イメージと偏見に負けず、楽観的な考えを持つ。
アドバイスとかあればください(__)
「自分自身を振り返っても、特に面白い記憶は無かった。」と断言する。
私はしばしば、自分ではない誰かで、存在しえない出来事について考えることがある。
それはあまりにも偏見にあふれている、浅はかなイメージだった。
もしも天才が、私の記憶を見て物語を書くとしたら、私自身では気付けなかったとても細やかで、かつささやかな記憶のひとかけらに着目して素晴らしいものを作り上げるのではないか。
いわゆる、私とは着眼点が違って、"センスが良い"のだろう。とでも言いたげなこのイメージは、正真正銘、たった一人の偏見から来ている。もちろん、このイメージが何割かは合っているかもしれないが、大方誤りであると、断言する方が早そうだ。
そして、私にはこのイメージを、この偏見を100%正すことは不可能に近いだろう。
これは世間でよく言われる、「一度体験してみろ」なんて理論が通用しないからである。
私は天才でもなければ、突然天才になることもできない。
これで、一体どうすれば、その"天才"の体験ができようか。
さて、そもそもどうしてこのような偏見を持ったのだろうか。
原因として考えられるのは、"それ"と相対した時の嫉妬、敗北感、劣等感といった負の感情や、圧倒的な力量差を目の前にした時の畏敬だろう。
実際に私がそれを目にした時、私は半ば呆れた。
「ああ、格が違うな。太刀打ちしようなんて考えられない。」
ハングリー精神を持つべき"人間"が、その時だけ人から鯉へとなり下がった。
もしも対抗心を燃やし、「ライバルになろう。」そう決められたらどれほど成長できるのだろうか。そんな考えも一瞬よぎったのだが、その決心が定まることは一度も無かった。
私の天才への偏見が始まったのは紛れもなくそこなのだろう。
それでも、私の偏見には一つ矛盾がある。
"それ"は圧倒的なセンスを持っている、そう考えながらも、本人は天才を自認しておらず、上ばかりを眺めているのだろう、とも思っている。
だからこそ「あなたは天才ですか?」や「天才とはどういう感覚なのですか?」ということを聞けずに、常に偏見だけを持ち続け、それを肥大化させてしまっているのだ。
私にとって天才とは、想像もつかないものであるが、想像する対象としては十分なものである。
それは、"天才"だけではない。
自分が想像のつかないものは、イメージがはっきりとつかめていないからこそ、偏見を駆使して想像したくなるのだ。
自分のいなくなった空間で、褒められているのか、悪口を言われているのか、はたまたノーコメントか。
自身の発言後に笑った人は、心から笑っているのか、合わせているのか。
こういう物事への想像はポジティブかネガティブかによって大きく揺れる。
ポジティブな人間ならまだ良い。しかしネガティブならば、悪く、悪く、自分を移動させてしまう。
天才についてのイメージもそうだが、大事なのは割り切ることと、早急に決断することである。
「天才は天才でそういうもの。で、自分は?」と自問自答して奮起させたり、「自分は人気で、人が良いから、讃えられているにちがいない。」と自分の位置を上げたりも良い。
"それ"に直接「○○をどう思う?」と適当に質問して「なるほど~」と無意味に流してみたり、「どうでもいいや」と切り捨てたりするのもまた良い。
楽観的に生きるには、偏見を上手く使って辛いことを考えない、不利なイメージをしないことが一つの道といえる。
最後に一つだけ言えることがある。
ネガティブな人間は他者の評価を気にしがちであるが、私含めその者たちに知ってもらいたいことがある。自論だが、関わりが浅い者は、あなた(わたし)に、それほど興味のない者が大多数で、逆にいつも関わる人は、不快感を抱いていないゆえに、あなた(わたし)と関わっている。つまりあなた(わたし)を悪く言う人は少数なのであって特段気に留める必要はない。
読んでいただきありがとうございます!!!!!!
ひっさびさですし、シリーズも途中でしたが、書きたいから書きました。
少しは評論っぽく書けたでしょうか。。。?
次書くのはいつになることやら




