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未婚女性の寝室に忍び込むのは平民のすることです

作者: すじお

身分にかかわらず◯犯罪はダメ絶対。

ルクレツィアは針一本で生きてきた。

生まれは市井の裏通り、母から仕立ての技を学び、日銭を稼いできた。

そんな彼女が王宮に呼ばれたのは、運命のいたずらに思えた。


「お前はもう、城仕えだ。貴族さまの衣装を縫うのだ」


ある日、ルクレツィアの刺繍の施されたハンカチを見た貴族の婦人が、王宮へと招待したらしい。

拐かしのように着の身着のままで連れ出され、ルクレツィアは王宮へ連れてこられた。


だが、王宮はきらびやかで、豪奢で――そして冷たい。

貴族たちは平民を見下し、上官の女官でさえもことあるごとに言った。


「貴族は貴族、平民は平民。身の程を弁えなさい」


 身分の差は理屈ではなく、拳や靴先で思い知らされた。

 ルクレツィアは泣きながらも歯を食いしばった。お針子である自分の矜持だけが、彼女を立たせていた。


 ルクレツィアは、夜遅くまで細い指先に針を通しながら、深く息をついた。



 王宮の一角に設けられた仕立て場には、絹やビロードの生地が山のように積まれ、煌めく糸が陽に照らされている。目も眩むほどの豪奢な布地に囲まれていても、彼女の心が晴れることはなかった。


「平民風情が、王宮の衣を触るとはね」


 昼間、すれ違いざまに吐かれる嫌味。ときに机をひっくり返され、ときにわざと針箱を蹴り倒される。

 理不尽な暴力や言葉に晒されても、ルクレツィアは顔を上げた。


(わたしには、わたしの誇りがある。お針子として、ここで生きると決めたのだから)


 母から受け継いだ小さな鋏は、彼女にとって剣よりも頼もしい武器だった。

 彼女は給金もほぼもらっていないが、十分な食事と王宮のはなれの小屋に住むことだけは許されていた。

そして何より、普段の仕立てでは触れられない世界中の珍しい布地を扱うことができることが楽しみだった。


 ――けれど、ある夜。

 部屋の扉を叩く重い音に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。

 こんな時刻に訪ねてくるのは誰だろう。恐る恐る開けた瞬間、眩しいほどの金髪をした男が立っていた。


「……ハイド卿」


 王宮で何度か見かけた軍人。その鋭い目は、戦場で獲物を射抜く鷹のように光っている。


黄金の髪を持つ軍人、ハイド卿が彼女の狭い小屋へ忍び込んできた。


「気に入ったんだ。貴族なんだから、いいだろう?」


 その声は命令のように響いた。


「は……?」

「お前を。だから来た」

 強引に足を踏み入れられ、狭い部屋の空気が一気に張り詰めた。

 彼の口から吐き出された言葉は、命令に等しかった。


「あばれるな!貴族なんだから、いいだろう」


 ルクレツィアの全身に冷たい怒りが走った。

 彼女は寝巻きの裾を握りしめ、声を震わせながら叫んだ。


「いいえ。女の貞操に、貴族も平民も関わりはありません。わたしにはわたしの権利があるのです」


 一瞬、ハイドの表情が歪んだ。まるで「平民が何を」と言わんばかりに。

 ハイドは戦場で捕虜や応急処置に使う麻酔の粉薬を無理やりルクレツィアに嗅がせると、事に及んだ。



 

翌朝。


 ルクレツィアは呆然と乱れた自身の寝巻きを見つめていた。

 これほど惨めな衣服を見たことがなかった。

 あれが夢ならば良いと思ったが、寝具の跡がそうねはないと告げる。



 ルクレツィアは一人で泣き寝入りなどしなかった。

 すぐに信頼できる貴族女性の取り巻きに打ち明けると、女中たちの口伝いでハイドに責任を取るよう迫った。

 その場で彼は渋々うなずき、「婚姻を考える」と約した。

 しかし――数日後、その言葉は無残に裏切られる。


「平民の娘に縛られるなど、冗談ではない」


 彼の冷たい嘲笑が、耳から離れなかった。


 

 残されたルクレツィアは決して安泰ではなかった。


 「きずもののお針子」――城の女たちは陰でそう囁き、冷たい視線を浴びせてきた。


 彼女は机に向かい、黙々と針を進めながら、自分の胸に問いかけた。


(どうして……わたしが辱められなければならないの? 守ろうとしたのは、ただ自分の尊厳だったのに)


 涙は落ちたが、針は止まらなかった。

 布を縫うことでしか、彼女は自分を支えることができなかったのだ。


 そんな噂を耳にした一人の貴族がいた。

 漆黒の髪を持ち、静かな眼差しで人を見つめる若き男――セドリック卿。


「君が、あのルクレツィアか」


 最初に彼が口にした言葉は、決して優しくはなかった。

 彼は平然とこう告げたのだ。


「愛人にするつもりで呼んだ」


 ルクレツィアの背筋が凍った。

 だが、その後に続いた言葉は予想外だった。


「……だが、話してみてわかった。君は、誇りを持っている。そんな女を、愛人に収めるなど愚かだ。――正妻として迎えよう」


 静かに、しかし力強く。彼の瞳は誠実さを宿していた。


 ルクレツィアの胸の奥に、温かいものが流れ込んだ。

 今まで「平民の女」としか呼ばれなかった自分を、彼は「一人の女性」として見てくれている。


「……わたしでよろしいのですか?」

「君だからこそ、いい」


 涙が頬を伝った。

 だがそれは、屈辱や悲嘆の涙ではなかった。

 ようやく見つけた、救いの涙だった。

 お針子として、平民として、女として。


 誇りを貫いた彼女は、ついに真の伴侶を得たのだ。

――未婚女性の寝室に忍び込むのは、平民のすることです。

誇りある貴族ならば、約束を果たし、守るべきものを守らねばならないのだから。



 城内の広間に、いつになく緊張した空気が漂っていた。

 上級貴族たちが円を作り、中央には腰を屈めたハイド卿が立つ。

 その視線は低く、いつもの傲慢さは跡形もなかった。

「ハイド卿、あなたは何を考えておられるのですか」


 長老の貴族が厳しい声を上げる。

 ルクレツィアも遠くから見守った。心臓が痛むほどに緊張していた。


「未婚の女性の寝室に踏み込む――それは貴族のすることではありません」

「王宮の秩序を乱し、身分をわきまえぬ行為です」


 若い女官の声も続いた。

 城内の空気が一層冷たくなり、ハイドはただうつむくばかり。

 誰も彼をかばわない。彼が平民を侮辱し、約束を破った事実は明白だったのだ。

 女中の口伝いで王妃まで彼の失態が伝わり、醜聞に対しての処罰が行われたのだった。

 彼女は貴族の義務を重んじていたのだ。女官たちも険しい顔をしている。


「未婚の平民の娘に手を出すなど、身分も教養もない者のすることです!」


 老貴族の言葉に、ハイドの肩は震えた。

 その瞬間、城内にいたすべての者が思った――「未婚女性の寝室に踏み込むのは、平民のすることではない。ましてや、貴族の名を持つ者のすることでは決してない」と。


 最終的に、ハイドは軍務という名の遠流に処される。

 その屈辱は、ルクレツィアを傷つけた行為の報いとして、王宮全体の正義が下した判決だった。




 婚儀の日。


 ルクレツィアは真新しい絹のドレスをまとい、鏡に映る自分を見つめた。

 王宮に初めて呼ばれた日のことを思い出す。粗末な仕立て場で震えていたあの頃の少女が、今や貴族の妻となるのだ。


「よく似合っている」


 背後からかけられた声に振り返ると、黒髪のセドリック卿が立っていた。

 彼は彼女を見つめる目に、一片の揶揄もなく、ただ静かな敬意と慈しみを宿していた。


「セドリック様……」

「君がここにいることを、誇りに思う」


 その言葉は、何よりの贈り物だった。

 ルクレツィアは、彼の隣に立つ資格をようやく与えられたのだ。

 結婚後の暮らしは、華やかでありながら、穏やかだった。

 朝はセドリックと共に庭を散歩し、昼は領地の人々のために衣服を仕立てた。

 豪奢なドレスよりも、働く人々の服を縫うとき、ルクレツィアの心は満たされた。


「平民の頃と変わらないね」

「ええ。でも、わたしは針と布がある限り、どこでも生きていけますから」


 セドリックはそんな彼女を誇らしげに見守り、ときに大げさに肩をすくめた。

「君があまりに頼もしいから、夫の立場がなくなりそうだ」

「……そんなことありません」



 そう言って笑い合える日々が、彼女にとっての何よりの宝物だった。

 ある晩。

 ランプの明かりの下で、セドリックがふと真剣な顔になった。


「ルクレツィア。君があのとき声を上げ、誇りを守り抜いたからこそ、今の君がいる。わたしはその強さに惹かれた」


 ルクレツィアの胸が熱くなる。


 あの夜、必死で叫んだ自分の言葉――「女の貞操に、貴族も平民も関係ありません」――が、今こうして彼の隣で生きる自分につながっているのだ。


「ありがとう、セドリック様。わたしは、もう一人じゃないのですね」

「二人でなら、どんなことも越えていける」


 彼の手が彼女の手を包み、互いの温もりが夜の静寂に溶けていく。

 ルクレツィアは知っていた。

 自分は決して「幸運だけで幸せになった」のではない。


 針を握り、誇りを捨てず、涙をこらえて進んできた日々があったからこそ――その先に、今の幸福があるのだ。

 そして彼女は心の中で静かに誓う。


 もう二度と「きずもののお針子」とは呼ばせない、と。

 彼女はセドリックと共に歩み、愛され、守られ、そして自らも守る。

 平民の娘ルクレツィアは、いまや誰もが敬う「黒髪の貴族の妻」となったのだった。

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