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第五楽章:混迷

◆意欲

後日、「炎の想い / 響義浩 & 早川新」のレコーディングが行われた。この時は、寿人と隼人は一緒にレコーディングする事になっていた。一発で納得のいく物が録れた後、隼人は寿人に話しかけた。

「小橋部長、俺、正直またここに、レコーディングブースに入れるとは思わなかったっす。社長とかにも感謝だけど、小橋部長にも感謝っす。ありがとうございました。」

「どういたしまして。なんだか、前にも聞いた言葉だね。この部屋の事。」

「確かに、言ったかもしれないっす。それで、この一件で、俺、わかったことが、あるんす。」

「何?」

「小橋部長の作る曲って、すげぇ曲はすげぇ曲なんすけど、それだけじゃない、俺たち歌手が歌いやすい曲を作ってくれるって。まあ、『炎の想い』は、違ったけど。あ、いや、俺だけかな?歌いやすいって思ってるの。」

「どっちでもいいけど、そう言ってくれて嬉しいよ。」

「俺、小橋部長が目標になったっす。」

「急に?」

「すげぇ歌手だし、すげぇ作曲家だし、すげぇ音楽の人だなって思いはじめてきたんす。」

「面と向かってそう言われると、照れるな。」

「だから、まずは、歌手として小橋部長に肩並べられる奴になりたいって思ってるっす。」

「お、期待してるよ。でも、なんだか歌唱部のベテランたちには申し訳ないような気がするな。」

「神谷部長とか、京子さん、先輩たちがあっての歌唱部だから、尊敬しようと思ってるけど、その先があるんす。」

「『先』?」

「俺もすげぇ歌手になったら、次は、すげぇ作曲家になってみたいって思ったんす。いつか、小橋部長から、曲作り、教えてもらいたいっす。ダメっすかね?」

寿人は、その一言に順と若い頃の自分が過ごした日々を思い出した。

「俺の教え方が下手だったらどうしようかな?でも、やらせて欲しい。」

「マジっすか?ありがとうございます!!」


◆多忙への道

寿人は、隼人に将来曲作りを教えることになったと将に報告。それは、了承された。

それにより、寿人は、制作部での活動と歌唱部での活動、そして、いつか隼人の曲作りの「先生」としての活動もするようになる。それを改めて自覚した寿人は、音楽に囲まれる生活にとてつもない幸せを感じた。

「これは。」

寿人は、短く呟いた。


◆感謝の

2019年は、大晦日を迎えた。

「いやー、途中、来てもらえなかった時はあったけど、27年間、しょうちゃんとひーちゃんには本当に世話になったよ。」

マスターは、そう言った。蜂蜜をとかした白湯を飲みながら寿人がさびしさを全面に押し出した声を上げる。

「もう1年とか頑張れないかな?マスター。」

「ごめんねー、ひーちゃん。」

「でも、決めた事だもんな。さびしいけど、受け入れるよ。」

「ありがとう。」

そのやり取りを酒をゆっくり飲みながら静かに聞いていた将が口を開く。

「俺は、もっと長いよな。もう、30年以上だ。20歳になった記念に飲みに行った店のバーテンダーやってて、マスターも若かったな。懐かしい。」

「嘘言っちゃいけないよ、しょうちゃん。未成年で飲みに来ちゃった時、あったでしょ?」

将は、苦笑いした。そして、観念したようにこう言った。

「あの時は、バーテンダーだったマスターに追い出されたっけな。酒一滴も飲めずにな。」

「うん。でも、そうだねー、しょうちゃんとはそんな出会いだったね。本当に懐かしいねぇ。」

「還暦過ぎても頑張ってたけど、急に店閉めるなんて、何かあるんだろう?けど、名前と一緒で答えないんだろうな。マスターは。」

「借金取りに追われてるって言うことにしておいて。」

「そんな事ないだろう?」

「まぁね。」

マスターはふにゃりとした。寿人は、呟くように言った。

「じゃあ、マスターにも捧げようかな?」

「え?何?ひーちゃん、プレゼント?」

「そんなとこだ。」

将は寿人の周囲にプレゼントのような物がないことに疑問の目を向ける。その視線に寿人は返した。

「本当は、橋野だけの『プレゼント』だったんだけどな。」

「俺?」

更に将は、周囲を見回す。寿人は、自らののどを指差してこう言った。

「俺の、ここにある。」

「首?」

寿人は苦笑いした。

「色々、先を読むのが得意なのに、わからないのか?橋野。」

「すまない。」

「謝ることはないよ。その『先を読む』お前に助けられて、『響義浩』は、復活した。」

その名前に、将は思いが溢れた。

「『響義浩』か。『君のための翼』を初めて聴いた時の衝撃は、今でも覚えている。『こんな歌声を持つ男がこの世にいたのか』って。」

寿人は、少し笑いながらそれに返した。

「あれは、あの歳だったから通用したんだけどな。」

「次の『月下の心』で『響義浩』に心を掴まれた。あの曲と同じ男が歌っているのか?と。それは本当に俺の人生を変えたんだ。その歌声を持つ男と同じ会社で働いている。ならばその誇りを持って仕事にあたらなければとそれまでの勤務態度を改めた。」

「そう、だったのか。俺の、デビュー曲から聴いて、そして、好きになってくれてたんだな。ありがとう。」

「それなのに。」

将は、言葉を紡げなくなる。寿人は、こう声をかけた。

「わかってる。わかってるよ。でも、俺はお前と中山さんのおかげで『響義浩』を取り戻すことが出来た。ありがとう。」


◆プレゼント

寿人は、マスターにとある依頼をする。

「カラオケのリモコンとマイク、くれないか?」

「いいよ?」

寿人の元に望んだ物が運ばれてくる。寿人は、それを確認しながらこう言った。将は、「まさか」という顔をする。

「中山さんには、引退撤回の演出で恩返ししたと思う。だから、次はお前の番だ。」

カラオケの検索で、寿人は「響義浩」を探し当てる。

「今夜は、橋野、お前だけの為に歌うよ。ついでって言っちゃなんだけど、マスターにもお疲れ様って意味を込めて歌をプレゼントするよ。」

「ひーちゃん、素敵だねぇ。なんだかごめんねー、しょうちゃん。独り占め出来なくて。」

将は、引き続き言葉が紡げない。マスターに対して、嫌ではないと首を横に振った後、寿人を凝視するのが精一杯だった。

そんな状況下ではあったが、寿人は立て続けに「響義浩」の曲を入れ始める。

「感謝を込めて、俺のデビュー曲『君のための翼』。」

ポップな雰囲気の曲中、48歳となった寿人には似合わないあどけない歌声が紡がれる。

「響、義浩っ。」

将の声がそれにとける。寿人は、初めて見る将の涙に内心驚きながらも、微笑みを絶やさずに「君のための翼」を歌い上げた。

立て続けに入れられたカラオケは、間髪入れずに次の曲、「月下の心」の前奏を流し始める。

一転、しっとりとした曲が流れ、寿人はひたすら滑らかな歌声をそれに乗せる。

将の涙は、寄せては返す波のようだった。

途中、入れたカラオケの曲が途切れる。その度に寿人はまだ歌っていない自らの曲を入れ、再び歌い続けた。

カラオケは、「愛の貯金」を経て「炎の想い」まで厳選された曲を流し続けた。その度に、寿人の歌声は変化する。「変幻自在の歌声」、それは、「響義浩」の為にある言葉と言っても過言ではない。そんな歌声がバーを支配下に置く1時間が終わった。

「聴いてくれて、ありがとう。橋野、そして、マスター。」

「いやー、贅沢な時間だったよ。ひーちゃん。」

「小橋、いや、こちらこそ、ありがとう。まさか、こんなに間近で響義浩を聴けるとは。嬉しいの一言だ。夢のようだった。」

寿人は、それに微笑んだ。

やがて、2020年が訪れた。

「ああ、年が明けてしまったな。」

将が言った。それに、マスターは声をかける。

「明けましておめでとう。しょうちゃん、ひーちゃん。」

寿人は、言った。

「こちらこそ、おめでとう。そろそろ、帰ろうか?」

「そうだな。」

寿人と将は、このバーでする最後の会計を済ました。さびしそうな寿人と将にマスターはこう声をかけた。

「あ、しょうちゃんらさー、『年末歌の総選挙』とか観ないで、ほぼ毎年大晦日にはここに来てくれてたよね?来年からさ、観てやりなよ。愛和音の歌手、出てるんだから。」

「そうだな。来年からは、鑑賞会でもするか。小橋。」

「また、2人で飲みながらな。橋野。」

「そうしたらいいよ。」


◆それぞれの年明け

1月6日、愛和音は何ら変わりなく仕事始めをする。

将の訓示から始まり、 「良質な音楽」の為に社員全員が働き始める。

一方、ジェントル。夕方、社長室に1人の男の姿が。

「ちょっと気が変わったんだよね。その席、僕にくれない?」

「道紀。今更戻って来るとは。40年近くここにいなかった男にここを渡すわけいかないよ。」

「親父、90、100までやるつもり?なんかの途中で倒れたら、色々迷惑かかるんじゃない?」

南山は、少し考えた。そして、この年で83歳を迎える事を急に自覚した。しかし、首を縦に振る気は起きなかった。

「親父は、会長とかになればいいよ。それでさ、僕の事、あーでもない、こーでもないって、ぎゃあぎゃあ言えばいいんだよ。」

「わかった。そうしよう。来年からのジェントルをとりあえず、頼もうか。」


◆寄り添う音楽

愛和音は、CDの発売ラッシュをこの年予定していた。将は、社長室にて1人気合いを入れる。

「気を抜かず、行くぞ。」

そんな中、世界的な感染症が流行。ここ日本も例外ではなかった。閉塞感が漂う中、「眠らない希望 / 早川新」は、人々の心を鼓舞した。

愛和音内でも感染者が発生。その社員は、長期の離脱を余儀なくされる。その穴を埋めるため、将は他の部署に「例外的な遊軍」の輩出要請をした。

「俺、やるっす。」

歌唱部にて「遊軍」に隼人が立候補。

「やったことあるし。」

部長の陽太は、心配した。

「『あの時』とは中山君の状況は違うんだよ?」

「大丈夫っす。去年の『罪滅ぼし』っす。」

「そう言うことならば送り出すしかないね。無理しないように頑張って。」

「了解っす。」

一方、「遊軍」に加わるべきと考えながら、寿人は、多くの曲で世の中を鼓舞したいという思いの下、制作活動に専念すると決め、制作部の部屋に籠った。部下たちは、時に自作のマスクをかけながら、寿人の制作活動を支えた。すると、寿人の頭の中に新たな「自分が歌いたい曲」の構想が浮かぶ。そこで、呟いた。

「昔の俺、今その曲は、歌えない。ごめん。」

将から指示のあった「闇夜の影 / 水島良典」の「原曲」と「その曲」を1枚のシングルに収録しようと思い、制作活動を続けた。

それと平行して引退撤回前に作った隼人の新曲や、「炎の想い / 響義浩 & 早川新」を発売。更に、この世を励ますような曲を城野博、滝野宮子、佐崎佑里、西森音彦、泉詩音、早川新、他の歌唱部の歌手の持ち味に合った形で制作部が曲を作り、発表していく。

音楽は、感染症を連れてはいかない。そんな信念の下、愛和音は人々の不安に歌で寄り添った。

そんな中、寿人は、「闇夜の影 / 水島良典」の「原曲」、「未だ見ぬ道 / 響義浩」と新たに浮かんだ世の中への激励曲、「もう一度 / 響義浩」を室井徹彦単独作として発表する。寿人は、他の歌手向けの曲のアレンジに忙しくしていた治行や要に配慮し、久しぶりに自らの2曲は自らでアレンジをした。

「未だ見ぬ道 / 響義浩」は、静かな曲だった「闇夜の影 / 水島良典」に酷似した曲だったが、安心感の塊というような雰囲気の曲だった。その曲中、寿人の歌声は優しく響く。

一転、「もう一度 / 響義浩」は、力強く、寿人の歌声も燃えるような物だった。

その「未だ見ぬ道 / 響義浩」を「A面」、「もう一度 / 響義浩」を「B面」としたシングルは、ジェランで2ヶ月連続月間1位を維持。

また、先に発売した「炎の想い / 響義浩 & 早川新」もジェランの週間順位が20位をなかなか下回らない成績を修めた。


◆新たな展開

懸念した「盗作指摘」は口コミ等で小さく取り上げられた程度で大きな問題にはならなかった。将は、寿人にこう言った。

「ほぼ指摘無しというところか。」

「ああ、そうだな。」

「それはそうと、響義浩の『もう一度』に世界が注目している。」

「え?そうなのか?」

「アメリカの配信系のチャートで、下位ながらランクインした。日本の曲としては、最上位だ。」

「へえ。」

「なんだ、その反応の薄さは。」

「すまない。今、新しい曲が頭の中で生まれてて、そっちの方に気をとられてた。」

「そうだったか。では、『記録』に戻れ。」

「ああ。」

お互い、マスク越しだったが、嬉しそうな表情を交換した。寿人が社長室を後にした後、将は独り言を言う。

「ああ、『響義浩 & 早川新』の反響が凄いという事を伝え忘れた。だが、新たな『良質な音楽』の気配を消す訳にもいかないな。」

寿人の頭の中で生まれるその「良質な音楽」は、止まることを知らなかった。連日のように別な曲が生まれ、その「記録」が追いつかない程だった。

その中で、自らと隼人が共に歌う曲も生まれた。

「『あれ』の時は、特別だったが、許可、出るだろうか?」

すぐに将に話しに行きたかったが、曲の「誕生ラッシュ」が足止めした。寿人は、幸せを感じながら、スコアノートを「新生児」でいっぱいにした。時に会社に泊まりながらそれを続けた結果、「ラッシュ」は、落ち着いた。

大量に生まれた曲たちは、理沙の書いた曲と共に将の元へ。「決裁待ち」状態となった。そして、将はとある曲の資料を見た瞬間、ニヤリとし、呟く。

「わかってるじゃないか、小橋。」

ある日、寿人と隼人が社長室に呼ばれた。

「小橋、よく『これ』が求められてるってわかったな。」

「え?そんなのは、知らない。」

将は、多少肩透かしを食らったような様子だったが、すぐに姿勢を直し、言葉を返した。

「わかっていてくれた方がよかったが、まあ、いいか。『無償の情熱』を、最優先で発売する。準備を始めてくれ。」

「え?何で俺呼ばれたんすか?」

「ああ、すまない、中山君。これは、小橋と中山君のデュオ曲だからだ。実はな、『響義浩 & 早川新』バージョンの『炎の想い』の反響が凄いもので、この態勢での新曲が求められている。これを期に2人は歌手ユニットを作れ。恒久的に活動することとする。」

寿人と隼人は顔を見合わせる。そして、声を揃え「2人で?」と言った。

「それでだ、『響義浩 & 早川新』ではないユニット名をつけて、それを『デビュー曲』として強く押し出すことも考えている。2人でそのユニット名も考えてくれ。」

寿人は、難色を示した。

「曲のタイトルをつけるのは得意だけど、そう言うのは、なんとなく苦手って言うか。『響義浩』はジェントルにつけてもらったし、『室井徹彦』もお前に考えてもらった。」

横でそれを聞いていた隼人が言った。

「じゃあ、俺が考えるっす。」

「良いのを頼む、中山君。」

「助かるよ、中山さん。」

レコーディングに向けて、2人は「無償の情熱」を練習し始める。同時進行で、隼人は「ユニット名」に考えを巡らせた。そして、呟いた。

「これ、面白そうだな。」

そして、レコーディング前日、隼人は寿人に声をかける。

「小橋部長、ユニット名決まったんで、社長に言いに行くんすけど、行けます?」

「ああ、行くよ。」

そして、将に「それ」は伝えられた。

「俺と小橋部長のユニット名は、数字で『24』って書いて、『ツーボイスフォーユー』ってどうっすか?」

寿人はそれに驚く。将は噛み締めるように少し沈黙した後、こう言った。

「それで行くぞ。よく思いついたな。『2人の声はあなたのため』か。そして、その『24』は『24時間』ってことか?」

「そうっす。」

「凄い、中山さん。『4』はフォー。『For』と『Four』。俺一生かけても思いつかないよ。」

「決まりだな。さて、『無償の情熱』の話は終わりだ。明日のレコーディングはベストを尽くせ。そして、24の次の展開だが、小橋が全面に出る曲を用意してくれ。『炎の想い』、『無償の情熱』共に中山君が表に出る展開だからな。別展開も見せたい。」

「わかった。」

「え、俺バックコーラス的な物、出来るかな?」

「それも、中山さんの『これからの為』になるかもね。」

「最初は、お手柔らかにお願いしますよー、小橋部長。」

11月に入り、「24」の存在が世間にオープンになる。これは、「響義浩」と「早川新」のユニットで、この月に新曲が発売されると様々な媒体にて伝えられた。

その後の11月25日、「無償の情熱 / 24」は満を持して発売された。早川新がメインの旋律を歌い、響義浩が強力なバックアップを務めるこの曲は、聴く者の涙を誘った。また、「24」は、響義浩49歳、早川新26歳という23歳差の年の差歌手ユニットとしても話題となった。


◆驚きの時

12月21日、とあるニュースが飛び込む。来年の6月にジェントルの社長が交代すると。現社長、南山源太の後任は、一人息子の南山道紀が務めるとのこと。その顔写真に、将と寿人は衝撃を受ける。別々の所でその一報を受けた2人は、「マスター!」と声を上げた。

衝撃の事実は、将を動揺させた。マスターと呼んでいた男性、南山道紀に対しての罪悪感が心を支配する。

「俺は、どうしたら。」

そんな一言を寿人の目の前で呟く。

「マスター、いや、道紀さんの事か?」

「道紀さんは、俺がジェントルの社員だって知ったら、『会社の悪口、いっぱい聞かせてよ。』って言ってくれた。だから、甘えて色々言った。南山の息子だって知らなかったから、道紀さんの前で、道紀さんの父親に対して数々の暴言を吐いてしまった。どう、謝罪していいか。道紀さん、身内への侮辱を、どんな気持ちで聞いてたんだろう。」

頭を抱える将。寿人はそれに返した。

「道紀さん、いや、やっぱり俺にとっては『マスター』だな。そのマスター、優しいから、下手な謝罪でも聞いてくれるよ。冷静になれよ、橋野。お前らしくないな。『いつものお前』で謝ればいいと思うよ?」

将は、一旦無言で気持ちを整理した後、こう言った。

「ありがとう、小橋。そうだな、そうしてみる。思えば、道紀さんと連絡先交換してなかったな。社長就任後、一旦俺個人の名前でジェントル宛に謝罪文を送る。」

「無事、届くといいな。」


◆果たせなかった約束

2020年12月31日。将は、自宅にて1人だった。そして、独り言を呟いた。

「小橋、道紀さんの前で約束したこと、出来なかったな。」

将の目の前には、いつもの夕飯とつけられているテレビ。そのテレビの画面には、寿人。響義浩として、「未だ見ぬ道」と「もう一度」をメドレーで披露し、場を圧倒していた。

「『年末歌の総選挙』への出演、おめでとう。響義浩。」

そして、寿人が歌い終わると、テレビを消し、諸々の作業をした後、年越し前に就寝した。

一方、寿人は久しぶりの歌番組の出演に緊張していた。響義浩としての出演は終わったが、この後にも、愛和音の歌手は出演する。理沙や隼人らが控えていた。そして、そのステージに室井徹彦として出演し、ピアノやギターを演奏する予定だ。そんな中、寿人は呟く。

「橋野、今年のは観てるかな?観てないだろうな。それにしても、『鑑賞会』、やりたかったな。」


◆先生

2021年1月、寿人は順に電話をしていた。

「先生、実はですね、俺、『後輩』に曲作りを教えることになったんですよ。早ければ、今月中に教え始めようと思ってるんですが、先生は、どんな心構えで俺に曲作りを教えてくれたんですか?」

「感慨深いね。小橋君がねー。心構え?小橋君、覚えてるかな?最初に会った時に僕が言った言葉を。」

「『音楽界のため』ですか?」

「はい、正解。その心構えで行ったよ、僕は。」

「わかりました。あの、教える時、先生のスタイル、真似していいですかね?」

「それは、小橋君のオリジナルでいって欲しいね。」

「そうですか。どう教えようか色々考えてて、その手をとってもいいかな?って思ってたんですけど。」

「小橋君の音楽を小橋君なりに教えた子の音楽を僕は1曲でも聴いてあの世に行きたいね。」

「そんな不吉な事、言わないでくださいよ。長生きしてください。あ、あと、先生には先にお知らせしたいと思ってることがあるんですよ。」

「なんだい?」

「『君のための翼』と『月下の心』、歌い直しと俺なりのアレンジを加えて発表したいと思ってます。折角先生が権利を売ってくれて、橋野が買ってくれたので。」

「おー、楽しみにしてるよ。」

「ああ、先生の声聞いたら、先生とも合作の曲、作りたくなってきました。合作作るんだったら、いつも野崎さんとなんで。」

「80近くで体にガタが来ててね。無理そうだよ。」

順は、そう言うとはっとする。そして、言葉を続けた。

「そう言えば、愛和音の制作部、あれから人増えてない気がするんだけど、気のせいだよね?」

「気のせいじゃないですよ。ずっと俺含めて4人でやってます。」

「ああ、なんてことだ。橋野君は、よっぽど小橋君を潰したいみたいだね?」

「いやー、もう慣れましたよ。」

「何を考えてるのかね。橋野君は。まあ、体に気をつけて、制作部の仕事と歌唱部の仕事、そして、『先生』の仕事、頑張ってね。僕は、応援することしか出来ないけど。」

「いいえ、ありがとうございます。」

そして、1月末。

「今日から中山さんに曲作り、教えたいと思うんだけど、いいかな?」

「え?急っすね。俺、まだ歌の方、極めてないのに。」

「それを待とうと思ったんだけど、こういうのは早い方がいいと思ってね。実は、俺が曲作りを学び始めたのは、23歳の時で、中山さんは、今年27歳だろう?こう言うのもなんだけど、4年遅いんだよ。」

「そうなんすか。わかったっす。元はと言えば、俺から頼んだことだから、始める時期は、小橋部長に合わせなきゃっすね。」

「まあ、俺はその時歌えなくなってたから、『学び』に専念できたって一面もある。それを言ったら、歌いながら学ばなきゃならない中山さんは、大変だと思うから、負担のないようにするつもりだ。ついてきてくれ。」

「ありがとうございます!」

それから、ノートを寿人は隼人に渡した。

「まずは、これの書き方から学んでもらおうかな?俺、結構苦戦したんだ。」

「えー、そうなんすか。」

それから、寿人はスコアの書き方の手ほどきを始めた。

「えー、あー、めんどくさいっすねー。」

「頑張って?中山さん。」

「家とかに持ち帰ってやってみるっす。」

「よし、その家に、楽器はある?」

「歌の練習の時に使うキーボードはあるっす。」

「じゃあ、そのキーボードで、気持ちいい和音を探してそのノートに記録して来てね。」


◆感染対策の名の下

そんな中だった。愛和音の制作部と歌唱部にとある通達が届いた。世間では未だ感染症が猛威を奮っていて、リスクを避ける為に、出勤調整が図られるとのこと。

寿人は一覧を見つつ言った。

「『小橋班』は、林さん、京子さん、中山さんとこのメンバー。月曜日、水曜日、金曜日に出勤か。」

隣で見ていた陽太も一覧を見つつ言った。

「『神谷班』は、野崎さん、今井さん、加藤君、石名君とこのメンバー。火曜日、木曜日、土曜日に出勤ですね。」

補足に「班を越えての交流は電話等の手段を含め禁ずる」と書いてあった。寿人はそれを読み、笑った。

「橋野、電話で感染なんてしないのにな。警戒し過ぎだ。」

陽太は柔らかい表情で言った。

「確かに。でも、よく考えたら、休みが増えますね。」

「けど、神谷さんたちと会えなくなるのは、さびしいな。早くこの感染症、治まらないかな?」

「そうですね。それまで、頑張りましょう。」

「ああ。」

寿人と陽太は、マスク姿でお互いの健闘を祈り合った。


◆進化の早さ

出勤調整は、4月1日から開始された。幸い、寿人という「先生」と隼人という「生徒」は班分けで別れることがなかったため、「授業」はそれ以降も可能な状態は続く。

「やっぱり、スコア書くの面倒っす。」

「俺と同じか。」

「だから、こんなアプリ使ってみたっす。」

「ん?」

隼人は、自らのスマホを寿人に見せた。そこには、きちんとしたスコアが書かれていた。

「そうか、今、こんな時代か。」

「これだったら、俺、出来るっす。」

「じゃあ、それで頑張ってみるか?」

隼人は、アプリで作曲した曲を寿人に聴かせた。寿人は周囲をきょろきょろしつつ、それの出来に耳を傾けた。

「なんだか悔しい程、いい出来だよ。」

「マジっすか?」

「うん、でもな、それは俺と中山さんだけが見る物にしてくれ。」

「え?」

「実はな、俺が『生徒』時代にさ、1曲だけ他の人に曲、盗まれたんだ。」

「ホントっすか?」

「時間ある時に、俺の『未だ見ぬ道』と、水島良典の『闇夜の影』を聴き比べてみてくれ。あんな思い、中山さんにはして欲しくない。まぁ、愛和音には『盗みそうな人』は、いないけど、これからの参考に念のため伝えておくよ。」

「わかったっす。」

少し、間を空け、寿人はこう言った。

「もう一度、中山さんの曲、聴かせて?」

隼人は、スマホでその曲を再び再生した。

「俺より、凄い人になるかもね。」

「え?」

「俺さ、最初の『授業』の時、何も作れなかったんだよ。」

「えー?信じられないっすー。」

この日は、なごやかな「授業」を設けることが出来たが、寿人と隼人は多忙の身。それ以降、徐々に「授業」の回数は、減少の一途を辿ることになった。


◆社長同士の電話

2021年6月30日、ジェントルの社長は交代した。二代目社長、南山道紀64歳は、昨日まで父である南山源太が座っていた椅子に座る。

「座る仕事かー。」

そう呟く。そして、手元に届いている決裁文書や郵送物に目を通す。

「しょうちゃん?」

愛和音の名前はなかったが、「橋野将」が送り主の手紙に目が止まる。それを開封し、読み始める。

「株式会社ジェントル新社長南山道紀様、社長就任おめでとうございます。お祝いの言葉と共に謝罪の言葉をお伝えしたく、手紙を送ります。存じ上げなかった事とは言え、過去、貴殿の身内である先代社長の南山源太様への数々の侮辱の言葉を申し上げてしまいました。大変申し訳ありません。二度とこのような事がないよう言動に細心の注意を払って参りますので、度重なるご無礼をお許しください。橋野将」

道紀は、笑った。

「深刻に受け止めすぎだよ。しょうちゃん。」

道紀は、愛和音の電話番号を調べ、電話をかけた。

一方、愛和音。将は、内線電話を取った。電話番の男性社員から言われた名前に顔が引き締まる。

「繋いでくれ。」

そう言った後、すぐに将はこう言った。

「お電話代わりました。橋野です。」

その言葉に返ってきたのは、多少の時間をかけた笑い声だった。

「み、南山社長?」

将はそう返すのに精一杯だった。その一言にやっと笑い声が収まる。そして、道紀の言葉が返ってくる。

「他人行儀過ぎて、笑っちゃったよ、しょうちゃん。」

「いや、他社の社長ですから。それに、あなたに度々失礼な事をしてしまった身ですし。」

「あー、手紙読んだよ?しょうちゃんさ、僕ね、何も『不快な思い』してないんだけど?こんな謝罪文出されても困るの。ああ、お祝いの言葉、ありがとね。」

「いいえ、本当におめでとうございます。」

再び短く道紀は笑った後、こう言う。

「しょうちゃん、他人行儀、さびしいよ。1年半ぶりに話せたって言うのにさ。親父の悪口言った事とか僕がジェントルの社長になった事に萎縮しないでよ。」

「第一、あなたをどう呼べばいいかわかりません。」

「『道紀』でいいよ。」

将は、抵抗感でなかなか呼べない。

「こっちが『他社の社長』を『しょうちゃん』呼びしてるんだから、別にそのくらいしてもいいでしょ。まあ、話したかった事、話すよ?」

「はい。」

「どこから説明すればいいかわからないけどね、僕さ、しょうちゃんと一緒で『南山源太』が大嫌いなのよ。ハタチそこそこで女孕ませてさ、その女捨てた男なんか好きになれるわけないじゃん?僕が15の頃お袋亡くなったからさー、仕方なく引き取ってもらったけど、いやー、親子仲最悪。大嫌いも大嫌い。」

「そう、だった、のか。」

「お、『口』戻ってきたね。んでさ、ジェントル立ち上げんだって時に『手伝え』って僕もジェントル入ったけど嫌で嫌で1年で辞めた後、しょうちゃんと会ったんだよねー。まだバーテンダーだった頃さ。そしたらしょうちゃん、ジェントルの社員だって聞いたんで、憂さ晴らしに親父の悪口聞かせてもらいたかったのよ。楽しかったよ?」

「なら、その、俺の懸念していた事は、本当に『ない』と思っていいのか?道紀さん。」

再び短い道紀の笑い声。

「『さん付け』かー。しょうちゃん、まだ声色が固いねえ。まあ、いいけど。逆に、親父にしょうちゃんとかひーちゃんが嫌な思いさせられた事、あるよね?それを親父の代わりに謝りたいね。」

「いや、そこまでしてもらうのは、気が引ける。」

「うん、こっちも、こんな手紙は、『気が引ける』のよ。と言うか、総合音楽会社の社長の先輩として指導してもらいたいね、しょうちゃんには。」

「いや、どこまで指導出来るか。」

「一応、世襲だけども、既定路線ではない社長交代なのよ。ちょっと1個やりたい事があったから無理矢理親父を引き摺り下ろしてまでこの座に就いたけども、イロハがわかんないからさ、色々教えてね。携帯番号、伝えるからさ、しょうちゃんの携帯番号、教えてよ。」

そして、返答も聞かずに道紀は、自らの番号を伝えた。そして、将はその状況に番号を教えないわけにもいかず、自らの番号を伝えた。

「ありがとね。しょうちゃん、これからも仲良くしてね。」

「ああ、だが、今の俺は道紀さんに偉そうに総合音楽会社の社長論を語れない身かもな。」

「えー?しょうちゃん、なんか悪い事してんの?」

「まあ、そんな所だ。企業秘密とさせてもらうが。」

「それでも、ご指導よろしくね。じゃあ、失礼するよ。」

「ああ、失礼する。」

電話を切った後、ジェントルの社長室で道紀の呟く声が響く。

「ああ、本当にばれてなくてよかった。お袋似の顔に感謝だね。それにしても、しょうちゃん、何の『悪い事』してるんだろうね。」


◆懸念

2022年を迎え、愛和音から室井徹彦アレンジの「君のための翼」や「月下の心」が1枚のシングルとして発売される。ジェラン週間初登場3位と健闘した。また、その結果は隼人の新曲に1位、京子の新曲に2位を与え、花を持たせた感じではあった。

「ん?」

寿人はとある水曜日、ランキングをぼんやり見ていたが、何か不穏な空気を感じた。

4位から10位を見て、愛和音からの曲は「小橋班」の曲で後はジェントルやアメージングサウンドなどの曲が入っていた。

「あれ?「神谷班」の曲は?」

11位以下に陽太と音彦の新曲があった。理沙や詩音らの曲は、発売されなかったのか入ってはいない。

「『城野博』と『西森音彦』の曲、そんなに駄目だったのか?ちょっと林さん、音鳴らしていい?」

「いいですよ?部長。」

制作部内にある音源を再生する。寿人の体中に冷たい物が走った。

「野崎さん、これは、まずいよ。」

次第に寿人を焦燥感が襲う。

「部長も、感じましたか?今井さんの卓越したアレンジで『聴ける』範囲まで曲のクオリティは引き上げられてるけれど、ベースの曲と詞が壊滅的なんですよ。同じ編曲者として、今井さんの苦労が忍ばれます。」

「ああ、部長として、目が行き届いてなかった。今からでも『合作』で野崎さんを助けたい。」

だが、理沙に連絡を取ることは将に禁じられたままだ。そんな中、「授業」を受けに来た隼人が制作部の部屋に入ってくる。

「小橋部長、時間大丈夫っすか?」

寿人は上の空で答えない。

「どうしたんすか?」

それに治行が助け船を出す。

「部長?中山さん、来てますよ!」

「え?ああ、ごめん。」

「全く、なんすか?なんかあったんすか?」

寿人は、理沙の現状を説明。将にどうこの件を話すか思案していたと隼人に伝えた。

「やー、俺、神谷部長と加藤先輩の曲、いいと思ってたんすけど、やっぱ『作る側』からしてみたら駄目なんすか?」

寿人は苦々しそうに頷いた。

「中山さんがそう感じてるのなら、まだ、大丈夫なのかもしれない。今からでも修正出来る。橋野に掛け合って、野崎さんを助ける。」

「『眠らない希望』の時は、野崎さんに世話になったんで、今日の『授業』はいいすから、社長のとこ、行ってきていいっすよ?」

「ああ、いい『生徒』に恵まれたな俺は。嬉しいよ。ごめんな、行ってくる。」

そして、社長室へ入る。


◆拒絶

「野崎さんの事だが、まずくないか?」

その寿人の言葉に右の眉をピクリとさせる将。

「で?」

「班分けを廃止か、俺を週に1日でもいいから、『神谷班』の方に出勤させてくれ。今の野崎さんの曲は、『壊滅的』だ。補助したい。今なら間に合う。」

「わかったか。」

「お前、わかってるのなら、なんで手を差し伸べない?」

「十分、手を差し伸べている。今井君の存在をそばに置くことで。」

「その今井さんが潰れたら最悪の事態が起きるぞ?愛和音から『低質な音楽』が生まれてしまう。」

「そんな物が生まれたら、決裁を下ろさない。現に、廃案になっている『神谷班』の曲は出ている。」

「は?じゃあ、尚更俺を補助に向かわせてくれ。詞か曲を出すことで野崎さんの負担を軽くしてやりたい。」

「その必要は、全くない。」

寿人は、過去自らが言った暴言が口を出そうになる。

「『お前の事がわからなくなった。』と、言いたそうだな?小橋。」

「橋野!」

2人の視線は険悪に絡み合う。寿人は、歯ぎしりを短くした後、こう言った。

「『廃案』になった曲をすべて俺に渡せ。修正して、『神谷班』に歌ってもらう。」

「余計な事だ。渡さない。」

遂に寿人は、将の机を1度殴るように叩いた後、社長室から飛び出して行った。


◆再びの無力感

制作部に戻る途中、寿人は隼人との「喧嘩」の日々を思い出す。

「今度はどっちが売ったのか、どっちが買ったのかわからない『喧嘩』を、橋野としてしまう。駄目だ、そんな事をしたら。」

一旦大きく深呼吸し、制作部の部屋に入った。すると、まだ隼人がいた。

「中山さん?待っててくれたのか?」

「いや、今の歌唱部に戻りたくないだけっす。」

「何かあったのか?」

「神谷部長がいない『小橋班』の歌唱部は京子さんが一応、部長みたいなもんなんすけど、俺の引退撤回が決まった頃から京子さん、俺に冷たくなっちゃって。だけど、この『班分け』が始まった頃から超嬉しそうにしてて、なんだか近寄りがたいっつうか、なんつうか、居づらいんす。今の歌唱部。」

「なんとなく、わからないでもないな。京子さんの行動の理由。」

「長年の付き合いっつうヤツっすか?」

「まあ、そんな所。俺と橋野絡みで、色々態度変えるんだよね、京子さん。いつまでも『お兄ちゃん好き』なのは微笑ましいって言ってやった方がいいのかな?」

「へぇ、そうだったんすか。」

「そう。それはそうと、今から手抜きでいいから『炎の想い』、一緒に伴奏なしで歌ってくれないかな?」

「急っすね。いいっすけど。」

そして、制作部の部屋内でフルコーラスの「炎の想い」が1回だけ歌われる。歌い終わった後、治行が拍手し、こう言った。

「貴重なアカペラバージョンの『炎の想い』、聴かせてもらいました。」

「急に歌ってごめん、林さん。そして、ありがとう、中山さん。『喧嘩』しない決意、固められた。」

「え?社長と喧嘩したんすか?」

「これからしそうなったんだ。『あの時』を思い出すために一緒に歌ってもらった。おかげで『喧嘩』にブレーキかけられそうだ。」

「力になれてよかったっす。」

「けど、社長室では、何も出来なかったよ。」


◆様々な変化

翌日、自宅で「休み」をとっていた寿人。仕事の事を考えると、将の事まで思い出し、苛立ってしまいそうだと思った。なるべくそれを考えないように他愛のない時間を過ごそうとテレビをつけ、夜の時間帯に放送されているバラエティー番組を観賞した。

「えー、あのドラマ、そんな裏話あったんだ。最終回近くで脚本投げ出すなんて、脚本家もどうしたんだ。逆に興味あるな。『塚本海』。カイさん、もし会えたら話、してみたいな。」

つい、テレビ画面に話しかけてしまう寿人。そのテレビから、

「この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りしました。」

と、女性の声で読み上げられる声が流れ、画面には、「ジェントル」の文字が。

「ジェントルが、スポンサー?なんだか、初めて見るな。もしかしたら、道紀さんの新しいやり方なのかもな。」

番組が終わった後も、テレビをつけっぱなしにしてぼうっと観ていると、数々のCMが流れる。そのCMのひとつに、寿人は身を乗り出した。

「か、和子?」

女性用のシャンプーのCMだった。多少の加齢感は否めなかったが、離婚し、別れた頃のままの可憐な姿で1人、笑顔でテレビの画面に映っていた。

梅村晴香は、復活していた。そして、寿人は思い出す。「やらかした若い頃の日々」を。

「あの日々を、橋野相手に繰り広げるわけには、いかないな。」

そう心に決め、テレビを消した後、翌日の金曜日の出勤に向けて就寝した。


◆変わらぬ状況

金曜日、寿人は、治行にこう言った。

「林さん、おとといの話は、とりあえず忘れて欲しい。まあ、無理な話だとは思うけど、いたずらに社内の不安を煽るのはどうかとも思ったんだ。今の状況は、すぐには変えられそうもないから、とりあえず、『小橋班』の『良質な音楽』を1曲でも多く出して、『神谷班』の『低迷』をカバーできるようにするから、林さんの素早いアレンジが肝になってくる。頼んだよ。」

「わかりました。部長。」

「よろしく。中山さんにも同じ事、伝えてくるから少し席を外す。」

そうして、歌唱部の部屋へと足を運ぶ。

「中山さん、ちょっと話いいかな?」

「なんすか?」

そうして、寿人は隼人を屋上に連れ出した。

「おとといの件、不安を感じたよな。正直。」

「『ない』って言ったら嘘になるっすね。」

「一旦忘れてくれ。そして、俺も忘れる。」

「ちょっと無理っす。あれから言われた曲を改めて聴いてみたんすけど、そういう耳で聴いたら変だったっす。野崎さんを悪く言う事になるんすけど、あの曲歌わなきゃならなかった神谷部長と加藤先輩はかわいそうって思ったっす。」

「ごめんな、そんな心配かけるような事言って。」

「でも、俺も社長を動かせる言葉持ってないんで、小橋部長の言うとおり、一旦この事は忘れるっす。」

「すまないな。」

「けど、何か思いついたら協力するから、いつでも声かけてくださいよ。俺、何でもやるっす。」

「ありがとう。」


◆窮状

2023年が始まった。感染症に対する世間の対応がこの5月に変わるとの知らせが日本中に広がる。

寿人は、思った。「班分け」は、感染症対策ではない将の何らかの悪い考えに基づく措置だと。よって、5月を過ぎても「班分け」は終わらない。すると、「念のため」という言葉を用いても「班分け」の状態が継続する事で制作部と歌唱部以外の部署の社員の不安が煽られてしまうのではと考えた。

将に話しかけるのは、言い争いになる危険性があると感じたが、一言だけ言いに行った。

「橋野、お前、また役員報酬の自主返納をやるつもりか?」

しかし、将の考えを変える一言にはならなかった。

そんな中、発売された「神谷班」の曲である「泉詩音」の曲を寿人は聴いて、危険を冒す覚悟を決める。

「今井さんが辛そうだ。このままでは駄目だ。野崎さんを近いうちに助けに行く。」

理沙が書いた曲は、アイディアが枯渇したという事を示すように、過去作の「焼き増し的」な曲だった。

寿人は、いつか隼人が言ってくれた「何でもやるっす。」との一言に甘えることにした。

2023年2月13日の月曜日、寿人は隼人にこう言った。

「明日の『休み』、予定ある?」

「特にないっすけど?」

「明日も『出勤』してきてくれ。」

「え?」

「俺も『出勤』する。そして、中山さんは、制作部の部屋の前で橋野が万が一入ってきそうになったら、阻止してくれ。」

「わかったっす。」

寿人は、少し間を空け隼人に言った。

「はっきりわかったよ。これは、大がかりな橋野の『野崎さんいじめ』だ。」

「ええ?野崎さん、社長に何かしたんすかね?」

「それはわからない。」


◆即興の

翌日、14日の火曜日を迎えた朝、寿人と隼人は社屋の社員通用口で待ち合わせしていた。寿人に遅れて隼人が到着。2人が揃うと、制作部の部屋を目指す。

その途中、寿人は隼人に指示した。

「橋野には、必ず『事』が終わったら小橋は出てくる。だから、邪魔しないでくれと言ってくれ。矢面に立たせてすまないが。」

「心配しないで行ってきてくださいよ。」

「あと、橋野が中山さんに不利益な事を言ってきたら、俺に脅されてやってると言ってくれ。」

「えー?それは出来ないっす。」

「いいから、頼んだよ。」

そのうち、制作部の部屋にたどり着く。寿人は部屋へと入って行った。「神谷班」の制作部の2人は、2年近く見ることが叶わなかった制作部部長の姿に驚く。要が立ち上がりながら声を上げた。

「部長!」

理沙は、憔悴しきった顔をして寿人を見た。そんな部下たちに寿人は声をかける。

「野崎さんお疲れ様。そして、今井さんもよく頑張った。」

理沙は、次第に涙を流し始める。

「ごめんなさい。」

そう、弱々しく言いながら。寿人は、両肩を撫でるようにして理沙を励ます。

「辛かったね、2人共、辛かった。」

「ごめんなさい、わかってしまいましたか。」

「部長として、そこは見ておかないとね。俺は、そんな状態になったことないから、想像でしか物を語れないけど、きっと野崎さんは復活出来るって信じてる。」

「小橋さん。でも、私駄目かもしれません。」

「『駄目』なんて言わないでくれ。今の野崎さんが一番言っちゃいけない事だ。こう言うのは、禁じ手だけど、『相手』も相当ふざけてるから、やらせてもらおうと思う。今からピアノで演奏する曲を野崎さんが作った曲として出していい。それを少しずつ決裁に回していって、その時間でアイディアを貯めて、また、野崎さんの曲が出来るようにしてくれ。」

「そんな、そんな事、出来ません。」

「やるんだ。負けちゃ駄目だ、野崎さん。理由はわからないけど、野崎さんは橋野に『いじめられている』。俺は、今の俺は野崎さんの味方だ。」

そう言いながら、寿人はピアノの前に座る。

「録音してもいい、頭の中にイメージだけ入れてもいい、今から演奏する曲を全部野崎さんの曲として『盗んで』くれ。」

理沙は、それを受け入れる覚悟を決め、いつもはデモを作るレコーダーを録音状態にした。絞り出す声で理沙は言った。

「お願いします。」

寿人は、力強く頷くと即興で曲を演奏し始める。10曲、おおよそ30分をかけ1コーラス分ずつ演奏していった。理沙は、流れ続ける涙を何度も何度も自らで拭う。


◆廊下での戦い

一方、制作部の部屋前。隼人の耳にわずかながら寿人の即興曲が届く。

「これ、小橋部長?何やってんだ?」

そう呟いた。やがて、隼人はその旋律に聴き惚れていく。

「いい曲だ。」

と、言った瞬間だった。将の姿が見えた。

「やべぇ。社長だ。」

隼人は、顔を見られないように将の方向に背を向ける。しかし、後ろ姿でもそこにいる社員が隼人とわかった将は接近して来る。その気配を隼人は感じ、観念したように将に顔を見せる。

「中山君、何故今日『出勤』している?」

「野暮用っす。」

そんな将の耳にも寿人の即興曲が届く。

「制作部で、何を行っているんだ?」

隼人は、迷いを抱えながらも、寿人からの指示を遂行した。

「小橋部長、なんかやってるんすけど、終わったら出てくるって言ってたっす。社長は、入って来ないで欲しいらしいっす。」

「やはり、これは小橋の曲か。」

将は、制作部内部で行われていることを察した。それを止めるため入室しようとする。隼人は、将を引き止める。

「離せ、中山君。」

「さっき言ったっすよね?小橋部長は、やることやったら出てくるっす!待ってください!!」


◆終わった

隼人が将に抵抗していると、寿人の即興曲の演奏が終わる。

「録音、大丈夫?」

寿人は理沙に確認する。早足でその音源を再生。きちんと録音されていた音源を確認した寿人は、こう言い部屋の扉の前へと移動した。

「この瞬間から、その10曲は野崎さんの曲だから。頑張って詞をつけて決裁に回してね。」

部屋の扉を開けた寿人の目の前には、隼人に捕まえられている将の姿があった。

「橋野、やはり来ていたか。」

「小橋、余計な事を。」

「ありがとう、中山さん。」

そう声をかけられた隼人は、将を解放した。すると、将は寿人の腕を掴み社長室方面に足を向けた。

「小橋部長!」

隼人の叫びに寿人は答えた。

「お疲れ様、後は帰っていいよ。」

寿人は、将に無理矢理連行され、隼人の返答を聞くことは叶わなかった。

「こんなんで、帰れるわけないっしょ。」

理沙は、騒ぎに気づき部屋から出た。すると、既に寿人の姿はなく代わりに隼人の姿を見た。

「中山さん。」

「野崎さん、お久しぶりっす。」

「小橋さん、は?」

「社長に連れて行かれました。」

「そんな!」

理沙は、追いかけようとした。

「危ないっす。行っちゃ駄目っす。それよりも、野崎さんは曲、ちゃんと作ってください。小橋部長が心配なら、俺が代わりに行くっす。」

「お願いします。」

隼人は、社長室へと向かった。


◆襲う狂気

寿人は、無抵抗な状態で社長室へと連行されている間、心の中で自分に言い聞かせていた。「絶対に橋野とは『喧嘩』をしない」と。

社長室に入る2人。将が口を開く。

「何を考えている?」

「『それは、こっちのセリフだ。』って言いたいところだけど、そういうのは、無しにして素直に言うよ。野崎さんを『助けて』いた。お前が追い詰めている野崎さんを。」

「何故だ?俺がやろうとしている事をわかっているのなら、何故俺の邪魔をする?」

「今回のお前の行動に、納得してないからだ。せめて、理由を説明してくれれば俺の行動も違ったのに、いつまで経っても説明がない。」

「説明したところで、お前は『野崎側』に立つと想定されたからな、永久に説明するつもりはなかった。だが、説明しなくとも『野崎側』に立ち、今日、お前は俺を怒らせた。ようやく『チェックメイト』した『社内の敵』を生き返らせようとしたんだからな。」

「野崎さんが、お前の敵?野崎さんは、愛和音の社員で俺の制作部での部下だ。大切にするべきだろう?」

「当初、愛和音の制作部は、永久にお前1人の部署にするつもりだった。」

「は?」

寿人の心に怒りが沸き上がる。しかし、「喧嘩」をしないという誓いを再び思い出し、自らを諌める。そんな寿人に将は演説をする。

「愛和音を立ち上げる際、3本の柱があった。『響義浩の再生』、『室井徹彦の音楽を世に送る』、そして、『他社製含む良質な音楽で世の中を埋め尽くす』だ。」

将は、鋭い目で寿人を見ながら続ける。

「そうやって、愛和音を俺とお前の『城』として一代限りの伝説の総合音楽会社にするつもりだった。」

目を丸くする寿人。

「『響義浩の再生』は、果たせた。『他社製含む良質な音楽で世の中を埋め尽くす』は、ほぼ達成した。だがしかし、『室井徹彦の音楽を世に送る』は、『雑音』が入った。『野崎理沙』という存在によって。しかも、最初期にな。」

「なら、野崎さんを最初から採らなければよかったんじゃないか?」

やっと寿人は反論できたが、将の演説は止まらない。

「弱い立場の会社だった当時の愛和音には、野崎を拒絶する選択肢はなかったさ。その後も、もっともらしい『排除できる理由』が、野崎にはなかった。だが、3年前に『その兆候』が見られた。野崎単独作に『綻び』が見え始めた。」

「お前、まさか?」

「すぐ辞めさせる手もあった。しかし、俺が『雑音』に耐えてきた約20年を考えたら、野崎を追い詰めるだけ追い詰めてからクビにするのが適当と考えた。ちょうど、感染対策という隠れ蓑が使えたからな。」

再び将は寿人を睨むように見つめる。

「そして、最近、野崎は『行くところまで行った』。今井君には、多大な負担をかけたがな。『綻びだらけの音楽』を『良質な音楽』に引き上げる力を持っているのは、今井君だからな。ああ、話が逸れた。お前の支援を野崎が受けられないようにしたと言うのに、今日、お前は支援に来た。お前は大切な愛和音の社員だが、少し『罰』を受けてもらおうか。」

「何をするつもりだ?減給か?謹慎か?」

将は、机の引き出しからとある鍵を取り出す。そして、再び寿人の腕を掴み、社長室から出ていく。外には隼人が立っていた。

「中山君、帰っていなかったのか。」

将は冷たく言った。隼人は身が凍るような思いをしたが、寿人の状況に「何かが降りかかる」事を確信した。

「中山君、即刻帰宅しろ。」

そう言った後、将は寿人をどこかに連れて行った。隼人は、気づかれないようについて行った。すると、倉庫に寿人が入れられる光景を目にした。

「俺の命令に反した事をここで反省しろ。しばらくここから出さない。」

と、将が言ったのも聞こえた。無情にも倉庫の鍵は、施錠される。将は、施錠を確認した後、すぐに社長室に戻って行った。

「まずい、あそこは。」

隼人は、焦った。しかし、社長に噛みつく勇気が出ない。一旦、歌唱部にいる陽太の力を借りようとしたが、「被害」が大きくなると考え断念し、ただただ、そこに立ち尽くした。


◆倉庫の中

「橋野。」

寿人は呟いた。そして、将からの情報と自分の気持ちを整理し始める。

「あいつ、俺をどこまでこき使うつもりだったんだ?曲を作るのは俺1人で、俺が歌えるようになったら、それに加えて歌手活動もさせるつもりだったのか?なんて奴だっ。」

社長室にて怒鳴りたかった事を最初に叫んだ。

「でも、橋野をああまでしたのは、俺の責任でもあるのかもしれない。だからと言って、野崎さんをいじめていい筈がない。」

自分は、どうしたらいいか。しばらく答えは出なかった。すると、倉庫の扉の向こうから隼人の声が聞こえた。

「大丈夫っすか?小橋部長?」

「中山さん!」

「なんとか、早くここから出られるようにするっすから、待っててください!」

「そんな、危ない、中山さん!」

「大丈夫っす!俺、ある意味『愛和音の問題児』すから!!」

その言葉を言った後、隼人はどこかへ行ってしまったようで、呼び掛けに応じなくなった。

「中山さんも、守らなきゃ。考えるんだ、俺。」


◆奔走

隼人は、「休み」の京子に電話をする。

「京子さん、今から会社来れないっすか?」

「行けるけど、なんで私が行かなきゃならないのよ?場合によっては、行かないわよ?」

「小橋部長、社長に倉庫に入れられちゃって、助けたいんす。社長の妹さんの京子さんなら、説得出来ると思って。本当は、こっちにいる神谷部長を頼った方がいいのかもですけど、巻き込みたくなくて。」

京子は鼻で笑う。

「それで?私は巻き込んでいい方の人なのね?」

「すんません!来てくれたら、何でもするっす!!」

「お兄ちゃん、今のお兄ちゃんと話、したいし、行くわ。あなたは何も私にする必要はないわよ。ちょうど近くにいるから、すぐにつくわ。」

「ありがとうございます!京子さん!!」

隼人は、社員通用口に移動する。京子を迎える為に。すると、10分程度で京子の姿が。

「京子さん!」

「お兄ちゃんは?」

「多分、社長室っす。」


◆兄妹

京子は、傍らに隼人を伴いながら、社長室に断りもなしに入室した。

「京子?何故お前まで。」

「あら、妹がお兄ちゃんに会いに来ちゃいけないの?」

「確かにそうだが。何の用だ?」

「聞いたわよ?中山君から。最近やっとお兄ちゃんが昔のお兄ちゃんに戻ったなぁって思って私、とっても嬉しいのよ。その事を顔見ながら伝えたかったのよ。」

「昔に、戻った覚えはない。」

京子は高らかに笑った。

「真面目くさった時間が長かったから、無自覚なのね?それでもいいけど。お兄ちゃんは、私の大好きだった『弱い者いじめ』で遊んでた頃のお兄ちゃんに戻ったわ。」

京子は、椅子に座る将をそのまま背後から抱き締める。

「そのままよ?お兄ちゃん、そのまま、沢山の人をいじめて?私の大好きなお兄ちゃん。また、一緒に『弱い者いじめ』、楽しもうよぉ。」

「俺が、誰をいじめている?ああ、野崎か。」

「せいかーい。そして、今日は小橋でしょ?今度は、誰にする?」

「小橋?」

将は、はっとした。

「頭に血が昇っていた。」

京子は、「ふふ」と短く笑った後、こう言った。

「小橋の作る曲、また歌いたくなったから、早く出して?」

「わかった。」

倉庫の鍵を持ち、将は社長室から飛び出して行った。隼人もそれに続く。それを見送る京子はこう呟いた後、引き続きの「休み」のため社屋を後にした。

「あー、楽しかった。さびしいけど、いじめっ子のお兄ちゃん、バイバイ。」

一方、寿人は倉庫の鍵が開く音を聞く。

「え?」

そして、扉が開くと、将と隼人の姿が見えた。

「出ろ。」

「あー、よかったっす。」


◆受け付けないもの

寿人は、隼人にまず声をかけた。

「ありがとう、中山さん。」

「いいっすよ。でも結局、俺1人じゃ何も出来なくて、京子さんの協力をもらったんす。」

「わかった。後でお礼言っておくよ。」

「じゃ、俺帰るっす。お先に失礼します。」

隼人の帰宅を見送った後、寿人は、将に向き合った。

「話、いいか?」

「ああ。」

寿人と将は、社長室に戻った。すると、将は寿人に頭を下げた。

「頭を上げろ、橋野。」

「すまなかった。」

「謝る相手が違う。俺じゃない。もう一度言う、頭を上げろ。」

言われた通り、頭を上げた将に寿人は引き続き話をする。

「謝罪すべき相手、誰だかわかるな?」

「ああ、わかってる。野崎、君だ。」

「そう言うことだ。その野崎さんをお前は『雑音』と言った。野崎さんは『雑音』じゃない。野崎さんが愛和音に来た理由、なんだったか覚えているか?」

「『室井徹彦の音楽に感銘を受けたから』だったな。」

「そう、俺が『室井徹彦』としてここにいたから来た。だから、野崎さんの存在は『室井徹彦の力の一部』なんだ。そう言った意味でお前が言った愛和音の1つの柱『室井徹彦の音楽を世に送る』は、『雑音』なく達成していると解釈出来ないか?」

「確かにな。そう言われればそうだな。」

「そこまで考えろよ、橋野。俺に自画自賛のような事を言わせるな。」

「悪かった、小橋。」

「橋野、俺と中山さんの『喧嘩』の一件のように、社内全体を不安に陥れる可能性のある事をした自覚はあるか?」

「ある。それを最小限に留めることは考えていた。」

「なら、いい。けれども、中山さんはじめ制作部と歌唱部の社員には不安がつきまとった2年だったと思う。」

「確かにな。だから、今回も何かしらの『懲罰』を俺自身にも与えなければならないと思って、野崎君と刺し違える覚悟でこの件は進めていた。」

「愛和音の社長は、だいぶ前にも言った通り、お前しか考えられない。けれど、また役員報酬の自主返納をして、それで終わりって言うのも納得出来ない。だから、この件に振り回された社員それぞれが気の済むまでお前の謝罪を『受け付けない』と言う『懲罰』を俺から与えたい。いいか?」

「わかった。パワハラで訴えられて一発退場まで覚悟していたが、それを甘んじて受け入れる。」

「よし、決まりだな。勿論、俺はしばらくお前を許すつもりはない。だから、その間妙な動き、例えば今回色々動いてくれた中山さんに不利益があったと俺が感じたならば、俺は愛和音を辞める。」

「小橋。」

将は、しばらく絶句したが、再び口を開く。

「それは、一番の『懲罰』だな。大いに反省する。」


◆感謝と謝罪

そして、将は「班分け」を2023年5月8日より廃止する事を決めた。

2月15日水曜日、「小橋班」の出勤日であった。寿人は、歌唱部の部屋へと行き、京子に声をかけた。

「昨日は、ありがとう。おかげさまで色々解決できたよ。」

「そう、ならいいけど。お礼は、言葉だけじゃ足りないわよ。助けてやったんだからまずは私向けの曲、作ってよ。それも最強の曲をね。お兄ちゃんから聞いてない?」

「いや、橋野も昨日はいっぱいいっぱいで忘れたんだろうな。」

「珍しいわね、お兄ちゃん。」

京子の顔は、多少のさびしさをたたえていた。

「やっぱり、さびしい?」

「な、何の話よ?」

「橋野、『ワル』じゃなくなったから。」

京子は、短く笑った後こう話した。

「色々、わかってたのね?そうよ、私、人をいじめてるお兄ちゃん、大好きよ。でも、そんな事に喜んでる歳じゃないでしょ?今年55って。それに、あなたが変えたお兄ちゃんも、『アリ』だって、逆にこの件で思うようになったのよ。」

更に、京子はため息をひとつついた後、続けた。

「もー、すんごくさびしいから、慰めてよ?私の新曲で。まあ、そんな話だからよろしく。」

「これから制作部に戻って作るよ。最高の慰めの曲。」

翌日の2月16日木曜日、「神谷班」の出勤日、将は制作部の部屋へと足を運んだ。

「野崎君、今井君、先日までの私はどうかしていた。すまない。しかし、2人の気が済むまで、私を許す必要はない。それが、これまでの私への『懲罰』と言う事になっている。本当に申し訳なかった。」

将は、頭を下げる。先に要が反応した。

「やりがいは、ありました。この経験は、この先役に立つと思います。けれども、正直言えば、辛いものがありました。その事を忘れないでください。」

「わかった。」

そして、理沙が口を開く。

「まずは、こちらからも謝らせてください。曲が作れなくなった事、反省しています。でも、今回の社長からの措置は、苦しかったです。お察しの通り、おととい小橋さんから『曲』の提供がありました。小橋さんは、私が作った曲として世に出せと言いましたが、到底それは出来ません。これに詞をつけて私と小橋さんの久しぶりの『合作曲』として出すことを許してください。」

「構わない。決裁に上がる事を楽しみにしている。」

「よろしくお願いします。」

2月17日金曜日、「班分け」廃止の通達が制作部と歌唱部に届いた。


◆安寧の日常

5月8日を迎えた。制作部の部屋には4人が集結した。寿人は、部長として朝、話をする。

「また、この4人で曲作りが出来るのは、嬉しい。頑張っていこう。」

3人は、安堵したような、気合いを入れ直したようなそんな表情で頷いた。それを見つつ、寿人は続けた。

「実は、今日から制作部の人員が増える。俺や野崎さんのように、歌唱部との掛け持ち社員だけど、中山さんがここに配属される。今、歌唱部の方に行ってるけど、しばらくしたら、挨拶に来ると思う。迎え入れてやってくれ。」

理沙がそれに返した。

「私も、歌唱部に顔を出したいので、入れ替わりになりますね。その前に、皆さんに聴いて欲しい物があります。」

理沙は、ギターを手に取り、短く曲を演奏した。治行が首を傾げながら言う。

「なんて曲名ですか?」

それに要が返す。

「多分、それはないと思います。」

寿人が安堵の目で理沙に話しかける。

「新しい野崎さんが作った曲だろう?なんとか聴ける物だと思う。この調子だよ。」

「ありがとうございます。じゃあ、歌唱部にも行って来ますね。」

理沙の言った通りに、入れ替わるように隼人が制作部に来た。

「まだ、『修行』の段階すけど、『研修生』って立場での配属になったっす。先月社長から言われた時は、びっくりしたやら嬉しいやらで、いやー、忙しかったっすよー。」

「よろしくね?中山さん。」

寿人は言った。それに隼人は返した。

「そういや、小橋部長、歌唱部に挨拶は?」

「あ、俺も行かないと。野崎さんは掛け持ち長いから『顔出す』ってさっき行ったけど、俺、歌唱部の自覚、あんまりないな。見習わないとな。」

そうして、寿人は歌唱部に行った。

「歌唱部の皆、挨拶遅れてすまない。通常勤務でもよろしく。」

「小橋さん、お久しぶりです。」

陽太の笑顔が寿人を迎えた。

「神谷さん、2年ぶりだね。また、よろしく。」

そんな寿人に、京子が声をかける。

「小橋部長?午後からのレコーディング、忘れてないわよね?なんだか、挨拶遅かったみたいだから忘れてたんでしょ?レコーディングの事、大丈夫?」

「図星だよ、京子さん。『そっち』は、忘れてないから、さすがにね。」

「じゃあ、よろしく。」

そして、午後になった。京子への感謝の曲「そばにいてそばにいる / 滝野宮子」のレコーディングが始まる。寿人は、京子の相変わらずの鼻にかかった甘えた歌声に安心感を抱いた。伴奏も含めて、清流を思わせるこの1曲は、後日発売され、ジェランでは週間初登場2位を獲得。その翌週、1位に順位が上がるという結果を残した。

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