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6話 ルナネリス王国

 ルナネリス王国は、女神信仰の国である。

 もともとは何も持たない弱き者の集まりだったが、女神に選ばれた『はじまりの聖女』の出現により、魔法と知恵を得た。

 女神は、深く深く、聖女を愛した。

 聖女のために美しい湖と魔力に満ちた森を作り、飢える人々に心を痛めた聖女の願いで、豊穣の祝福を与えた。

 さらに、浄化と癒しの力を与え、人々に健やかな暮らしをもたらした。

 聖女の力の噂が広まるにつれ、人々が集い、時を経て国が生まれた。

 約七百年前、聖女が女神の信託を受けて一人の王を選び、ルナネリス王家が誕生した。

 聖女の力は強大だったが、王家に名を連ねることはなく、その名を残すことも望まなかったという。

 王家は聖女の意思を汲み、歴史書には彼女を『はじまりの聖女』とだけ記し、信仰の対象を彼女ではなく女神に定めた。

 聖女は湖のほとりに大神殿を築き、そこに女神像を建てるように命じた。さらに、国の東西南北に四つの神殿を配置させる。聖女は季節ごとに各地を巡りながらも、最も長い時間、大神殿の女神像に祈りを捧げて過ごしたと言われている。

 そして聖女は、最期の時に予言を遺した。


『私が去れば、祝福は失われる。五つの神殿の結界で、しばらくは滅びを食い止められるが、やがて必ず国は衰えるだろう。だが、希望はある。鏡を用いて、新たな聖女を探すのだ。次の聖女は、“次元の異なる世界”に現れる』


 予言通り、彼女がこの世を去ると共に、国は少しずつ衰え始めた。

 だんだんと土地は痩せ、森には魔物が現れ、病が広がる。絶望の中、王家と神殿はあらゆる手段を模索した。諸外国の古文書を探り、中には禁じられた魔術に手を伸ばす者も現れたという。

 そして長い苦難の末、王家は聖女の遺した鏡を用い、ついに異世界から“次の聖女”を召喚する魔法を完成させたのだ。

 新たな聖女は、常に次元を超えて選ばれた。『はじまりの聖女』ほどの力は持たなかったものの、いずれも聖なる力を宿し、彼女たちが神殿で祈りを捧げることで国に結界が張りなおされ、土地を浄化することができた。

 こうしてルナネリス王国は滅亡の危機を乗り越え、再び甦ったのである。



「『はじまりの聖女』が現れたことで我が国は豊かさを手に入れました。彼女亡き後も、次の聖女が再び女神の愛を呼び戻してくださった。つまり、ルナネリス王国にとって聖女という存在は女神との絆そのものなのです。王家、ならびに神殿は、異なる世界から訪れてくださった聖女様を導き、助け、大切にするという義務があります」

 アルベルトに怒られて可哀そうな印象しかなかった白髪の男性は、エゼル・カーティスと名乗り、片手を胸に当てながらこの国の成り立ちや聖女について朗々と説明してくれた。大神官を務めており、召喚の儀における中心人物でもあるらしい。聖女のことを語るカーティスはいきいきとしていて、道春の中にあった“しょぼくれたおじさん”のイメージが払拭された。

「そして現在、聖女として選ばれたのがナツキ様というわけです」

 カーティスが説明をし終えたのを確認して、道春は手を挙げた。

「質問していいですか」

「どうぞ」

 まるで生徒を相手にするかのように、カーティスが微笑みながら頷く。

「この国の歴史とか、聖女の役割とかは、なんとなく分かりました。……いや、正直よく分かってないんですけど、とりあえずルナネリス王国のことは聖女が全部解決してくれる仕組みになっているから聖女が必要で、そんな聖女である姉は、国からめちゃくちゃ大事にされているってことですよね?」

「その通りです」

「それで、なんで俺を呼ぶ必要があったんですか?」

 カーティスは一拍置いてから、まっすぐ道春を見据えて言った。

「ナツキ様の心を癒すためです」

 ――出た。癒すとか、慰めるとか、またその話である。

(王子は、俺のことを姉ちゃんにとっての最大の未練だって言ってたけど……)

 あくまでも穏やかな笑みを崩さないカーティスと、相変わらず偉そうなアルベルトを交互に見つめる。

 嫌な予感がして、無意識にこめかみを押さえた。

「……もしかして、姉は元の世界に帰りたがってます? それができないから、俺を呼んだ……とか?」

「ふ、分かってるじゃないか」

 満足げなアルベルトの声に、一気に不快感が膨れ上がった。カーティスが一瞬だけ瞳を揺らし、不安げな表情を浮かべる。だが何も言わず、静かに後ろに下がった。

「帰りたがってるなら帰してください。俺をここに呼んだって、問題は解決しないと思います」

 悪びれないアルベルトの態度に、口調が自然ときつくなる。けれど、彼は気にした様子もなく、肩をすくめただけだった。王子の背後に控える赤髪の男の視線だけが、鋭くなって道春に刺さる。

「そんな簡単な問題ではない。そもそも帰る方法など見つかっていない」

「帰る方法もないのに、簡単に人を攫ったりするな!」

 思わず声を荒げると、右隣でユリスが手を伸ばし、道春の前に庇うように立った。ハッとして顔を上げれば、赤髪の男が腰の剣に手をかけているのが見える。

(ム、ムカつく……!)

 怖がるより先に、思い切り睨みつける。怒りのほうが勝っていた。アルベルトが軽く片手をあげ、背後の男を制する。

「やめろ。ミチハルが聖女の弟であることを忘れるな」

「……は」

 それだけで素直に姿勢を戻す赤髪の男に、ますます苛立ちが募る。

 今、自分は「聖女の弟」だから許された。これがただの無力な高校生だったら、不敬罪とかいう理屈で罰せられていたのかもしれない。

(理不尽! これだから権力者ってやつは……!)

 荒ぶる道春の心の内を知ってか知らずか、アルベルトの声音が少しだけ柔らかくなり、なだめるように「聞け」と言った。

「確かに今は帰る方法がない。だが、帰還魔法の研究はしている。それがナツキに聖女としての務めを果たしてもらう条件だからだ。だが帰還魔法は前例がないため難しく、失敗する可能性も大きい。正しく魔法が発動されずに、ナツキがわけの分からん次元に一人取り残されるのは嫌だろう?」

「……はあ。まあ、そうかもしれないですけど……」

「不確かな魔法で無謀な賭けに出るくらいなら、ルナネリス王国で不自由なく暮らすほうが幸せだとは思わないか」

 断定するようなアルベルトの言い方に、眉をひそめる。

「……なにを幸せか判断するのかは、姉次第じゃないですか。姉が帰ることを諦めたくないなら、その帰還魔法ってやつを失敗させないように、そっちが頑張るべきでしょ」

「努力はしている。なあ、マーレ?」

 急に話を振られ、道春は反射的にユリスの顔を見た。

「ユリス・マーレは、もともと召喚魔法の研究チームに所属していた。今は王宮を離れているが、聖女の帰還魔法に関しては彼に一任されていると言ってもいい」

 信じられない気持ちでユリスを見つめると、彼は静かに頷いた。

「はい。尽力しております」

「成果はどうだ」

「…………どうにか、聖女が務めを終えるころには」

「だが、道のりは遠いというわけだな」

 そう言って、アルベルトは俯くユリスを一瞥し、道春に向かって薄く笑った。

「というわけで、聖女の帰還魔法はマーレの腕にかかっている。もちろん、王宮の魔導士たちも手を尽くしているさ。しかし確実ではない以上、我々としても別の道を用意しておかねばならない」

(……正気か、この男)

 唖然としてしまう。帰還魔法が難しいというのは分かった。だが、それを十六歳のユリスに任せていると堂々と言ってのけるなんて、どうかしているんじゃないか。

 たとえユリスが優秀な魔導士だったとしても、年齢的には未成年だろう。いや、この世界の成人年齢は違うのかもしれないが、それにしたって無責任すぎる。

 ドン引きしている道春の思いなど気にも留めず、アルベルトは話を続けた。

「誤解してほしくないのだが、貴殿の召喚も簡単に決まったわけではない。召喚の儀は本来、聖女を迎えるための神聖な儀式だ。いくら身内であろうと、聖女以外の者に使ってよいのかという疑念もあった。反発を避けるため、貴殿の召喚も秘密裏に行われている。……それほど、我々は困っていたのだ。困り切っていると言ってもいい」

 そう言って、アルベルトは深く息を吐いた。

 高圧的で腹の立つ王子ではあるが、一瞬だけ、彼の本音が垣間見えた気がした。

「聖女召喚は、国にとって最大の要事だ。失敗は許されない。召喚が成功したことは大変喜ばしいことだった。だが――」

 アルベルトの声が、ほんの少しだけ低くなる。

「召喚直後のナツキの取り乱しようは、それはもうひどかった。自分は聖女ではない、今すぐ帰せ、と。しかし彼女が聖女であることに疑いはない。聖女は一人きり。代えはきかない。当人がなんと言おうと、務めを果たしてもらわなければ国が滅ぶ」

 言葉を切ったアルベルトの声音には、苛立ちと重責が滲んでいた。威厳の裏側に、聖女を抑えきれない焦りが見える。

「いくら説得しても、まるで取り付く島がなく、しまいには『帰さないのならこの国を呪いながら死んでやる』ときた。聖女にそんなことをされてはたまったものではない。カーティスも説明していたが、女神の祝福は聖女あってこそなのだ。聖女の身に何かあれば、女神の怒りを招き、今度こそ完全に見放されるかもしれない。だから、聖女の務めを果たしてくれるのであれば、帰す方法を探すと約束した。……いろいろ、本当にいろいろあったのだが、最終的には聖女もそれで納得した」

 「いろいろあった」と言いながら、あまり思い出したくなさそうにアルベルトが低く呟く。

 その様子に、少しだけ気の毒に思わなくもなかったが、心の大半は「ざまあみろ」という気持ちが占めていた。過去の姉に、心の中で拍手を送る。

「これまで召喚されてきた聖女たちも、すべて異なる次元から選ばれてきた。文献によれば、召喚直後は不安定でも、王家が支えることで次第に使命を受け入れるとある。この国では、聖女は神にも等しい存在だ。何不自由ない暮らしを与え、傅かれれば、自然と心変わりして己の役割に向き合うはずだと、そう信じてきた。だが、ナツキは違う。どれだけ時が経っても、頑なに帰りたいと繰り返すばかりだ。誰にも心を開かず、王家の言葉すら届かない。……このままではまずい」

 苛立ちを隠そうともせず、饒舌に語っていたアルベルトが唐突に口を閉じた。

 鋭い視線が道春を射貫く。

「――原因は貴殿だ」

「え」

「ナツキのこれまでの話から推察するに、聖女を召喚するタイミングがまずかったようだ。……覚えはあるか」

 脳裏によぎるのは、あの夏の帰り道。少し後ろを歩いていたはずの姉が音もなく消えた、あの瞬間だ。

 最初から誰もいなかったかのように、ぽっかりと空間だけが残された。夏紀はあのとき、召喚されたのだろう。道春も衝撃を受けたが、夏紀の動揺はどれほどだったのか。

 本来、道春が召喚されるはずだった「召喚の間」を思い出す。あんな怪しげな場所で、何も分からないまま知らない人間たちに取り囲まれた、十七歳の姉のことを考えた。今の道春と同じ年齢のときに、夏紀はそんな目にあったのだ。

 道春が静かに頷くと、アルベルトはまた溜め息をついた。

「不可抗力とはいえ、聖女の恨みはすさまじい。ルナネリスの国民全員の命よりも、たった一人の人間の心の傷のほうが心配らしい」

 どこかあざけるような口ぶりだが、道春には夏紀の気持ちが分かった。

 道春だって、見知らぬ国の人々よりも、自分自身や身内のほうが大事だ。冷たいとか利己的だとか言われても、ひとつの国が亡ぶより、すぐそばの人の命や心を優先してしまう。今だって、いくら聖女の重要性を説明されても、あまり心に響いてはない。重たい役目を無理やり押し付けられた姉に、同情の気持ちしか湧いてこないのだ。

 そもそもアルベルトは、道春さえいれば夏紀の未練が消えると思っているらしい。だが、そんな単純な話じゃない。

 夏紀には夢があったし、それを叶えるために努力もしていた。友達だっていたし、道春の知らない大切なものも、きっと持っていた。夏紀の消えたタイミングがあのときだったから、強烈に道春のことが頭に残っているだけだ。いつ召喚されても、夏紀はやっぱり怒ったし、許さなかったと思う。

 すべてを奪った国に、「代わりに新しいものを与えるから、聖女として生きてくれ」なんて言われても、簡単に頷けるはずがない。

「約束したんだったら、姉はちゃんと帰してください。すごく心配したんです」

 まっすぐに主張する道春を、アルベルトは聞き分けの悪い子供を見るような目で見下ろした。

「話を聞いていたか。簡単に帰せるなら、そもそも貴殿を呼ぶこともなかった」

「でも、元の世界に帰すって条件で姉に聖女をしてもらってるんですよね? それなのに、無理だから代わりに弟呼ぶって、無茶苦茶じゃないですか? 契約違反だ」

「我々がナツキと約束したのは『帰る方法を探す』ということだ。先ほども言ったが、帰還魔法の研究は今も続けている。約束を違えたことにはならない」

 冷静に言い切るアルベルトが、続けざまに言葉を重ねる。

「だが、ナツキ自身がここに留まるとを決めたのなら話は別だ。よく考えてみろ。帰還魔法が失敗し、ナツキの身になにか起これば、女神の怒りに触れる可能性もある。さらに、国の象徴である聖女が、役目を終えたからとはいえルナネリスを去れば、国民も不安に思うだろう」

 アルベルトの声は平坦だが、言葉の端々に夏紀を手放したくない本音がにじむ。

「ナツキは、資質はともかく能力は歴代でも群を抜いている。だからこそ、民からの信頼も厚い」

「……なんだかんだ言って、帰したくないだけじゃん」

 道春が呟くと、アルベルトはあっさりと認めた。

「ルナネリスの者なら当然だ」

 なにを言ってるんだとばかりに開き直ったその態度に、道春はムッとして口を結ぶ。

 偉そうなことを言っているが、この人も別に自分と変わらない。大切なのは自分の世界だけ。夏紀や道春の気持ちなど、どうだっていいのだ。

 取り繕うように、アルベルトの声が柔らかくなる。

「貴殿を賢くないと侮ったことは訂正しよう。だが、だからこそ、ミチハルにはナツキの心の癒しとなってほしい。決して悪いようにはしない」

「……つまり、俺に姉ちゃんを説得してほしいってこと?」

 夏紀は難しいが、弟である自分なら懐柔できると思ったのか。この世界でなんの力も持たない自分なら。

 アルベルトは笑みを深めただけで、肯定も否定もしない。

「ミチハルには、聖女の弟としてふさわしい地位と屋敷を用意する。もちろん金も出そう。働かずとも生涯不自由のない暮らしができる。しかるべき時期がくれば、美しい令嬢との結婚も約束する」

「へえ……」

 まるで「これ以上の幸せはないだろう」と言わんばかりの口ぶりに、反発が湧いた。

 別に、働くのが嫌なわけじゃない。コンビニバイトは面倒だが、自分で稼いだ金が貯まっていくのは気分が良かった。

 結婚願望に関してはまるでない。日本で彼女もできたことがないのに、なにもかもが違う世界で、勝手に結婚相手を決められるなんて怖すぎる。

 なにより、「すべてを与えるから従え」とでも言うような、アルベルトの強者ゆえの傲慢さが不快だった。

「やっぱり、帰りたいです」

 道春の言葉に、アルベルトの顔がわずかに曇る。姉弟そろって思い通りにならず、苛立っているのかもしれない。そんなこと、道春には関係ないけれど。

「だいたい、俺に姉の癒しになれって言いますけど、それ、姉ちゃんが望んだんですか?」

「貴殿の召喚は秘密裏に行われたと言っただろう。極秘事項だ」

「じゃあ、姉ちゃんに相談もせず、勝手に俺を呼んだんですか? 探りを入れることさえせずに? それと王様はどうしたんですか? アルベルト王子って第二王子でしたよね。一番偉い人はなんて言ってるんですか?」

「もちろん、父上にも相談の上で貴殿を召喚している。だが、この件の責任者は私だ」

 ……まじか。

 国王も了承の上で、こんなことを?

 これで本当に、夏紀の心が癒せると思っているのか。

 冷静な判断ができないほど、追い詰められているということなのかもしれない。

「帰してください」

「方法を探す努力は続けている。だが、ここで生きていく道も考えるべきだ。人間は環境に慣れる生き物だ。使命と覚悟さえあれば、たいていのことは受け入れられる。これまでの聖女もそうしてきた」

「聖女の気持ちなんて、聖女になった人間にしか分からないだろ」

 やっぱり、感覚が違い過ぎる。

 こんな場所で、姉は一人で頑張っているのか。

 もうこの人と話すのも嫌だった。


 張り詰めた空気の中、それ以上なにも言えずにいると、扉の向こうが急に騒がしくなった。

 体がびくりと震える。

 記憶の中にある、懐かしい声が聞こえた気がした。

 部屋に一つだけある、豪奢な彫刻が施された木製の扉。その向こうから、人の気配がする。

 ――ガチャリ、と取っ手が動いた。

「こんな夜中に一体なに? くだらない用件だったら張り倒すから」

 聞き覚えのある声が耳に届いた瞬間、胸が痛いほど締め付けられた。息を吸うのも忘れ、扉を見つめる。

 苛立ちを隠しもしない、不機嫌そうな顔の女性が姿を現す。その背後には、騎士のような格好をした長身の男と、レオナードと呼ばれていた緑髪の男が続いた。

 艶のある黒髪に、目尻の上がった切れ長の目、ツンとした鼻先、小さな唇。

 見間違えるはずがない。血のつながりを感じさせる、道春と似た顔立ち。

(……姉ちゃん)

 本当に。

 本当に、夏紀がそこにいる。

 夢にまで見た再会のはずが、どうしていいか分からずに体が動かない。

 夏紀が消えてから七年の月日が経っている。肩まで伸ばしていた髪は短くなっていたけれど、思ったよりも見た目は変わっていない。

 白いシャツとベージュのズボン。シンプルで中性的な服装。

 魔法使いや王子たちのファンタジーな衣装を見ていたせいか、地味なその姿が強く印象に残った。少なくとも、道春が思い描いていた「聖女」の服とは違っている。

 記憶の中の姉と、目の前の姉の姿が、ゆっくりと重なり合っていく。

「ははは、ナツキは相変わらず手厳しい。だが、会わせたい者がいるのだ」

 アルベルトの乾いた笑い声が、遠くで響くように聞こえる。

 夏紀の視線が、道春に向けられた。

 視線がぶつかり、静寂が支配する。

 心臓の音だけが、耳の奥で大きく鳴っていた。

 夏紀は何も言わず、ただまっすぐに、道春を見つめている。

 時間が止まったような沈黙の中、先に口を開いたのは道春だった。

「…………姉ちゃん……?」

 緊張で喉が渇き切っていて、かすれた声になる。

 一瞬だけ眉を寄せた夏紀が、はじかれたように、大きく目を見開いた。

「………………もしかして、みっちゃん……?」

 懐かしすぎる呼び方に、鼻の奥がツンと痛んだ。

 声も出せず、ただ頷くと、夏紀は口元を手で押さえて震え始める。

 横目に、満足げに頷くアルベルトの姿が見えた。

「どうだ! お前の弟を呼んでやったぞ。これでお前の憂いも晴れ――」


 ――バリンッ

 

 アルベルトの言葉を遮るように、鋭い音が空気を裂いた。

 窓ガラスが、粉々に砕けて飛び散る。

 びりびりと部屋全体が震える。夏紀の髪が、逆立っていた。射るような眼差しが、アルベルトを貫く。

「殺してやる……!」

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