第一章
六月一日、錦景市の昼の空は深い雲に覆われ、細かい雨が舞い、あらゆる物が歪んで見えた。色は暗く、滲んでいる。綺麗な空じゃない。淀んでいる。梅雨の空。あまり好きじゃない。洗濯物が乾かないし、乾かない洗濯物を着なければならないし、そのせいで余計なことを考えてしまって、おそらく未来について大事なことに思考が届かない。太陽は分厚い雲に隠れてしまったままだ。ソーラ・パネルによってエネルギアを生産し、モータを回転させて何かを企むアンドロイドである、一年A組の南巽メグミの冗談のキレはここ数日間、味がない。
なんて。
つまらない冗談。
窓の外の空から視線を離し、メグミは息を吐き、誰もいない狭い部屋を見回した。メグミがいるのは錦景女子高校の北校舎六階にある、第四特別教室である。第四ということはもちろん、第一、第二、第三特別教室も北校舎には存在する。第五特別教室はない。第四特別教室まで北校舎には存在している。特別教室だからといって、特別、スペシャルな設備がある、というわけではない。広さは普通教室の半分もない。折りたたみ式の長机が二つ並べられているが、それだけでもう女子一人が踊れるスペースがなくなってしまう。掃除も行き届いていないし、天井のLEDライトさえ寿命を訴えている。神経質気味のメグミが愉快になれる空間ではないことは確か。とにかく、この第四特別教室は、使用用途が漠然としている、という点でスペシャルなのであり、本日の使用目的はずばり、反省室として、である。
メグミはつまり、反省しなければならなかった。反省を強いられていた。しかし、メグミにはその気がない。ここにいる理由があまりにも不条理だからだ。その不条理加減はカフカを凌駕するというものだ。
しかし、課題を放って置くことは出来ない。課題、つまり、反省した、という証明がこの部屋を出るためには必要だった。メグミは真っ直ぐに切り揃えられた前髪を指で払い、再び課題に向かう。メグミの目の前には一冊のノート。課題は詩を書くことだった。なぜか詩を書くことが、反省の証になるらしかった。テーマは自由。
苦手じゃなかった。
詩を書くことは、苦手じゃない。
中学生の頃に書いた詩で、何かの金賞を貰ったこともある。
その詩の内容は忘れてしまったが。
今でも、あの詩が持っていた仄かな熱は忘れていない。
メグミはふと、自分の中で騒ぐものを取り出して。
自由をテーマに詩を描き上げることに成功した。
ペンを置く。
誰もいないから声を出して息を吐いて、思う。
……本当に訳が分からない。
この状況、反省の意味、テーマが自由な詩の意味、あらゆるものの意味。
チャイムが鳴る。
昼休みを告げるベルの音。
そのチャイムからしばらくして。
扉がノックされた。
「……はい、」メグミは反応する。「どうぞ」
扉が横にスライドし、生徒会秘書の一年E組の朱澄エイコが作り笑顔を見せ、長机の脇を通ってメグミに近づきながら言う。「気分はどう? 反省している? さて、詩は書けたかしら?」
彼女と話すのは今日が初めてだった。メグミはA組、朱澄はE組だから、教室が離れているし、あまりすれ違う機会もなかった。生徒会秘書だということは知っていたが、それ以外の彼女の情報をメグミは知らなかった。だから、今朝、急に朱澄に話しかけられて驚いたし、手を掴まれてここに連れて来られてさらに驚いて、反省しろと言われ、詩を書けと言われたときは信じられないほど頭に血が登った。メグミが怒鳴ると朱澄はミステリアスな表情で微笑み、舌を見せた。メグミは少し狼狽えた。朱澄がとても魅力的に見えて、自分の方が全部、間違っているんじゃないかって思ったからだ。そんな風にメグミが整然としてない思考の間に、朱澄は速やかな動作で第四特別教室から出て、外側から施錠したのだ。一応、内側から鍵を開けることは可能だけれど。
もう、なんていうか、もう、って感じだった。朱澄に怒る気持ちはその時点で消失。また会えば怒鳴る気も起こるかと思ったが、それは全くなかった。朱澄は不思議な雰囲気の持ち主。きっとメグミが怒鳴っても、何も変わらないだろう。そう思わせるのだ。だから生徒会秘書なんてやっているのだ。本当に、不思議な女の子。魅力的な女の子。彼女が舌を出した表情をもう一度この目で見たい、なんてメグミは思っているけれど、それは言えない。恥ずかしいし、一応、怒っている風を装って僅かでも反抗の意思を示したい、と思う。メグミは素直じゃないから、複雑になりやすいのだ。朱澄が作った複雑な状況に巻き込まれて、もう、メグミの心はこんがらがってしまっている。素直になれるはずはない。だから、メグミは片目を閉じ、朱澄の方は見ずに、片手で詩を書いた髪を持ち上げ、優しくない声で言う。「書けましたよ、ええ、書けましたよ、これで満足? もう私、ここから出てもいい?」
「待って、」朱澄はメグミの隣の椅子を引いて、座った。「まだ、確認するから」
「……確認って、」朱澄の距離はとても近かった。「なぁに、品評でもするの?」
「うん、そんな感じ、」朱澄は詩を読んで、メグミの目を覗きこむようにして見た。「……上手ね」
「そう?」そっけない反応は照れ隠し。「詩なんてよく分かんないから」
「でも、駄目、駄目だわ」
「え?」メグミは目を丸くした。「なんで? 上手って言ったじゃん」
「上手いよ、別に不備はないし、表現は巧み、リズムに熱を感じるし、この詩に隠されたものは感動的で鳥肌が立ったし隠し方も綺麗、でも、テーマがね、」朱澄は髪の毛の先を指に絡めて目を細めて正面の中空を見ている。「テーマが違うのよ」
「テーマは自由って言った」
「言ったけど、ごめんなさい」朱澄は横目でメグミを見る。
「どうして謝った?」
「白状するわ」朱澄はメグミの手を触って見つめてくる。
「な、何を?」メグミは急に手を触られ動揺する。「白状? あの、全く、あの、どういうことだか」
「錦景について書いて欲しいの」
「はい?」
「高い場所から見渡す錦景についての詩を書いて欲しいの」
「……えっと、それって、つまり、」メグミは眉の当たりを指で押さえながら聞く。「……朱澄さんは私に詩を書いて貰いたいから、反省する必要のない私を捕まえて反省させて詩を書かせた、……そういうこと? そういうことなの!?」
「それは違うわ、」朱澄は即答して首を横に降った。「詩と反省は関係ないわ、メグミが悪いことをしたから、メグミはここにいるのよ」
「あっそ、」メグミはなんだか釈然としなくて朱澄を睨み、立ち上がりかけていたが、再び座り直した。「……呼び捨て?」
「別に構わないわよね」朱澄はニコッと微笑む。
「別に、いいけど」メグミは頬杖付く。
「あ、詩を書いてくれるの?」朱澄は手のひらを合わせて言う。「嬉しいわ」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないの?」
「いいよ、別に、書くけどさ、よく分からないけど」
「ありがと、高い場所から見渡す錦景について」
「高い場所から見渡す錦景についてね、うん、分かった、頑張ってみる、でも、待って、待ちなよ、」メグミは椅子から立ち上がっていた朱澄の袖を掴む。「どうして高い場所から見渡す錦景についての詩を書く必要があるの?」
「それは私にも分からないわ」
「は?」
「生徒会秘書の私でも分からないこと、でも、驚いてくれると思うから」
「誰が?」
「それじゃあ、放課後にまた来るわ、反省は放課後までだから、あ、詩の期限はないから、焦らないで考えてくれても構わないわ、そのかわり素晴らしいものをお願いね、分かった?」
「分からない」
「そう」朱澄はそっけなく言って、体の向きは扉の方に向ける。
「あ、放課後になったら、ここから出してくれるの?」
「ええ、」朱澄は頷いた。「ずっとここにいたかった?」
「まさか、」メグミは微笑んだ。演劇部の練習に参加出来ないかもしれないと思っていたから安心した。今日は通し稽古をやる日だった。まだ一年生のメグミに役は与えられていないけれど、素敵な先輩の演技を間近で見ることが出来る特別な日。特別教室よりもずっと、特別な日だったのだ。今日だけ、今日限りっていう特別ではないけれど、勇気を出して演劇部に入って、頑張ってずっと素敵な先輩の近くにいようと決めていたメグミには今日も、欠かせない時だったから。「あ、待ってよ、エイコ」
「ええ、構わないわよ、」エイコは扉の前でこっちを向いて腕を組んでいる。「何?」
「お昼ご飯は食べてもいいよね?」メグミはお腹を押さえながら言う。
「あ、ごめんね、あなたのお昼のことすっかり忘れていたわ」
「もう、」メグミは頬を膨らませた。「酷いよぉ」