21話 再起動
冬の日差しが、静かな部屋に差し込む。
澄んだ空気の中、道春は自室の机に向かい、メモ帳を読み返していた。魔道具店の店主からのリクエストを確認して、自分なりのアイデアを別の紙に書き出していく。
ユリスが研究に没頭している間、魔道具店とのやりとりは中断している。そろそろ再開してもいいかもしれない。そう思いながら、久しぶりに資料に目を通す。
少し集中が切れたタイミングで、チン、と軽い音が鳴った。机の脇に置いてある砂時計が、午後三時を知らせてくれる。最初は米を炊くために作ってもらっただけだったのに、今やユリスの主力商品だ。この家の生活費を支えてくれている、ありがたい砂時計でもある。
道春は椅子を引き、立ち上がった。
キッチンにユリスの姿がないのを確認してから、階段を上がり、二階の研究室へ向かう。
扉を開けると、ユリスの背中が目に入った。
相変わらずカーテンは閉め切られ、部屋の中は薄暗い。けれど、ユリスの背には以前のような悲壮感はなかった。ただ黙々と集中しているだけの様子にほっとする。
そっと背後から近づき、肩越しに覗き込んでみる。
どうやらユリスは、道春の預けたスマホを調べているようだった。横には分厚い本が開かれている。ユリスは、時折スマホの画面に触れたり、本のページをめくったりしていた。
机の端には、水色のハンカチと一緒に、道春の財布や鞄も置かれていた。つまり、今は魔道具の作成ではなく、帰還魔法の研究中ということだ。
かすかに、胸がざわつく。
あの話し合いの夜、ユリスは道春にしがみついた状態で、いつの間にか眠っていた。
幼さを感じる寝顔に、涙の跡を見つけた。動こうにも動けず、体温に誘われるまま、おとなしく目を閉じた。「行かないでほしい」と繰り返す声が、耳に残る。
道春は、眠りにつく寸前まで、ユリスのことをぼんやりと考えていた。
次に気付いたときはもう朝だった。
隣で目を覚ましたユリスは、憑き物が落ちたような顔をしていた。「おはよう」と声を掛けたとき、一瞬目を丸くしたが、穏やかな声で「おはよう」と返してくれた。ユリスの中でどんな心境の変化があったのかは分からない。驚くほど自然に、以前と変わらない空気が流れ、道春のほうが少し戸惑った。
一緒にごはんを食べて、午後にはお茶も淹れてくれた。
正直、こちら側の気まずさが消えたわけじゃない。記憶が確かならば、キスをしたのは夢ではない……はず。追及するのは怖いので、ひとまず蓋をするとしても、全く気にしないでいられるほど、道春も図太くはなかった。
ユリスが「道春を帰したくないと思った」と言ったのは、本音なのかもしれない。責任を感じて、無理をして研究してくれているのかも。
道春としては、ユリスに責任があるとは微塵も思っていなかった。
それでも、夏紀との約束がある。夏紀の気持ちを考えると、ユリスに「もういいよ」と言うことはできなかった。願いを叶えるためには、ユリスの協力がどうしても必要だからだ。
(……利己的すぎ)
そんな自分にうんざりしつつ、しばらくの間、ユリスの動きを眺めた。
あまり期待したくなかったこともあり、あえて帰還魔法の研究に深く関わろうとはしなかった。こうやって間近で見るのは初めてかもしれない。
電源の入らないスマホなんて、ただの板のようなものなのに、そんなに調べる必要があるんだろうか。そもそもユリスはスマホについて、どこまで理解しているんだろう。
「それ、なんか役に立ちそう?」
声をかけた瞬間、ユリスの肩がビクッと震えた。勢いよく振り向いた拍子に、二人の距離が近付く。道春は思わず一歩、後ろへ下がった。ユリスは口を開けて、こちらを見つめている。
「お、驚いた」
息を吐いたユリスに、道春は苦笑する。
「ごめんごめん。三時になったから呼びに来たんだよね。……で、それって役に立ってんの?」
問いを重ねると、ユリスはスマホに視線を戻した。迷うような沈黙の後、静かに答える。
「……正直、分からない。ただ、他のものよりも、これに一番、可能性を感じる。すまないが、もう少し貸してほしい」
申し訳なさそうなユリスに、道春は軽く肩を竦める。
「全然いいけどさ。何に使うの?」
「ミチハルたちが帰る場所を、ちゃんと特定したい。目的地を誤れば、取り返しがつかないから」
確かに、よく知らない場所に帰されても困る。帰還するなら、できるだけ道春や夏紀に所縁のあるところがいい。最低でも、絶対に日本だ。海外になんか飛ばされたら詰んでしまう。その問題をクリアにできるなら、スマホなんていくらでも使ってもらってかまわないが――
そこまで考え、ふと、疑問に思った。
「あれ。場所ってハンカチで特定できたんじゃなかったっけ?」
そのおかげで、ユリスは魂を日本に飛ばすことに成功したという話じゃなかっただろうか。
先日の話を思い出しながら尋ねる道春に、ユリスは困ったように眉を下げた。
「ハンカチと繋がっていたのはミチハルだったからな……。ミチハルがルナネリスに来たことで、逆に座標が掴めなくなった。以前の実験結果もあるが、あまり当てにできない」
道春の視線が、机の上に落ちる。
「できるだけ、思念が残っているものがいいんだが」
「あ~、なんか前も言ってたね。”思い入れ”があるとか、そういうの?」
頷くユリスに、なんとなく申し訳なくなった。
この中で、一番思い入れのあるものといえばハンカチだ。むしろ、ハンカチにしか思い入れなんてない。
鞄も財布もこだわりがないし、どこでいつ買ったのかも思い出せない。もっと思い入れのあるもの――ユリスの言葉を借りれば「思念が残っているもの」を道春が持っていれば、少しは役に立てたのだろうか。
「まあ、この中ならスマホが一番それっぽいか」
特別、誰かと連絡を取るようなことはしていなかったが、使用頻度でいうと一番高いかもしれない。しかし、それは電源が入っている状態での話だ。今、ユリスの手の中にあるそれは、ただの物体でしかない。
「それ、スマホっていうんだけどさ。使い方分かる?」
道春の問いに、ユリスが首を振った。
「電話とか、メールとか、人と連絡するのに使うんだよ。あとは写真を撮ったり、ネットを見たり」
「でんわ。めーる。しゃしん……」
言葉を繰り返すユリスの手からスマホを受け取り、道春は電源を入れてみた。だが、画面は暗いままだ。
「やっぱダメか。こっちに来たとき、もう電源入んなかったんだよね。たぶん、充電も切れてるし」
「じゅうでん?」
「うーん。これを動かすエネルギーみたいなやつ、かな」
なるほど、と頷いたユリスにスマホを返す。しばらく画面を見つめていたユリスが、ふいに何かを唱え始めた。聞き覚えのある呪文特有の抑揚に、まさかと目を見開く。空気がふっと張り詰め、魔法が動き出す気配に息を止めたとき、青白い光がスマホに灯った。
「な、なんで!? 電気ないじゃん!」
道春は身を乗り出し、スマホとユリスの顔を交互に見る。見覚えのある無機質な画面が信じられない。こちらの世界で、この人工的な光を見ることができるとは思わなかった。自然に溢れたルナネリスという国で、明らかに異質だ。
「充填魔法を試してみた。本来は魔力切れを起こした魔道具に使ったりするんだが、いけたな」
「いけたな、じゃねえよ。すげー……」
ユリスにスマホを手渡され、そのまま動作を確認する。ネットには繋がらないけど、画面はちゃんと反応していた。「おお」と、思わず感動の声が漏れる。
「ユリスって、なんでもできるんだな……」
「別になにもできない」
「はいはい」
相変わらずの自己評価に呆れつつ、道春はスマホを構えてユリスにレンズを向ける。
「はい、ユリスこっち向いてー」
「は?」
「ははは。いい顔が撮れた」
怪訝そうな顔で固まるユリスに、撮ったばかりの写真を見せる。そこに写った気の抜けた表情に、道春は吹き出した。ユリスは、表示された自分の姿に目を丸くしている。
「……なんだこれは」
「”写真”って言って、カメラで撮るんだ」
道春は、これまでに撮った写真を見せるため、スマホのアルバムを開いた。期待通りの反応をしてくれたユリスのおかげで自然と気分も浮き立つ。
上機嫌で画面を指でなぞりながら、一枚ずつ写真を送り眺めていく。
特に面白みのないものばかりだ。ユリスが驚くような、印象的な写真はないか。そう思っていた矢先、スライドしていた指が止まった。
「どうした」
画面を見て固まる道春に、不思議そうにユリスが声をかける。
そんなユリスの声が、どこか遠く感じられた。
視界の中心には、ただ一枚の写真だけがある。
「……じいちゃんがいる」
写っていたのは、縁側に腰掛けた祖父の姿だった。
庭を見ているところを撮ったのだろう。カメラに気付いたのか、わずかにこちらに視線を向けている。
笑ってはいない。けれど、穏やかな顔だった。
(こんな写真あったんだな……)
思いがけず胸の奥を刺激され、鼻の奥がつんと痛む。
「ミチハルの、おじいさん」
「うん。うちで撮ったんだよね」
自然と、声が和らいでいた。懐かしい。自分のいないあの家は、今、どんなふうになっているだろうか。
「……ミチハルの家」
繰り返すようにユリスが呟き、じっと画面を見つめた。
「不思議な絵だ。いや、”写真”と言ったか。まるで、記憶を閉じ込めたみたいだ」
ユリスの言葉に、なるほど、と思った。
この写真を見るまで、こんな時間があったことさえ忘れていた。祖父のぎこちない視線や姿勢、縁側の光。
道春が無意識に閉じ込めようとした一瞬が、ここに残っている。
「……そこは、ミチハルにとって、特別な場所だろうか」
「そりゃあ……」
言いかけて口をつぐむ。
特別かと言われると、正直よく分からない。懐かしさはあるが、今は祖父のいない、ただの古い家だ。
「思い入れはあるか」
ユリスが、迷いを汲むように問い直す。
今度はすぐに答えられた。
「ある」
はっきりと頷いてから、淡い期待が胸をよぎった。
――まさか。
「他に、家が写ってるものはないか」
ユリスの問いに、ぼんやりとしていた予感が輪郭を持ち始める。
『思念が残っているものの方が、座標を特定しやすくなる』
――ユリスは、そう言っていた。
「たぶん、どこかにあるけど……。なあ、それって」
顔を上げると、真剣な目をしたユリスと視線がぶつかった。
「これが、使えるかもしれない」
さっきまでとは違う色が、瞳に宿る。
「……写真というのは、ただ映像を記録するものではないのかもしれない」
ぽつりと呟く言葉に、道春は息を呑む。
ユリスの声は低く静かで、けれど確かに熱を含んでいた。
「同じ場所を映しているものはないか。角度や時間が違うものだといい。それとは別に、ミチハルの記憶に残る風景や人物の写真も欲しい。できれば、より思い入れの強いものを」
指示されるままに、道春はスマホのアルバムを遡っていく。自分が少し緊張しているのが分かる。
「……写真が、帰還魔法の役に立つってこと?」
「ああ。まだ思い付きの段階にすぎないが……。だが、確実に、さっきの写真には他のものよりも強い”思念”を感じた。ミチハルと、おじいさんのものだ」
「じいちゃんの?」
不思議に思い問い返すと、ユリスは何かを考え込んだ末に、ゆっくりと頷いた。
「写真の仕組みはよく分からないが……。おそらく、あの写真に写るとき、おじいさんもミチハルに何かを感じていた。それが残ったのだと思う」
ユリスの声音は真剣そのもので、冗談を言っているようには思えない。本気で、あの写真に道春と祖父の「思念」が宿っていると考えているみたいだ。
正直、ユリス以外に言われたら鼻で笑い飛ばしてしまうような、現実味のない話だった。けれど、不思議と言葉が胸にすとんと落ちてくる。
写真を見たときにこみ上げた、あの懐かしさのせいだろうか。
祖父も、道春がカメラを向けたとき、なにかを感じていたのかもしれない。道春が祖父を写真に残したいと思ったのと、同じように。
「聖女の魔力のように、はっきりとした痕跡ではないんだが……。だが、この写真に残る思念が、鍵になる可能性がある」
ユリスの説明はひどく抽象的なものだった。理屈ではよく分からないのに、信じたくなる。
ユリスがそう言うのなら、任せてみたいと思った。
スマホに視線を戻す。
道春はあまり多くの写真を撮るほうではなかった。何を記録するでもなく、どれも気まぐれに撮ったものだ。この中に、自分にとって「思い入れのある風景」がどれだけあるだろう。
人物の写真はほとんどない。友達が少ないことにコンプレックスはなかったが、もうちょっと人付き合いを頑張ってもよかったかもしれないと、今さら思う。
たまにある人の写った写真は、どれも祖父のものばかりだ。しかも数が少ない。
(もっと、じいちゃんを撮っておけばよかったな)
スマホを操作しながら、次々と写真を見ていく。
庭の花を撮った写真がいくつか見つかった。祖父が、咲いた花を見せるために道春を呼んだとき、なんとなくシャッターを切ったものだ。
さらに指を動かすと、通学路の途中に咲いていた名も知らない花の写真が出てきた。たぶんこれも祖父に見せるために撮ったものだろう。祖父は花が好きだったので、写真を見せると喜んでいた。
(花の写真は全部、じいちゃんのためだな)
たまに、風景も混じっている。
寂れた商店街や、学校へ向かう途中の薄暗い道のり。なぜそのとき写真を撮ったかは、もう覚えていない。昔の写真を見ているうちに、緊張が緩んでいく。
「別になにもないけど……こうして見ると、懐かしいな」
一番近いコンビニが自転車で十五分。道春がバイトしていた場所だ。
遊ぶところも、高校の選択肢も少なかった。幼い頃に母と姉と住んでいた地域と比べれば、ただの田舎。
それでも風景は綺麗だったと思う。自転車で行ける距離に海があって、バイト帰りには、たまに夜空を見上げたりもした。
「……ユリスにも、見せたいな」
ぽろりとこぼれた言葉に、自分で少し驚いた。
でも、思いのほかしっくりくる。むしろ、いい思い付きにも思えた。
ユリスは、「道春を帰したくない」と言った。一緒にいたいと。
道春には夏紀がいる。姉を一人にはしておけない。夏紀を帰してあげたいし、母の心配も取り除きたい。
でも、もしユリスが日本に来てくれるなら?
それが叶えば、すべてうまくいくんじゃないだろうか。
「帰還魔法ってさ、ユリスは来れないの? 魂は飛べたんだよね?」
深くは考えず、いつもの調子で問いかけた。
ユリスが顔を上げる。しばらく呆けたように道春を見つめていた。
「……魂は届いた。だが、俺がどれだけそちらの世界に適性があるか分からない以上、非常に困難だと思う」
淡々と、感情のこもらない声で返される。
知らず肩が落ちる。思った以上にがっかりしてしまったらしい。それを悟られたくなくて、誤魔化すように笑みを浮かべた。
「そっか。まあ、そうだよな」
やはり、そう都合よくはいかないみたいだ。
なんとなく気恥ずかしくなり、スマホに視線を落とす。
そのとき、階下で物音がした。
「すみませーん。ごめんくださーい」
ロイエンの声だった。たぶん、また様子を見に来てくれたのだろう。
ユリスと気まずくなっている間、心配させてしまっていたし、仲直りしたことは伝えたほうがいい。
そう思い、スマホを机に置き、扉の方へ体を向けかけたときだった。
「……本当に、いいのか」
ユリスに手首を掴まれ、振り返る。袖ごしに、じわりと体温が伝わってくる。
「え?」
意味が分からず道春が瞬きをすると、ユリスの目がすっと細められた。
「俺が、そちらの世界に行っても」
背中にひやりとしたものが走った。だが、すぐに気のせいだと打ち消して、口元を緩めた。
道春の幻想につきあってくれるなら、それで十分ありがたい。
「え、うん。来てくれたら嬉しいけど」
何もない田舎だけれど、近所くらいなら案内できるはずだ。
ユリスは髪も黒いし、そこまで目立たないだろう。いける。
軽く答えると、ユリスの瞳がわずかに揺れた。
「……そうか」
手が離される。思いのほか強く掴まれていたのか、手首に体温が残っている気がした。
「――ロイエンの前では、あまり話さない方がいい。もしかしたら、違和感に気付かれるかもしれないから」
目を伏せながら、ユリスは静かにそう告げる。
「たとえば、俺にしか知り得ないようなことを、ミチハルがうっかり口にすれば、辻褄が合わなくなるかもしれない」
確かにそれは困る。説明に納得して、道春は頷いた。
厄介な体質の問題も、まだまだ山積みのようだと思うと、気が遠くなりそうだった。
研究室を出て、階段を下りる。道春が前を歩き、後ろからユリスがついてくる。途中、玄関の狭いホールにロイエンの姿が見えた。思わず、足が速くなる。
「ごめんなさい。お待たせしましたー」
「いいえ。こちらこそ、いつもいきなりすみません。あ、慌てなくて大丈夫ですよ」
急ぐ道春に、ロイエンがにこやかに言葉を返す。
その声に、気が緩んだのか、歩幅を少し間違えたのか。
一段、踏み外したような感覚があった。足元がもつれ、ぐらりと体が傾く。背後でユリスの動く気配があったが、間に合わない。
「うわっ」
咄嗟にロイエンが手を差し出してきたので、反射的にその手を掴んだ。
びりっ――と、一瞬、静電気のような痺れが手に走った。
掴んだ手に、目を落とす。妙な胸騒ぎがあった。
ゆっくりと顔を上げると、ロイエンがじっとこちらを見ていた。目を合わせたまま二人して固まる、間の抜けた沈黙が数秒流れる。
「ミチハル、大丈夫か」
ユリスの声に、我に返る。
「あっ、ぜんぜん大丈夫。あはは、あはははは。びっくりしたー」
しらじらしい笑い声が、廊下に響く。
「ロイエンさんもありがとう。あの、どうぞ、中に入ってください」
とりあえず、ロイエンをダイニングへと案内して、椅子を勧めた。
いつものように、道春はお菓子を用意し、ユリスがお茶を淹れる。その間、ロイエンの視線が道春の背に刺さっていた。
皿にクッキーを盛るだけなのに、手元に集中できない。先ほどの痺れが、何度も頭をよぎっていた。
(あの感覚……なんだ?)
ただの静電気だろうか。けれど何かが引っかかる。
(ずっと前にも、どこかで……同じようなことが……)
別に痛くはなかった。あっという間に消えてしまった。気のせいにも思える。でも、おかしい。あれは――
手が止まる。クッキーが、カチリと皿の縁に当たった。
同時に、記憶の扉が開く。
『やっぱり異世界転生ってやつ!? 俺あんまりそういうアニメ詳しくないんだけど! えっ、俺死んだの?』
『し、死んでない。ちょっ、待て、落ち着いてくれ』
『無茶言うなよ!』
覚えのあるセリフが、頭の中に響いた。
あのとき――ユリスと出会った直後だ。
知らない世界に放り出され、動揺して、思わず掴みかかったあの瞬間、確かに感じた。あの、痺れるような感覚。
(それだけじゃない)
思考が一気にクリアになっていく。
そう。あれは、ユリスの家に世話になることが決まった日だ。
神殿近くの屋敷から戻ったとき、疲れ切っていたユリスを道春は支えた。
そのときも、指先に妙な感覚が確かにあった。
(あのときユリスは、強い誓約魔法をかけ直されていたはず)
ドクドクと心臓が音を立て始める。確信めいた予感があった。
「ミチハルくん?」
ロイエンに声をかけられ、はっとする。思わず、一歩後ずさった。いや、きっともう遅い。
(ど、どうしよう)
助けを求めて、咄嗟にユリスへ視線を送る。道春の動揺に、ユリスはすぐに気付いた。
「ロイエン。ミチハルの体調が悪いみたいだ。すまないが、今日は帰ってくれないか」
その場しのぎにしては、あまりにも雑なフォローだった。不審がられてもおかしくない。
けれど道春は安堵していた。一刻も早く、ユリスと二人になりたかった。
「……そうですね。お大事にしてください」
ロイエンは心配そうに言って、素直に頷いた。けれど、その目には、どこか鋭い光が混じっている気がした。
ロイエンが帰ったのを確認した後、ユリスが何かの呪文を唱えながら部屋の中を歩き回っていた。結界のような魔法をかけているのかもしれない。
道春はダイニングの椅子に座り、深呼吸して気持ちを落ち着けながら、さっきの感覚を整理していた。
俯いていた顔を上げると、作業を終えたユリスが足音を立てずに傍に寄ってきた。乏しい表情の中に、道春を心配している気配を見つける。
「どうした?」
「わ、分かったかも」
焦りのままにユリスのローブを掴んだ。引き寄せて、眉をひそめるユリスの耳元に、顔を近づける。
「……ユリスの誓約魔法がどうして解除されたのか、分かったと思う」
秘密を打ち明けるときのように、自然と声が小さくなった。ぴくりと、ユリスの身体が跳ねる。
「たぶん、触るのが駄目なんだ」
道春の言葉に、ユリスの空気が変わった。息を呑む音がかすかに聞こえる。
「まさか、さっきので……?」
ユリスの声は、慎重に抑えられていた。間近にあるユリスの目を見て、ためらいながらも頷く。
「ロイエンさんの誓約魔法も、解けてるかも」
道春は、できるだけ平静を装い説明を続けた。
ロイエンに触れた際の、痺れるような感覚。痛みはなく、一瞬で消えたこと。ただの静電気かもしれない。でも、そうと割り切れない。
そして、以前、ユリスに触れたときにも似た感覚があったことを伝える。
「ユリスは覚えてない?」
ユリスは手のひらを握ったまま沈黙した。目を伏せ、懸命に思い出そうとしているようだったが、やがて諦めたのか息を吐いた。
「……すまない。思い出せない」
「しょうがないよ。俺も、ずっと忘れてたし」
申し訳なさそうなユリスを見て、少しだけ気分が落ち着いてきた。道春自身、半年以上前のことを思い出せたのは奇跡のようなものだ。
「つまり、誓約魔法が解除されるのは、接触が鍵になるのか」
ユリスの言葉に頷きそうになって、動きを止めた。出会ったときのことを、順番に思い出す。
「いや……。もっと詳しく言うと、俺が触ると解除されるんじゃないかな。ユリスから触られたときには何もなかったし……」
仮定を話し終えた道春は、そっとユリスに目をやった。
「……どう思う?」
「可能性はかなり高いと思う」
「だよなあ」
迷いなく答える姿に、一気に脱力する。
考え過ぎかもしれない。それでも、嫌な予感はぬぐえなかった。
「本当に解けてたらどうしよう。バレたかな」
「ロイエンは抜け目がないし、今は分からなくても、違和感に気付く可能性はある。先ほどのことも、不審に思ってるはずだ」
ユリスに言われ、自分の失態に気付く。
「だって急だったしさー。どうやって誤魔化せばいいか分かんなくて。絶対変に思われたよね?」
「ミチハルは悪くない。俺も雑に追い返したしな」
「それはそう」
ユリスの言動も負けず劣らず怪しかった。
そのことを思い出し苦笑するが、ユリスは厳しい顔を崩さなかった。
「気付かなかったふりしてたほうがいい?」
「……いや」
ユリスの目がわずかに細められる。冷静な声だった。
「待ってても仕方がない。こちらの事情をロイエンに打ち明けよう」
「えっ?」
思わぬ言葉に、理解が追い付かなくなる。
ユリスは真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
「王家に伝わる前に、先手を打つ」
あっさり言ってのけるユリスに、道春の方が焦った。変に誤魔化すよりはいいかもしれないが、不安のほうが大きい。ロイエンには世話になってるし、悪い人ではないと思っている。でも彼は『王宮魔導士』だ。
秘密を明かせるほど信頼できるかと問われれば、答えに詰まる。
「ロイエンさんが王家に言わない保証なんてある? 俺の体質がバレたら、監視されて王宮から出させてもらえなくなるかもって言ったのはユリスだろ」
「そんなことはさせない」
ユリスはためらいなく言い切ると、道春を見つめた。
まっすぐな眼差しは、無機質なほどに澄んでいた。そこに温度を感じられず、わずかに身を引く。
「ミチハルは王宮には行かないと言った」
落ち着いた口調だったが、言葉がまるで契約のように重く響く。
「いや、言ったけど」
空気の変化に戸惑いながらも、道春は頷いた。事実だったからだ。
「約束したよな?」
「……まあ、したね」
同意した道春に、ユリスが柔らかく微笑んだ。
つい最近まで不摂生な生活をしていたせいで、ユリスの顔はまだ健康とは言い難い。髪にもまだ艶は戻っておらず、長さも不揃いだ。けれどその一瞬だけ、目を見張るほどに美しかった。
「ミチハルと聖女は必ず元の世界に帰す。でも、それまではミチハルは俺の傍にいる」
どこにも行かせない――と続けたユリスの声は穏やかだった。
「ロイエンにも王家にも、邪魔はさせない」
当然のことのように言い放つユリスに、頼もしさとは別に、危うさも感じてしまう。
「……なんか、その言い方怖くない?」
おどけて指摘すると、ユリスはきょとんと目を瞬かせた。
「そうか? 怖がらせたなら、すまない」
小首を傾げ、悪びれずに謝る姿は、可愛らしい。道春の知る、ユリスの姿だ。
「いや、いいんだけど」
ユリスがそこまで断言するなら、心配しなくてもいいのかもしれない。
道春は、王宮から出られなくなるとか、監視されるとか、そういう面倒なことが嫌なだけだ。
「でもロイエンさん、協力してくれるかな?」
「させるさ」
ユリスは、なにも問題にならないような口調で、淡々と言った。
(本当か? どっから来るんだよその自信)
道春が黙ると、ユリスはふっと目を伏せた。
わずかの間のあと、再び顔を上げて言う。
「……一緒に、いてくれるんだよな?」
その瞳には、ほの暗い光が揺れていた。
道春は、考えるよりも先に頷いていた。




