二日目 現実の中の、一人の世界
その朝も、いつもと何ら変わりないように思えた。
携帯のアラームで目を覚まし、時計を見る。
八時三十分。昨日と同じ時間だ。
だがデジタル式のカレンダーは、当然ながら一日進んでいる。
テレビをつけるが、相変わらずどのチャンネルもいつもの朝の番組を流しているだけだ。
取り立ててニュースもない。平和で平凡な日常の始まり。
どうやら世界は昨日と同じままらしい。
カーテンを開け、ベランダから外を見る。
眼下には、学校に向かう学生の姿がちらほらと見える。
時折、車も走っていき、朝の静けさの中にも音は絶えることはない。
「……学校に行くか……」
渦巻く違和感を無視するかのように、彼は今日も大学へと向かう。
大学はまだ一限目前にもかかわらず、人が騒がしく溢れかえっている。
だが、なにか様子がおかしい。
授業の行われることのない、教授棟であるE棟の前に、多くの学生が集まっているのだ。
「なにがあったんだ?」
人垣の向こう側をのぞき込む。
するとそこには、キャンパスに似つかわしくない警察官達が、張り巡らされた黄色いテープの向こうで忙しそうに作業や話をしている光景があった。
その奥でなにが起こったのかはわからないが、尋常な事態でないことは一目瞭然である。
どうやら、E棟そのものへの立ち入りが禁止になっているらしく、教授達もテープの前で足止めを食っている。
「E棟で、なにかあったのか?」
近くにいた学生に尋ねる。
「いや、俺も詳しいことはわからないけど、何か上で教授だか助教授だかが自殺していたらしいぜ……」
その言葉に、彼は全てを思い出した。
夢でなく、夢であった、一人の世界。
それは間違いなく、彼が見た、誰もいない明かりのついた部屋での出来事だろう。
彼は思わず、携帯電話で今日の日付を確認する。
日付は録画予約した二日後、一人の世界で彼がその出来事を発見した日ある。
やはりあの世界など、どこにも存在していなかったかのように、元の時間から再び日々が過ぎている。
やはり、あれは夢だったのか?
だが、あの世界で死んでいた『奴』は、この世界でも死んでいる。
夢なのか現実なのか全くわからない。
「いったい、どうなっているんだ……」
彼の頭は非常に混乱していた。
偶然か、予知夢か、それを確認する術もない。
いや、確認する方法はいくらでもある。
「行ってみるか……」
もはや、授業など受けている場合ではない。
彼は世界を確認するべく街へと出て行く。
彼がまず目指したのは、山の入り口にあるあのコンビニだった。
現実では何も知らない、夢の中でだけ訪れた場所。
夢の中では、彼はあそこで彼女を殺したのだ。
「いったい、あの夢はなんだったんだろうな……」
ぼんやりと、街へと続く長い長い道を歩いていく。
目的地はあのコンビニエンスストア。
そこに至るには、この道を歩いていくしかない。
騒音ばかりが耳に入る。あの世界とは違い、この世界は音に溢れている。
人の声、車の走行音、鳥のさえずり、街の音。
今までもずっと聞いていたはずの音なのだが、今はやけに耳を叩く。
「世界は、こんなに騒々しかったのか……」
思わずそうつぶやく。
だが、この世界こそが正しい世界なのだ。
「なんてこった……」
驚きを隠すことなど不可能だろう。
そのコンビニは、人がいることを以外は、あの、夢の中の一人の世界となんら変わることはない光景が広がっていたのである。
ゆっくりと、店内に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
やはりそこも、あの世界とは違って、普通の日常の中に埋没していた。
もちろん、彼はあの夢以外ではこの店に来たことはない。
この店に来たのは、あの夢の中と、この瞬間が初めてなのだ。
来たことのない、見たことのある店は、なにもかもが、あの夢の中と同じである。
商品の配置も、彼が初日に食べようとした賞味期限の切れた弁当でさえも、なんら変わるところがない。
やはり、あれはただの夢ではない。
今なら確信を持ってそう言える。
呆然と、知っていた知らない店を見入る。
店内には有線放送が流れ、レジには店員がいて、立ち読み客や商品を見ている客がおり、当然のことだが、死体などどこにもない。
「……」
彼はただ、その中で立ち尽くしていた。
夢と現実の区別がつかない。
これは夢なのか。
それとも、向こうが夢だったのか?
彼女の苦悶の表情を思い出す。
彼女の苦しみの声を思い出す。
そして、動かなくなった彼女を思い出す。
けれど、それらは全て夢。
少なくとも、この世界のどこにもそんな物は存在しない。
では、彼女は?
彼女の存在そのものも夢だったのだろうか?
彼は本当はそれを考えたくはなかった。彼女は夢であってほしかった。
彼は、彼女を殺したのだ。
それは、許されることではない。
だが、彼女の死体はどこに消えた……?
そもそも、彼女はどうなったのだ?
「……すいません、この店で、最近変わったことありませんでしたか?」
彼は思わず、店員にそう尋ねる。
「変わったこと? うーん、別になにもないと思いますよ」
店員の答えは実に素っ気ない物で、この店が本当に平穏だいうことの証明でもあった。
彼は礼を言い、さらにコンビニ店内を見て回る。
いつものようにジュースを手に取り、飲もうとするが、ハッと我に返る。
彼女が止めた事を思い出す。
そして、この世界が普通の世界であることも。
そう、この世界は普通の世界なのだ。
ジュースを飲むためには、当然それをお金を払って購入しなければならない。
そんな当たり前のことを、向こうの世界ではなにもする必要がなかったのだ。
『それでも、社会のルールは守るべきだわ。いつでも、元の世界に戻れるように、戻ってもいいように、ルールを守り続けないと』
彼女の言葉を思い出す。
自分はそれに反発していたが、やはり、彼女の言い分にも一理あったのだろうか。
そしてなにより、あの夢でしかなかったはずの世界が、自分に影響を及ぼしていることが恐ろしかった。
あまりにも長い夢が、現実を蝕んでいる。
夢はまだ覚めていないのか?
首を振り、夢を払う。
現実にいるのだ。夢のことなど忘れてしまえ。
そして彼はジュースを買い、その店を後にする。
「とりあえず、戻るか……」
死体がないこと。
同じ店であること。
それだけ確認すれば、もうここに用はない。
再び彼は、大学へと向かって歩いていく。
あの時とは違い、道には無数の車が行き交っている。
地獄への道でも救いへの道でもない、ただの道だ。
その横を、彼は一人で歩いていた。
すでに日は落ちかけていたが、大学にはまだそれなりに人がいた。
現場検証も終わったらしい。
もうすっかり校内はいつもの雰囲気を取り戻している。
あの時とは違い、E棟八階の窓は、あの部屋以外の部屋に電気がついている。
裏口など使わずとも、ガラスなど割らなくても、いくらでもあの部屋にたどり着けるだろう。
アパートも、生を取り戻し、ほとんどの部屋に明かりが灯っている。
世界は元に戻ったのだ。
特別だった後の、普通の日常。
今日という日も、おかしな夢を見た以外は、取り立てて代わり映えしない一日だった。
自分の部屋に戻り、シャワーを浴びて着替え、いつもと同じように振る舞いながら更けていく夜を迎える。
世界に他人がいようがいまいが、この生活には変化はない。
なんにせよ今、自分に出来ることはなにもない。
彼はただぼんやりと天井を見つめながら、朝が来るのを待った。
もしかしたら、明日の朝には向こうの世界に戻っているかもしれない。
戻っていたら、なんなのだろう。
彼女を殺した向こうの世界と、彼女と会ったこともないこちらの世界。
そう、この世界で彼は、まだ彼女を知らない。
彼はこれまでの人生で、これほどに他の人間のことを考えたことはなかった。
彼女が指摘したように、彼はこの世界に何も持たなかったのだ。
ゼミの連中も、今までの友人達も、うわべだけとさえ言えない程度のつきあいでしかなかった。
彼はその連中の態度に嫌気がさしてそれとなく避けていたし、それに気が付かないほど彼らも鈍感ではなく、彼らの方からもまた、彼を避けるようになった。
だから、彼はいつも一人でいた。それで充分だった。
だが今は違う。
夢の中で出会い、殺してしまったあの人物が、まだ、彼の脳裏から離れない。
彼女も、こちらの世界にいるのだろうか?
もしいるのならば、こちらの世界でどんな生活をしているのだろうか?
そして彼女は、自分が殺されたことを覚えているのだろうか?
彼女は死んでいるのかもしれない。
彼女は本当は存在しないかもしれない。
全ては夢でしかない。
それを確認しなければ。
考えている内に、彼は眠っていた。




