんだ、いったい」

 思いがけぬ彼女の反応に、むしろ驚いたのは彼の方である。

 彼女は不機嫌そうに彼を睨むが、なんとかそれを誤魔化そうとする。

「……なんでもないわ。ちょっと注意しただけよ」

 言い紛らそうとする彼女。

 だが目に見えて落ち着きが無くなっている。

「……どうせつまんないことを細かく注意して、相手に嫌がられてたんじゃないのかい?」

 彼は、少々嫌味を込めて言った。

「……」

 どうやら図星だったらしい。

 彼女の言葉が途切れる。

「でも、あの娘がいけないのよ。喫煙場所いがいでタバコを吸ってなんかいたんだから……」

 必死に弁解をする彼女。

 彼女の言葉は正しいが、それはこの世界においてさえ、重く息苦しさを感じるものだった。

「まあ、確かに違反行為ではあるね。けど、君のことだ、なにか余計なことを言い過ぎたんじゃないのか?」

 その光景が容易に想像がつく。

 そしてそれもまた図星だったらしく、その言葉に彼女は目を伏せる。

「言いたい放題言ってくれるわね……」

 彼女がゆっくりと顔を上げると、その瞳に怒りの色が伺えた。

「あなたの方はどうなの? 向こうの世界からこっちに戻されて、さぞかし不満なんでしょうね」

 棘のある言葉。

「……」

 彼はなにも言い返せない。

 彼女を殺したという負い目と、自分が間違っていたという引け目が、彼の心と口を重くする。

「こちらではなにも言い返さないのね。私を殺してまで手に入れた自由は、どうなったのかしら?」

 悪意ではなく、敵意でもなく、彼女はただ、彼の心をえぐり取るように尋ねた。

「……全部消し飛んだよ。……やっぱり、自由なんて無かったんだ」

 なげやりに彼は答えた。

 そう、自由などもうどこにもない。

「君に言われたとおりさ。僕はこちらの世界でも向こうの世界でもなにも変わらない。なにも満たされないままだった……」

 自虐的に彼は笑う。

 それだけしか、彼は彼自身を表す手段を持っていなかった。

「……」

 彼の見せた思いもよらぬ反応に、逆に彼女が黙り込んでしまった。

「笑いたければ笑えばいい。君を殺してまで手に入れたものは、結局その程度だったんだ……」

 彼は感情なくそうつぶやく。

 赦されない自分は、せめて彼女に嗤ってもらえれば、救われるのではないか?

 そう、考えていた。

 だが彼女は笑いはしない。

 彼女は顔を伏せ、ゆっくりと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「……あなたにとって、あの世界は楽園だったのね……」

 その言葉は、彼の胸を打ち砕いた。

 それは彼が思っていたこと。

 もう取り戻せない楽園。

 彼女の言葉に、彼のあの世界は、完全に終わりを告げたのだ。

「もう、終わったことさ……、あの世界にはもう戻れない……」

 彼はあの世界を忘れたかった。

 確かにあそこは楽園ではあったかもしれないが、ただの夢にしか過ぎない。

 人は、夢の中では生きられないのだ。

 あとはただ、彼女に自分の愚かさを認めて貰えればいい。

 それだけで、彼の罪は完成する。

 だが彼女は、その言葉に悲しそうな表情を浮かべ……

「……ごめんなさい……」

 意外な言葉を漏らした。

「……なんで君が謝るんだよ。僕は、僕が君を殺したんだぞ?」

 彼もその反応に途惑い、驚きを隠せない。

 本当に伝えたかったことさえ曖昧になる。

「私はあの時、あなたに、とても辛いことを言ったのね。今、ようやく気がついたわ。駄目ね……、殺されても気がつかなかった……」 

 彼女はうつむいたまま、なにも言わずに立ち尽くしている。

 彼もまた、言葉を失いそうになる。

「あの夢は、いったいなんだったんだろう……」

 彼女に言ったのか、自分自身に言ったのか。

 彼は、沈黙ではなくその言葉を選んだ。

「……」

 彼女は何も答えない。

「……ごめんなさい。私、もう行くわ……」

 彼女は立ち上がり、顔を伏せたまま彼に背を向ける。

「待って、明日、もう一度、もう一度だけ会えないか?」

 去りゆく彼女の背中に、彼はそう投げかけた。

 彼女は一度立ち止まったが、なにも答えることなく、校舎の方へと消えていく。

 彼は一人残され、小さくなっていく彼女の背中を見ている。

 周囲には、キャンパスには無数に学生が溢れているのに、彼はまた、世界にたった一人になった気がした。


 そして、いつものように彼は部屋に戻る。

 もうなにも変わることのない日常だ。

『……あなたにとって、あの世界は楽園だったのね……』

 彼女の言葉が思い出される。

 楽園はもう無い。

 だが彼は、不思議と寂しさはなかった。

 彼女が生きていた。

 今日、彼女は泣いていた。自分を殺した相手のために。

 本当は、謝らねばならないのは自分の方のはずだ。

 今日は、そのために彼女に会いに行ったはずだ。

 後悔だけが募っていく。

 明日、彼女は来るだろうか?

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