第七楽章:苦境
◆とある宣言と落ち込み
2025年が幕を開けた。愛和音の仕事始めは1月6日だった。将は、毎年恒例の新年の訓示を行う。そんな中、こんな言葉を発した。
「新年のめでたい挨拶で、こんな話をするのも恐縮だが、私は愛和音を10年後、解散する予定だ。ここにいるすべての社員に不利益のないよう動いていくつもりであるから、残りの時間、今まで以上のいい働きを期待する。」
社員に動揺が走る中、寿人は納得の声を上げた。
「橋野も、今年還暦だからな。もうそろそろ、だろうな。」
そして、翌日から全社員にこの先の希望を尋ねる書類が配布された。それには、「早期退職」等の選択肢が提示されていた。歌唱部に顔を出していた寿人は、そこでその書類を他の社員と共に見る。
「お兄ちゃん、『早期退職』って、私は『最後』まで愛和音の歌手でいるわよ?」
その京子の一言にその場の社員は頷いた。それに寿人は続く。
「『他会社への移籍斡旋』か。それに、『他職種への転職斡旋』まで。至れり尽くせりって感じだけど、皆、どれを選ぶんだろうな。」
と、言っている間に寿人は陽太がうなだれているのに気づいた。そして、話しかけてみる。
「神谷さん?何かあった?解散がショックかい?」
「ああ、いや、『それ』ではないですよ。『その件』に関しては、京子さんと同じ意見ですから。」
首を傾げる寿人に一瞬笑いながら陽太は返答を続けた。
「いや、反抗期真っ只中の娘にですね、きつい事言われてしまって。」
「ええ?それは、また。確か、今中学生だったかな?」
「そうです。今年15になるんですけど、エゴサって言うんですか?ネットで愛和音の評判を見たらしいんですが、『愛和音は終わった会社』っていうのを見て、僕の事を『終わったパパ』って呼ぶようになってしまったんですよ。そこに本当の『解散宣言』が社長から出たんで、ちょっと落ち込んでしまいました。」
「なるほど。それにしても、『終わった会社』ね。」
そのやり取りを聞いていた隼人がスマホにてその声と思われる物を探し当てた。
「これかどうかわかんないっすけど、えらい言われようっすねー。」
そこには、「愛和音の曲は、マンネリ化している。この先もきっとこうなのだろう。もう、聴く価値はない。愛和音は終わった。」と書いてあった。寿人はそれを受け、陽太にこう言った。
「これは、制作部の責任だ。すまない。娘さんもショックだったんだろうね。パパの会社が悪く言われて。」
「なんだかすみません。こちらこそ、変な書き込みを見せてしまって。」
「いいや。」
寿人は、その声に猛省した。その後、何かやらなければと制作部の方に行くことにし、歌唱部を後にした。
◆新たな曲への迷い
「小橋?」
厳しい目で制作部の部屋へと戻る寿人をすれ違った将が呼び止めた。
「ああ、橋野。」
「凄い顔だな。」
「少し、話、いいか?橋野。」
「わかった。来い。」
寿人はそれを受け、行き先を社長室に変え、歩を進めた。そして、寿人は社長室に入るなり将に事のすべてを打ち明けた。それに対して、将は淡々と答えた。
「匿名の書き込みを真に受けるな。」
「けど、神谷さんは、そして、神谷さんの娘さんはそれで傷ついたんだ。だから、何かしてやりたい。」
「そう言うことか。なら、何か考えろ。そして、俺の責任の下、それをやれ。」
「わかった。ありがとう。」
寿人の顔は、少し晴れやかになった。そして、制作部の部屋へと向かう。事を重く見ている寿人は、制作部の他の3人にも事情を伝える。
「今からその『何か』を考えるんだけど、それに対しての協力を頼むよ。」
とりあえず、寿人は曲作りを始める。しかし、「マンネリ化」という言葉が心に残っていて「迷い」が生じてしまい手が止まる。思わず天井を仰いで、こう言った。
「俺の中の音楽は、俺の中の音楽でしかないのか。」
今まで自分が作ってきた曲たちを頭の中で次々に流していく。変化はあるとは思うが、奥底に流れる曲の芯の部分は変わらないのかもしれない。それを、聴衆は感じ取ったのかもしれない。それで、神谷親子は心を痛めた。寿人はため息をつく。理沙がそれに反応した。
「小橋さんだけのせいじゃないです。私にもその『責任』はあります。」
「言葉が正しいかわからないけど、『痛み分け』ってやつかな?いっそのこと、別人になりたいよ。別人になれば、『マンネリ』知らずになるのにな。」
「それじゃ、『室井徹彦』がいなくなってしまいますよ。」
もう一度寿人はため息をつく。すると、とある事を思い出す。
「あ、中山さんの『研修』。」
「そうですよ!中山さんですよ!」
「他力本願だけどな。研修に本腰入れよう。中山さんにとって、愛和音の制作部の人間としていられる時間は、10年未満になるけれど、それでも、『何か』をやれる。」
「その間の曲作りは、私が引き受けます。」
「なるべく負担がかからないようにする。」
寿人は、これからの具体的な動きを整理した。それは、1日程度の時間を要した。
◆大幅な体制転換
「中山さん、ちょっと社長室に付き合ってくれないか?」
寿人は、1月8日の朝一に隼人へ声をかけた。
「なんすか?」
「まぁ、来て。」
そして、将の元へと行った。将は、何かを察したように第一声を上げた。
「『例の件』、決まったんだな。1日で決まるとは。」
「『マンネリ化』打開は、俺でも野崎さんでもない人にやってもらおうと思う。他力本願で申し訳ないが。」
将は、寿人を見ていた視線を隼人へ向けた。隼人はその視線に多少戸惑う。その様子を見つつ、将は言った。
「放置気味だったからな。『あの件』は。このタイミングで『再始動』するって事か。」
「そうだ。中山さんの『愛和音の曲』を表に出すって事だ。」
隼人は一瞬ピクッとしつつ、隣の寿人を見てこう言った。
「このタイミングで?俺、愛和音に見合った曲、作れるかわからないっすよ?」
「わかってる。何度かしか『その話』はしてないから。だから、これからみっちり『研修』をする。それには、『副作用的な物』が発生する。それを橋野に許して欲しいと言うことだ。」
将は、一旦大きな息を吸った後、その「副作用的な物」を寿人の頭の中を覗いているかのように言い始める。
「室井徹彦と早川新の実質的活動停止、か。」
「ああ。」
「俺、しばらく歌えないって事っすか?」
寿人と将は同時に頷く。そして、寿人はこう言った。
「中山さんが、『嫌』と言ったらこの計画は中止なんだけどな。」
「いや、それは『嫌』って言えないっすよ。俺から『教えて』って言ったんすから。やるっす。」
「ありがとう、中山さん。」
そのやり取りを聞きながら将は天井を仰ぐ。
「それで行っていい。だが、歌唱部のパワーダウンは否めないな。」
「だから、そこで『響義浩』なんだ。俺が『生徒』時代に『歌いたい曲』として作った曲の中でハイクオリティーの物を橋野、お前が選んでくれ。全曲急いでデモを作る。まずはそれを集中してレコーディングするから『ストック』として使ってくれ。」
「なるほど、わかった。こちらも急ぎで決裁を下ろす。待っている。」
「頼むよ、橋野。そして、中山さん、見通しとしては2月頃から『研修』を始めるから、よろしくね。」
将は力強く頷く。隼人はこう返した。
「わかったっす。でも、1ヶ月で沢山レコーディング大変じゃないっすか?」
「いや、俺が過去作った曲だ。すぐ歌えるよ。」
「まあ、小橋ならそんなことは造作もないだろうな。」
◆研修の前に
その日、寿人は自宅にて順との思い出のスコアノートをすべて揃える。
「先生、俺、正式に先生になります。」
翌日9日。寿人はそのノートの中の「自分が歌いたい曲」として作った曲のデモを立て続けに作っていく。正直、その歌声は「手抜き」のものであったが、おびただしい曲数のデモが1日で出来上がる。
朝から夕方まで続いたその作業を終えた後、寿人は少々潰れ気味の声で治行と要にこう言った。
「多分、これから沢山のアレンジ作業をお願いする事になる。よろしくね。」
治行は答えた。
「いつも通り、お待ちしてますよ。」
要は答えた。
「最善、尽くします。」
翌日10日、その曲たちを決裁に回すために寿人は資料をまとめる。そして、将に提出した。
「こんなにあったのか。」
「聴くのは大変だと思うが、よろしく。」
「小橋、声。」
「昨日のデモ作りでのどに負担かけたみたいだ。」
寿人は笑う。
「笑い事じゃない。すぐレコーディングになるんだからな。」
「この3連休で治して来るよ。」
「そうしろ。」
制作部の部屋へと戻ると、寿人はのどの回復を早めるために昨日とは一転マスクをかけつつ最小限の会話しかしない時間を過ごす。そして、3連休へと突入した。
将はというと、デモを社長室に流しつつ社長業を遂行していく。まだ「生徒」だった頃に寿人が作った曲は、今となっては「聴けない物」も含まれていた。それを将は苦笑いしながら飛ばし、次の曲、次の曲と聴いていく。1周すると、また1曲目から聴き始める。それを繰り返した。
「ああ、贅沢な時間だったな。」
将は呟きながらその1日を終わらせた。そして、将も3連休に突入した。
14日からの1週間、将はデモを時間をみては聴き直した。
「よし、12曲に絞れた。」
1月17日、その12曲は決裁になり、寿人の元に資料が戻った。
「これか。」
寿人はようやく回復した声で呟く。そして、レコーディング日程を決める。
「えっと、1日3曲としようか。そして、のどを休めるために、1日おきにするとして、ゴールは27日辺りかな?1月中に間に合う。ああ、よかった。」
理沙は、その計画を聞き、目を丸くする。
「大変ですね。」
「野崎さんも他人事じゃないでしょ?俺がブースに入るんだから、メインスタッフは野崎さんになるんだよ?」
「ああ、そうでした。頑張ります。」
「ついでに、中山さんに機器の操作方法を改めて見せてやって?」
「え?『改めて』?」
「一度レクチャーしたんだけど、多分、身になってないと思うんだ。だから、この機会にきちんと頭に入れてもらおうと思ってね。」
「わかりました。」
そして、翌週20日から寿人は怒涛のレコーディングに臨んだ。理沙がメインのスタッフとしている中、隼人もそこに必ず立ち会う日々を過ごす。月、水、金は歌い、火、木はひたすら黙る寿人の1週間が終わった。
「小橋部長、やっぱ凄いっす。」
「ありがとう。でも、来週の月曜日の分も残ってるから気は抜けないよ。」
寿人は、そう言い終わると、急に感慨深くなっていく。
「ああ、この感覚、早く中山さんに味わってもらいたいな。」
「え?」
「自分が作った曲を『世に出す曲』として歌う感覚。」
「なんか、プレッシャーっすね。」
「えー?急に?」
そして、翌週27日をもって、12曲のレコーディングは終了し、アレンジ作業へと音源は回された。寿人は、治行と要にこう指示した。
「旋律が、多少古風だ。だから、それがわからないように、今風に聴こえるようにアレンジ、頑張ってくれ。」
◆研修
2月になった。隼人は、ここから歌唱部の部屋に行かない日々が始まる。
「おはようございまーす。」
「おはよう、中山さん。」
寿人も制作部の部屋にいるが、全く曲作りをしない日々を開始させた。ひたすら隼人に向き合い、基礎知識から曲作りの極意等を伝えていく。
52歳だった順が23歳だった自分にやってくれたように、54歳になる自分が31歳になる隼人に伝えられる事をすべて伝えていく。
その横で、当面の「新曲」を理沙が作り、治行と要が「響義浩の12曲」を含めた曲たちをひたすらアレンジしていく。
そんなある日だった。陽太が制作部に顔を出した。4月の出来事だった。
「制作部の皆さん、僕の一言で大変な思いをさせてすみません。後れ馳せながら、その事を伝えたくて。」
「神谷部長、いいっすよ?『念願』だった曲作りが出来るようになってきたっすから。」
「気にしないでくれ、神谷さん。こちらも目が覚めたよ。」
「あ、神谷部長、娘さん中3に進級っすよね?進路とかどうするんすか?って神谷部長、教えてもらってないかもですけど。」
「直接聞いてないけれど、どうやら妻によると、志望校は決まってるらしいんだ。」
「マジっすか!応援してやるっす。」
「そんな、いいのかい?」
「いいっすよ。って言うか、小橋部長から作る曲のテーマを決めるっつー課題が出てて、決められずにここまで来てるんす。いいテーマ決まったっす。」
寿人は笑いながらそれを聞き、こう言った。
「ずるいなぁ、中山さん。」
「いいっしょ。俺の『表に出る』最初の1曲は、それにしたいっす。」
「期待してるよ。」
「何から何まですみません。」
陽太は、頭を下げ制作部の部屋を後にした。それを見送りながら、隼人はスマホを手に取り、アプリにて曲を作り始める。
「これ、気持ち悪いっすかね?」
「んー、その感じは、ちょっと避けた方がいいかもね。」
そんな会話中、隼人は寿人の傍らにあるスコアノートに目をやる。
「ずっと気になってたんすけど、その古いノート、なんすか?」
「俺の『生徒』時代のノートだよ。」
「見せてくださいよ。」
「えーと、今風に言うとここから『パクっちゃ』駄目だよ。」
「わかってるっす!見るだけっす!」
隼人は笑いながらそれを手に取る。そして、こう呟く。
「1994年?俺の産まれた年っすね。」
「あ、え?そうか!あの年か!」
寿人は感慨深くなる。そして、やはりこの男にすべてを教え尽くすと改めて決意した。
「いや、あの時の気持ちを思い出すためにここに置いておいたんだけど、そんな発見があったなんて!いや、見せて良かった。」
そんなやり取りをしつつ、密度の高い「研修」にて、隼人がしっかりした曲作りの技術を身につけたのは、それから半年後の10月の事だった。「試験」として隼人が作った曲は、通常の決裁手続きの「練習」として資料作りとデモ作りまでやることになった。
◆新たなシンガーソングライターの誕生
隼人の「試験」の「答案」は、将の元に届いた。将は早速それを聴く。
「お見事。」
その一言で「決裁」は下りた。その後、寿人と隼人は社長室に呼ばれた。
「さて、これは『試験』として提出された物だが、早速『早川新』の新曲として表に出そう。」
「ええ?いいんすか?」
「『響義浩』の毎月発売ラッシュもいいんだが、『早川新』のファンは、新曲の発売がないことにさびしさを感じているだろう。中山君、ファンに久しぶりの歌声を届けてやれ。」
「ありがとうございます!」
寿人は、そんな隼人に声をかけた。
「1年ぶりのレコーディングになるぞ。頑張ってな。中山さん!」
「はい!」
寿人は、隼人と共に社長室を後にしようとするが、将に引き止められた。
「小橋だけ、残れ。」
「ん?」
「じゃあ、俺は失礼するっす。」
引き止められた寿人は、隼人の曲への苦言を内密に言われると思い、少し身構えた。
「小橋、覚えてるか?響義浩の『もう一度』のこと。」
「すまない、覚えてない。」
「だと思っていた。あの時のお前は頭に流れる新たな曲に気をとられていたからな。」
将は苦笑いしつつ話を続けた。
「それが、アメリカでちょっとしたブームとなっている。5年くらい前の曲だが、根強い人気があってな。」
「本当か?」
「今度はちゃんと聞けているようだな。それでだ、来年になるが、3月の末にアメリカの歌のイベントがあるそうで、そのステージに上がって欲しいとの事だ。どうだ?受けるか?」
「やってみるよ。」
「よし、単独での渡米となるが、行ってこい。」
◆二度目の応援歌
隼人は、11月のある日、自分で作った曲を自分で歌う初めての経験をする。それが終わった後、隼人はレコーディングブースから出るなりこう言った。
「小橋部長と野崎さん、こんな気持ちだったんすね。意外と、楽しかったっす。」
「いい経験だったろう?これからも沢山経験していってくれ。」
「やるっす!」
寿人は、笑顔で頷く。そして、こう言った。
「『受験生』に届くといいな。今年の高校受験のシーズンに合わせるように市場に出してもらえるけどね。あ、そうだ、こういう急ぎの曲のアレンジは、林さんに頼むようにね。林さん、仕事早いから。」
「へー、わかったっす。」
「どうだい?林さんにアレンジの依頼までしてみるかい?」
「そうっすね。」
そして、寿人と隼人は音源のデータを持ちつつ制作部の部屋へと行く。
「林さん、この曲のアレンジ、お願いします。」
隼人は言った。治行は笑みを浮かべながらこう返した。
「わかりました。『例の曲』ですね?心して仕事にかかります。」
そして、年が明け、新年の1曲目として「日の光は必ず / 早川新」は発売された。その目が覚めるような曲は、今までの愛和音の曲とは明らかに一線を画したものであった。
久々の「早川新」の新曲という事で、ジェランでは週間初登場3位とまずまずの成績だった。しかし、その曲は「制作意図」がはっきりわかるもので受験生の中で話題になり、「早川新」に興味がなかった層にもそれは支持された。この事を受け、初登場こそ3位だったが、3週間後には1位に躍り出る結果を収めた。
そんなある日、陽太が寿人と共にいた隼人の元へと来る。
「中山さん、ありがとう。『日の光は必ず』は、娘に届いたよ。少しだけだけど、親子の会話が持てた。3月の受験、頑張るって言っていたよ。」
「受かるといいっすね。俺、高校受験したことないから、緊張感とかわかんないっすけど。」
その一言に、寿人は言った。
「そうだったね、中山さんは、中卒採用だったからね。」
それに陽太が反応した。
「あの面接の時の僕に言ってやりたいよ。中山さんは、最高の愛和音の社員の一人になるって。」
「え?あ、その時の俺の2人の評価ってどんな感じだったんすか?」
寿人と陽太は顔を見合せ、笑う。そして、寿人がこう返した。
「内緒だよ。それは、トップ機密、って事にさせてくれ。」
「えー?なんすかそれ。まぁ、いいっすけど。」
寿人は陽太と引き続き笑いながらこう言った。
「さて、『早川新』が再始動したから、『室井徹彦』も本格的に再始動しなきゃな。中山さんから刺激受けて、書きたい曲、沢山出てきたからね。」
◆2026年3月
陽太の娘は、志望校に合格した。「悔しい」としつつも、父の会社から出た「日の光は必ず / 早川新」がだいぶ心の支えとなったと吐露し、「終わったパパ」呼ばわりは止めると宣言した。
その話を寿人と隼人は喜んだ。
そして、3月も終わりに差し掛かった頃、寿人は、多くの曲の資料を将に提出し、単独で渡米した。
「初めてだなぁ、アメリカ。」
寿人は、アメリカの空港に着くとそう言った。空港には、イベントの主催者側のスタッフがいた。日本人のようだった。
「遠路はるばるお越しくださってありがとうございます。」
20歳台と思われるこの男性は、更に言葉を続けた。
「実行委員長があなたにお話があるとの事なので、ご案内します。」
「ありがとう。」
寿人は、用意された車に乗り込み、空港を後にした。そして、とある立派なビルに案内され、そこの一室へと通された。
40歳前後と思われるアメリカ人男性が寿人を迎えた。
「オー!ヨシヒロヒビキ!ようこそ!」
片言ではあったが日本語を話してくれた。
「イベントにお誘いいただき、ありがとうございます。」
「私、よかった、あなた、会う。ヨシヒロヒビキ、アメージング!」
その声色に込められた熱量に圧倒される寿人。
「恐縮です。」
「キョウシュク?」
その意味がわからないようで、実行委員長はスタッフに意味を尋ね、返答を受けた。
「オー。私、大好き、ヨシヒロヒビキ、『モウイチド』。私、ハッピー、あなた、歌う、私、イベント。」
寿人は笑顔を返す。
「私、望む、あなた、楽しい、私、イベント!よろしく。私、望む、話す、ヨシヒロヒビキ、また、前、帰る。」
「はい。また、話しましょう。」
◆アメリカでのイベントとその後
寿人がアメリカで歌ったのは、その翌々日の事だった。
「わぁ、外国の人ばかりだ。」
そんな当たり前の事を呟きながら寿人は自分の出番を待つ。そんな中、他の歌手の曲にこんな感想を抱く。
「こんな曲もありなのか。勉強になるし、俺もまだまだなんだな。」
寿人は、「作り手」としても頭をフル回転させた。
そして、寿人の出番が来た。「日本人歌手を今年は呼んだ。楽しんで欲しい。」との紹介も添えられる。
「サンキュー!」
寿人はそんな言葉を最初に言い、集まった客の前で「もう一度」を1曲フルコーラスで披露した。力強い曲の中で寿人は熱い歌声を響かせた。
「サンキュー!ベリーマッチ!!」
寿人は歌い終わるとそんな一言を告げ、ステージから下りた。
その翌日。
「今回のイベントは、楽しかったです。ありがとうございました。」
実行委員長の望み通り、帰る前に再び寿人は顔を見せた。
「ありがとう。ヨシヒロヒビキ、歌う、私、イベント。」
寿人は実行委員長と握手をした
「私、欲しい、ない、帰る、ヨシヒロヒビキ、日本。」
そんな事を言われ、寿人は困惑したが、こう返した。
「音楽が私とあなたをコネクトします。」
「音楽、コネクト!いい、言葉。ない、さびしい。」
寿人は微笑んだ。そして、実行委員長は、こんな言葉で会談を終了した。
「願う、言う、ミスターハシノ、私、ありがとう。」
「はい。」
◆帰国
「どうだった?アメリカは。」
将は、帰国した寿人に尋ねた。寿人はこう返した。
「色々、圧倒されたな。自分の音楽の世界が文字通り広がった感じで。そんな中で歌えて楽しかったよ。行かせてくれてありがとう。」
「そうか。ならよかった。俺の方は正直、さみしかったな。お前が日本にいないと考えたら。」
「橋野、あっちの実行委員長みたいな事言うな。あっちの実行委員長も『帰らないで』って言ってくれた。」
「気持ちはわかるぞ。小橋が帰って来てよかった。」
寿人は笑った。そして、こう渡米の報告を締めくくった。
「ああ、その実行委員長、橋野にも感謝したいって言ってた。だいぶ片言の日本語だったけど、一生懸命伝えてくれたよ。」
◆愛和音の証明
寿人は、アメリカで感じた事を曲作りにぶつけてみようと考えた。その上で少し冒険してみようと思案する。
「全編英語の曲、歌ってみようかな?」
それは、「響義浩」にとってチャレンジであり、「室井徹彦」にとっては難関の事だった。
「恥ずかしいけど、英語の詳しいところまでは知らないからな。監修が必要だなぁ。」
それには、社内か外部の英語に詳しい人を頼らねばならない。先に日本語で詞を作った後、将の元に相談に行った。
「それは、冒険だな。」
将は微笑みながら答えた。
「なら、最高の手を用意しよう。どうせなら、きちんとしたいからな。日本にいる英語圏の国出身の詩人に頼もう。」
「至れり尽くせりで、感謝するよ。」
そう寿人が言った瞬間だった。将の携帯が鳴る。
「はい、橋野。」
「やぁ、しょうちゃん。」
相手は、道紀だった。
「どうした?」
「ちょっと予告しとこうと思ってね。」
「何の予告だ?道紀さん。」
「ジェントルから、しょうちゃんの言う『低質な音楽』をしばらく宣伝付きで発売するからさ、耳栓でもしといて、って事。」
「なんでそんな事。」
「愛和音はさ、ちょっと波があるみたいだけど、『良質な音楽』しか出さないし、これからも出せないでしょ?『その為』に愛和音を作ったんだからさ。」
「確かに。だが、それとこれ、何の関係があるんだ?」
「余計なお世話かもとは思うけどさ、『聴く側』の人たちが『低質な音楽』を『聴かなくなった』事、証明したくない?」
将は、目を丸くする。
「それは、その通りだな。」
「しょうちゃんはさ、愛和音でそんな事こわくて出来ないよね?だから、『こっち』でやろうと思うのよ。『その昔』、『低質な音楽』を量産したジェントルだからさ。」
「そんな、万が一の事があったら道紀さんの立場が危ない。」
そう言っている間に、将は、はっとした。
「そうか、その為に矢吹さんを?」
「そうそう、そう言う事。そしてさ、これこそが僕がジェントルでやりたかった事なのよ。」
将は、思いを巡らせた。
「では、『その件』が終わったら、道紀さんのその立場は。」
将の話の途中で道紀は割り込むように返答する。
「ジェントルの社長、辞めるよ。」
「5年かそこらで。」
「もうね、後任決めてるしね。まだ、本人にも言ってないけど、しょうちゃんの後輩って言っていい企画経理部にすごくいい子いるのよ。」
「なら、いいが。そう言うことなら、その『低質な音楽』の発売ラッシュ、見届ける。」
道紀は、「うん。」と短く返した後、少し黙った。
「ん?道紀さん?」
その将の声に道紀は返す。
「やっぱり、言っておこうかな?ひーちゃんに伝えて欲しいんだけど、矢吹さん、もう長くないのよ。だからさ、ひーちゃんには、矢吹さんの『最期の』仕事、見届けてやってって。いやー、矢吹さんにこんな仕事を最期にやらせて僕は地獄に落ちるだろうね。」
将は、反対に絶句した。寿人は、将の顔色の急変に怪訝な表情をした。
「ショックだよね?しょうちゃん。まぁ、そんなとこだから、色々よろしくね。」
「はい。」
将が短く返すと通話が終了した。
「道紀さん、何だって?」
寿人の問いに将はしばらく返答できなかった。しかし、将は覚悟を決めた。
「最初の話は、ジェントルが矢吹さんの監修を受けて『わざと』、『低質な音楽』を出すという事だった。そして、小橋、こっちはお前に関係がある。その矢吹さん、もう長くないそうだ。」
寿人の顔が青ざめた。
「先生が?」
今度は寿人が絶句する。将は、そんな寿人に声をかける。
「今年、確か84歳だったな。微妙な年齢だ。後悔しないように、矢吹さんとの最期の時をどう過ごすか、小橋、考えろ。」
寿人の目はかなしげに見開かれた。
「先生、辛いかもしれないけど、電話してみる。」
「そうしてやれ。もしかしたらお前の声を聞いたら1日でも長く生きられるかもしれないしな。励ましてやれ。」
「わかった。」
◆最期の
寿人は、その場で順に電話をかけた。しばらくコールが続いたが、やがて弱々しい声をきっかけに電話が繋がる。
「小橋君、久しぶりだねぇ。」
「先生、聞きました、体調のこと。」
「そうなんだよ。まぁ、年だしね。」
そう言うと、しばらくの間無言の時間が流れる。寿人は、それを受け入れる。
「ねぇ、小橋君、今から会えないかな?顔、見たいなぁ。自宅にいるからさ、もし、大丈夫なら。」
「はい、伺います。」
寿人は電話を切ると将に言った。
「今から先生の家に行かせてくれ。というか、お前も来るか?」
「いや、「師弟」の間に割って入りたくない。お前だけで行ってこい。もし、時間が長くなるようだったら、直帰して構わない。思う存分、矢吹さんと話してこい。」
「ありがとう。」
そう言うと、寿人は順の元に行った。
「ごめんください。」
順の妻が迎えてくれた。
「ご無沙汰です。奥さん。」
そんな寿人の言葉を聞きつつ順の妻は寿人を順の元へと案内してくれた。
「先生。」
順は、介護ベッドにて点滴を受けていた。そして、順の弱々しくゆっくりした声が寿人を迎えた。
「小橋君、ああ、よかった。会えて。」
「俺もです。」
「いやね、去年さ、『悪い物』が見つかっちゃって、この年だから、手術を選ばなかったのよ。こんな有様見せてごめんね、小橋君。」
「いいえ。こちらこそ、何も知らなくて申し訳ありません。」
「何、知らせなかったんだからいいんだよ。ああ、そうだ、早川新の『日の光は必ず』聴いたよ。」
「そうですか。」
「あれ、君の『生徒』の曲なんでしょ?」
「はい。そうです。先生のおっしゃった通りに、俺なりに考えた『授業』を受けてもらって初めて出来た曲です。」
「やっぱり。いやー、『間に合って』よかったよ。念願叶った感じだね。」
「そんな、事、言わないで、ください。」
寿人は下を向く。
「小橋君、その曲もそうだけど、もっと欲しいな。冥土の土産。」
「先生!」
「頑張って、1日でも長生きするからさ、1曲でも多く小橋君と、小橋君の『生徒』の曲をさ、僕に聴かせてよ?」
「わかりました。」
寿人は、荒れ狂う感情の奔流に負けそうになるが、それを耐え、こう提案した。
「その状況じゃ、ビアノのある部屋に行けませんよね?ここにいて、俺の即興曲、聴いてくれませんか?今から俺、やりますので。」
「いやー、キーボードだったらあるから、ここで演奏してくれるかい?」
順は手を強く鳴らして妻を呼んだ。そして、キーボードのセッティングを依頼。妻は、キーボードのある部屋に行く。寿人はそれについて行きキーボードを持ってくる。その後、妻はセッティングを手伝ってくれた。
「奥さん、ありがとうございます。先生、聴いてください。そして、長生きしてください。」
一転弱々しい拍手が順の手から生まれる。それが鳴り終わると、寿人は「室井徹彦」として、「響義浩」として全身全霊の演奏を順に捧げた。順の妻は、それを聴き涙を流した。一方、順は穏やかに目をつむりながら噛み締めるように聴く。その演奏は寿人の思いが鎮まるまでのおおよそ30分をかけて続いた。
「人生で、初めてかもしれないね。僕だけに向けられた曲を聴くなんて。本当に、橋野君に頼まれて小橋君の『先生』、やってよかったよ。ありがとう。長生きするね。小橋君。」
「是非、1日でも、長く。」
寿人は、激しく後ろ髪を引かれたが、順の疲労を呼んではいけないとそこで矢吹家を後にした。
まだ時間があったため、寿人は帰社した。将に帰った事を報告すると、将は、こう言った。
「矢吹さんから電話があった。俺にまで礼を言ってくれた。何?即興曲を演奏してきたって?」
「ああ、捧げて来た。長生きできるように。それに、『万が一』の事があったら、苦しまないよう、幸せを掴めるよう祈りながらな。」
「よく、やってきた。お疲れ様。」
◆音楽の嵐
愛和音は、「室井徹彦」、「佐崎佑里」、「早川新」が作った曲をそれから怒涛の如く発売していく。
一方、ジェントルは、道紀の宣言通りに順の監修の下、「あえて質を落とした曲」たちを発売していく。
結果は歴然としていた。ジェランは、愛和音の独壇場と化す。
寿人と将は、ジェントルの曲たちを必死に受け止めた。
「先生、頑張ったんですね。」
「道紀さんの、『自殺行為』、しっかり聴いたぞ。」
そんな中、「星のように / 響義浩」が2027年2月に発売される。それは、「響義浩」初の歌詞が全編英語の曲だった。迫力たっぷりの寿人の歌声は要がアレンジを手掛けた炎のような伴奏に乗って聴衆の耳に届いた。翌月、その曲はジェラン月間2位を記録する。
無事、「星のように / 響義浩」は、順の耳に届いた。しかし、その後の7月、矢吹順は息を引き取った。85歳だった。
◆異変
暑い日だった。寿人は、順の葬儀に参列した。将も一緒に行き、また、隼人もついて行った。
告別式の待機中、止めどなく流れる寿人の涙。静かに流された涙だったが、その涙は、誰も止められなかった。その様は両脇にいた将や隼人が戸惑う程だった。特に隼人はかつてない寿人の姿に言葉を失う。
「ごめん。」
寿人は、抑えられない感情をこれ以上衆目に晒したくないと会場から一旦出て行った。
隼人は、その様子を見送りながら将にこう言った。
「あんな小橋部長、初めてっす。どう、声かけたらいいんすかね?」
「久しぶりだ。小橋があんなに泣くのは。」
一方、寿人は外に出てすぐに馴染みの顔を見る。
「道紀、さん。」
「ひーちゃん。」
道紀は、寿人の顔に残る涙にかなしげな顔をした。
「なんでだろね?こんな事、言ってもしょうがないけど、90になる親父がまだ施設で相変わらずなのに、なんでだろね?」
「道紀さん。」
「いやー、いい人だったよー。ひーちゃんの『先生』はさ。」
「先生っ。」
寿人の顔に、新たな涙が。道紀は慌てつつ、こう言った。
「もう、泣かないでよー。ひーちゃん。矢吹さんもそんなひーちゃん見たら、色々後悔するんじゃ?」
「それも、そうだ。」
寿人は必死に涙を抑える。そして、声を振り絞った。
「そろそろ、式だ。」
「そうだね。」
寿人と道紀は、会場へと足を向けた。
告別式が始まる。寿人は一応の落ち着きを取り戻したようだったが、再び式の最中に感情が溢れる。「後悔」させたくはなかった。しかし、涙を止められない。
「先生。」
寿人は、一言だけ呟いた。将は寿人の左肩を強めに一度叩く。隼人はもどかしい目線を寿人へ向けた。
やがて、式は終わる。
「橋野、中山さん、ごめん、本当に。心配かけたよな。」
「ええと、いいっすよ?」
「小橋、少し休養しろ。矢吹さんは、お前にとって『親』みたいなものだ。特別に『忌引き』として7営業日休みをやる。明日から気持ちを整理する事に専念しろ。」
「ありがとう、橋野。ごめんな、中山さん。」
そう言うと、寿人はとぼとぼと帰宅していった。途中、こんな事を呟きながら。
「先生の、鎮魂歌、作ろう。」
翌日から、将の計らいで出勤しない日々を過ごす寿人。その顔は、ある日絶望に染まった。
「音楽が。」
◆報告
寿人の復帰の日が来た。寿人はやつれた顔でその日の朝、出勤し、一旦制作部の部屋に入る。
「みんな、休んでしまってすまない。」
理沙、治行、要は、それぞれの言葉で寿人を労った。
「ありがとう。橋野に挨拶してくる。」
寿人は社長室に行った。
「これまでの『休み』、ありがとう。」
「十分に休めてないようだな。」
寿人は、少し沈黙した後、泣きそうな顔になりながらこう言った。
「橋野、すまない。そして、助けてくれ。俺の中の音楽が、止まってしまった。」
将は、目を見開く。
「小橋。」
静寂が愛和音の社長室を包んだ。しかし、そのしばらくの静寂は将が破った。
「致し方ない、としよう。だが、俺はお前を信じる。何せ、『響義浩』を復活させた男だからな。『室井徹彦』もいつか復活させる事が出来ると俺は考える。ただ、愛和音には時間がない。『その後』の復活の可能性も排除出来ないがな。それでも俺はいいと思う。気負うな。『あの20年』と逆になったが、『室井徹彦』がいない今、『響義浩』として力を尽くせ。いいな?」
寿人の表情は、その将からの言葉を受け、次第に「力み」のようなものが抜けていく。
「ありがとう、橋野。でも、出来れば愛和音で『室井徹彦』を復活させたい。見守ってくれないか?」
「ああ、勿論だ。制作部には、きちんとお前からその状況は説明するんだぞ。」
「わかった。」
そう言うと、寿人は隼人を探しに出て行った。
「中山さん、制作部に来てくれないか?」
「いいっすけど。」
「先日は、変なところを見せてしまった。」
「本当に、どうしていいかわからなかったっす。」
「そうだったか。でも、また中山さんを困らせる話、しなきゃならない。」
「え?なんなんすか?」
「それは、制作部のみんなと聞いて欲しい。」
寿人と隼人は、制作部の部屋につく。そして、寿人は隼人はじめ、理沙、治行、要の前で話をはじめた。
「『忌引き』扱いの休みをもらった後だが、引き続きここにしばらく俺はいられない。」
理沙がそれに返した。
「何かあるんですか?」
「俺は、曲を作れなくなった。」
理沙は立ち上がった。
「そ、そんな。」
隼人、治行、要も驚く。
「いつかの野崎さんみたいになってしまったよ。『回復』するまで、歌唱部の活動に専念する。制作部は、野崎さんと中山さんに任せることになる。すまない。林さん、今井さん、2人を支えてやってくれな。」
そして、寿人は理沙を見つつ話を続ける。
「『野崎さんの時』は、野崎さんは制作部で2年戦ったのに、『俺の時』は、早々に歌唱部に『逃げる』事を許してくれ。」
理沙は何度も首を横に振った。
「あんな辛い思いをするのは、私だけでいいです。小橋さんは、『逃げて』いいです。その資格はあります。『あの時』の恩を今、返させてください。いつまでも待ってます。制作部に戻ってくるのを。」
理沙は、隼人の方を見てこう続ける。
「それに、小橋さんが育てた中山さんが『今』はいてくれる。こんな心強いことはないです。」
「野崎さん。俺、駆け出しなんすけど、大丈夫すか?」
「むしろ、それがいいんですよ。だって、きっと中山さんの中の音楽の『源』は、ここの3人の中で一番多いでしょうから。」
「そう、言われると、気が楽っす。」
寿人は、頭を下げこう言った。
「なるべく早く、戻りたい。だから、『それまで』の制作部を、よろしく。」
そうして、寿人は制作部の部屋から退出していった。
◆それぞれの
将は、社長室で思案していた。
「『響義浩復活の時』は、あれこれ画策したが、今回は、どうするか。『室井徹彦復活への道』は、手を貸すべきか。それとも、小橋自身の奮起を待つべきか。」
理沙は、寿人が退出した後の制作部の部屋にて残された3人を前にこう言った。
「小橋さんが『回復』するまでの間、私が制作部部長という気持ちで事にかかります。至らない所もあるかもしれませんが、ついてきてください。」
治行と要は力強く頷いた。それを受け隼人はこう言った。
「どこまで俺、出来るかわからないっすけど、頑張るっす。」
一方、寿人は歌唱部の部屋へと入室した。
「事情あって、しばらくここ専属の社員となる。よろしく。」
陽太は、戸惑った。
「え?何かあったんですか?」
「すまない、俺は、曲を作れなくなった。」
歌唱部の社員全員が騒然となった。その波が収まった後、京子が言った。
「『あの時』、私が倉庫から出してやったのに、曲、作れないなんて、あなた、しっかりしなさいよ。」
「そうだ。とても情けない話なんだ。きっとまた曲を作れるように頑張るつもりだけど、それまでは、『響義浩』としてここで働く。邪魔かもしれないが、無理のない範囲で俺に付き合ってくれれば、助かる。」
寿人は頭を下げた。
「仕方ないわね。」
それ以降、寿人は曲を作れなくなった分、歌に全力を注ぎ、事情を知らない聴衆の心を鷲掴みしていった。
◆救いは
そんな中で、2028年が訪れた。
6月、ジェントルは南山道紀71歳を社長から解任する。道紀の「解任を受け入れる条件」として出された道紀の望む社員が後任に選ばれ、ジェントルは、三代目の社長を迎えた。
一方、愛和音は、「佐崎佑里」や「早川新」が制作した曲を「響義浩」他の歌手が歌うという態勢が定着しつつあった。
そんな中であった。社長室に隼人が来た。
「社長、これからの話っすけど、俺の書いた曲は、これから『響義浩』に歌わせないで欲しいっす。」
「急に?どうした?」
「なんだか、言い表せないんすけど、なんか、嫌になってきたっす。きっと、俺、制作部の研修していた時、『室井徹彦』と一緒に曲を作りたかったのかもっす。あ、勿論、『佐崎佑里』と曲を作れることも全然楽しいっすけど。ただ、なんとなく『抵抗』って言うのか、なんつうか。よくわかんなくて悪いな、と、思ってるんすけど。」
「わかった。今の制作部を支えている中山君の意見をすべて受け入れよう。むしろ、その気持ちは、俺でなく、直接小橋に伝えろ。」
「いやー、今は話したくないっす。」
「そうか。困った話だな。まあ、その気持ちは、いずれ中山君自身が伝えるとして、俺も小橋に別の話をしなければと思った。その話を聞いて、俺も目が覚めた。やはり、小橋をこのままには出来ないな。」
「なんだか知らないっすけど、『響義浩』の件はお願いしますよ。」
「ああ、わかった。それにしても、君には色々助けられるな。その『響義浩』を復活させるきっかけも中山君がくれたし、おそらく、今回の『室井徹彦』復活も中山君の思いから始まる。これは、俺の指導力が問われる物になるが、必ず『室井徹彦』を制作部に戻す。ありがとう。少し、待っていてくれ。」
隼人は少し軽い表情になりつつ、社長室を後にした。その後、寿人は社長室に呼ばれた。
「すっかり腑抜けになったな、お前。」
将の言葉に寿人は自嘲した。
「笑っている場合か?今までの俺の発言やその他の事に矛盾が生じるかもわからないが、今日、お前への対応を変えることにした。覚悟をして欲しい。」
「え?」
「『え?』ではない。この先のお前の状況にもよるが、『小橋寿人』を愛和音に採用した事を俺は後悔することになるだろうな。今のお前は、『相当やらかしている』。」
「そうだろうな。」
「なら、なぜ奮起しない?」
「出来ない。本当は、先生の『鎮魂歌』をすぐに作りたかった。そして、この苦しい気持ちから作れる曲もあった筈なのに、それも出来なかった。俺も相当悔しいよ。」
将は、それを受け止めた後、こう返した。
「致し方ない。『愛和音を匿名の輩に貶され』、『海外で自分を見失い』、その後に『師を失った』お前には、同情する。だが、それで『音楽』を失うひ弱な男だったのか?そうであれば、俺はそんなお前を愛和音の1人目として見出だした事を自省しなければならないな。」
「だったら、もう、クビにしてくれ。」
「そうだな。それは造作もないことだ。おそらく、この先俺はそれに関しての『痛み』を感じずに生きていられるだろうし、お前はいつか『室井徹彦』を取り戻すんだろうな。だが、それでいいのか?お前は、ここから去ることによって罪を犯すんだ。」
「俺が何するって言うんだ?」
「『師を失った』お前が、『師を失わせる』事、だ。」
「な。」
「もう、十分同等の罪をお前は犯しているのかもわからないな。わからないか?中山君の苦しみを。」
「あ。」
「俺も大概鈍感だった。今の今まで気づかなかった。中山君が、お前と話したくない程に苦しんでいるという事を。」
将は、寿人にきつい視線を投げかけながら続けた。
「奮起しろ。一刻も早く『室井徹彦』を取り戻せ。いいな?」
寿人は、社長室から飛び出して行った。
◆師弟
「中山さん!」
寿人は何もかもわからなかった。隼人にやってやれることが。しかし、言葉を交わしたかった。自分の気持ちの押し付けであると自覚していたが、思いは止まらなかった。
「なんすか?」
「橋野から聞いた。俺は、中山さんに許されない事をしているって。」
「だからなんすか?」
「すまない。中山さん。」
「謝ってもらっても、状況変わんないっしょ?そんなの要らないっす。」
隼人からの重い一言だった。寿人は、こう返した。
「なら、この際俺に対して中山さんが思っている事を聞かせてくれ。暴言でも何でも受け入れる。この1年中山さんに我慢をさせたんだから。」
「暴言って。社長からどこまで聞いたかわからないっすけど、今、猛烈に嫌っす。『響義浩』に『早川新』が作った曲を歌われるのが。俺自身も俺の気持ちわかんないまましゃべってるんで、何言ってるかわかんないっすけど。」
「きっと、中山さんは『響義浩』は好きじゃないんだね。」
「それも違うような気がするっす。『24』で過去出した曲を一緒に歌うの、嫌じゃないっすから。」
寿人と隼人に長い沈黙の時が流れる。隼人は、寿人の姿を見るにつれ、「自分の気持ちの正体」に気づいた。
「あ、わかったっす。曲を作る苦労を知った今の『早川新』が作った曲を、曲を作る苦労をしてない今の『響義浩』が歌うのが嫌なんだって。今だって、すげぇ歌手っすよ?『響義浩』は。でも、今の『響義浩』は、俺にとっちゃ『足りない』んす。」
「そうか。」
「本当に無理なんすか?本当に1曲も書けないんすか?」
寿人は、それに対する答えを持っていなかった。
「それには、答えられない。けど、答えなきゃな。何か、やらなければ。俺は。」
◆旅
制作部に戻った隼人と別れた後、寿人は無音の頭の中を必死に彷徨った。そして、歌唱部の部屋の中ではあったが、久しぶりに白紙のスコアを広げた。音符の書き方を忘れてないかを確かめるために、音楽にならない旋律を書いてみることに。
「こんな、変だ。」
それを頭の中で演奏してみて、笑った。それは久しぶりに頭の中に流れた新しい音楽だった。それがなんだか楽しくて、楽しんではならない身だとは思いながら、その作業を続けた。
「なぁに?気味悪いわね。ニヤニヤして。」
京子がそんな寿人に話しかけてきた。
「え?そんな顔してる?」
「ほーんと、気味悪い。でも、久しぶりかもしれないわね。あなたのそんな顔見るの。」
そして、京子は更にそのスコアを見て、笑う。
「こんな曲、誰に歌わせるのよ?変な曲。」
「いや、歌わせる曲じゃないよ。」
「あ、そ。まぁ、せいぜい遊びなさいよ。」
「そうするよ。」
結局、寿人はその日の退勤時までそれを続けた。適当に配置された音符が、会社に残された。
翌日、寿人は出勤。再度それを見た。
「これ、前の俺だったらどう修正した?」
白紙のスコアをまた出し、「変な曲」を修正していく。
「あ、れ。1曲、出来た。」
寿人は、おおよそ1年ぶりに書けた曲に感動を覚えながらも、今の今まで「こういうこと」を本気でしてこなかった自分を恥じた。「逃げ過ぎ」だったと。曲が出来た事を受け、今度は、歌詞をつける。しかし、これもまた久しぶりで勘が取り戻せず、妙な歌詞が並ぶ。この日も京子はスコアを覗きにきた。
「まともなの、書けてるわね?けど、今度は、なぁに?この詞!」
と、言いながら京子はそれを取り上げる形で寿人から奪い、初見ながらも歌い出す。一通り歌った後、京子はこの日も笑った。
「最悪の出来ねー。」
その一言を残し、京子は部屋を出て行った。そんな1日が終わり、妙な歌詞付きの曲は、会社に残された。
また翌日。それを見て、寿人は歌詞も修正する。すると、約1年ぶりに「室井徹彦」が作った曲が誕生した。
「今の俺に、制作部の部屋に入る資格、あるだろうか?」
そう呟いた寿人の元に京子がまた来る。そして、この日もスコアを覗く。
「つまんない。あーあ、すっかり制作部の部長様、戻っちゃったわねー。もーっと苦しむ姿、見たかったのに、もう、それも終わりね。さっさと制作部に戻りなさいよ。しっ!しっ!」
まるで野良猫を追い払うような仕草を京子は寿人に向けてした。
「行ってくるよ。」
寿人は、歌唱部の部屋を後にした。見送った京子は、微笑みながら、こう呟いた。
「私なりの、あなたへのエールよ。これからだわ。『室井徹彦』。」
◆わけられるもの
制作部の部屋に寿人は入室した。そこには制作部の全員がいて、自分の仕事をしていた。
「仕事の邪魔かもしれないが、少し、時間をくれないか?」
4人が集まってきた。そして、先ほど出来た曲のスコアを提示した。
「正直、俺自身じゃわからない。『室井徹彦』が戻ったのかが。今しがた出来た曲なんだが、これが『室井徹彦』の曲かどうかジャッジしてくれ。」
「小橋さん、曲、作れたんですね?」
理沙の声が上ずる。その横で隼人がスコアを凝視する。
「駄目っす。まだまだっす。」
その一言で理沙もスコアを見る。その顔には、少しの落胆の色が浮かんだ。
「確かに、これは。でも、修正すればなんとかなりそうです。私、やってみます。」
「頼む。」
「いや、このまま、このまま聴いてもらいましょうよ。折角書いたんだし。」
隼人の一言に治行が反応した。
「今井さんの出番、ですかね?」
「物によっては、お時間いただきますが、やりましょう。」
隼人は、それに返した。
「や、どっちにも頼むかも知んないっす。」
治行と要が首を傾げる中、隼人は、寿人に苦言を呈した。
「こんな熱い曲にこの辛そうな歌詞、合うと思ってるんすか?」
「すまない。それが今の俺の限界なのかもしれない。」
「がっかりっすよ。『今度こそ』恥かいてもらおうかな、と思ってるっす。覚悟しといてくださいよ。」
そして、隼人はそのスコアをパソコンに入力していく。そして、別の作業を始めた。
「こんな感じっしょ。」
それをプリントアウトし、隼人は寿人に提示した。
「デモ作るんで、仮の伴奏よろしくっす。」
寿人の目は、その2枚の紙に釘付けになった。
「これは。」
「演奏まで出来なくなったんすか?」
「いや、大丈夫だ。」
そして、寿人はピアノの前に行った。そして、録音をしつつ演奏し始める。それは、寿人がこの日完成させた曲だった。すると、隼人は歌部分の担当として歌い始める。その歌詞は、寿人が書いたものとは別の歌詞だった。
理沙、治行、要は元の寿人が書いたスコアを見つつ驚きの表情を浮かべた。
それが終わると、寿人は2曲目を演奏し始める。その曲は、先ほどの物とは別物だった。しかし、隼人が歌う歌詞は、この日寿人が完成させた物だった。
そうして、デモ作りは終わった。
「中山さん。」
寿人は、録音が終わると呟いた。
「野崎さんの言う、『修正』じゃ足りないっす。だから、大幅に『変更』したっす。」
「凄い、ありがとう。中山さん。」
「『ありがとう』じゃないっすよ。これを、生放送の歌番組で『元の曲』歌ってやるっすよ。全国の視聴者に今の『室井徹彦』がどんなにおかしいか知らしめてやるっす。」
そう言い終わると、隼人は資料をまとめて将の元へと行ってしまった。
それを見送る寿人。
「中山さんを、怒らせたみたいだな。俺。」
それに理沙が言葉をかけた。
「でも、あんなに動く中山さん、なかなか見られないんですよ?こう言ってはなんですけれど、小橋さんが戻ってきた事を喜びたいけど、中途半端な出来の曲を持ってきたから、どんな態度を取っていいかわからないんじゃないかな?と思います。」
「そう、ならいいけど。でも、俺、しっかりしなくちゃな。」
◆弟子の悲鳴
一方、隼人は社長室に着き、将の驚く声を聞いた。
「小橋が?小橋が新たな曲を。」
「でも、これ出された時は、正直、がっかりしたっす。」
「これは。」
将は、寿人の今の実力と隼人の発想を同時に認識した。
「これは、面白い。中山君の『曲』と『詞』もひとつの『歌』に出来そうだな。」
「多分、出来るんじゃないっすかね?」
「中山君、君は本当に優秀だ。」
隼人は、将から目を背ける。
「それは、『教えた人』がいたからっす。でも、どこ行っちまったんすかね?」
「間もなく、戻るだろう。」
「辛いっす、正直。曲が出来てくれば、何か変わるかもって思ってたっすけど、ちがくて。もっと辛くなったっす。でも、『久しぶり』の曲も、みんなに聴いてもらいたくて。俺、どうしようもないっす。」
「罪な制作部部長だな。『この件』に対する中山君の行動は、すべてにおいて許す。好きなようにやれ。」
隼人は将に深々と頭を下げ、社長室を後にした。
2029年3月、愛和音はA面B面態勢のCDを発売する。
A面は、早川新作詞、室井徹彦作曲、今井要編曲の「熱視線 / 早川新」。ほとばしる熱を思わせる曲だった。
B面は、室井徹彦作詞、早川新作曲、林治行編曲の「ぬくもり求めて / 早川新」。胸を締め付けるような曲だった。
ジェランでは初登場週間4位、また翌月の月間6位という記録を残す。
そんな中、隼人は「歌の宴」に出演。「熱視線」の披露が予定されていたが、その旋律に合わせて「ぬくもり求めて」の歌詞を歌った。
そう、寿人の書いた「元の曲」が視聴者に届けられたのだ。
この事は話題になった。その違和感のなさは、人々の「楽しい」を引き出した。
◆理論的作曲
残念ながら、寿人の頭の中の音楽は簡単には戻らなかった。しかし、「逃げてはならない。」という思いで曲作りを始める。その一環で寿人は「室井徹彦の過去作」の傾向を分析した。そして、「いい」と思った要素を繋ぎ、更にそれがわからないように「小細工」を曲に施すという作業を繰り返しながら歌を世に出していった。
「こんなんじゃ、駄目だ。」
その日、寿人は社屋の屋上にいた。今取っている手法は、「過去の曲の焼き増し」なのだ。それに対して苛立ちに似た焦りを抱いていた。更に、使い慣れない頭の領域を使っているが故の疲労感が容赦なく襲う。「音楽が止まる前」は、自然に頭に浮かぶ音楽をただただ書き留める作業をしていた。しかし、今はそうは行かない。それに対する疲労感、そして、苛立ちに似た焦りをすべて吹き飛ばしたくて、ここに来たのだ。
◆家族
そんな寿人の耳に、とある声が届く。音彦と詩音が声量を押さえつつも、自らたちのデュエット曲である「涙はいらない」を歌っていた。
「加藤さん、石名さん。」
40代になった音彦と詩音の歌声は、20代の頃に初めて歌った時と変わらない愛おしさが溢れる物だった。それを寿人は観賞し始めた。音彦と詩音は、そんな寿人に気づき、歌を止めた。
「あ、邪魔だったかな?ごめん。」
そんな寿人に音彦は答えた。
「全然気にしませんよ。」
詩音は微笑んだ。結婚は選ばなかったようだが、その雰囲気は、長年連れ添った夫婦という感じだった。それを改めて感じた寿人は、当たり前の感想を音彦と詩音に言った。
「2人は、本当に仲がいいね。」
それに詩音が答えた。
「一生、私は音彦といるつもりですから。そんな私たちに、野崎さんと一緒にこの曲を作ってくれた小橋部長には、感謝してます。」
「そうだね、詩音。世間が求めてなくても、個人的に2人で死ぬまでこの曲を歌って行こうと思ってます。その節は、ありがとうございました。小橋部長。」
音彦と詩音は、2人並びながらお互いを抱き寄せるようにして寿人に思いを伝えた。
「ありがとう。」
そう返した寿人は、音彦と詩音が入社する前、とてもワクワクしていた気持ちを思い出す。それは、寿人の心にぬくもりを与えた。そして、思わずこんな一言を呟いた。
「2人は、家族みたいだね。」
音彦と詩音は、お互いに見つめ合い柔らかく笑った。
その後、音彦と詩音は社屋の中へと戻って行った。それを見送った寿人は、再び呟く。
「『家族』、か。」
自分は9歳の頃、両親を亡くし、それから音楽を「両親」と思っていた。いわば自分にとって「音楽は家族」なのだ。「家族」は、常にそばにいてくれた。自分に寄り添ってくれた。少し自分への奉仕が疲れたのだろう。休め、「家族」よ。
「『音楽』に、俺は感謝する。ありがとう、『音楽』。俺は恩返しをする。『音楽』には、音楽で恩返しだ。俺には『それ』しかないから。」
そう言うと、寿人は制作部の部屋へと戻って行った。
◆夜の
寿人は、それからスコアを書き始める。「恩返し」にふさわしい曲が生まれるまで書くのを止めない決意で。
退勤時間になる。他の制作部の人員は、次々に帰って行った。しかし、寿人は残り続けた。手を止めない、絶対に、手を止めない。早く「恩返し」がしたいと、1人、食事も忘れスコアを書いた。
そうしていると、「音楽」は、どんな顔をしているのだろうと考えるようになった。手を止めずに考えると、自然に愛和音の社員たちの顔が浮かんでくる。愛和音の仲間が「音楽」なら、愛和音の仲間も「家族」だ。そう思えるようになってきた。「家族である音楽」に感謝したいと思っている今の自分は、愛和音の社員に対しても感謝の気持ちを込めた「恩返し」をするのだと、スコアを書く手により一層力を入れた。
日付が変わる。さすがに集中力が一旦途切れた。
「こんな時間か。」
そう言えば、会社に泊まる許可を得てなかったと社長室へ。しかし、さすがに将は帰宅していた。
「無駄足だったな。そうだよな。何考えてこっちに来たんだか。」
制作部の部屋へと戻る途中、寿人の目に、窓越しの空が。少し足を止め、その空を見ると星が瞬いていた。
「綺麗だな。」
暗い廊下で寿人は呟いた。そして、スコアを再び書かねばと再び歩きだしたその瞬間だった。頭に残った星の瞬きに合わせ、音が響き始める。
「え?」
楽しげにそれは動きを見せる。一筋の涙が寿人の頬を伝った。
「休みたいんだろ?こんな俺の元に、戻ってきていいのか?」
とにもかくにも、それを「記録」したくて涙のまま、制作部の部屋へと走った。そして、その音を「記録」していく。手が止まらなかった。
そして、そこから寿人の中の『室井徹彦』が猛威をふるう。スコアが1つ出来れば、すぐに違う曲が頭の中に流れる。それをスコアにしていく。それを繰り返しながら早朝を迎えた。時折涙を伴った作業は、寿人の眠りを誘った。朝7時半頃、寿人は書きかけのスコアに覆い被さるように就寝した。
◆室井徹彦
制作部に一番に出勤してきたのは、理沙だった。無造作に広げられているスコアの上で眠りこける寿人を見る。
「小橋さん?」
声をかけるが、寿人はそのまま眠り続けた。理沙は、床にも落ちているスコアを拾い上げ、机に乗せようとしたが、その「出来」に目を丸くする。
「これは。」
やがて立て続けに治行と要が出勤する。寿人の状況にも驚いたが、理沙が立ち尽くしていることにも疑問を抱いた。思わず、治行と要は同時に「どうしたんですか?」と尋ねてしまった。
すると、理沙は静かに話す。
「小橋さんが、戻ってきました。『室井徹彦』が、本当の意味で愛和音制作部に戻ってきました。」
そのスコアを治行と要も見て安堵の頷きを見せた。
こんな日に限って隼人は歌唱部の部屋に出勤する。理沙が見かねて歌唱部に呼びに行った。
「中山さん!なんでここにいるんですか?」
「いいっしょ?俺、ここの人間でもあるんすから。」
「見せたい物があるんです。これ以上ない大事な物です。ついてきてください。」
隼人が制作部の部屋へ理沙と共に入ると、なおも寿人は寝ていた。
「何やってんすか?これ?」
治行と要は理沙が隼人を呼んでいる間に、スコアを綺麗にまとめ、重ねていた。 理沙は、隼人に言った。
「そこのスコア、どれでもいいから見てください。」
隼人は言われた通りにする。その瞬間、隼人の目に涙が浮かぶ。
「小橋、部長っ。」
その声に、寿人は目を覚ました。昨日、「家族」と思った人々の顔を見る。
「みんな。」
寿人は、昨晩から食事も摂らず、変な睡眠を取った為、頭の動きが悪かったが、隼人の涙に反応した。
「中山さん?」
隼人は、そんな寿人の声を聞き、泣き崩れた。寿人は、そんな隼人の背中を撫でてやった。
「ごめんな、中山さん、今まで辛かったな。辛い思いさせて、本当にごめんな。」
寿人は考えた。隼人がもし自分の「家族」なら、年齢差から言って「息子」にあたると。実の子供はいないが、「父」ならば精一杯慰めてやるべきだろうと、極めて優しく隼人の背中を撫でてやる。隼人の嗚咽の声が制作部の部屋に響き渡る。そんな時間がしばらく続いた後、隼人はこう言った。
「泣いてる場合じゃないっすね。『やりたい事』、できたっす。」
そう言うと、隼人はパソコンに向かい、作業をし始める。そして、こう続けた。
「負けないっす、小橋部長、いい曲作るっす。そして、この曲は、『響義浩』に歌ってもらうっす。俺が考える超ムズい曲、作ってやるっすから、覚悟しておいてくださいよ?」
「『その曲』を、歌える日を楽しみにしてるよ。中山さん。」
その後、さすがに体調がおかしくなった寿人は、午前中で早退した。
◆最強のシングル
翌日、体調を整えてきた寿人は、早速久しぶりに量産した曲のデモを作ることにした。そんな寿人に隼人が話しかけてきた。
「『昨日の曲』、昨日の夕方、社長に決裁に回したっす。準備はいいっすか?」
「早いね。俺の方も、少しずつ作っていかないとな。」
さすがにデモを全部作れないと判断した寿人は、その中から優先的にデモを作りたい曲をピックアップして作った。その中には、星を見て頭に流れた曲も含まれていた。そして、この日出来たデモと資料をまとめ、将の所へと行った。
「昨日、中山君と野崎君から話は聞いた。信じてよかったし、矛盾をおそれずに苦言を呈してよかった。そう思わせてくれたな。おかえり、『室井徹彦』。」
「橋野にも、心配かけてしまった。すまなかった。」
「構わない。今日あたり、その『復活の第一歩』の資料を見せてもらえると期待していた。早速出来上がったようだな。」
将は、その資料を見てこう言った。
「デモ、今日は一緒に聴こうか。小橋、今日はお前と聴きたい気分だ。いいか?」
「ああ。」
そして、寿人は将とこの日作ったばかりのデモを聴き始める。飛ばし飛ばしだったが、一通り再生した後、将は拍手をした。
「正真正銘、『室井徹彦』が戻ったな。」
そう言うと、将は大きく息を吐いた。そして、こう続けた。
「そうだ、昨日中山君から提出された『響義浩』向けに作られた曲のデモ、聴いてみるか?」
「聴いておきたい。中山さんがどう言うかわからないけども。」
「そこは、社長の俺が判断したことだ。一社員の中山君には文句は言わせない。」
そうして、将はその曲のデモを再生する。寿人は聴き終わるとこう言った。
「まるで『挑戦状』だな。無理はないよな、今まで辛い思いをさせてしまったんだから。」
「確かにな。まぁ、『響義浩』ならば、簡単に歌えるだろう。そう、俺は期待している。」
「頑張るよ。」
寿人は少し間を空け、こう小声で呟いた。
「兄さん。」
将に聞こえないように呟いたつもりだったが、将は、その呟きを聞き逃さなかった。
「誰が『兄さん』だ?」
「ああ、聞こえてしまったか。」
寿人は、観念してこう続ける。
「橋野、お前のことだよ。」
「訳が分からない。あれか?京子と結婚でもするのか?俺が義理の兄になるから。」
「そう言う事じゃないよ、橋野。俺さ、この一件で『愛和音』のみんなは俺の『家族』だよなって思ったんだ。年齢からして、橋野は『お兄ちゃん』だろう?俺にとってさ。」
「お前が、『弟』か。イメージにないが、まぁ、そういう視点もなかなか面白いな。」
寿人と将は笑った。将は一通り笑った後、こう言った。
「さて、これからお前は、最低でも2曲はレコーディングすることになる。心づもりしておいてくれ。中山君からの曲を、『B面』、今日提出された曲の中の1曲を『A面』としてCDを発売する予定だからな。」
「中山さんの曲が、『B面』?」
「中山君たっての希望だ。気持ちを察してやれ。そして、その2曲の歌唱、手を抜くんじゃないぞ。」
「わかった。『いつも通り』全力で歌うよ。そして、中山さんの気持ちを汲んで、今回はアレンジも頑張ってみるよ。」
その後、すぐに寿人が歌う曲は決裁になった。そうして、レコーディングされた2曲は2030年4月に発売された。
A面収録の「黄金の絆 / 響義浩」は、寿人が星の力を得て作ったキラキラした印象の曲で、B面収録の「夢は終わらない / 響義浩」は、隼人が寿人向けに作った高揚感を煽る曲だった。寿人が作り出した「黄金の絆」の弾けるような歌声や、「夢は終わらない」の心をかき乱すような歌声は、長期にわたり聴衆の心を掴み、ジェランでは、3ヶ月連続月間1位を記録した。