弐拾――感情の箱にこの想いを詰め込んで
この子は必ず助けると誓った。
メルシィは言った。
誰かを傷付けた人間は、その分誰かを幸せにしなければいけないと。
その言葉通りだとしたら、この少女一人救ったところで償える私の罪は塵の一欠けらにも満たない矮小なものだ。だが、一歩ずつ、確実に、そして絶対的な優しさを以て、何があってもこの少女だけは護らなければいけないのだと心に誓った。
私に似ていたからでもある。
私に妹が『いた』からでもある。
メルシィが許せなかったからでもある。
そして、この少女が、滝反背人がこんなにも人の心を求めて彷徨って、結局自分の心さえも受け入れてくれないはずの人だけを信頼する事しかできなくなった事を何よりも恨んで、この力で破壊してやろうと神に誓った。
あらゆる命を奪い去ったこの力は、ようやく私の意思をして誰かを助ける為に使われようとしている。それはどれだけ自分勝手な願いなのだろうか。だが、洋がそれでも自分の思いを押し通したように、目の前にこの手で掴める拙い手があるのなら、それは絶対に握らなければいけないものだ。
だから、背人との約束を果たさなければならない。
背人は、私に自分を傷付けた人間を殺す事を約束した。
だが背人の今の状態は、決してその人間達のせいではない。
背人に軋轢魔法を感染させた洋のせいでもない。
誰のせいでもないのだから、その為に誰かを傷付ける事は許されない。
だとすれば、どうやって私は背人との約束を守ろうか。
そのカギは既にこの中にある。前々からずっと気になっていたが、パンドラ=セブン。彼女の力ならなんとかなるはずだ。
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「お気持ちは分かりますが……そもそも私の力は『私の力を受け入れてくれる者』にしか発動しないのです」
背人と一緒に『礫砕同盟』の本拠地に戻り、直ぐにセブンのもとへ向かった。
セブンの力は軋轢魔法がその発動の為の栄養とする悪意を集約させ、発動及びその存在の感知すら不可能とするもの。背人がセブンの事を嫌っていても、セブンが隠れて力を使えば……と思ったのだが。
「彼女は……背人さんは私を受け入れようとはしなかった。故に彼女による悪意を以てした軋轢魔法の発動を止める事はできません。すいません……こんな時にお力になれなくて」
申し訳なさそうに俯きそう告げたセブン。
「セブンのせいじゃないよ。そう、ありがとね話を聞いてくれて。じゃあ他の方法を考えないとねー」
「リョウナさんはどうして、そこまで彼女の事を気にかけようとするのですか? いえ……咎める、とかそういう訳ではないのですが。なんというか、今までのリョウナさんなら、もっと迷っていたのに、急に強い芯を持って行動するようになったものですから……」
なるほど、確かにそう見られても不思議ではない。今までの私なら未だうじうじと悩みながら人間の命を天秤にかけていただろう。
だが、背人に関してはそれは当てはまらない。
「そう、か」
「どうしました?」
「ねぇセブン。軋轢魔法ってみんな言ってるけど、洋とかセブンのやつって他と違うよね。特に洋なんかは名前も違う。軋轢魔法って、変化とか進化とかするのかなーって思ったんだけど」
「そう言えば、その話はまだしていなかったのですね。そうですね、軋轢魔法というモノは、『発現した人間の精神性』によって変化します。洋さんの場合は、『大切な人を傷付けてしまうかもしれない』、そんな思いを軋轢魔法が汲み取って『自分と深く関わった女性の人生を破滅させる』力へと『変質』しました。
そんな風に、精神性に依存して軋轢魔法はその力を変えていきます」
なるほど、だとすれば……
「リョウナ、さん?」
「ほんっとにありがとね、セブン。お陰でなんとかなりそうだよ!」
私は急いで部屋を飛び出した。その時は気にする余裕もなかったが、部屋を出る刹那にドアの隙間から見えたセブンの目は、酷く殺意を帯びていたように見えた。
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セブンが無理なら、私がセブンの力と同じものを発現させてしまえばいいと考えた。セブンも軋轢魔法であるならそれは可能であるはずだ。
『精神性に依存する』という言葉が抽象的で一体どれほどまでの強さを表すのかは分からないが、少なくともあれだけの苦しみを内包する洋の事を考えると、並大抵の思想では体現できない事は明白だ。
しかし、こんな事を自負するのも馬鹿馬鹿しいが、この私、縞違リョウナには自慢するくらいの『心』がある。これだけは絶対に誰にも負けないといつかの幼い日に誓ったはずだ。
むしろ、メルシィの言葉にだって、最初から気が付いていたはずだった。
その時はまだ無様で醜くて拙くて歪で、精一杯生きるしかなかった中で他者を傷付けない為に生まれた感情だったが、今思えばそれはここに通じる為のものだったのだ。
――ああ、誰かが傷付かない為に、私が傷付けばいい。
そうすればみんな幸せで、みんなが喜んでくれる。
幾度となく刻み続けたこの自傷の痕だって、無駄ではないのだ。
自分を慰めるだけのものではない。
そう信じて、私はこの今までずっと憎んでいた『力』を、愛すべき誰かの為に使えばいい。
「ふぎゃ!?」
そんな風に考え事をしながら薄暗い廊下を歩いていると、壁にぶつかった。
「っ痛いなぁ……もう」
痛みで熱くなった鼻を抑えながら曲がり角を曲がろうとしたが――そこで怪しい部屋が目に入った。
いや、確かここは洋が書庫だと言っていた部屋だ。
「書庫……」
もしや軋轢魔法やその他の事について重要な事が記されたモノがあるのではないかと勘ぐった私は、その部屋に入る。
中はとても乾燥していて、少し埃っぽかったがその様相は正に書庫と言うに事欠かない。所狭しと並んだ本棚には少しの欠落もなくびっしりと敷き詰められた分厚い本が見えた。それだけで頭が痛くなってくるが、少しでも軋轢魔法を変質させる方法を理解できるのなら避ける訳にはいかない。
メルシィさんに聞けば早いが……できれば彼女には伝えたくはない。その時はきっと、もっと後の話だろう。
とにかく私は適当に本棚に敷き詰められた本達の背表紙を見て回る。
『よくわかるソロモン七十二柱入門』
『学習魔術用語辞典』
『近代西洋魔術基礎』
『絶対合格!! 術式構築技術者試験準二級テキスト』
『新通解 現代ルーンB』
「なんかパッと見高校生か大学生の机みたいなラインナップね……」
教会とやらに所属している魔術師でない私はその中に書いてある事は全く理解できなかったが。
そうやって背表紙を追って見ていると、どうあっても見逃せない文字が見えた。もっとも、それは『本』ではなくファイリングされた資料だったが。
『《パンドラ》の人工作成に関する報告資料』
簡易的にそう記されたタイトル中にある、見覚え聞き覚えのある文字。
――《パンドラ》。
パンドラ=セブンの名前にもあるこの名前は、頭の悪い私でも名前だけは知っている。
『パンドラの箱』。
この世のあらゆる災厄が詰まった箱……だったような気がするが。
待って、この世のあらゆる災厄? 確か軋轢魔法の触れ込みもそんな感じだったような気が……
きっとここに軋轢魔法に関する何か重要なものが記されていると確信した私は夢中でページを読み進めた。
『概要
この世からあらゆる全ての悪を消滅させる為の手段の一つとして、本実験は行われた。
洗礼教会により定義される第一世界に存在する知的生命体群の有する感情における『負』の部分が世界に生じさせる歪みは、個々では小さいものの、多くが集まれば修正を余儀なくされるものである。昨今の知的生命体群の感情における『負』の部分は、観測できるだけでも年々増えており、このまま時間線が先に進む事は近い将来の人類史の破滅を齎す事は観測結果から予測できる(グラフ1を参照)。しかし、知的生命体から感情における『負』を取り除く事は人類史の発展に歯止めをかける事に他ならない。よって、本実験では、ほどよい量の『負』を知的生命体から取り除く為の、我々が今存在する第一世界の時間線の延長の為の機構を作成するものとする。
行程
まず、《パンドラ》を人工的に作成するにあたって、パンドラの箱の性質を理解しておかなくてはならない。
ギリシャ神話において、人間に火を与えたとされるプロメテウスがいた。プロメテウスは火を天界から持ち去ったのだが、それに激怒した主神ゼウスは、人類に災いを齎す為に『女性』を造るよう神々に命じた。そうして造られた『女性』は神々から贈り物を授けられた。
アテナからは女のすべき仕事を、
アフロディテからは男を惑わす魅力を、
ヘルメスからは浅ましいほどの狡猾さを、
それぞれを与えられた女性は、最後に神々から絶対に開けてはならないと念押しされた『箱』を渡される。
そして、パンドラはプロメテウスの弟であるエピメテウスのもとに送られる。
その魅力に誘惑されたエピメテウスは兄からの忠告を無視してパンドラと結婚してしまう。
その後パンドラは好奇心に負け『箱』を開けてしまい、そこからは『あらゆる災厄』が世界に飛び散った。しかし、その中に残った『希望』だけを残して箱は閉じられてしまう――
神話の記述者により多少の差異はあるものの、これらの寓話が魔術的要因として働くのは明確である。
これらを基に具体的には『パンドラ』に値する者を規定し、それに魅了される『エピメテウス』、この二つの配役を用意する。『箱』の意味は『パンドラ』に付加させる事でより機動性を確保する。『箱』から解放された『災厄』、この逸話に逆説的理論を上書きする事で《パンドラ》は世界に散らばった『災厄』を回収する『箱』となる。
『パンドラ』を規定する際に留意しなければならない事は、その枠に当てはまる人間はその精神性が非常に強力な自己犠牲を体現するものでなくてはならない。安易な正義感によるものではなく、逆に多くの知識、経験、見識による半端な正義感によるものであってもならない。その精神性は決して何があっても『誰かの為だけにこの身を使役する存在』ではなくてはならい。そうであって初めて『パンドラ』は規定される。それと同時に、肉体面においても強靭なものが必要となる。『あらゆる災厄』の回収はおよそ清浄である人体にはあまりに有毒であり、術式の適用中は使用者の体が常に傷付き続ける。この傷に耐えうる――』
なんだ、これは――これは一体何について書かれている?
内容が難解なのではない、ここには一切軋轢魔法に関する記述はない。後に読み進めていっても『災厄の回収』に関する記述が幾つかあるだけで、少なくとも『軋轢魔法があるからそうしている』雰囲気は全く感じられなかった。
ただ、何か別の目的の為に誰かを救う為の力を造ろうとした、そんな所だろうか。
その後も読み進めていくと、『パンドラ=ファースト』『パンドラ=セカンド』『パンドラ=サード』から『パンドラ=セブンス』までの体の状態を如実に記したのであろう資料が現れた。
『パンドラ=セブンス』……私達には『パンドラ=セブン』となのるあの少女は、これなのか?
その前後の記述を見る限りでは、セブンは人工授精、クローン等によって実験的に人工的に作られた人間の七番目、という事になる。
つまりセブンは人造人間で、強靭な肉体、精神を得る為に六回失敗した後にようやく成功した七番目、という事だ。
「結局、軋轢魔法の文字は一つもない……でも、『魔術』って言葉は一杯出てきてる……」
つまりこれは『魔術』なる力によるもの。以前洋が語った『女性にしか扱えない神秘』なのだろう。
故に、パンドラ=セブンは『軋轢魔法』ではない……何故メルシィ達は嘘を吐いたのだろうか?
セブンは、これを分かってやっているのだろうか? ここに書いてある事が本当だとすれば、セブンは力を使う度に傷付いている事になる。何度も何度も、人間の悪意に穢されながら、その身を、心を抉られていく。
それらはとても気になった。特にセブンについては、だ。だが私にセブンの心配をする権利は無いだろう。何故なら、私もセブンと同じ事をしようとしているからだ。
何度も書かれていた『自己犠牲』の文字。
如何なる事があろうと、絶対にこの身を誰が為に捧ぐ尊くも愚かな行為。
私がそれをやろうとしている以上、『自己犠牲』を以て悪意を収集して自らが傷付きながらも誰かの為になろうとするその思いは、心配する事によって決して無碍にしてはいけないと感じ、私はその感情に蓋をした。
そして、ここに書かれてある事が、もし私にもできるのなら――そう思い、私は他の書物にも手を出した。ここに書かれてある『魔術』、それをどうやって発動させるのかを知る必要がある。
強靭な肉体と精神?
慢心や高慢かもしれないが、だがこの身が傷付く事に関しては何の問題もない。私がただ傷付く事だけで誰かが救われるのなら、それはとても幸せな事だ。
要するに死ななければいい。
とても危ういが道は見えた。
この力があれば背人を救える――




