第四楽章:試練
◆試験
それから、1年後のことだった。毎年恒例の採用試験の時期がやってきた。寿人は制作部部長として、陽太は歌唱部部長として面接に臨んでいた。その合間、2人は短いながらも会話を交わす。
「今年の応募者は、いつになく多いですね。」
「やっぱり、愛和音の歌手になりたい人が多いんだよ。それにしても、橋野は、制作部の募集、林さんと今井さん採用してから1回もやらないな。」
「そう言われれば。」
「まあ、いつかやってくれるだろうと思うけどな。」
「さあ、次の人、呼びましょうか。」
補助の女性社員に2人は目配せし、応募者を呼んでもらった。程なくしてドアがノックされる。寿人と陽太は同時に「どうぞ。」と言った。
「失礼します。」
そんな応募者に着席を促す寿人。陽太は、こう声をかける。
「まずは、自己紹介をお願いします。」
「中山隼人です。よろしくお願いいたします。」
一同、礼をした。それから、一般的な質疑応答をした後、愛和音独自の質問を寿人から投げ掛ける。
「弊社は、総合音楽会社です。そのシステム上、もし、歌手としてうまくいかなかった場合、他の部署の補助員として働いてもらうことがあります。その辺はどうお考えですか?」
「喜んでやりたいと思います。」
それを聞き届けた後、陽太が質問を続ける。
「更に、弊社はデビューの時以外の宣伝は無いに等しいです。スタートダッシュをうまくやる自信はありますか?」
「頑張ってやります。」
そして、歌唱部志望の応募者全員に求められている歌声の録音を最後に行う。
補助の女性社員に促され、隼人は設置されているマイクの前に進んだ。間もなく録音が始まる。
雑音等が入らないように寿人や陽太、補助の女性社員は静かにそれを見守る。
荒削りながら元気な歌声が録音されていく。やがて隼人が歌い終わった。
感想等の言葉はなく、お互いへの礼の言葉を交わした後、面接は終了した。
そんな一連の作業を何人分も行い、採用試験は終わった。
「お疲れ様でした。」
「お疲れ。」
寿人と陽太は、女性社員やお互いに労いの言葉を掛け合った。
ここから2人は採用に足る応募者を絞り込み、社長の将に提案しなければならない。この年の歌唱部に採用予定の歌手は1名。応募者は42名。2人の「悩み」の時間が始まった。
◆決定
寿人は翌日から、録音した応募者の歌を陽太と共に繰り返し聴いていく。2人は、率直な感想を述べ合った。口火を切ったのは、寿人。
「まずいなぁ。当日も思ったことだけど、『光る』人がいない。」
陽太もため息をつきながら言う。
「質疑応答の内容も似たり寄ったりで、困りましたね。」
悩んだ末に寿人は決める。
「橋野が許せば、採用なしにしよう。」
陽太もそれに同調。
「断腸の思いですがね。」
その足で2人は将の元へ行った。そして、その旨を伝える。
「本気で言ってるのか?」
将の冷たい声が社長室に響いた。
「『即戦力』に頼りすぎてはいないか?時には人材を磨いてやることも必要ではないか?お前たちが『不要』と感じた応募者の中に、『原石』が混ざっているかもしれない。それを逃したら、愛和音の損失だ。」
返す言葉を失っている2人に、追い討ちをかけるように将は続けた。
「そういう目で、そういう耳で、選考をやり直せ。いいな?」
「鬼だな。」
寿人はそう返し、陽太と共に社長室から退出した。そして、大きなため息をつき、陽太にこう言った。
「もうすぐ子供が産まれる幸せモードの神谷さんに苦しい思いをさせたくない。俺1人で選考やり直す。」
「そんな、大丈夫です。小橋さんこそ、曲作りに影響出ませんか?」
そう言われた寿人は、少しの無言の後、こう返した。
「これ以上言うと、色んな所に悪口言いそうだ。やめとこう。」
「確かに。まあ、社長の言うこともわからないでもないので、頑張りましょう。」
寿人は、頷きながら心の中で「42人の歌声、全部聴いてみろよ。橋野。」と呟いた。
それから、3日をかけて寿人と陽太は、「原石」と思われる応募者を3人まで絞り込んだ。陽太は、寿人に声をかけた。
「お疲れ様です。」
「いや、神谷さんこそ、お疲れ様。さて、橋野に報告だな。」
そして、再び報告すると、将は淡々と答えた。
「いたんじゃないか。『原石』。」
陽太がそれに返した。
「はい、後は社長の判断をお待ちします。」
寿人は、それに返さなかった。
「お疲れ様。後は私が決める。」
そして、2010年1月、この年で16歳になる中山隼人の採用が決まった。寿人は、その知らせを受け、こう言った。
「その人か。」
◆原石の入社
隼人は、採用の連絡に喜んだ。そして、家族たちにその事を知らせた。
「俺、愛和音に入る!歌手になる!!英梨、凄いだろ?」
「隼人、うん!凄い!頑張ってね!!」
その時、電話で隼人が入社の知らせを伝えた相手は、田中英梨。隼人の2歳年下の恋人だった。
迎えた2010年4月1日、愛和音は13回目の入社式を執り行った。
「歌唱部に配属になった中山隼人です。よろしくお願いします。」
音彦と詩音が入社した時には、デビュー曲が準備されていたが、隼人には無かった。陽太からの提案で、ある程度の「研修」を行ってからその状態に合わせ制作部が曲を作り、デビューさせることになっていたのだ。
「これからが、大変そうだな。神谷さん。」
「協力の申し出、ありがとうございます。小橋さん。」
「俺、俺たちの『研修』で中山さんが変化していくのを見てみたいって気持ちになってきた。だから、頑張るよ。」
陽太は、頷いた。
◆残酷な結果
寿人と陽太が協力し、隼人の「研修」を行うが、半年経っても面接時の「荒削りで元気な歌声」は変わらなかった。その中でも、ゆったりした部分では多少「聴ける」所もあると認められた事から、それに賭け、寿人はデビュー曲を作る事を決める。それは、ある懸念を抱きながらだったが。その事で、寿人は将に事前に断りを入れに行った。
「中山さん、愛和音初のスタートダッシュ失敗の新人歌手になるかもしれない。曲の方で俺の出来る最大限のフォローは入れるが、そんな予感がするから、事前に言っておく。」
「わかった。小橋の『全力』を与えてやれ。ここまで来たんだ、お前にはもう文句は言わない。後は、中山君個人の資質だな。」
その将の言葉を受け、曲作りに取りかかった寿人。そこに陽太が来た。
「社長は、なんて?」
「『覚悟』はさせておいた。多分、もう神谷さんにも橋野は文句言わないだろう。」
「もっと、僕に『育てる力』があれば、小橋さんに曲作りで負担をかけずに済んだのにな、と、思いますよ。」
「そんなに重く考えないでいいよ。もう、この件は俺が預かったようなものだから。あ、仕事中だけど、産まれたばっかりの娘さんの事、考えてやりなよ。」
陽太は、複雑な顔をして制作部の部屋から出ていった。
その後寿人が悩みに悩んで作った隼人のデビュー曲は完成。2010年12月15日、隼人のデビュー曲で落ち着いた雰囲気の「見つめる価値 / 早川新」は発売された。いつもよりも強めの宣伝を愛和音は仕掛けたが、結果は残酷なものだった。デビュー曲がジェラン週間初登場36位、愛和音始まって以来の事態だった。
◆勘違い
隼人は、歌唱部の部屋で動揺していた。そして、暴言とも取れる言葉を発した。
「何で?何で、愛和音に入れば、すげぇ歌手になれるって思って来たのに?何でこんな結果なんだよ?」
京子はその場にそぐわない笑顔でそれに答えた。
「かわいそうね、中山君。部長は頑張ったけど、小橋制作部部長様が曲作り、失敗しちゃったのよー。本当にかわいそう。」
更に、京子は隼人の頭を撫でてやった。その様子を見て、陽太は厳しい目を京子に向けた。
「京子さん、その言葉、撤回して。」
「悪いけど、嫌よ。」
「京子さん!」
最もベテランの2人の険悪な雰囲気に、音彦と詩音は浮き足立つ。音彦は、陽太の所へ、詩音は京子の所へ行き、同じような事を言う。
「部長、落ち着いてください。」
「京子さん、喧嘩しないでください。」
陽太と京子の視線は、険悪なまま絡み合い、沈黙が流れた。そして、陽太が怒りの色を抱えたまま、部屋を出ていった。京子は、勝ち誇った。
「私の勝ちねー。中山君、これからも頑張るのよー?」
「はい!京子さん!!」
その言葉を受け、京子は満面の笑みを隼人に見せた。
◆重苦しさ
陽太は、怒りを鎮めようと宛もなく社屋の中を歩き回った。そうしている間に、まずは制作部に顔を出さなければと思うようになった。そして、それを実行した。制作部の部屋では、4人が揃っていた。
「小橋さん、うちの中山君が『室井徹彦』の看板に泥を塗るような事をしてすみませんでした。」
寿人は、急な陽太からの謝罪に目を白黒させた。
「いやいや、頭、上げて?神谷さん。こっちこそ、中山さんを『生かす曲』が作れなかった事、謝らなきゃならないんだし。すまない。」
重苦しい空気のまま、2010年は、大晦日を迎えた。寿人と将の姿は、マスターのバーにあった。将の表情は、どこか固かった。寿人はそんな将に謝罪から入った。
「中山さんの事、すまなかった。俺の力不足だ。」
将は、一瞬の笑みの後、首を横に振った。
「俺、変な顔してるか?」
「ああ。」
「そうか。隠せないものだな。」
「本当に。」
寿人は「すまなかった。」と言いたかったのだが、将が言葉を被せてきた。
「『それ』じゃない。」
寿人の顔に「?」の文字が浮かぶ。
「社の問題でもあるかもしれないが、もっと俺個人の問題で気が重くてな。単刀直入に言えば、来年の4月から、俺は愛和音にいられなくなった。」
「えっ。愛和音を辞めるのか?」
寿人は、動揺した。将は話を続ける。
「いや、そう言う話ではない。しかし、あの社長室はカラになる。半年前くらい前の話だが、『全国音楽生産業連合会』いわゆる『全楽連』の事務局長に就任することが決まった。まあ、引き続き、愛和音の社長でいることは変わりないが。」
将は、寿人に向き合い、頭を下げた。
「中山君の事で精一杯だと思ったから、お前には相談せずに決めた。すまない。」
「橋野。いや、あの件に専念させてくれてありがとう。そんな事があったのか。」
「本当に、すまない。こっちの件は、質が悪いことに、常勤なものでな。事務局長の仕事が終わったら、夜間でもいいから、社に戻って決裁とかの作業をする。間に合わなかったら、休日にでも出てやるつもりだが、急ぎで判断しなければならないことは、小橋、お前に判断を任せる。それに対して文句は言わないし、何かあった場合は、俺が出来る範囲でリカバリする。そういうつもりだから、4月からの愛和音を頼むな。」
寿人は戸惑った。
「俺で、俺でいいのか?」
「お前しか考えられないだろう?愛和音構想の段階から関わってきたんだから。」
「そうだったな。」
マスターは、将に新しい酒を提供しつつ、一言かけた。
「しょうちゃん、大変だねぇ。頑張ってよ。応援するからね。」
「ありがとう、マスター。」
将はその酒を一口飲むが、うなだれた。そして、こう要望を出した。
「次、烏龍茶にしてくれ。マスター。」
「えー?」
すると、将は酒を一気飲みする。
「俺の個人的な感情で、マスターの酒を不味いって感じたくない。」
「しょうちゃん。」
マスターの顔が神妙なものになっていく。寿人はそんな将にかける言葉を失った。要望通りに烏龍茶が提供されたのを将は確認すると、独り言のように話をし始めた。
「ひと月くらい、断り続けたんだ。だが、電話、毎日かけて来なきゃならなかった全楽連の事務局の職員、断り続ける俺に電話かけるの嫌だっただろうから、引き受けた。もう、嫌な思いさせたくなかったから。」
将は頭を抱える。
「そんな思いをさせた南山は、許せない。」
寿人は、その名前に反応。
「南山?何で?」
「4月から全楽連の代表理事は、今はただの理事の南山に交代するんだ。昇格人事ってやつだな。」
「え、まさか。」
「これは、南山からの『仕置き』なんだろうな。まさか、『ライブの妨害』の次の一手が、全楽連に関わって来なかった俺を事務局長として据えて拘束する事だなんて思わなかった。今の事務局長にも申し訳ない。次期代表理事の一存でその座を追われるんだからな。」
将は、烏龍茶を一口飲んだ後、こう続ける。
「ああ、見たかったな。お前と神谷君が苦しんで絞り込んで、俺が『原石』として選んだ中山君が磨かれて輝く様を、あの社長室で、毎日、見たかったな。」
将は、そう言うと、立ち上がった。
「今日は、ここまでにする。マスター、今年も世話になったな。来年もよろしく。」
「こっちこそ、ご贔屓ありがとね。」
そして、将は支払いをした後、寿人を置いてバーから出ていった。
「マスター、俺、橋野に何も声、かけられなかった。」
「ひーちゃんだけじゃないよ。大丈夫。」
2010年は、終わりを告げた。
◆訓示
2011年1月4日、愛和音は、「仕事始め」を迎える。社長の将は、毎年恒例の訓示を行う。そこで4月からの全楽連の事務局長就任の件を社員に伝えた。
動揺する社員たち。将は、寿人に目配せし、前に立たせた。そして、将は訓示を続ける。
「4月からの『社長代行』は、制作部部長の小橋に任せる。急を要する判断が必要な事が出てきた場合、小橋に報告し、指示に従ってくれ。」
そして、寿人は挨拶をする。
「はじめは、皆に迷惑掛けるかもしれないが、俺なりに愛和音を率いていく。ついて来て欲しい。」
寿人は、京子の強烈な嫌悪の視線を見たが、深々と頭を下げた。それに応え、社員たちは拍手で「ついていく」意思を寿人に伝えた。寿人はそれにこう返した。
「ありがとう。よろしくお願いします!」
◆惨事
2011年3月11日、未曾有の大災害が日本を襲った。全楽連事務局長就任直前の将だったが、社員全員の安否を確認。1人も欠けることなく無事だったことに胸を撫で下ろした後、その社員全員を集め、こう言った。
「まずは、自分たちの生活を立て直して来るように。それが終わった後、もし、被災地にボランティアに行きたいと考えている者がいれば、長期の特別休暇を出す。思う存分、被災地の役に立って来てくれ。」
寿人は、これが事務局長就任前の最後の将からの指示だと思い、それを噛み締めた。そして、「自分に出来る事」を考えた。
「俺は、『生活』なんてないから、社内の環境整備に力を注ぐ。それが終わったら、チャリティーアルバムを出す。」
そう、将に宣言した。
「よし、やれ。」
慌ただしい3月が終わり、4月1日、愛和音の社長室の「主」は、旅立った。
◆慈善
それから、寿人は制作部の3人を集めた。
「まだ落ち着いてないかと思うけれど、『チャリティーアルバム』を出すよ。もう既に橋野には許可を受けてる。歌唱部の歌手に1人ずつ新曲を歌ってもらって売って、売上は、全額被災地に寄付する。その為の曲をこれから作ろうと思う。野崎さん、こんな状況だけど、頑張って人数分作ろう。」
「わかりました。勿論、頑張ります。」
寿人と理沙の頭の中に、「慈善の歌」が複数生まれていった。治行も要も気合いが入った表情でそれを受けてくれた。
そして、寿人は制作部全員の了承が得られた事から、歌唱部への交渉を始める。部長の陽太に声をかけた。
「神谷さん、いいかな?」
「何ですか?」
「この災害に対しての『チャリティーアルバム』を出す。歌唱部の協力が必要なんだ。構想としては、全員に1曲ずつ宛がうから、皆で歌って欲しい。」
「僕もそうしたいと思ってました。声をかけてくれてありがとうございます。全員に周知します。」
「ありがとう。よろしく。」
寿人はその足で関連する部署を回ってアルバムへの協力を求めた。
一方、陽太は、歌唱部全員を集め、アルバムの構想を伝えた。1人を除く全員の了承を得た。その1人、京子はためらいつつも、難色を示した。
「乗り気しないわ。」
「何で?京子さん。」
陽太は、思わず声を荒らげそうになったが、それを諌め、尋ねた。
「小橋『社長様』の発案でしょ?」
陽太は、ため息をひとつつき、こう返した。
「確かにね。でも、こんな大きな事、社長、橋野社長が関わってないわけないよ。」
「なら、いいけど?でも、小橋『社長様』の曲なら、歌わないわ。」
「野崎さんの歌なら大丈夫かい?」
「ええ。」
「わかった。その旨、制作部に伝える。」
陽太は、寿人に歌唱部の意見を伝える。寿人は、固い笑顔で答えた。
「それでこそ、京子さんだね。何となく、想像はついてた。京子さんの曲は、野崎さん作っていう『特注』でやるよ。」
「歌唱部ナンバーツーがわがままですみませんね。」
「京子さんの気持ちもわからないでもないから、大丈夫だよ。なるべく早くにレコーディングとかやりたいから、五月雨式に出来た順番で曲、渡して行くから忙しない思いさせるかもしれないけど、よろしくね。」
「はい。小橋さんも無理しないでくださいね。」
「ありがとう。」
◆発売
2011年7月13日、「愛和音チャリティーアルバム」は、寿人の判断により、宣伝を有する形で発売された。通常より高額だったアルバムではあったが、瞬く間にそれは売れ、店舗によっては一週間もしないうちに完売するという売れ行きを見せた。その度にCDの増産を進め、ジェランではアルバム部門の月間1位を2ヶ月連続で記録し、多額の寄付を可能にした。
10月末、寿人は、経理部から寄付の振り込みが完了したことの報告を制作部の部屋にて受けた。
「ありがとう。」
寿人は、経理部の男性職員の背中を見送った後、「主」のいない社長室へと足を向けた。そして、聞く者のいない報告をし始める。
「社長、橋野、寄付、終わったよ。皆、頑張ってくれた。」
当然、その報告に応える声はない。寿人は、後悔した。こんな事はやるべきではなかったと。全身を駆け巡るさびしさが瞳から溢れてきた。
「橋野。」
自らの泣き声が社長室に反響する中、「会社で泣くなんて、感心しませんねぇ。小橋さん。」という声が聞こえたような気がした。必死に寿人は溢れ出るさびしさをその身に留めた。
濡れた瞳で、寿人は呟く。
「『チャリティーアルバム』は、終わった。今度は、『原石』を磨いてやらなければ。」
◆果たせない研磨
早川新は、「チャリティーアルバム」の際でも、「荒削りの元気さ」が見てとれた。その様は残念ながら、アルバムの中で悪目立ちする程だった。
だが、寿人は諦めない事を心に決めてかかった。
「神谷さん、『チャリティーアルバム』の方も落ち着いたから、中山さんの件、また頑張ってみないか?」
「そうですね。頑張りましょう。」
寿人は、理沙と協力し、他歌手の曲を提供しつつ、隼人の「研修」に力を注いだ。
「何で俺だけこんなことしなきゃいけないんすか?」
隼人の食ってかかる声を聞きながらだったが。
そんな中、2012年が始まった。寿人は、隼人向けに再び曲を作った。試行錯誤を繰り返そうと、A面B面態勢で正反対の路線の曲をCDに収録。愛和音の慣例に従い、無宣伝にて早川新の新曲を発売するが、ジェラン週間初登場59位と奮わない。そこから順位は上がることなくすぐにランキングから姿を消す。それから、2回のチャンスを与えてはみたものの、初登場の順位は悪化し、その後、同じような展開を見せてしまう。
◆苦渋の決断
寿人は、隼人にとある「やりたくない処分」を下す決意を固めた。そして、気を遣ってあまりかけない将への電話をかけた。
「橋野、今夜、社長室に来るか?」
「行く予定はないが、どうした?」
「中山さんの事で、重い相談がある。『本来』の社長のお前に判断を仰ぎたいんだ。」
「すべて任せる。お前の判断は、俺の判断、という事にする。」
「何で!『急ぎ』の判断だけだ!俺が任されてるのは。」
「小橋、落ち着け。俺の答えは、『それ』だ。『やれ』と言うことだ。」
寿人は目を見開いた。そして、将に言う。
「出来れば、電話じゃない形で話し合いたかった。」
「時間かけても、結論は一緒なんだから、時間の無駄だ。」
寿人は重く短いため息をつき、こう返した。
「そうだな。わかった。近いうちに『やる』。」
「頼んだぞ。」
電話を切った寿人の右手はきつく握られていた。そして、気持ちが続いているうちに、歌唱部部長に話を通そうと、陽太を呼ぶ。
「神谷さん、中山さんを『遊軍』にする。あるいは、もっと最悪の結果になるかもしれないけれど。」
陽太は、絶句した。
「これは、神谷さんにとっても重い一言だよな。すまない。そして、俺にとっても、橋野にとっても。」
「社長も?」
陽太の絞り出すような声が寿人に届けられた。
「橋野の了解は得ている。この件は、『社長代行』の俺が話す。」
陽太の悔しそうな顔が頷いた。
◆突きつける事実
「単刀直入に言う。」
寿人が隼人を社長室に呼び出したのは、その翌日の事だった。
「中山さん、君を『遊軍』にする事にした。これからも君は歌唱部所属だけど、新曲は与えない。明日から、他の部署の手伝いをしてくれ。今、製造部が忙しいようだから、最初は、そちらに行くように。もし、この事が気に入らなければ、愛和音を辞めてもいい。」
「何で!どうして?」
「わかっているだろう?ジェランを参考にするならば、今の君の歌声は、世間にあまり必要とされていないと言うことを。」
「それは!」
隼人は、返す言葉を失う。
「勿論、君の歌声だけに責任を押し付けることはしない。指導出来なかった神谷部長と、君の魅力を見いだせなくて、それに合った曲を作れなかった俺にも責任はある。だけど、それに甘えられたら困る。もし、愛和音の社員でいたかったら、『遊軍』でも、自分なりに歌を練習してその成果を俺か神谷部長に聴かせてくれ。」
隼人は、短く答えを出した。
「辞めない、です。けれど、納得いってません。」
「悪いけど、これは命令だから、従ってもらうよ。」
隼人は、その一言に激昂した様子で、社長室から飛び出して行った。隼人は、怒りの歩行中、こんな暴言を吐いた。
「俺より歌下手な奴に何であんなこと言われなきゃならないんだよ!」
◆苦しみ
社長室に残された寿人は、全楽連の役職員名簿に載る将の名前を見ながら、それに話しかけた。
「お前を真似するようにして、中山さんに伝えたことは伝えたけど、うまくいった自信、ないよ。お前だったらどう言った?橋野。」
その名簿を見ているうちに、別な考えが寿人に訪れる。
「この名簿に俺の名前があれば、昔の『ジェントル』みたいじゃないか?」
そんな事を呟いた。すると、今の将の気持ちに思いを馳せるのを止められなかった。
南山の代表理事という役職は、非常勤。毎日顔を合わせているわけではなさそうだが、将にとって悪い思い出の『ジェントル』の再来なのではないかと。
そして、そんな将は、最近こそ口に出さなくなったが、「響義浩」に並々ならぬ熱意が過去あったようだ。もし、その気持ちがまだあるのなら、「響義浩」として応援したいと、思い至った。
「だけど。」
寿人は、「月下の心 / 響義浩」を歌いだしてみるが、棒読みの歌しか歌えない。
「俺も、中山さんを責められないんだけどな。」
歌えない。歌いたいときに、歌えない。隼人も同じ気持ちではあるだろう。しかし、もう自分の力では隼人に何も出来る事はない。ただただ、隼人の奮起を待つばかりのこの状況が苦しかった。
◆遊軍の仕事
2013年4月、隼人は、新人社員向けに社内案内を任され、社屋を隅々まで案内していた。
「ここは、倉庫です。外側からしか鍵が開け閉め出来ないから、気をつけてください。」
などと説明しつつ、隼人の心の中では、「自分は歌手だ。今、こんな事をする身分ではない。」という矜持が猛威を奮っていた。
その後、休憩に歌唱部の部屋に戻るが、居心地が悪い。しかし、京子だけはかわいがってくれた。
「おつかれー。」
鼻にかかった声で労いの言葉をかける。そして、コーヒーを差し入れしてくれた。
「ありがとうございます、京子さん。」
「毎日、毎日、偉いわねー。中山君は。」
隼人は、京子に頭を撫でられる。よく京子がしてくれる事だが、隼人はほっとする。しかし、その京子は、これからレコーディングとのことで、すぐに歌唱部の部屋を出ていった。
「京子さん。」
隼人はさびしさを口にした。
◆別れ
そんな2013年も駆け足で終わりを告げようとしていた。
隼人は、クリスマスデートを恋人の英梨としていた。隼人は、イルミネーションが輝く大通りで英梨にこう言った。
「メリークリスマース!」
だが、英梨は、笑顔が似合いそうな顔立ちなのにも関わらず、笑わなかった。
「ねぇ、早川新の新曲、何で出ないの?」
「俺より歌下手な上の奴がさ、お前の歌、要らないとかふざけたこと言ったんだよ!だから、俺、歌えねぇの。」
「ふぅん。」
英梨は、不服そうにそう言った。
「な?納得出来ないだろ?」
「うん、納得出来ない。」
「だろー?」
隼人は、笑いながら言う。
「本当に、だよ。私、『人気歌手の早川新の彼女』っていつまで経っても名乗れないじゃん。」
「英梨?」
「3年、もうすぐ4年だよ?待ってたのに!もう、隼人君の彼女辞める!!」
英梨は、隼人の元を去った。
「え?おい!英梨!!」
隼人19歳、英梨17歳の出来事だった。
◆敵
2014年がスタートした。相変わらず愛和音の社長室に「主」はいなかった。
そんな中ではあるが、制作部は秀逸な曲を生み出し、歌唱部は良質な歌声を響かせる。そんな愛和音の日常が続いていた。
そんな中、ジェントルから久保聖真という強力な男性新人歌手がデビューした。少し、冷たそうな外見だったが、「王子様」と形容された歌声で世間の支持を受けていった。
陽太の焦る声が寿人に届く。
「まずくないですか?この状況。」
久保聖真は、本名、山寺圭。隼人と同い年と情報が出た。
圭と対抗出来るのは音彦くらいだったが、もう既に音彦もこの年で28歳と、圭の若さには負けてしまう。
ここに来て、隼人をしっかり「研修」出来なかった責めが重くのしかかった。寿人は、浮き足立つ陽太にこう声をかけた。
「愛和音は、愛和音なりのやり方で行く。制作部は、対抗出来る曲をこれから考えていく。特に、加藤さんには負担掛ける事になる。そこのフォローを頼むよ。神谷さん。」
「わかりました。」
その考えを受け、音彦は「久保聖真対策」に駆り出された。陽太の配慮や寿人の労い、そして、恋人の詩音の支えを受けながら、音彦はハイペースで渡される新曲を歌い上げた。
「お疲れ様、音彦。」
「詩音、ありがとう。」
そんな音彦にとって、詩音からの愛情たっぷりのキスは、最上のご褒美だった。歌唱部公認の2人の仲なため、人目を憚らず2人は唇にて愛を交換する。そんな光景を、隼人は歌唱部の部屋にて時々目にしては、英梨を失った心の傷が疼く日々が続いた。
◆変化
寿人は、音彦頼りのこの作戦が正しいのか、迷いを抱えてしまっていた。
「橋野、今の愛和音をどう思ってる?」
社員の憩いの場として解放している社屋の屋上にて風に当たりながらそう呟いた。雲ひとつない空とは正反対の心中に目が曇る。
しばらくすると、どこからか精悍な歌声が聴こえてきた。
「こんな歌声の歌手、歌唱部にいたか?いや、別部署に、歌が上手い社員でもいたのか?」
その声の主を音を辿りながら探す寿人。やがて、辿り着く。そこには、隼人がいた。
「え、中山さん?」
思いの外、大きな声で寿人は言ってしまった。その声に驚き隼人は歌うのをやめた。
「今の、歌声、もう一度、中で聴きたい。」
「え?」
「出来れば、だけど。」
「わかりましたよ。」
過去、「研修」でよく使っていた社屋の中の一室に寿人と隼人は入っていく。
「久しぶりな気がする。」
隼人はそう言った。寿人は苦しそうな顔をしてそれに返す。
「嫌な思い出だろうけどな。さっきの感じで歌えないかもしれないけど、同じ歌、歌ってくれ。」
隼人は、愛和音の歌ではない他社の歌を歌い出した。すると、先ほどの精悍な歌声が隼人ののどから生まれていく。寿人は目を見張った。やがて、隼人の歌が終わる。寿人は、隼人に言葉をかけた。
「あれから、自分なりに歌の練習、したのか?」
「あんまり。」
「気づいているか?自分の歌声の変化に。」
「え?そうなんすか?」
隼人は首を傾げながら続ける。
「あんま、話したくないんすけど、ヤなことあって悔しくて悔しくて、どうしようもなくて、今日、久しぶりに歌っただけっす。」
「そう、だったのか。その感覚、忘れないようにしてくれ。」
「え?」
「中山さん、今日、君は生まれ変わった。歌手として。」
隼人の驚く顔を寿人は見ながら、即時に決断した。
「今日をもって、君は『遊軍』から外す。歌唱部の歌手に戻れ。」
「本当すか?」
「ああ。その代わり、今の歌を歌った感覚を絶対に忘れるな。」
「はい。」
◆反撃
寿人は、陽太に隼人の「遊軍」期間の終了を伝えた。
「急ですね。」
「本当に、急なんだ。今日、中山さんは『輝き』始めたんだ。」
「えー、聴いてみたかったですね。」
「舞い上がってしまったようで、神谷さんの事をすっかり忘れてしまった。すまない。」
それに陽太は少し笑った後、こう返した。
「でも、これから曲を宛がってもらえるんでしょうから、その1曲目を楽しみにしてますよ。」
「期待してくれ。」
ちょうどその頃だった。ひとつのタイアップ曲の依頼が愛和音に舞い込んできた。ヒーロー物のアニメの主題歌を作って欲しいとのこと。寿人は、それを受け「ここしかない。」と思った。そして、そのアニメの存在に心から感謝した。
「中山さん、復帰1曲目、早速作るからきちんとあの日の自分を思い出しておいてくれよ。」
「わかったっすよ。何度も言われなくてもわかってますって。」
そして、寿人は、勇ましい曲調の「英雄の朝 / 早川新」を完成させる。隼人はそれを決められた期間内に自分の物とし、久しぶりのレコーディングに臨んだ。
「なんか、ここにまた入れるとは思わなかったっす。」
隼人は呟きながらレコーディングブースに入っていった。そして、勇ましい曲と精悍な歌声がその場を圧倒した。
寿人は、それを聴きながら、こう言った。
「『見つめる価値 』を歌った人とは思えない。」
そして、「あの日」の埋め合わせという名目で寿人が呼んでおいた陽太も目を見張った。
「こ、これが中山君?」
隣の寿人は陽太をまっすぐ見つめ、力強く頷いた。
レコーディングブースから出てきた隼人を陽太は歓迎した。
「お疲れ様、中山君。まさか、ここまでとは思わなかった。今後も期待しているよ。」
「ありがとうございます。」
そして、隼人と陽太は、歌唱部の部屋へと戻って行った。
それを見送りながら、寿人は今の率直な思いを呟いた。
「橋野、やっと『原石』が輝いた。だけど、結局の所、俺は何もやってやれなかった。残念だが、今、凄くお前を驚かせてやりたい。それにしても、中山さん、うらやましいな。」
そして、「英雄の朝 / 早川新」は、治行のアレンジを経て発売された。タイアップ効果は抜群で、ジェラン週間初登場3位という隼人初の記録を叩き出した。
また、強さの中にあどけなさが残る隼人の容姿も相まって早川新は一気にスターダムに登り詰める。
そして、いつしか「英雄の早川新」、「王子様の久保聖真」と評され、世間では密かにライバルと言われるようになった。
隼人は、それを受け、こう言った。
「俺、別に久保聖真、ライバルって思ってないっす。」
◆打診と
早川新の快進撃は、長期に及んだ。ジェランの初登場の順位が10位を下回らないビッグネームへと成長する。
そんな中、2016年が始まってすぐの日だった。隼人は、社屋の出入口で固まっていた。
「何で?」
元恋人の英梨が「出待ち」をしていた。
「早川新、人気の歌手になったね。ねぇ、私たち、ヨリ戻さない?今の隼人君だったら私、好きになれる。また、仲良くしようよぉ。」
「え、俺、嫌だ。」
「えー?そんなの、私も嫌だよー。今年、私20歳になるんだよ?お祝いに隼人君の彼女にまたしてよぉ。」
「ごめん、無理。」
そんなやり取りを詩音が立ち聞きしてしまった。後輩の隼人が困っていた事から手を差しのべてやる事にした。
「あら、隼人。」
隼人と英梨の視線が詩音に集まる。
「ねぇ、私たち、これからホテル行く約束でしょ?他の女と話、してないで行こう?」
詩音は、隼人の腕に抱きついた。隼人は言葉を失うが、先輩の腕の力を受け、話を合わせた。
「お、おう、行こうぜ。」
詩音は、柔らかい表情をしつつ、英梨にこう言った。
「そう言う事なの。じゃあね。」
詩音は隼人を英梨から連れ去った。多少の距離が置けた事を確認すると、歩きながら詩音は口を開く。
「悪い女ね。」
「せ、先輩、ありがとうございました。」
「いいのよ。ところで、誰なの?」
隼人は、事情を説明し始める。歌手になる前から付き合っていたが、売れない時代にふられてしまったこと。そのおかげなのか急に「歌える」ようになったことを。
「あら、『恩人』なのね。」
「拒否しない方が良かったすかね?」
詩音は、首を横に振った。
「きっと、男を自分のアクセサリーとしか思ってないわよ。そんな女とずっといたら中山君、駄目になっちゃうわ。」
「そうっすか。嘘までついて、俺を助けてくれてありがとうございました。でも、いきなり『ホテル』とか言われたからびっくりしたっす。」
「中山君とじゃないけど、私が『ホテル』に行くのは、本当よ。音彦と待ち合わせなのよ。」
「え。」
隼人の顔が赤くなる。
「そ、そう言えば、先輩らって結婚しないんすか?」
「しない約束よ。仕事でずっと一緒だから、逆にお互い1人の時間を作ろうってなってるの。音彦とは、気持ちの中では結婚しているけど、ずっと2人で独身でいようねって言ってるわ。」
「なんか、それ、素敵っすね。」
「ありがとう。」
そうしているうちに、「ホテル」に辿り着いてしまった。音彦が眉間に皺を寄せながら隼人と詩音に話しかける。
「どういうこと?詩音?中山君?」
詩音は隼人の元から離れ、音彦に抱きつく。
「いろいろ、あったのよ。楽しみながら話するわ。」
「あ、あの、俺ら何もないっす。ただ、いろいろ、石名先輩には助けてもらいました。」
「なんだかよくわからないけど、それが本当ならば、いいよ?でも、嘘だったら、詩音、『お仕置き』するよ?」
「あら、どんな『お仕置き』?楽しみ。なんて、嘘じゃないから『お仕置き』はないわね。逆に残念。あ、そうだ、嘘って事にして『お仕置き』してよ、音彦?」
「やめておくよ。そこまで言うんだったら、本当なんだろうね。純粋に今夜は君を楽しむよ。」
隼人は、先輩同士の会話に恥ずかしくなり、短く挨拶をして帰宅の途に就いた。
「加藤先輩!すいませんでした!石名先輩!ありがとうございました!俺、帰ります!!」
音彦と詩音は笑顔で隼人を見送りながら、「ホテル」内部へ消えていった。
◆帰還
歌唱部の若手がそんなやり取りをしていた同じ時期、制作部にて、寿人の携帯電話が鳴る。相手は、将だった。
「橋野っ。」
珍しい着信だった。電話を通話状態にする。寿人の目が丸くなった。通話が終わると、柔らかい微笑みが寿人の顔を支配した。
そして、2016年4月1日、社長室の「主」は戻って来た。その社長室に設けられている応接スペースにて朝早くに「真の社長」と「社長代行だった者」の会談が始まった。
「どんな手を使って戻って来たんだ?」
「なんだ?その犯罪者扱いは。」
「そんな事言ってないが?」
将は、笑った。
「まぁ、子細は言わないが、『犯罪予告』をして全楽連の『上層部』に『脅迫』したら、事務局長を解放された。つい、『そっちの方向』でお前の言葉を受け止めてしまった。すまない。」
「どんな事言って来たんだか。詮索しないけど。それにしても、お前の『前任者』が『後任』になってよかったな。」
「ああ、本当にだ。『あの人』こそ、全楽連の事務局長にふさわしい人だからな。」
「正直、嫌だったろう?全楽連は。」
「まあな。」
「そうだろうと思った。だから、ここまでにしよう。全楽連の話は。」
「ああ、ありがとう。」
そして、しばらくお互いを見つめる。2人は、同じ感想を持つ。お互い、老けたなと。気づけばこの年で寿人は45歳、将は51歳となる。
そんな中、寿人は口を開いた。
「『外野』から見た愛和音は、どうだった?」
「なかなか、スリリングだった。」
2人は笑う。
「だったろうな。」
「決裁には関わったが、加藤君の酷使は正直『大丈夫か?』と思ったな。」
「申し訳ないとは思ったよ。」
「後で、加藤君には俺からも労いの言葉をかけておく。」
「すまない。」
将は、遠い目をしつつ微笑みながらこう切り出した。
「中山君には、お前たち、どんな魔法を使ったんだ?」
「それも、恥ずかしい話で俺たちは何もしていない。急に、中山さんは『愛和音の歌手』になった。」
「そうだったのか。」
「だからな、俺が『社長』だった5年は、何も成果はないんだ。やっぱり、愛和音の『社長』は、お前、橋野なんだよ。」
「ありがとう。さて、気合い入れてやるか。」
「ついていく。よろしくな、橋野。」
「こっちこそ、よろしく。小橋。」
そして、将は全社員に向け、訓示を行った。
「私が愛和音を離れていた5年間、よく働いてくれた。これから再び愛和音を私が率いていくことになる。引き続き、いい働きを期待する。」
それが終了すると、京子は、将に駆け寄った。
「おかえり、お兄ちゃん。」
「ただいま、京子。」
◆厳重注意
妹とも顔を合わせた将は、音彦を呼んだ。
「加藤君、もう、一昨年の話になるが、連続新曲発売の時は、本当にお疲れ様。よく頑張った。」
「神谷部長や他の皆さんに、支えてもらいましたから。頑張れました。」
「そうか、よくやった。全て、いい出来だったぞ。」
「ありがとうございます。」
そのやり取りを、寿人はそばで聞いていた。そんな寿人に将は声をかける。
「小橋、もう一度、社長室に来い。」
寿人は、何を言われるかわからなかったが、将について行った。
「何だ?」
「西森音彦の連続新曲攻勢の話だ。あの時のお前の考えを聞いておきたい。」
「『久保聖真対策』だった。ジェントルに押されたくなかったから。」
「やはりな。『履き違え』があったようだな。」
「『履き違え』?」
「お前の判断に文句は言わないという約束だったし、結果的によかったことだから、放っておこうと思ったが、そう言うことならば、ひとつ、注意しておく。」
「俺、駄目だったのか。」
「ああ。俺たち愛和音の敵は、『ジェントル』ではない。『低質な音楽』だ。」
寿人は、「しまった。」という顔になる。
「ああ、『そう』だった。」
「久保聖真の音楽は、ジェントル『にしては』いいものだ。ここまで言えば、わかるな?説明出来るか?」
「『低質な音楽』を提供し続けていた『ジェントル』が、その『低質な音楽』の象徴であっただけ。そうだな、確かに久保聖真の曲も歌も『いいもの』だった。久保聖真は、相手にするものじゃなかったと。愛和音は普通にしていれば、よかったんだな。」
「そう言うことだ。久保聖真は愛和音の敵ではない。まあ、それをきっかけに、西森音彦の『良質な音楽』を世の中に多く提供できたからな。そう言った意味で『よかった』んだ。」
「方向修正、ありがとう。」
「『敵』を見誤るなよ。小橋。」
「わかった。」
寿人の表情は引き締まった。そんな寿人に、将は引き続き話をする。
「『敵』と言えば、 すっかり南山は、俺たちを『敵』認定しているな。」
「無理はないさ。」
「次、何を仕掛けて来るのか。」
「エスカレートしてる気がするんだよな。俺、隙のないようにする。」
「俺も、そうしないとな。」
寿人は、気持ちを切り替え、制作部の方に戻った。すると、理沙が話しかけてきた。
「社長は、なんて?」
「いや、絞られたよ。」
寿人は、将からの注意を理沙に包み隠さず説明した。
「『復帰』初日に、全力投球ですね。社長。」
「ああ。そうだな。」
寿人は、苦笑いした。
◆無力
早川新は、本来の形に戻った愛和音から新曲を出し続けた。その勢いは強いもので、ジェランでいずれかの曲が年間1位を狙える程の物だった。更にある時を境に、マスコミからの取材が殺到し始める。隼人は、愛和音の顔と言っても過言ではない存在になっていた。
そんな中、2018年を迎えた。愛和音は、とある振り込みを済ます。将は、経理部の女性からその報告を受け、頷いた。
「わかった。お疲れ様。」
その表情は、暗いものだった。その日の夜、寿人と将の姿は、マスターのバーにあった。
「また、しょうちゃん、何かあったんじゃない?」
「わかるか?マスター。」
「そして、ひーちゃんもね。」
「隠せないなぁ、マスターには。」
「どうする?酒、飲む?」
2人は、頷く。
「じゃあ、これね。」
提供された酒を「乾杯」としつつ、2人で無言で飲む。
「何?しょうちゃん、ひーちゃん、喧嘩でもしてんの?」
そのマスターの言葉に2人は苦笑いする。寿人が口を開く。
「違うよ、マスター。喧嘩してたら、2人でここに来ないだろう?」
それに将が続く。
「『どっち』から話そうかと迷ってた所だ。ああ、でも、久しぶりに笑った気がするな。」
「わけがわからないよ、しょうちゃん、ひーちゃん。」
戸惑うマスターの顔を見て、将が意を決したように話をし始める。
「中山君の件だ。」
寿人の顔が強ばる。
「『そっち』からか。明らかに、『あれ』だよな。」
「わかっていたか。」
「南山、だろ?」
「理解が出来ない。何を南山はしようとしているのか。他社の歌手である早川新を『一覧』に入れた理由が知りたい。」
「俺、何も出来そうもないけど、一緒に南山と話するか?」
「いや、もう既に電話で問い合わせした。0回答だったがな。」
「本当か?」
「ああ、『何の事だ?』と、一蹴されたよ。」
2人とも頭を抱える。寿人がそのままの姿勢で話を続ける。
「中山さんに、何かがあったらどうしよう。」
「守ってやりたいが、『手』がない。『遊軍』にしてマスコミから引き剥がしたい所だが、不自然だ。」
「中山さんには、あの時の思いをまたさせたくない。」
「曲の質をわざと低くする手も、一旦考えたが、それは、愛和音の方針を否定するものだから断念した。」
「だから、今まで通り、『良質な音楽』を早川新で提供し続けるしかない。けれど、そうしたら、『手がつけられない歌手』が誕生してしまう。」
「今は、昔よりマスコミの扇動が効きにくくなってはいるが、扇動プラス『良質な音楽』で過熱した早川新の人気は、中山君に何かしらの悪影響が及ぶ可能性がある。おそらく、『それ』を狙っての事だろうが、この、金銭的にはハイリスクノーリターンの博打に出た南山に、俺は対抗する『手』を持たない。情けないな。」
「マスコミには、何か言ったのか?」
「だいぶきつい言葉で取材拒否を何度も申し入れてはいるが、あの有り様だ。だから、不本意ではあるが、この事態は静観することに決めた。その上で、『何らかの事』が起こった場合は、俺の責め、とする。」
「そうか。頑張ったんだな。俺も、何か思いついたらやろうと思うけど、多分、何もできない。そういった意味で、俺にも責めはあると思う。『そうなった場合』は、俺にも責任取らせてくれ。だけど、この状況、思い出すな。『響義浩』を。」
将の目が、かなしそうに見開かれる。それを見ながら寿人は話を続ける。
「話を変えさせてもらう。橋野。」
◆懺悔
「ひーちゃん?」
「小橋っ?」
マスターと将の驚く声がバーに響き渡った。その2人の目に映っているのは、寿人が立ち上がって将に深々と頭を下げている光景だった。
「頭を上げろ、小橋。何だ?どうしたんだ?」
寿人は、そのままの姿勢で言葉を紡いだ。
「これは、橋野への感謝と謝罪だ。」
「お前。」
将も立ち上がって半ば無理矢理寿人の頭を上げさせた。寿人の目は揺れていた。そんな目で将を直視しながら思いを話し始めた。
「『感謝』は、『響義浩』のために、20年以上も動いてくれて、ありがとう。と、言うこと。『謝罪』は、そんな『響義浩』がもう、俺の中にいないこと、だ。」
将は、突然の事で言葉が返せなかった。更に寿人は続けた。
「橋野、お前、『響義浩』が、好きだったんだろう?だから、俺に接触してきて、色々やってくれた。今の今まで。」
将は、かなりのためらいの色を見せながらだったが、寿人に言葉を返した。
「そうだ。それは間違いない。よくわかったな。」
「最初は、わからなかったけどな。だんだんなんとなくわかってきて、お前が全楽連に行ってた頃、確信に変わった。お前が『響義浩』のファンだったって。」
「そうか。」
「でも、さっきも言った通り、俺の中の『響義浩』は、いなくなった。いや、24年前に死んだのかもしれない。俺にとって感謝してもしきれない橋野の『好きな歌手』を俺は、殺してしまった。本当にすまない。20年、辛かっただろう?」
「違う、それは、違う。辛かったのは、お前自身だと考えている。俺は、俺こそが『響義浩』を殺した張本人だ。何度もチャンスはあった筈なんだ。『響義浩』が死ぬ前に救う事が。」
「優しいな、橋野は。」
「いや、小橋、『響義浩』が死んだなんて言うな。俺は、信じている。お前の中に、まだ『響義浩』が生きていることを。そうでなければ、『20年契約』なんてしなかった。いつか、お前がまた歌える日が来た時にその名前を使えるように。」
「やっぱりな。でも、俺は、いつまで経っても下手な歌しか歌えないままだ。」
「それは、否定しないが、それも、俺がお前を救えなかった『責め』とこの20年思っていた。だから、気に病むな。」
「ありがとう。本当に、ありがとう。俺は、いいファンと、いい友達と、いい社長と出会えて幸せだな。悔しいけれど、これからも俺は、『室井徹彦』でしかいられない。それでも、愛和音にいていいか?」
「勿論だ。『響義浩』は、今日、愛和音の物になったが、それは、社の『宝』として飾っておこう。その代わり、『室井徹彦』として、これまで以上にいい働きをしろ。いいな?」
「わかった。全力を尽くすよ。」
◆南山
翌日、ジェントルの社長室に企画経理部の男性社員が。愛和音から「響義浩名義買取代金」が入金になったとの報告を社長の南山にしていた。
「はい、ご苦労さん。」
その一言で、南山は男性社員を下がらせた。そして、誰も聞くことのない演説をし始めた。
「小橋君、思う存分、『響義浩』の名前を使いたまえ。ジェントルは、全力で潰しにかかる。橋野君、わかっているだろうが、君は私を怒らせた。私を怒らせた罪は消えないぞ。」
そして、手元にある早川新こと中山隼人の顔写真を何度も人差し指で叩きながらこう続ける。
「早川新、君は、本当に目障りだ。『久保聖真』の障壁となったことを後悔するといい。今は、持ち上げられる『夢』を見ろ。その上で、スキャンダルを起こせ。マスコミを使って叩きのめしてやる。そう、『響義浩』のようにな。『熱愛』でもいい、『犯罪』でもいい、何かを起こしたまえ。」
ジェントルの社長室に、81歳となっても未だジェントルの社長で居続ける南山源太の笑い声が響き渡った。
◆懸念を抱えながらの日常
一方、愛和音。社長も含めていつもの通り出勤し、いつもの通りの仕事を全員がする。隼人という1人の例外を除いて。隼人は、この日バラエティー番組の「密着取材」の為、自宅から会社までテレビ局のスタッフやカメラを引き連れ、出勤してきた。
「おはようございまーす。」
この日も、隼人はレコーディングの予定がある。そこまでカメラが入ってくる。寿人はそれに難色を示すが、カメラは引き下がらない。諦めて寿人は隼人のレコーディングを始める。
「大丈夫?いける?」
「いつでもいけるっす。」
ある日突然愛和音の歌手になった頃より磨き抜かれた精悍な隼人の歌声が、愛和音のレコーディングブースに響き渡る。寿人はそれを聴きながら、心の中で呟く。「マスコミがいなければ、素直に聴き惚れることが出来たのに。」と。
「お疲れ様。」
「お疲れっす。」
短く言葉を交わした後、レコーディングが終わった隼人はカメラを引き連れ、その場を後にした。寿人は、その背中を心配の目で見送ることしか出来なかった。
「わかってるのに、何も出来ない。直属ではないけれど、情けない管理職ですまない。中山さん。」
2度目の隼人に対する無力感で寿人は潰れそうになっていった。
◆膨張する矜持という毒
2018年12月7日の事だった。愛和音は有志による忘年会を行っていた。社長の将をはじめ、寿人が所属する制作部や、隼人のいる歌唱部は全員出席していた。広めの居酒屋を貸切った会が始まったばかりのその時、隼人がこんな一言を発した。
「愛和音は、俺を雇ってよかったっすよね?こんなスターになったんだから。」
寿人と将は居心地が悪いままそれを聞いたが、その他の社員は、微笑ましく受け入れたようだった。その雰囲気に気をよくしたのか隼人は言葉を続ける。
「今や俺は、愛和音の稼ぎ頭っ!皆、俺に感謝して欲しいっすね。」
それに、京子が反応し、頭を撫でてやりながらこう言った。
「そうねー、凄い、凄い。」
「俺、本当に凄いっすよねー?」
そこで、寿人が話しかけた。何か「まずい」隼人の心の変化に気づいたからだ。
「『凄い』歌手なのは、間違いないが、少し『謙虚』にした方が中山さんを俺は好きになれるかもな。」
「なんすか?俺に意見するんすか?」
「そうだね。」
「小橋部長はさー、こんなスターを『遊軍』にしたぶっ壊れた目を持ってる奴じゃん?そんな人に意見して欲しくないっす。」
寿人は、確信した。隼人が増長していると。ブレーキをかけてやらなければと思いを巡らせた。
「その節は、謝るよ。でも、それとこれとは違うよ。それに、人の意見を受け入れられる柔軟な心があれば、もっといい歌手になれると思うんだ。どうだい?」
そのやり取りを厳しい目で将は見守っていた。そんな中、隼人はこう言い放った。
「下手くそな歌、歌う人には言われたくないっすよ。あ、そうだ、すげぇ難しい曲、俺に作ってくださいよー。俺、それ歌って『格の違い』を見せつけてやるっす。」
「わかった。作ってやる。すぐにでもな。」
「あー、作ったら、小橋部長も歌うんすよ?世間にその下手くそな歌、晒してやりたいんす。愛和音きっての大スターの俺に噛みついた罰っす。」
寿人は、押し黙った。
「小橋部長?嫌っすか?嫌っすよねー?」
それを聞いていた京子が乗ってきた。
「それ、いいわねぇ。同時にCD出して、『ジェランの順位で負けた方が引退』ってのはどうかしら?」
「いいっす!京子さん、それ、いいっす!」
未だにそれを黙って聞く将。一方、寿人は思いを巡らせた。隼人を救えない自分は、その勝負に負けて音楽人としての死を迎えるべきだと。
「わかった。乗ろう。俺もその歌を歌う。『響義浩』として。」
陽太が慌てて口を挟んだ。
「中山君、それは駄目だ。撤回しなさい。」
それと同時に理沙が寿人に声をかける。
「小橋さん、やめてください!」
不穏な空気の中、ようやく将が口を開く。
「小橋、中山君、やれ。」
「社長!よーし!決まった!!」
隼人は元気に答えた。
「ありがとう。橋野。」
寿人は極めて冷静に答えた。
◆社内で
翌週の10日、寿人は、社長室にいた。
「先週の金曜日の件、受け入れてくれて、ありがとう。橋野。」
「いや、これはだいぶ重い罪の晴らし方だと思ったがな。お前は、中山君を諌めようとしていたんだろう?お前なりのやり方で。」
「うまくいかなかった。だけど、おかげで『責め』のとり方を見つけたよ。」
「ああ、俺にとってもな。」
「早めに、制作部の人員を募集した方がいい。俺は、曲を一切作れない人員になるんだからな。」
「わかってる。断腸の思いだがな。それにしても、『お前を失う』とは俺にとって最大の罰だな。」
「俺は、『響義浩』と『室井徹彦』を同時に音楽界から抹殺する。こんな罰、思いつかなかったよ。その為に、愛和音から『唯一の低質な音楽』を出すことを許してくれ。」
「勿論、その事も覚悟の上だ。中山君の要望通りに、『最難度の曲』を作ってやれ。」
「ああ。」
◆制止の声
寿人は、制作部の部屋に戻る。そして、この時点で手をつけている曲を全て放り出し、響義浩と早川新の「戦いの曲」の制作に取りかかった。
その様子を見て、いたたまれなくなった理沙は、寿人に懇願した。
「やめてください!その曲を書くのは、やめてください!」
「集中したいんだ。話しかけないでくれ。」
「嫌です。その曲を完成させたら、小橋さんか中山さんがここから、愛和音から『いなく』なってしまう。そんなのは、私、嫌です。だから、今回だけは、邪魔をさせてもらいます。」
「野崎さん!」
寿人は理沙を睨んだ。そして、適当に書きかけの曲を選び、理沙に渡す。
「これ、続きを書いて?『合作』で出そう。今すぐ取りかかって。いいね?」
「小橋さんっ。」
そうやって手渡されたのは、隼人に向けての新曲だった。見たことのない寿人の鋭い眼光に理沙は屈し、「部長命令」に従うことにした。
しかし、理沙は涙の気配にひとつも曲制作が進まない。苦しくなった理沙は、社内のもうひとつの居場所、歌唱部へ姿を消した。それを見送った寿人。再び、「最難度の曲」を作るのに意識を傾けた。
◆嘆き
「神谷さん、助けてください。」
理沙は、悲鳴のような願いを陽太に聞かせた。
「どうしたんですか?」
今にも泣きそうな理沙に陽太は動揺する。
「小橋さん、曲作り、進めてます。止めたい。けれど、止められません。」
「曲作り?」
と、言った後で陽太は何の事かわかる。
「僕が行って、止められるだろうか?」
陽太は、制作部に理沙を伴って行った。そして、寿人にこう言った。
「忘年会の時は、歌唱部の中山君が失礼な事を言いました。部長として謝ります。すみませんでした。なんとしてでも、撤回させますから、その曲の制作は、今すぐやめてください。」
「俺は、『中山さんへの怒り』でこんな事をやっているわけではないよ。だから、それは意味のないこと。それに、これは社長の橋野からの指示だ。不満だったら、橋野に掛け合ってくれ。」
陽太にも鋭い眼光を浴びせかける寿人。
「でも、野崎さんも含めて、神谷さん、中山さんに今から言うことをしてくれたらやめることにするよ。」
理沙も陽太もそれを受け入れる言葉を返した。それを受け、寿人は隼人に南山が仕掛けている事を伝えた。その上で、こう締め括った。
「中山さんの『人気』の『全部』が、中山さんが作ったモノではないと、心を傷つけずに伝えて欲しい。」
陽太と理沙は唖然とする。
「俺は、それが出来ない。俺は過去、『上の立場の人』からそう言われて、『歌声』をなくしたからね。同じ事を再現しそうだ。それは避けなければならない。なのに、同じような事をされた身なのに、俺は正しい助言が出来ない。そんな俺は、『罪人』だよ。だから、ここで『死刑』になるんだ。『音楽人』として。」
言葉を無くす陽太と理沙。寿人は更に言葉を続けた。
「2人の気持ちはありがたいけど、俺は、中山さんが言った通りに無様な歌声を晒して死ぬよ。ごめん。」
その言葉に理沙の涙が落ちる。陽太は絶望の色をその顔に浮かべた。
「野崎さんには、さっきも言ったけど、集中したい。もし、俺の姿を見ていられないんだったら、野崎さんは歌唱部にしばらくいてくれ。そう言う事だから、神谷さんも制作部から出て行ってくれないか?そして、野崎さんをよろしく。」
陽太は、眉間に皺を寄せ、涙に濡れる理沙を支えながら歌唱部へと戻って行った。
「殺す。『響義浩』を『室井徹彦』で。そして、『室井徹彦』も『響義浩』で殺す。」
◆訪れる変化
一方、将はこれからの展開を1人シミュレーションし始めた。そして、こう呟いた。
「気が変わった。小橋次第だが、『響義浩』も、『室井徹彦』も、そして、『早川新』も失わない、そんな『ビジョン』が見えた。よって、小橋、『愛和音唯一の低質な音楽』は、許さない。」
◆難関の完成へ
それから、一週間が経った。状況を見ているだけにしようと決めていた治行と要の目の前で、寿人は、何通りの「最難度の曲」をギターで演奏し、案を絞り込んでいた。
そんな寿人の元に、将が。
「曲は、完成しそうですか?小橋さん?」
その言葉に寿人は驚く。
「何で?橋野?」
「失礼ですね。私と小橋さんは、他人なんですから、言葉に気をつけてくださいよ。」
「橋野、橋野さん。いや、社長?」
「よく呼んでくれました。『社長』と。でも、それじゃないですね。」
「橋野さん。」
「正解です。小橋さん。」
急な将の態度の変わり様に、戸惑う寿人。
「な、何故、急に話し方変えたんですか?橋野さん。」
「『今』の小橋さんには、必要な措置と思いましてね。」
意図を話さない将。しかし、言葉は続く。
「もう一度訊きます。曲は、完成しそうですか?」
「はい、もうすぐ、今日中には。」
「ああ、とても早い。さすがですねぇ、小橋さんは。」
そして、将は笑顔でこう締め括り、制作部の部屋から退出していった。
「その曲を、何もかも忘れて、原点に戻って歌ってみたらいいと私は思います。頑張ってください!」
取り残された寿人は、何がなんたがわからなくなった。しかし、気持ちを入れ替え、作業に戻り、遂に「戦いの曲」を完成させた。
初めは甘く、次第に燃え盛り、最後は繊細な旋律の恋愛歌、「炎の想い」は、隼人の注文通り、寿人の考える「最難度の曲」として完成した。
◆出会い
珍しく、寿人はデモのボーカル部分を歌わなかった。代わりにギターが使われた。隼人に資料が寿人から渡される。
「お互い、頑張ろう。」
「望むところっす。」
それから、数日後。隼人に寿人はこう言われた。
「何で、今回は下手くそな歌のデモじゃないんすか?」
「一応、作曲者というアドバンテージがあると思ってね。デモを作る時、俺が歌ったらもっとそれが俺に与えられてしまう可能性を排除したかったんだ。ここは、公平に行きたいからね。」
「もっともらしい理由つけて、恥ずかしくなったんでしょ?」
「そうとってもらって構わないよ。」
寿人と隼人は、そう言葉を交わすと別れた。その後、寿人は呟く。
「俺に『練習』は、いらない。最高に下手な歌を晒すんだから。デモだったとしても、俺にとって『練習』になるんだからな。」
一方、理沙はようやく心の安定を取り戻し、寿人から「部長命令」にて頼まれた隼人向けの曲の制作に取りかかった。
◆発表
隼人は、「炎の想い」の練習に着手した。2018年12月25日、愛和音は、プレスリリースを行う。
「『愛和音』から情報のクリスマスプレゼント!早川新と響義浩が同時新曲リリース!!ジェランで負けた方が音楽界引退のバトル開催!あなたも参加しませんか?参加方法は簡単!好きな歌手の新曲を購入するだけ!!更に!負けた方の歌手の引退ライブ開催決定!!ニューシングル来年発売!バトルスタート!!」
これは、レコーディング前の新曲を知らせるという愛和音にしては異例の宣伝だった。寿人と隼人の退路を断つこのセンセーショナルな情報は、瞬く間に世間に浸透。それは、当然ジェントルにも届く。南山は、社長室にて高笑いした後、こう言った。
「とち狂ったか!愛和音!愉快だ。小橋君か早川新が勝手に消えて行く!愉快だ!愉快だ!!」
◆怒りと初心
2019年1月29日。「炎の想い」のレコーディングが行われた。「言い出しっぺ」の隼人からレコーディングをする事になっていて、隼人は、レコーディングブースに入って行った。
寿人は、「敵」であることからそのレコーディングには立ち会わなかった。一方、将が初めてレコーディングに立ち会う。理沙がスタッフとしている中、隼人が歌い出す。
精悍な歌声では甘い序盤、そして、終盤の繊細な部分は歌うのが「きつい」状態だったが、なんとか「誤魔化せる」所まで練習で引き上げた事から「破綻」はなかった。一方、中盤の燃え盛る部分は、比較的得意とする所でそこは「満点」という出来だった。燃え盛る部分が長い為、全体的には「聴ける」曲となるだろうと推測されるレコーディングだった。
そんな中、寿人はレコーディングブースの部屋付近で自らのレコーディングを待っていた。そして、誰も聞くことのない長い独り言を呟いた。
「死ぬ時が来た。中山さんを『あんな』人にした南山も許せないが、それよりも何よりも、その中山さんを『同じ立場の人間』だった者として、救えなかった自分が許せない。死ね、俺。だけど、橋野が言った『原点』を思い出すのもいいかもな。レコーディングブースで歌うのは、これが『最後』だし、『最初』を思い出して歌ってみるか?」
社屋内部から、寿人は外を見る。雲がゆったり流れていた。それに見耽っていると、隼人がレコーディングブースの部屋から出てきた。
「終わったっす。」
「そうか、俺の番だな。」
寿人は隼人と入れ替わるようにレコーディングブースの部屋へと入って行った。隼人も寿人の「敵」であることから、寿人のレコーディングには立ち会わず、歌唱部の部屋へと戻って行った。
「よろしく。」
寿人は、そこにいる将と理沙に声をかけた。そして、こう付け加えた。
「『久しぶり』だから、レコーディングの前に少し気持ちを整理させてくれ。」
「いいですよ。」
理沙がそう言いながらレコーディングブース内部に送り出してくれた。将は、それを黙って見送った。
寿人は、ジェントルで行った初めてのレコーディングを思い出す。知らないスタッフに囲まれ、ブースに入り、「君のための翼」を歌い上げた15歳だったあの日を。そして、今の状況と重ねた。ガラスの向こうには、長年付き合ってきた将と理沙が今年48歳となる自分が歌い出すのを待っている。
「さて、始めるか。」
そう言った後、寿人は右手を挙げた。「やれる」と理沙に伝える為に。そして、マイクの前に立った。寿人は、「死刑台」に乗った気分で、歌うための息を思い切り吸った。
◆響義浩
アレンジ前の仮の伴奏が始まった。そして、寿人ののどから「歌」が生み出された。
「何?これ。」
理沙が揺れる声で呟く。横にいる将の顔は、力強い笑みで溢れた。
レコーディングブース内では、底無しに甘い声が場を支配していた。
寿人の頭の中には、歌手デビューの頃の光景が流れる。和子との文通もそこにはあった。
次第に熱が歌に加わる。それは、嵐のように激しいものだったが、その中でも緩急がつけられた声が響き渡る。
寿人の頭の中には、旧事務所から始まった愛和音のこれまでの全てが流れていた。
熱し過ぎた場を慰めるように繊細な歌声がそよ風の如くブース内を駆け巡った。
寿人の頭の中には、音楽人としての死を迎えた後の生活を想像した映像が流れていた。
やがて、仮の伴奏が止んだ。
◆動揺
寿人は、しばらく放心状態だった。しかし、我に返る。
「あ、れ?」
ガラスの向こうを見ると、理沙の泣く姿が見えた。そして、力強く頷く将の姿も。
寿人は、一旦ブースから出た。すると、将に短く声をかけられた。
「おかえり、響義浩。」
寿人は、目を丸くする。
「な、橋野さん、どういうことですか?」
「小橋、もう『戻って』いいぞ。」
「え?」
理沙が泣きながら、こう言った。
「小橋さんのあんな歌声、愛和音では、初めて聴きました。」
寿人は、ようやく「自分のやった事」を自覚した。
「え、ま、まさか?そんな筈は。」
寿人は慌てたように、レコーディングが終わったばかりの自らの歌声を再生し始める。すると、そこにはもう「棒読みの歌声」はなかった。
「も、もう一度、録り直す。」
そう、その歌声を世に出すということは、「早川新」を音楽界から抹殺しかねない事態を引き起こすということが想定されたからだ。
「駄目だ。こんな歌。」
再び「棒読みの歌声」をレコーディングし、そちらを使おうとした。
「何故?」
将に問われて寿人は「想定」の話をした。すると、将はこう言い放った。
「自惚れるな、小橋。中山君は、お前より上手に歌った。」
理沙の疑問の目が将に注がれる。それを振り切り言葉を続ける将。
「仮に、今、レコーディングが終わったばかりの小橋の歌声が中山君のより秀でた物だとしても、四半世紀眠ったままだった『響義浩』が、今のこの世を席巻する『早川新』に太刀打ちできると思っているのか?そうだとしたら、とんでもない思い上がりだ。」
寿人は、安心した顔になる。
「そう、そうだよな。良かった。」
「まあ、『良質な方向』で歌声を録り直したいと言うのならば、俺1人でも付き合うが?」
「やる、やるよ。」
「私も、付き合います。」
理沙も覚悟を決めた。そんな将と理沙の配慮に背を向け、寿人は「棒読みの歌声」を一度だけでも録ろうとレコーディングブースの中に戻って行った。
しかし、もう「それ」は戻らなかった。何度も「棒読み」にチャレンジするが、回を重ねる毎に急速に磨かれていく寿人の歌声。そして、5度目で寿人は諦めた。
「もう、いい。」
そう言って寿人はレコーディングブースから退出した。最後に録られた寿人の歌声は、「最上級」の物となっていた。
◆厳戒態勢
「さて、アレンジたが、今回だけは俺が指名する。」
将は、言った。そして、その足で制作部の部屋へと行った。
「『炎の想い』のアレンジは、早川新バージョンを林君、響義浩バージョンを今井君に任せる。」
治行と要は、社長直々の指名に驚いた。
「わかりました。」
治行がそう返答。すると、将は指示を続けた。
「これから、音源はアレンジの2人以外には開示しないように。野崎君は無関係だが、『ここの部長』が関わっているからな。『妙な細工』がなされないように、製品化するまで、2人だけの音源とするように。いいか?」
要は、厳しい指示に驚きを隠せないまま、それを受け入れた。
「事故のないようにします。」
そうして、治行と要だけに「開示」された寿人と隼人の歌声。それは、治行と要に鳥肌と懸念をもたらした。治行が、要に戸惑いの声を聞かせた。
「僕には、『これ』を『対等』な曲に仕上げる能力は、ないです。」
要も、戸惑っていた。
「僕だって、『これ』を『対等』な曲に仕上げる自信はありません。」
2人は、「制作部部長」としての寿人の助言を音源の開示なしでもらいに行く。すると、寿人は簡単な一言を返した。
「何を迷ってるんだ?2人のベストを尽くす、それだけじゃないのか?『対等』?それは考えなくていいよ。」
治行と要は、「勝者」を確信した。そして、腹をくくり、アレンジ作業に取りかかった。
その頃、理沙は寿人と共に作った隼人向けの新曲、「眠らない希望 / 早川新」を完成させた。ある「確信」を心に抱きながら。そして、「その時」が来るまで手元に温存する事にした。
◆喧嘩の結果
2019年3月20日、寿人と隼人の「炎の想い」は、CDの製造が終了、出荷が完了する。そこから、愛和音社内、世間向け共に完成品の音源が解禁された。
そこから、治行が手掛けたさらっと聴ける軽いアレンジの「炎の想い / 早川新」と、要が手掛けた心の奥底を揺り動かす重いアレンジの「炎の想い / 響義浩」が繰り返しテレビ等から流れる。
寿人は、呟く。
「何故?何故、こんなに宣伝を繰り返すんだ?」
しかし、その呟きを響かせている最中に「答え」が見つかる。デビュー作を強力に宣伝する愛和音が「愛和音所属歌手としての響義浩のデビュー」を「そう」するのは当然と。「一応」抱き合わせの隼人のバージョンも同じように取り上げられるのも納得いった。この結果は、どうなるのだろうか、と、思いを巡らせていると、隼人が寿人の所へ来た。
「俺を!俺を今まで騙してたんすかっ?」
「『騙す』?」
「何で?何であんな歌っ!!」
「俺も、わからないさ。何で『下手な歌』が突然歌えなくなったのか。本当は『下手な歌』を歌う予定だったんだけどな。それはそうと、よくあそこまで練習を重ねたな。作曲者として嬉しいよ。」
隼人は、激しい動揺を見せ、更に、その目は怯えていた。
「お互い、頑張ったな。お疲れ様。」
寿人は、今の隼人に何を言っても「嫌味」のような事しか言えない気がした。自分は「毒」だと思うようになり、その場を後にした。
そして、2週間の強力な宣伝期間を終えた4月3日、2バージョンの「炎の想い」は、店頭に並んだ。
翌週のジェラン週間順位は、1位に「悲しみは空へ / 久保聖真」、2位に「炎の想い / 響義浩」、4位に「炎の想い / 早川新」を据え、「響義浩の復活」と「早川新の引退」を知らせた。
ジェントルの社長室で、南山が笑っていた。
「『早川新』!君は『消える』のか!」
一方、愛和音の社長室では、将が笑っていた。
「計画通りだ。」
それと同時刻、寿人も隼人も青い顔をしていた。
「『死ぬ』つもりが、死ねなかった。そして、殺しちゃいけない人を、『殺して』しまった。」
制作部の部屋の中でそんな声が響いた。
「俺、終わった。」
歌唱部の部屋の中でそんな声が響いた。
◆引退へのカウントダウン
理沙は、「眠らない希望 / 早川新」の資料を手に、寿人に向けてこう言った。
「これが、もし歌われるとしたら、中山さんの『引退曲』になるって、そんな気がしてたんです。」
寿人は、いたたまれない思いで「制作部部長」としてその資料を見た。
「元気そのものと言うような曲に仕上がったじゃないか。折角合作で作ったんだ、世に出るようにしてくる。ただ、これを中山さんが歌えるか。」
寿人は、重い気持ちを抱えたまま、将の元に行き、資料を提示した。
「これを、世に出せないか?」
「仕事が早いな、制作部は。それは、構想の中にあったものだ。目を通しておく。」
将の表情は、明るかった。そんな将に寿人は言い知れぬ怒りが沸いてくる。
「よくそんな顔でいられるな。愛和音から歌手が1人、いなくなるんだぞ?それも、当初『原石』として採用した中山さんだぞ?」
「それは、お前が言うことではない。『喧嘩』を買った罪の重さを感じろ。」
寿人は、将に言葉で殴られた。しばらく押し黙った後、絞り出すような声で返した。
「すまない、さっきの言葉は撤回する。だが、最近のお前は、わからない。わからなくなった。」
将は、不敵な微笑みを返すだけだった。そして、おもむろに電話を取り、内線で歌唱部へ電話をした。
「中山君に、社長室へ来るように言ってくれ。」
寿人は、今最も顔を合わせたくない人物が呼ばれたことで、社長室から退出しようとした。
「誰が下がっていいと言った?小橋。」
寿人は、社長命令に従うしかなかった。
「失礼します。」
やがて、隼人が社長室に到着した。隼人は、寿人の姿に一瞬入室をためらった。
「どうした?入れ。」
隼人は、将の命令に従った。将は、寿人と隼人を並ばせ、こう言う。
「まずは、2人共、新曲がジェランの上位を獲得した事、おめでとう。」
「ありがとう。」
「ありがとうございます。」
「結果、中山君が引退という事が決まったから、それまでの中山君のスケジュールを伝える。7月に『引退曲』を発売し、10月頃に引退ライブを開催する。それが終了した後、中山君の籍を歌唱部から抜かせてもらう。引き続き、愛和音に勤務したいと言うことならば、別部署に異動となる。異動先は、希望があればそれを特別に受け入れる。それが不服ならば、退職という運びになる。異動先などの意思を引退ライブの終了後に返答するように。」
「はい。」
消え入りそうな隼人の声が発せられた。それに心が締めつけられる寿人。そんな寿人に将は指示を出し始める。
「小橋、この結果をもってお前は、5月から今まで所属していた制作部に加え、新しく歌唱部にも所属させ、掛け持ち社員とする。それ以降、『炎の想い』のように『室井徹彦』の曲を『響義浩』が歌う展開を今後も用意してくれ。」
「いや、しばらく歌う気になれない。」
「何を甘ったれた事を言っているんだ?小橋。『響義浩』は『復活』したというのが愛和音のスタンスだ。『良質な音楽』を提供する愛和音が、『良質な音楽』を発信する『響義浩』をお前個人の感情を優先し、再び『休眠状態』にする手を取ることは、あり得ない。」
「そう、そうだったな。わかった。」
◆新人
5月になった。祝日が続いた後の7日、寿人は制作部と歌唱部の掛け持ち社員としての初出勤を果たす。そして、顔を出しづらい歌唱部の部屋へと入り、「歌唱部所属の新人」として挨拶をする。
「今日からここに配属になった。よろしく。」
短い挨拶の後、そこから退出しようとしたが、ひき止める声が。京子だ。
「挨拶、とりあえずありがと。そうね、いい機会だわ、ずっと言いたかった事ここに来たから言ってやるわ。何なのよ?あなた。『大人げない』わ。中山君に謝りなさいよ。あなた、歌唱部の人間としては『下っ端』なんだから、発足当初から歌唱部にいた私の言うことは聞いてもらうわよ。」
寿人はわかっていた。京子は自分に何らかの「嫌がらせ」をしたいだけだと。「もっともらしい」言葉で今回も攻撃してきている。だが、「今」の自分には「昔」のように京子と「勝負」する心の余裕がないと自覚している。その為、寿人は隼人の他、歌唱部全員に頭を下げた。
「今回の事は、皆に心配かけた。その他にも、不快な思いとかをさせたと思う。謝って済む物じゃないと思ってる。けれど、この通りだ。」
それに、陽太が反応した。
「頭を上げてくださいよ。小橋さん。」
「ありがとう。いずれにしても、ここにはあまり顔を出さないようにする。ただ、『新入り』として、挨拶しに来た。これで失礼するよ。」
すっかり言葉を発しなくなった隼人。そんな隼人を寿人は直視できずに歌唱部の部屋を後にした。
その足で、この日使用する予定のないレコーディングブースへと入って行った。
◆回り続ける思考
録音態勢になっていないマイクの前に佇む寿人。今まで歌唱部の歌手たちに提供してきた多くの曲を伴奏なしでランダムに歌い始める。デモの時は「棒読みの歌」で「こういう曲だ」と歌手たちに道を示してきた歌を歌う。
「ああ。」
弱々しい息混じりに短く声を上げる。曲によっては「オリジナルの歌手」より「出来のいい歌」が自らののどから流れる。自画自賛とも言うべき感情だが、自らで自らの歌に聴き惚れてしまう程、残酷な歌だった。四半世紀眠っていた分、歌唱力が有り余って仕方ないような「響義浩」が猛威を奮った。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ。」
そうしている内に、寿人の心の中に「欲」が生まれる。「この歌声を沢山の人々に届けたい」と。だが、「早川新を殺した」事実が足を引っ張る。
「そんな俺が、のうのうと歌ってていいのか!!」
レコーディングブースに寿人の叫び声が轟いた。そして、「いっそのこと、早川新の引退がなかったことになれば心置きなく響義浩として歌えるのに」という汚い考えが生まれる。鼻で自嘲した後、「ダメ元」で将に掛け合ってみようとレコーディングブースを後にした。
社長室へと歩を進める途中、別の考えが頭をよぎる。
今から会おうとしている将は、「響義浩のファン」だ。そう本人も過去認めた。「炎の想い」での「喧嘩」の最中、心の片隅に追いやっていたその「事実」を今最も考えなければならない事とした。
朝令暮改の如く、将の言い分が変化していたことに「最近のお前は、わからない。わからなくなった。」と自らは言った。それは、とてつもない「暴言」だったのではと。
「また、謝らなければ。許してくれるだろうか?」
そう呟く。やがて、社長室の前へとたどり着いた。
◆懲罰
「小橋です。少し、よろしいですか?」
将は、ノック後の寿人の言葉に、疑問を抱くが、こう返す。
「入れ。」
「社長、折り入ってお願いがありまして、伺いました。」
「何だ?その他人行儀は?」
「『その資格』がないと思いまして。」
「頼みがあるようだが、その態度の理由から説明しろ。」
「先日は、大変失礼したと、社長でもあり、友人でもあり、ファンでもある橋野さんに、『わからなくなった』と申し上げてしまいました。心から反省しています。」
将に頭を下げる寿人。将は、一度大きく呼吸した後、こう言った。
「その言葉が気に障ったなら、その場で厳重注意していた。あの時、俺は何も感じてはいなかった。むしろ、今のお前に『不快感』を示させてもらおうか?態度を改めろ。」
少し、寿人は沈黙した後、こう返した。
「すまない。どうしていいかわからなかったから。今から重い相談があって。」
「では、そちらを聞こうか?」
「『早川新の引退』をなかったことにして欲しい。」
将は、その言葉を無表情で聞いた。そして、簡単に返答した。
「なんだ、そんな事か。」
「『そんな事』?」
「ある時から、『そのつもり』だったが?」
寿人は、唖然とした。あまりの事に言葉が出ない。
「意外と、短かったな。お前への『懲罰期間』は。」
「『懲罰期間』?」
「言わなかったか?『喧嘩を買った罪を自覚しろ』と。どれだけの社員がその『喧嘩』に心を痛めたと思う?少なくとも、制作部の3人や神谷君辺りは、苦しい思いをした筈だ。だから、お前にも『苦しい思いをする期間』を設けた。」
「何だ、それ。」
「そう言うことだ。まあ、俺も、その『喧嘩』を煽った身だから、人の事は言えない。開始時期や期間を検討中だが、俺自身への『懲罰』として、役員報酬を全額自主返納しようと考えている。」
「そこまでの覚悟をさせてすまない。」
将は、寿人に柔らかい表情を見せる。
「大いに反省しろ。ああ、話が逸れたな。『この件』は、今の所、俺とお前だけの話としてくれ。」
「え?『そのつもり』ならば、早く伝えてやりたい。」
と、寿人は言っている間に将がやろうとしている事がわかった。
「いや、『買った』俺や『煽った』お前だけじゃないよな。『売った』中山さんにも『懲罰』は必要だな。」
「その通り。中山君の『引退ライブ』が終わる時までが『懲罰期間』だ。まあ、その前の退職の可能性もあるが、その時は受け入れるつもりだ。出来るなら、愛和音を辞めた後もジェントル含めた他の総合音楽会社で歌手活動をしてもらいたいものだ。中山君の『良質な音楽』は、どこへ行っても通用するだろうからな。」
寿人は首を横に振った。
「いいや、中山さんは愛和音にいて欲しい。そう思う。だって、やっぱり俺と神谷さん、そしてお前が選んだ『原石』だからさ。どこに行っても通用するかもしれないが、また、俺たち制作部がこれから作る曲を歌って欲しくなった。欲張りか?わがままか?俺。」
「いい心意気だ。そこまで思い入れがあるなら、お前が『引退撤回の演出』をしろ。世間の批判覚悟でライブが終了した翌日あたりにプレスリリースを1つ出すだけにしようと思っていたが、小橋、何か考えてみろ。」
「わかった。」
◆未来への
寿人と理沙の作った「眠らない希望 / 早川新」は、社長決裁が終了。隼人に「引退曲」として資料が渡された。
それから1ヶ月後、レコーディングの日を迎えた。
「よろしくお願いします。」
隼人は、「元気」の欠片もなく、レコーディングブースに入ろうとした。寿人は、そんな隼人をひき止めた。
「ちょっと待って、元気ないな。そんな状態で『元気』なこの曲、歌えるのか?それに、いつもの中山さんなら、『よろしくっす。』だろ?」
「言えるわけないでしょう?」
隼人は、少し間を空け言葉を続けた。
「『響義浩』、あれから動画サイトで昔の歌、聴きました。俺、身の程知らずだったなと。コメントも沢山書いてあって、ほとんど、小橋部長を褒めてて。そんな人にそんな口、叩けないです。」
寿人は、その言葉を受け、こう返す。
「俺の話は、いいんだ。今、意識を傾けるべきは中山さん自身の『元気』のことだろ?」
「げ、元気、出ない、っすよ。」
いつもの話し方が戻りかけた隼人に寿人は微笑む。
「『引退』のこと?俺の歌声のこと?気にして『元気』が出ないのか?」
「そう、す。」
「苦しいか?苦しいよな。だけど、その苦しい状況だからこそ今、この曲を『元気に』歌って欲しいなと思ってる。」
「無理っす。」
「『無理っす。』じゃない。その歌は、買ってくれた人への応援歌になる気がするんだよ。きっと、『苦しい時』に聴く筈。中山さんだったら、苦しい今の中山さんだったら、どんな『元気さ』で元気づけて欲しい?」
「そんな難しい事言わないでくださいよ。」
「引退が決まってるとは言え、中山さんはまだ、愛和音の歌手だよ?やるしかないんだよ。それが見つかるまで何度も歌ってもらうよ。」
そう言うと、寿人は隼人をレコーディングブースに入らせた。その誘導の途中、隼人は言った。
「小橋部長が、見本見せて欲しいっす。」
「駄目だよ。それじゃ、『響義浩を真似した早川新』になっちゃうから。これは、中山さんだけの、早川新だけの曲なんだから。頑張って。」
そして、少し隼人の気持ちを整理させる為の時間を与えた後、寿人はレコーディングを始めた。隼人は、「腑抜け」の歌声をブースにて披露してしまう。さすがに寿人は途中で止める。
「もう少し、イメージを膨らませる時間、必要かな?」
「無理っす。」
「また?」
寿人は、ひとつ息をついた後、こう続けた。
「中山さんは歌手を今年で辞めることになると思うけど、早川新の歌声は、その後も生き続けるんだ。中山さんが俺の昔の歌を聴いたように、10年、20年先の人たちに早川新の歌は届くよ。もう一度言うよ?その未来の人たちを、『眠らない希望』で応援してやってくれ。」
「わかったっす。やってみるっす。」
そして、隼人は何度もチャレンジした。「応援歌」にふさわしい歌声を生み出すことに。
寿人は、隼人のチャレンジの時間、いつか隼人に歌って欲しい曲の構想が浮かんでくる。
そうしている内にやがて「それ」は生まれた。
「今のいいよ!やったじゃないか!」
寿人は、ブースから出てきた隼人の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「もう、終わりなんすよね?俺。なんだか嫌になってきたっす。」
「そんな事言わないでくれよ。まだライブで歌う機会はあるんだよ?中山さんは。それに向けてこれから歌を磨かなきゃ。」
「確かに、そうっすね。」
多少、明るい声色で隼人は言い、そこから去った。
◆新曲
寿人は、「茶番だ。自分は、この先の事を知っている。」と思いながら制作部の部屋へと戻る。そして、先ほど浮かんだ隼人向けの新曲を忘れないうちにスコアに残しておく。
「この曲を、無事に中山さんに歌ってもらえるかどうか、『演出』にかかってるな。」
未だに思いつかない「早川新引退撤回の演出」。どうしたらいいか、寿人は考えを巡らせた。
「しかし、それとは別で、どうしようかな。」
もうひとつの課題、「響義浩が歌う室井徹彦作の歌」。そちらも全くもって浮かばなかった。
◆惜しむ声
7月10日、要のアレンジを受けた「眠らない希望 / 早川新」は、宣言通りに「引退曲」として発売された。翌週のジェランでは、週間初登場1位を獲得。その結果を受けた寿人は、呟いた。
「やっぱり、皆、中山さんの引退を惜しんでるよ。まずいことをしてしまった。」
改めて、「喧嘩の罪」を心に刻んだ。
一方、隼人は「引退ライブ」へ向け、毎日歌声を磨いていた。「眠らない希望」は勿論のこと、今まで早川新として歌ってきた曲たちを繰り返し練習する。当時「荒削りの元気な歌声」で歌ったデビュー曲、「見つめる価値」や他の曲も例外ではない。この5年で手に入れた「磨き抜かれた精悍な歌声」で歌い直される曲たちは、確実に聴衆の心を掴むであろうと誰もが思った。
そして、「早川新の引退ライブ」は、10月13日に決まった。1回限定のそのライブのチケットは、8月1日に発売。1日で完売した。
それを受け、寿人は決めた。そして、隼人にとある事を言いに行った。
「中山さん、引退ライブの曲目から、「炎の想い」を外してくれ。」
「え?ああ、俺も正直避けたいって思ってたっす。」
「なら、よかった。けど、いつでも歌えるようにしてくれ。」
「は?なんで?」
寿人は、それに返答せずに隼人の元を去った。
「なんなんすか?」
◆相談
寿人は、その足で社長室へ。決めた「早川新引退撤回の演出」の件を伝え、将の了承を得た。
「なかなかいいんじゃないか?それにしても、『懲罰期間』をギリギリまで使うとはな。」
「それよりも、『俺』の件で相談なんだが、いいか?」
「なんだ?」
「わかってるとは思うが、俺の中の『室井徹彦』が、『響義浩』に曲を提供したがらないんだ。」
「なかなか決裁に乗らなかったから、おおかた、そんなことだろうとは思ったが、どんな相談だ?」
「そう言うことだから、最初は『手抜き』を許して欲しい。」
「『手抜き』?場合によっては許可できないが?」
「今から書くんじゃなくて、もう書いてある曲をどれか歌わせてくれ。」
「というと?歌唱部の誰かのカバーか?」
「いや、違う。俺が『室井徹彦』になる前に書いた『あの曲たち』の中から次の曲を選ぶという事だ。ちょうど、『自分が歌ってみたい曲』を何曲か書いてたんだ。」
「面白い。」
将は、考えを巡らせた。
「なら、その『お前が歌ってみたい曲』をB面として事を前に進めろ。」
「は?B面?それじゃ、A面はどうしろって?」
「『闇夜の影』、覚えてるだろ?」
寿人は、将を信じられないような目で見る。
「そんな事をしたら、世間的には、こちらが『盗作』したように映るぞ?」
「構わない。一部の界隈では話題となるだろう。そして、何らかの問い合わせがあった場合、あの時の真相を白日の下に晒す。」
寿人は大きく息をつき、こう言った。
「相変わらずだな、お前は。場合によってはお前が大変になるのに。わかった、やってみるよ。」
将は軽く微笑んだ。
◆2019年10月13日
数万人を収容できるアリーナにて、「早川新の引退ライブ」は、14時に開演した。満員の客と取材に来ていたマスコミのカメラの目の前で、隼人は歌い始める。
初めから「引退曲」であり新曲の「眠らない希望」を披露する。
それから、今まで発表してきた曲を1曲残らず歌う勢いで披露していった。まだ隼人が「愛和音の歌手になる前」に歌われた曲たちは、しっかり「愛和音の歌手になった」今の隼人の洗練された歌声で新たな命が吹き込まれ、聴衆の耳を心地よい痺れで刺激した。
そんな中、隼人は愛和音に入ってから今までの光景を頭の中で映し出していた。
採用になった日の喜び、なかなかデビューさせてもらえなかった日々、そして、デビュー。その後の「遊軍期間」。歌う度に駆け巡る光景がさびしさを煽った。
一方、その頃アリーナに寿人が到着。スタッフとして関わっていない制作部部長の姿に愛和音の社員たちは驚いた。その驚きへ寿人は声をかけた。
「突然来てしまってすまない。」
その手には、アコースティックギターが握られていた。
「そして、急な頼みだが、俺用とギター用のマイクを準備してくれ。」
社員たちは、戸惑いながらも急ぎで準備してくれた。
そうしていると、ステージの方では、ラストの曲が始まろうとしていた。しかし、その前に隼人はファンに向けて言葉をかけ始めた。
「次が、ラストの曲、俺のデビュー曲の『見つめる価値』。」
すると、隼人は込み上げてくる物の気配を感じ、言葉を紡げなくなる。ファンたちの「頑張ってー!」という声や拍手に後押しされ、再び口を開く。
「いやー、歌いたくねぇなぁ。歌ったら、俺の歌手人生、終わっちまう。」
隼人は、自らの一言で落涙を止められなくなった。それでも涙声で必死に言葉を続けた。
「俺、幸せだなぁ。こんなに、いっぱいのファンに囲まれて。だけど、すげぇ、ダメなことしちまった。ごめんな、ごめんな。」
隼人の涙は、ステージの床に何滴も落ちる。
「いや、俺のこんな言葉、みんな、聞きにきた訳じゃねぇよな。俺の、歌、聴きにきたんだよな?すげぇ、泣いちまった声だけど、聴いてくれ、『見つめる価値』。」
そう、隼人が言った瞬間だった。
「待ってくれ。」
その声は、寿人。ギターを携えた寿人は隼人の元へ歩み寄る。
「なん、で?」
隼人は、驚くばかりだった。寿人は、戸惑いの客席の方に向き合い、話をし始めた。
「皆さんの中には、僕の姿を見るのは嫌だと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、少しだけ話に付き合ってください。」
寿人は、短いながらも頭を下げた。
「僕個人の話なんですが、ここ最近まで歌が歌えませんでした。しかし、早川新とのバトル曲『炎の想い』で再び歌うことが出来るようになりました。そして、僕自身、歌うことの楽しさを再認識させられました。」
寿人は、隼人を少しだけ見つめた。
「その『炎の想い』は、新が僕に『作って欲しい』と願って出来た曲です。だから、僕が歌への楽しさを再認識出来た恩人が、早川新なんです。そんな早川新には、何かしなきゃいけないって感じた!だから、皆さんと新がよければ、ここで早川新の引退を撤回します!!皆さんどうですか?」
隼人の見開かれた目からは大粒の涙。そして、客席からは、割れんばかりの歓声と拍手の嵐。隼人のファンの大半も泣いているようだった。
寿人は、隼人の頭を軽く何度か叩きながら短く尋ねた。
「新、どう?」
「歌いたいっす。歌いたいっ!これからも、ずっと!!」
弾け続ける隼人の涙。それに寿人は微笑む。客席の歓声は、その隼人の一言で更にボルテージが上がる。寿人はそれに負けずに声を張り上げた。
「ありがとうございます!ありがとうございます!!」
早川新の引退撤回への歓声はしばらく収まらなかった。それを寿人と隼人はステージで受け止めた。その後、寿人は話を再び始める。
「この歌のバトルの終結の印に『炎の想い』を2人で歌ってこのライブを終わりにしたいと思います。少し、準備をしますので、お待ちください。」
◆炎の想い
マイクの電源を一旦オフにしたあと、寿人は泣き腫らした目をした隼人に歌う部分の指示をする。
「大丈夫か?いける?」
「いける、っす。」
「まあ、最初は俺だけだから、その間気持ちを整理しておいてくれよ。」
再びすべてのマイクの電源をオンにし、寿人と隼人は客席に向き直った。
そして、寿人はギターを奏で始めた。「炎の想い」の新たなバージョンが生まれていく。
やがて、前奏が終わり寿人がソロで甘い部分を歌い出す。
そして、この曲最長の時間を費やす燃え盛る部分が始まる。激しく掻き鳴らされるギターと共に隼人が涙から復帰した声で歌い出した。寿人は、この時向けに新たに作り出したバックコーラス用の旋律を歌い、隼人の歌を引き立てた。
時は過ぎ、曲は終盤に。隼人が繊細な旋律をソロで歌い、曲は終わった。
◆終わるもの終わらないもの
アリーナは、「炎の想い」の余韻に包まれた。寿人は、客席に一礼した後すぐにステージから降りて行った。隼人は、心細そうな顔をしたが、寿人はそんな顔をステージ袖から真っ直ぐ見つめ、力強く頷いた。
「みんな、ありがとう!ありがとうございました!!」
隼人は声を大にして礼を言った。その声にファンからのアンコールの声が。それに応えて隼人は笑顔で「見つめる価値」を歌い上げた。
そして、16時半頃、早川新の引退ライブ「だった」ステージは、終わりを告げた。
◆ライブの後
翌日14日、朝からテレビ番組のエンタメコーナーは、早川新の引退撤回の話で持ちきりだった。早川新と響義浩が歌った「炎の想い」の映像が繰り返し流され、多くの人々の耳に、そして、目に曲や情報が届いた。
ジェントルの社長室では、南山が立ち上がり苦々しそうに怒鳴っていた。
「早川新が引退しない?どう言うことだ!!それでは、響義浩と早川新の2枚看板が愛和音にある、と言うことになってしまうじゃないか!!」
そう言った後、南山は椅子に座る。
「負けたよ、橋野君。」
一方、愛和音の社長室では、将が寿人と隼人を目の前にして、にこやかに言った。
「この一連の流れは、すべて俺の思った通りに事は進んだ。だが、予想以上に会場は熱気に包まれたようだな。そうだ、どうだ?あのバージョンの『炎の想い』、レコーディングし直して出すか?」
「いいんすか?」
「やってみようか。」
「ああ。だが、その前に俺たちは、謝罪をしなければな。この1年近く、社内の空気を乱す事を俺たち3人はしてきた。社員全員の前で謝ろう。」
寿人は頷く。隼人はそんな寿人の様子を見て、続くように頷いた。
そして、節目の時ではないが、急遽全社員に召集がかけられる。その社員たちの目の前には将、寿人、隼人が。そして、社員たちが揃った事を確認した将は、口を開く。
「既に報道等で知っている事とは思うが、早川新こと中山隼人君の歌手引退は、撤回させた。ここまでの一連の出来事は、愛和音に響義浩としての小橋寿人を迎える為に私が画策した事だった。昨年末からここまで不安などを抱いた者もいただろう。その不快感に対するすべての責めは、私にある。申し訳なかった。」
将は、深々と頭を下げる。寿人は、小声でこう言った。
「全部、背負うなよ、橋野。」
そして、寿人は将に続けて謝罪の言葉を社員に向けて話し始める。
「これまでの俺の行動に正しい事は何もないと思う。正直、頭に血が昇って、暴言を浴びせた人もいる。それは許されない行動だと思っている。本当に申し訳なかった。」
寿人は頭を下げた。それに続いて隼人が話し始める。
「元はと言えば、俺が言った事でみんなに心配かけました。申し訳ありませんでした!」
隼人も頭を下げた。それを確認すると、将は再び話しをし始める。
「もう既に、私から小橋、中山君には『懲罰』を与え、その期間は終了している。後は、残る私自身への『懲罰』として、来月から半年、役員報酬を自主返納する事を決めた。その周知をもって散会とする。皆、持ち場へ戻れ。」
社員たちは、複雑な表情からどこかほっとした表情に変化しつつ持ち場に戻って行った。それを見届け、謝罪した3人もそれぞれの場所に戻った。
寿人は、制作部の部屋へと行き、理沙はじめ、「部下」の3人に改めて謝罪した。
「野崎さん、林さん、今井さん、本当にすまなかった。」
理沙は、それに返した。
「もう、謝らないでください。正直、凄く辛かったですよ?でも、もう、それを責めたら、小橋さんが辛くなるでしょう?『辛さ』の悪循環は、ここで止めましょう。」
治行と要は穏やかな表情で頷いた。
「ありがとう。みんな。」