2話 青い石
その日、道春は十七歳の誕生日を迎えたばかりの夏紀と一緒に、プレゼントを買うため、駅近くのショッピングセンターに出掛けていた。二人とも盛大に寝坊したせいで、店に到着したのは夕方近くの中途半端な時間になった。
薄茶色で柔らかな髪質の道春とは違い、夏紀は艶のある黒髪をしていて、肩の長さの髪をいつもひとつに結んでいる。
年も離れていたし、性格も違っていたけれど、目尻の上がった目の形や、ツンとした鼻先、小さな唇など、顔のパーツはよく似ていたから、一目見て姉弟だと分かる人も多かった。
いくつか雑貨屋を回り、道春は貯めていたお小遣いで、猫が好きな姉のために、水色の布地にワンポイントで猫の刺繍が入ったハンカチを選んだ。
青い包装紙に包んでもらい、その場で渡すと、夏紀はすごく喜んで、「一生大切にする」と笑った。
せっかくだから何か食べて帰ろうと夏紀が言うので、道春は好きなファミレスの名前を挙げた。二人ともハンバーグを頼んで、ドリンクバーで乾杯し、誕生日をささやかに祝った。
帰り道、夏紀は機嫌良さそうに鼻唄を歌い出し、道春が恥ずかしいからやめろと言うと、わざと声を大きくするからムカついた。
月の綺麗な夜だった。
狭い脇道に入り、夏紀の少しだけ前を歩いていた道春は、ふと、塀の上で縞模様の猫が寝ているのに気付いた。
『姉ちゃん、猫がいる』
浮かれた道春の言葉に、返事はなかった。
いつもの夏紀なら、大袈裟なくらい喜ぶはずなのに。
不思議に思い振り返る。
『……姉ちゃん?』
そこに夏紀はいなかった。
ぽっかりと空いた空間に、道春の声が響く。
『姉ちゃん』
心が内側からじわじわと冷えていくような、経験したことのない感覚。
まるで最初から誰もいなかったように、声も気配もなく、姉は突然姿を消した。
どうすればいいか分からず、道春はただそこで立ち尽くしていた。
*
男が用意してくれた椅子に窓を背にして座り、所在なくぶらぶらと足を揺らす。
視線を落とすと、履きつぶされた黒のスニーカーが目に入った。バイト用に買った安物の靴だ。ふと、そういえば室内なのに靴を脱ぐようには言われてないな、と気付く。男も靴を履いているようだし土足が許されている場所なのだろう。床には何が落ちているか分からないため、靴を履いたままでいいのはありがたかった。
バイトにはいつも最低限の荷物しか持って行っていないので、バッグには千円札が入った財布と電源の入らないスマホだけ。どちらも役に立ちそうになくて、バッグごと足元に置いている。汚れなどが若干気になったが、今更遅いかとあきらめることにした。息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。
「大神殿に行く準備をする」と、宣言した男は、なぜか今、指先に乗るほどの大きさの小粒な石を真剣に観察していた。
道春にはただの石ころにしか見えないそれは、テーブルの隅に転がっていた錆びた菓子缶のような容器に入っていたものだ。慣れたしぐさで容器を引き寄せた男は、中のものを無造作にテーブルにぶちまけると、真剣な目つきでひとつひとつ眺め始めた。
右に左に素早く選り分けながら、時折、石を光にかざして何か呟いたり、指で弾いて微かな音を確かめたりしている。
なんの準備をしているのか一ミリも分からないが、道春にできるのは、男が作業を終えるのをただ待つことだけだ。
身だしなみという概念がなさそうな男は、この雑然とした部屋にもひるむことなく、勝手知ったる様子で、あちこちに散らばる道具を扱っている。間違いなく、この部屋は彼のものなのだろう。
道春が座っている椅子にも、もともと十冊ほどの本が積み重ねられていたのだが、それらはすでに物が溢れている机の上に、男が無理やり移していた。壁際には本を収納するのに充分な大きさの棚が並んでいるのに、ちっとも活用されていない。
道春が呆れていることなど知らず、男は石に夢中だ。ちなみに椅子は一脚しかなかったため、それを道春に譲った男は、立ったまま作業をしている。
(姉ちゃんに、会えるのか……)
邪魔になってはいけないと思い静かにしているが、どれだけ待てばいいのかも分からないし、やることがなくて暇だ。そうすると、余計なことを考えてしまう。
例えば、ここは本当に異世界なのか、それとも、実は怪しい宗教施設なのか、とか。
道春としては、なんだかんだと異世界説が濃厚なのではと思っている。そうでなければ、田舎の舗道から突然見知らぬ部屋に移った説明ができない。いくら怪しい宗教団体でも、自転車に乗っている男子高校生を、あっという間に別の空間へ移動させることは難しいんじゃないか。
最初は死後の世界かと思ったが、それにしては道春の意識ははっきりしているし、幽霊としての自覚もない。異世界召喚された場がなぜこの部屋だったかは謎だが、男の言う通り「大神殿」とやらに行けば、説明してもらえるのかもしれない。
だが、ここが宗教施設の一部である可能性が全くないとも言い切れない、とも思う。男が嘘を言っているようには見えないが、まだ若そうだったし、怖い人たちに洗脳されたり、騙されたりしている被害者であってもおかしくないのではないか。
(……なんて、さすがに無理があるかな……)
道春が、多少強引でも怪しい宗教団体説を手放せないのは、異世界なんてわけの分からないところに来てたまるか、という気持ちがあるからだ。目の前で起こっている信じられない現象から目を逸らし、なるべく納得のいく範囲でことを収めようとしている。
異世界と宗教施設なら、宗教施設の方がマシなのではないか。非常に苦しい選択ではあるが。
だが、どちらにしても、夏紀が厄介ごとに巻き込まれているのは間違いないのだろう。
夏紀は、なんらかの団体(大神殿と言っているからやはり宗教関連だとは思う)に聖女として迎えられ、家に帰れない事態になっていた。家出ではない。やむにやまれぬ事情があって、これまで帰ってこなかっただけ。母の代わりに弟の世話をするのが嫌になったわけではなくて――――
――――本当に?
暗い考えが道春の脳裏をよぎった。
男の話によると、尊い身分の聖女である夏紀は、ここで丁重な扱いを受けているという。
夏紀は、道春との再会を喜んでくれるだろうか。
(………………まあ、いいか)
大切なのは、姉が生きていることだ。頭の中でそう繰り返し、思考を切り替える。
夏紀が生きていて、会うことができるのなら、今はとりあえずそれ以上のことは求めない。
できたら一緒に帰りたいけれど、ここに残りたいと姉が言うなら尊重しようと思う。再会を喜んでもらえなかったとしても、道春は会って生きていることを確かめたいのだ。相手の反応が期待通りではなくても、恨んだりはしない。
気持ちを吐き出すようについた溜息は思うよりもずっと重たくて、自分のことが嫌になった。
七年前の道春なら姉を疑ったりはしなかった。
「ねえ」
「なんだ」
これ以上一人で考えていたくなくて、咄嗟に男に声をかけると、思いのほかはっきりとした返事があった。作業を中断することなく、淡々と応じる男の声は、なぜか道春を安心させた。
「ルナ、ん? ルリネ……? なんだっけ、この国の名前」
「ルナネリス王国 」
「そうそれ。ルナネリス王国? って、どこ? ここって本当に日本じゃないの?」
「ルナネリス王国はヴァルデ大陸の東の端に位置する小さな国だ。ニホンではない」
男の前で泣いてしまったせいか、心なしか気が緩んでいる。年も近そうだし、いけるんじゃないかとタメ口を使ってみたところ、男は全く気にする素振りを見せなかった。身なりも適当だし、あまり細かいことは気にならないのかもしれない。いや、そもそも敬語やタメ口の概念はあるんだろうか。ここは次元の違う世界だと言っていたのに、なんで言葉が分かるのか。
「日本じゃないのに日本語が通じるってありえる?」
「俺はニホン語を話してない。召喚魔法で使う魔法陣に言語に対しての補助魔法が組み込まれているから、勝手に翻訳されている。話すときにだけ適用されるものだから、文字は読めないはずだ」
男の言う通り、あちこちに積まれている本の背表紙には、道春の知らない文字が並んでいる。
異世界説を補強するかのような書籍を見つめ、道春は肩を落とした。
(召喚魔法に魔法陣、ねえ)
当たり前に「魔法」という言葉を口にする男の顔は至って真面目だ。正気の沙汰とは思えないが、本気で言っているのだろう。
そういえば、先程この男は、指を鳴らして灯りをつけていた。あれも魔法? でもそれだって、音声センサーが反応しただけかもしれないし。
しかし、男の服装と雰囲気は、道春がイメージする「魔法使い」から逸脱していない。
「あんたって魔法使い? そんな格好してるし」
「魔法はこの国の人間ならだいたい使える。そういえば、さっきも服がどうのこうの言っていたな。この服は仕事着だ」
「えっ、仕事してんの? どんな仕事? っていうか何歳?」
「魔道具を作ったり、素材を集めたり、いろいろだな。歳は十六。多分」
「多分ってなんだよ。っていうか年下? なあんだ、年下か。十六でもう働いてんの? 大変だね」
「は?」
他にも気になる単語はいくつかあったが、年齢に思わず飛びついてしまう。
若そうだとは思っていたけれど、まさか年下とは。働いているということは学校には行っていないのか。もしくは道春がたまにコンビニでバイトしているように働きながら学校に行っているとか。いろいろ思うところはあるが、やはり気になるのは年齢である。十六歳。年下だ。
(ふーん、そうかそうか)
たとえひとつしか違わなくても年下は年下。学生の道春にとって、一歳差は大きい。
ちょっとだけ気を大きくした道春に、男は手を止めて顔を上げた。
「……あなたの年齢は?」
「十七歳。あんたより一個上」
年上なことをアピールするためにピースサインを作ると、男は道春を凝視したまま、なぜか固まってしまった。謎の沈黙が落ちる。
そんな反応をされると思わなかったので、居心地が悪くなり、そっと手を下げた。
道春はあまり男っぽさのある外見ではないものの、これまで生きてきて年齢に対してつっこまれたことはない。一応、年相応の見た目をしていると思う。
(そんなに意外か?)
なぜ「信じられない」という顔をされなければならないのか。解せない。
「なんだよ」
「いや……なんでもない。それよりも、これを」
少しムッとしている道春に気付いたのか、はぐらかすように男が首を振った。そして、先程まで熱心に見ていた石の中からひとつ選ぶと、ぶつぶつと何かを唱え始める。
誤魔化しやがった、と腹が立ったのは一瞬で、道春は目の前の光景にすぐに目を奪われた。
「わあ……」
男の低く響く声に応えるよう、指先に乗せられた石が淡く輝き出す。
その光はゆらめきながら、薄い膜となって石を包み込んだ。膜は一層、また一層と重なり合い、そのたびに石の表面に青みが増していく。周囲には細かな粒子がきらめき、ゆっくりと宙を漂ったかと思うと、やがて静かに石の中へと吸い込まれていった。石は次第に透明感を帯び、海の底を思わせるような、深く澄んだ青色へと変わる。
口を閉じた男は、指先の向きを変えながら目視で石の確認を終えると、仕上げとばかりに金色のチェーンをつけた。それは、そのまま道春へと差し出される。
「俺に? ネックレス?」
「ああ。守護魔法をかけている。なにかあったとき、これが身代わりにもなるから」
「えっ、危険なところに行くの?」
不穏な言葉に、伸ばしかけた手が止まる。怯える道春を見て、男は慌てて首を振った。
「そういうわけではない。怖がらせたのならすまない。ただ、念のためというか……。お守りのようなものだと思ってほしい」
「お守り……」
「嫌なら強制しないが、持っていたほうがいいと思う。軽いし邪魔にならない。色が嫌なら変える。魔力酔いも防げる」
弱腰ながらも、石のメリットを早口でアピールしてくる男に困惑する。確かに軽い。そして色に文句はない。
「魔力酔いって?」
「この世界の人間は、多かれ少なかれ魔力を持っているが、保有量は人によって違う。魔力の少ないものが大きな魔法に触れると、気分が悪くなったり、トラブルが起こったりする。あなたは俺が見た限り、ほとんど魔力を感じない。別の次元から来た人間に、どの程度の影響があるか分からないが、あなたは魔法にも慣れていないようだし、身に付けていた方が体調面からも安全だと思う。嫌なら強制しない。ネックレスがいやなら、指輪にもピアスにもできる。強制はしないが」
(そこまで言われて、嫌がる人間がいるかよ)
強制しないと繰り返し言われたが、男が道春にネックレスを付けてほしがっていることはひしひしと伝わってきた。
よく分からないが、断る理由もないので受け取ることにする。男が言うのなら、きっと道春に必要なものなのだろう。
「ありがとう。貰っていいんだ?」
「もちろん。それはもうあなたのものだ」
「ふうん……」
小さな石を覗き込むと、深い青の奥でキラキラと光の粒が瞬く。
あまりアクセサリーには詳しくないが、美しいと感じる。
「きれいだね。大切にするよ」
迷いなくネックレスを首にかけると、男は息を吐き、そしてどこか満足そうに頷いた。素直に従った道春に安心したのだろう。分かりやすい。
出かける準備だと言うから、てっきり身支度でもするのかと思っていたが、男は道春のためにネックレスを用意していただけだった。それもお守りのようなものだと言う。一脚しかない椅子も譲ってくれるし、驚くほど親切だ。いけないと思いつつ、警戒を忘れてしまいそうになる。
(いい奴っぽいんだよなあ。害もなさそうだし)
せっかくイケメンなのだから、もう少し見た目に気を使ってもいいような気もするが、大切なのは人間性である。
特に、ここが本当に異世界なら、誰も知り合いがいない世界で「ちょっと信用できそうかも」と思える人間の存在は貴重とも言える。
「ここから大神殿までは少し距離があるから、転移魔法を使う。人によっては体調を崩すこともあるんだが、それを身に付けていれば、多少はマシになるはずだ」
「へえ……、そうなんだ」
魔法についてつっこむのも面倒になったので、ひとまず頷いた。今は、この男についていけば姉に会えるということがはっきりしていれば充分だ。
なんとなく、男が道春に嘘をついたり騙したりといったことはしないと感じていた。道春は別に人を見る目に自信があるわけではない。けれど先ほどから、道春の本能的なところが、この男を安全だと言っている気がする。
疑えばキリがない。でも今は直感に頼りたい。
胸元では、男から貰った青い石のネックレスが、ほのかに光っている。
(…………よし)
――決めた。
今はこの男を信じる。裏切られたとしても、それは信じた自分が悪いのだ。
腹をくくったら、少し気が楽になった。
「ねえ、名前は?」
「え?」
一歩踏み込むために、今まで敢えて聞かないようにしていた名前を尋ねる。
「名前教えてよ。あんたの名前」
「……は!?」
無邪気さを装って笑いかけると、男はなぜかうろたえだした。これまで、質問すればなんでもぽんぽんと応じてくれたのに、すぐ答えないということは、自分の名前は教えたくないということだろうか。
別に無理して教えてもらわなくても構わないけど、ちょっと面白くない。しかし、道春もまだ自分の名前は言ってないのである。まずは自分から名乗るべきか、と思ったところで、「……だ」と男が呟いた。
「なんて?」
「…………ユリスだ。ユリス・マーレ」
「ユリスが名前? ユリスって呼べばいい?」
「あ、ああ」
手をうろうろと動かしながら挙動不審な様子で答える男――ユリスを、道春は無遠慮に見つめる。……道春に名前を呼ばれて、不快なわけではなさそうだ。道春の視線が落ち着かないようではあるが。
ふ、と口角が上がる。にんまりと笑みを深める道春に、ユリスがその場から一歩下がった。道春もそのぶん距離を詰めなおすと、ぎょっとしたように肩をすくめる。
「よろしくな、ユリス。俺は瀬良道春。瀬良が苗字で、道春が名前」
「そうか……」
「道春って呼んでいいよ」
「わ、わかった」
急に馴れ馴れしくなった道春にユリスはあきらかにたじろいでいる。
悪くない反応だ。ここにきて、もともとそれほど悪くなかったユリスへの好感度がググっと上がる。おそらくだが、この男、あまりコミュニケーション能力が高くないと見た。
会話の受け答えに問題はない。けれど、こちらがグイグイいくと引いてしまうところに、少し自分と似た匂いを感じる。違うところは、ユリスの方が圧倒的に押しに弱そうなところだ。
ちなみに道春は、陽キャは苦手だが自分よりもコミュ力が低い相手には強気に出れる、性質の悪いタイプである。田舎のコンビニでバイトをしていたおかげか、表面上の当たり障りのない会話もまあまあこなせる。
道春の勘が、ユリスには積極的に行けと告げている。主導権を握るのだ。
なぜこんなところに来たのか分からない。無くなった自転車も心配だ。学校や母のことも気がかりではある。問題ごとは山積みだった。でも、最初に出会ったのがこの男だったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
髪はボサボサだし、前髪のせいで目は隠れている。部屋も散らかってるし、随所にズボラな性格が窺えるが、それもひっくるめて、いい。
道春が勝手にユリスに親しみを覚えていると、ユリスが落ち着かない動作で「そろそろ行こう」と、促し始めた。
「大神殿では、きっと詳しい話が聞けると思う。だが、それはあなたにとって、気持ちのいい話ではないだろう」
「そっか。ユリスは傍にいてくれるの?」
道春の問いに、ユリスが小さく息を呑んだのが分かった。
「……なるべく、そうしよう」
「心細いから一人にするなよ」
「善処する」
「絶対だからな」
ユリスの背が徐々に丸まって小さくなっていく。思わず声を出して笑うと、こちらに頭を向けたけれど、前髪のせいで睨んでいるのかどうかは分からなかった。




