新聞配達
「新聞配達に行ってくる」
まだ真っ暗な中、小林は妻に声をかけた。
8月に入り、暑さはますます本格的になってくるが、今は涼しい時間帯だった。
「気をつけて」
「おう」
短く答えると、小林は店を後にする。
配達に使う車はジープみたいな形で、頼れる相棒だった。
運転席に乗り込み、エンジンをかける。
すると、窓が叩かれた。
「どうした?」
娘がパジャマ姿で、立っている。
寝ていると思っていたのに、いつの間にか、起きていたらしい。
「あたしも一緒に行く」
「は? 何でお前が」
「お父さんとドライブがしたいの」
腕を組んで、ふんと鼻を鳴らすと、小林はやれやれと息を吐く。
「つまらなくても知らないぞ?」
「いいよ。朝、気持ちかいい時に、外に行きたいの」
娘は助手席に乗り込むと、車が走り出す。
さて、娘と何の会話をしようかと考えていると、娘から質問がくる、
「お父さんさ、新聞配達、楽しい?」
「楽しいって聞かれてもな…」
小林は車のライトをつけ、自分の存在を伝えるとともに、視野を明るくする。
まるで無人島に来たみたいに、目が慣れるのが遅く、何が飛び出してくるのか、分からなかった。
「どうなの、お父さん?」
「そうだな」
小林は少し悩むと、娘に答える。
「仕事だから。楽しいほうがいいに決まっている。お父さんだって毎日毎日毎日、気分の波があるから、全部が楽しいってわけじゃないけれど…。でも自分の責任だから、やり甲斐はあるわな」
「ふうん。そういうもの?」
娘が窓ガラスに頭をつけ、暗闇を眺めていく。
暗闇の波にのまれて、いなくなってしまわないか心配したが、何かあったら俺が守ると、小林は腹を決めていた。
「お前はどうなんだ? 勉強は楽しいか?」
逆に質問してみると、娘は嫌そうな顔をする。
「秘密!! ドライブのほうが楽しい」
「そうか。それならいい」
小林は追及せず、ハンドルを握る。
娘とこうして会話する機会は滅多にないのだが、嫌われていないのだなと、機嫌が良くなる。
「あ、配達ルートに入った」
独り言のように言うと、小林は自動車を停め、後ろに席に並べた新聞を手に取る。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
新聞を小脇に抱え、郵便局ポストを探す。
施錠タイプのもので、蓋を開けると、新聞を挟んでおく。
よし、と誰にも褒められないのだが、自分だけて満足すると、娘が言ってくる。
「新聞って、ああやってさしておくんだね」
「俺の場合はな。そのほうが、お客さんも取りやすいし」
シートベルトをすると、次の家を目指す。
「CD、流してもいい?」
「いいけど、音量は小さくしろよ」
いつも自分1人だから、音楽なんて聴かないのだが、娘が望むのなら、やりたいようにさせたかった。
「誰の曲だ?」
「うーん。お父さんに教えてもな。でもね、でもね、今、流行のアーティストなの!!」
娘の興奮した様子に、小林は少しだけ目を大きくする。
娘はいつも忙しくて、すれ違いが多いのだが、こんな一面もあるのかと初めて知る。
ー父親、失格だろうか。
ふと思い、娘のことを、何も知らないことに気づく。
今、教えてもらった曲はCMに使われているらしく、娘がふんふんと歌っていく。
「お前、そんなに好きか?」
「好きに決まっていいるじゃん!! かっこいいんだよ!! しかもね、しかもね」
「何だ?」
「あたしの気持ちを分かっているような歌詞なの。共感できて、すごいんだよ!! 天才だと思う」
「そんなにか?」
小林は曲を耳にするが、嫌な音ではなかった。
アップテンポのものや、バラードなど、色んな曲が入っているらしく、自分でも聴けるんだから、娘なんかもっと聴いているに違いないと思う。
「いい曲だな。俺でも聴ける」
「でしょう!! すごいんだよ、今、人気でね!!」
娘のはしゃいだ姿に、小林は涙ぐみそうになる。
娘の楽しそうな姿は幼少の頃くらいしか、見たことがなかった。
いつの間にか、大人の顔をするようになり、近づくのも避けていた。
ー弱い男だな。
娘のほうが何も深く考えていないのか、歌を口ずさむ。
しばらくそのままにしようと思い、新聞を配っていく。
「…あれ?」
娘が何かに気づいたらしく、小林は前に集中する。
そこには、1人のおばあさんがたたずんでおり、「ああ」と、小林は納得する。
「知っているの?」
「ああ。いつも新聞を待っていてくれるんだ。ちょっと行ってくる」
車から降りると、おばあさんに話しかける。
「おはようございます。いつもお世話になっております」
「はい、おはようございます」
おばあさんは丁寧に頭を下げると、手に持っていたものを渡してくる。
「何ですか?」
「おまんじゅう。お腹が空くでしょう? 少しは役に立つといいなと思って」
「いいんですか?」
「いいんですよ。年寄りの相手をしてくれて、ありがとうね」
まんじゅうと交換に、新聞を手渡す。
小林の手には、まんじゅうが温かく感じられ、ずっと持っていたのだろうかと推測する。
「いつも新聞を楽しみにしてくれて、ありがとうございます」
「いいんだよ。新聞を読むのが趣味みたいなものだから」
「あの、1つだけ言うと」
「何だい?」
「暗い中、1人で待っていなくていいですよ。ちゃんと同じ時刻に届けますから。安心してください」
責任をもって小林が言うと、おばあさんは、ははと笑う。
「年寄りの娯楽みたいなものだよ。気にしなくていい」
「そうですか」
「でも心配してくれて、ありがとうね。今、事件事故が多いから、こういう触れ合いが楽しみなんだよ」
「なるほど」
小林がうなずくと、おばあさんは「じゃあ」と言って、家の中に入っていく。
小林は家の中に入るまで見届ける。
「おい、腹が減っているか?」
「は? 何、急に?」
ノリノリだった娘は急に止まり、不思議そうに見つめてくる。
「今、おまんじゅうをもらったんだよ。嫌いじゃないよな?」
「嫌いじゃないよ。普通に食べられる」
少しだけ空の闇が薄くなった頃、娘はおまんじゅうを手にする。
「食べていいの?」
「ああ、俺も食べる」
2人で包み紙を取り、おまんじゅうを口にする。、柔らかな感触と、程良い甘さのあんこ。
小腹が空いていたので、ぺろりと食べてしまう。
「あー美味しい!! 良かったね、良いことがあって」
「良いことか…。そうかもな」
自分は新聞を配りながら、良いことをしているんだと、娘に言われて理解する。
そこにはお金の関係など発生せず、人間と人間の触れ合いが大切だと、静かに心に染み込む。
「お前もやりたいことがあるなら、何でもやれよ」
「え? お父さん、急にどうしたの?」
「いいから。好きなことをして、後悔のない人生にしろ」
「分かった。私も色々と考えているんだ」
娘は最後の一口を放ると、小林に言ってくる。
「お父さんとドライブするの、楽しい。また乗ってもいい?」
「いいぞ。ただし、パジャマ姿だけはよしてくれ」
「そうだね」
2人で笑い合うと、小林ははっと気づく。
最近、笑ってなかったなと思い、しかも娘相手に声を立てて笑うなんて、久しぶりのことだった。
「よし、次に行くぞ」
「うん!! Let‘s go!!」
暗闇の中、ぽつりと光るライト。
それを頼りに、進んでいくのだった。




