第二楽章:飛躍
◆愛和音
社長の将は、発足式の後、愛和音の現状を説明する。
「現在、愛和音は社屋を建設中だ。それが出来るまで、事務所と制作活動はここを使用する。レコーディングは、近くにあるレンタルスタジオを随時借りて行い、CD製造は、隣の部屋で行う。皆には不便をかけるが、いい働きを期待する。」
それを受け、社員達は持ち場に散って行った。
「始まったな、橋野。」
「ああ、これからだ、小橋。」
将と寿人は、そう言葉を交わした。
それからまもなくの事だった。だだっ広いレンタルスタジオにて、愛和音にとっての試金石とも言うべきはじめの1曲のレコーディングが行われていた。
「やだぁ、こんな難しい曲、歌えなぁい。」
甘ったるい顔をした京子が寿人に言う。
「そんなに、難しいか?チャレンジしてくれないか?」
将の妹で、多少年上の女性ということから、遠慮がちに寿人は言う。
「もー、嫌ー。」
京子は、マイクの前から離れ、椅子に座ってしまった。
「下手だけど、俺が見本、聴かせるから歌って?」
寿人は、棒読みの歌を歌った。すると、京子は笑いはじめる。
「本当に下手ね。それに、男が女言葉で歌ってるの、変。」
「君が歌ってくれれば、俺が歌うこと、ないんだけどなぁ。」
「ふーん。何かおごってくれるんだったら、歌ってやってもいいけどぉ?」
鼻にかけた声で京子はマイクの元へと戻ってくる。寿人は、多少の時間考えた後、こう言った。
「よし!今回だけだけど、好きなものご馳走するよ。」
「あら、本当に?じゃあ、私頑張っちゃう!!」
一転ルンルンな雰囲気で京子は歌いはじめる。
「橋野からは想像出来ない妹だなぁ。それにしても、歌は凄い。」
レコーディングが終了すると、寿人は京子にこう声をかけた。
「難しい曲って言ってたけど、凄く上手く歌ってたよ。これ、いけそうだ。」
「私を誰だと思ってるのぉ?橋野京子よー?」
寿人は、京子が上目遣いで言った意味不明な返答に苦笑いした。その後、約束通りに京子の望んだ近所のフレンチレストランに連れて行き、夕飯をご馳走した。
それから、「嘘はつかないで / 滝野宮子」がひっそり発売される。その美麗なメロディーは話題を呼び、右肩上がりでジェランの順位が上がっていく。そして、最終的に最高で週間4位まで食い込む曲となった。
「まずは、挨拶代わりだ。南山。」
将は、その結果にこう呟いた。
◆動揺
一方、ジェントルでは動揺が広がっていた。企画経理部の男性社員同士が話していた。
「なんなんだ?『滝野宮子』って。」
「それに、『室井徹彦』?初めて見る。」
その会話を制作部副部長の順が通りがかりながら聞いた。そして、呟いた。
「僕にはわかる。『室井徹彦』は、小橋君だ。あの曲は、小橋君の第一歩の曲だろう。」
順の心には、ライバルとなったが、そのライバルの寿人の活躍に対する誇りみたいな物が溢れていた。その横で、企画経理部の男性社員が話を続ける。
「『愛和音』、一体?」
「ちょっと待て、資料見たが、社長が、橋野!橋野将じゃないか!!」
「なんだって?あいつが?」
◆契約
そんなある日、将は、古巣のジェントルにいた。社長の南山にしっかりアポイントを取り、3年ぶりに南山のいる社長室に入室した。
「お時間いただき、ありがとうございます。」
「橋野君、どういうことだね?」
「事前に送らせていただいた資料、ご覧になりましたか?そこにあるものが、すべてです。」
「見たよ?だが、そういうことじゃない。」
「私が『愛和音』を立ち上げた理由を知りたそうですね。答えは簡単です。『作りたかったから作った』までです。」
「ジェントルとおんなじ『総合音楽会社』じゃないか!!そういうことをするのなら、辞めずにここで仕事をするべきじゃないか!!」
「南山さん、私は社長をやりたかったんです。ただ、それだけです。まさか、南山さんを蹴落とすわけにいかないでしょう?」
南山は、落ち着かない様子だったが、将が送った資料に目を落とす。
「しかし、20年?20年『響義浩』の名前を『貸せ』とは何の狙いがあるんだ?ん?まさか、『愛和音』に、小橋君がいるんではあるまいな?」
「見ての通り、発足したばかりの『愛和音』は、看板が欲しいんです。過去、『とても人気』だった『響義浩』の名前は看板として弊社にとっては魅力的です。是非とも『歌手名』ではなく、『ただの看板』として、『響義浩』の名前を使いたいんですよ。それに、その資料をもって、『愛和音』に元『響義浩』の『小橋寿人』がいないのは逆におかしいでしょう?」
「小橋君が個人的に使うということではないのか。しかし、3年前に君らは結託していたのか?」
「いいえ、巡り合わせがよかっただけですよ。」
将は、南山を真っ直ぐ見て、続ける。
「その資料にある通り、『愛和音』に『響義浩』の名前を貸していただきたい。弊社が『響義浩』の名前を使用した際の売上は、すべて御社の物になります。そして、20年後に、更に買い取らせていただきます。」
南山は、資料を凝視。
「本当ならば、今すぐにでも買い取らせていただきたいのですが、弊社は、発足直後で潤沢な資金はありません。ご理解、ご協力をいただければ幸いです。」
「わかった。乗ろう。」
「ありがとうございます。」
将は、深々と頭を下げた。
その後、年が明けた1998年、「響義浩」の名前は、契約により愛和音の借用物となった。
◆快進撃
そんな1998年1月、寿人は、陽太のレコーディング現場にいた。
「よろしく、神谷さん。」
「よろしくお願いします。」
なんとなく、他人なのに自分と雰囲気の似た男だなと思いながら、寿人は陽太の歌声を聴く。採用試験の時にも聴いた歌声だったが、そのぬくもり溢れる歌声に、寿人は思わず聴き惚れた。
「本当にありがとう。俺の作った歌じゃないみたいだ。」
「そうですか?」
陽太のレコーディングは、すんなり終わる。そんな陽太に寿人は簡単な言葉をかけた。
「お疲れ様。」
それに陽太は軽く会釈し、レンタルスタジオから退出していった。それを見送りながら、寿人は呟いた。
「橋野の妹とは、違うなぁ。」
その後、壮大でゆったりした曲の「大いなる愛で / 城野博」は発売された。CDの帯には、「響義浩が室井徹彦に!室井第2作目のこの歌!!」と書いてあった。歌番組などでも、この歌を作ったのは、室井徹彦という人物で、数年前まで歌手だった響義浩だと強調。その効果もあって「大いなる愛で / 城野博」は、愛和音が狙ったジェラン週間初登場1位を獲得した。
それを受け、寿人は将に言った。
「来たな、1位。」
「ああ。」
「だけど、この売上は、愛和音の物にはならないんだよな。」
「そうだ。」
「『響義浩』に頼らない曲作り、しなきゃな。」
「ん?『看板』としての『響義浩』の出番は、これで終わりだ。」
「え?」
「まあ、そう言うことだ。」
将は、去って行った。取り残された寿人。
「え?」
契約により、「大いなる愛で / 城野博」で得た金は、1円単位まできっちりジェントルに振り込まれた。
将の言葉に疑問を抱きながらも、寿人は3曲目、4曲目と良質な歌を作り、陽太や京子に歌ってもらった。その都度出されるCD。しかし、それには「響義浩」の名前はどこにもない。その代わり、小さく「室井徹彦」の名前が書かれ、大々的に書かれていたのは、歌手の名前の「城野博」や「滝野宮子」の文字だった。
そうして出される歌は、決まってジェラン週間初登場10位以内という結果を叩き出す。
◆厳しい戦略
その結果を受け、ある日寿人は将に言う。
「『響義浩の看板』を使わない理由、なんとなくわかった。」
「わかったか。」
「あんまりやりすぎると、『ジェントルの一覧』だもんな。」
「そう言うことだ。これ以降も、その戦略でいく。新入りは、デビューの時だけ大々的に宣伝し、後はその歌手の実力次第、ということにする。それには、お前の作る歌にも責任がかかっているからな。頼むぞ。」
「わかった。」
◆甘ったれた敵意
「もー、今日は、やーめた。」
京子がその日のレコーディングの途中で急にこう言った。寿人は、困った顔をする。
「京子さん、どうして?歌、乗ってたよ?」
「疲れたのぉ。」
「ひと休みする?」
「帰る。」
「ちょっと!ちょっと待って!!京子さん!」
引き留める寿人。京子は、振り返った。そして、おもむろに小さなカタログを取り出した。
「ねぇ?これ買ってくれたら、頑張るわ。」
京子の指に差された商品は、そこそこの値段の香水だった。
「今度は、香水?」
「いいでしょう?」
寿人は、ため息をつく。
「わかった、今度ね。」
「ありがとー。」
そして、京子はその日の曲を歌い終わる。
「京子さん、ちょっと話しをしないか?」
「私は、話、ないわよ?」
「少しだけだから。」
と、寿人は多少無理矢理近くのカフェに京子を連れて行った。
「レコーディングの度に仕事放棄しないでくれないか?きつい言葉をかけて悪いけど。」
と、京子と向かい合いながら寿人は言った。その京子は無言で寿人を睨み付ける。
「今日は、歌ってくれたから、香水買ってあげるけど、毎回は出来ないよ?一応、京子さんにも給料は払われてるんだから、それで好きなもの、買えるだろう?」
京子は、そんな寿人から目を反らした。
「私、『愛和音』に、仕事しに来たわけじゃないのよ?」
「え?」
予想だにしない言葉に、寿人は開いた口が塞がらなかった。
「私、お兄ちゃん大好きなの。」
「橋野、を?」
「そのお兄ちゃんと私ね、昔、ワルだったのよ。」
「橋野、が?」
「本当に、2人でバカやって、楽しかったぁ。そんなお兄ちゃん、大好きだったのよ。」
京子は、寿人に向き直る。
「でも、『高校卒業したらちゃんと就職しなきゃ』って言ってジェントルに入ってさ。それからも、私とバカな遊びしてくれてたんだけど、働きだして4年、5年くらい経った頃かな?急に真面目な男になっちゃって、お兄ちゃん、つまんない男になったの。」
寿人は、将の知られざる情報に驚きを隠せなかった。
「お兄ちゃんをつまんない男にした『仕事』をお兄ちゃんの近くで見てみたくて『愛和音』に入ったの。そして、わかったわ。お兄ちゃんがつまんない男になった原因。」
「何?」
「言わないわよ、そこまでは。私がつまんない思いをした10年くらい、いいえ、その何倍の時間、『その原因』には、嫌な思いをしてもらうわ。」
「会社全体に、影響がない範囲でお願いするよ。」
その寿人の言葉に答えを返さずに、京子はカフェを出ていった。
◆苛立ち
寿人は、京子に苛立ってしまった。そして、その鬱憤を、あろうことか自らの曲作りにぶつけてしまう。
「出来た。」
その曲は、一見爽やかな曲ではあるが、その爽やかさに似合わないわかる人にはわかる下ネタが混ざった歌詞の曲だった。歌唱部部長の陽太は、それを受け取り、困惑した。そして、それを社長の将に報告する。
「いいんですか?こんな曲、歌わせてもらって?」
将は、即答した。
「駄目だ。神谷君、この曲のことは忘れてくれ。」
「わかりました。」
その後、将は寿人を呼び出す。
「何だ?橋野。」
「お前な、この曲は、何だ。」
「すまない。イライラしててな。」
「イライラ?それだとしても、個人の範囲で収めてもらいたかったな。少なくとも、神谷君は困ってたぞ。」
「後で謝っておく。すまなかった。」
「だが、勿体ないな、お前が外に出すって決めた曲をお蔵入りさせるのは。」
「神谷さんにまた返すのか?」
「いや、俺が歌う。」
「え?お前が?駄目だ!取り下げる!!」
「まぁ、いいだろう。いつになるかわからないが、レコーディングして発売しよう。」
それに戸惑う寿人がいた。その日のうちに、陽太に寿人は謝りに行った。すると、陽太は笑いながらこう返した。
「いや、小橋さんも男だなぁ、と思いましたけどね。」
その後、その曲は「狙い撃ち / 安野雲」として世に出た。正体不明の男性歌手というミステリアスな雰囲気に心惹かれた者たちが多数購入し、まさかのジェラン週間初登場12位を記録する。歌った将本人がこう言った。
「なかなか予想外の展開だな。さほど宣伝などしてなかったが、『愛和音』の名前が定着してきたのか? いい収穫だった。小橋、これからも自由に曲を作れ。変な曲は、俺が歌うから。」
「なるべく、お前には歌わせないようにする。」
寿人は、「狙い撃ち / 安野雲」を作ってしまった後悔と、6年付き合ってきて初めて聴いた将のたくましい歌声への驚きが入り交じった気持ちでそう返した。
◆2人だけの忘年会
激動の1998年も終わりを告げようとしていた。愛和音は、二度目の忘年会を開き、一次会が終了。将は、社員全員に解散を呼び掛けた。
「皆、お疲れ様。気をつけて帰るように。」
社員達はそれぞれの場所へと帰宅していった。
「小橋、二次会、行くか?」
「ああ。と言うか、そう言う約束だったろう?」
寿人と将が向かったのは、あのマスターのいるバーだ。将が先に入店しながら挨拶した。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。って、しょうちゃん!それに、ひーちゃん!久しぶりだねぇ。えっと、4年ぶりかな?」
それに寿人は返した。
「ご無沙汰です。」
マスターの変わらない眼鏡の奥の小さな目がふにゃりとする。カウンターに寿人と将は座る。そして、将がおもむろに封筒を取り出し、マスターに手渡す。
「中身は、俺達が帰ってから見てくれ。」
「ええ?今、確認するよ。しょうちゃん。」
「駄目だ。」
寿人も頷きながら将に続ける。
「マスター、我慢して?」
「うーん、わかったよー。」
マスターは困ったようにその封筒をとりあえず手の届かない所に置いた。その封筒をチラチラ見ながらマスターは話題を変えた。
「『愛和音』、いいね。ここに来るお客さんも、『愛和音』の曲が気に入ってる人、いっぱいいて、カラオケにその曲入れる人、増えてきたよ。」
寿人は、笑みを浮かべた。
「そうなのか。よかった。なあ?橋野。」
「やはり、定着してきているな。『愛和音』の歌は。」
その言葉を聞きつつ、マスターは、2人の酒を作りはじめる。
「はい、どうぞ。」
「じゃあ、小橋、乾杯。」
「橋野、乾杯。」
2人がはじめの一口を飲み終わった事を確認すると、マスターはこう言った。
「しょうちゃん、そう言えば、『狙い撃ち』って、しょうちゃんが歌ってるでしょ?」
「よくわかったな。」
「さすが、マスター。」
「ひーちゃんもなかなかの曲、作ったねぇ。」
「いや、あれは、事故みたいな物で。」
「ひーちゃん、ああ言うの、これからも作ってよ。しょうちゃんの歌声、いいでしょ?」
「ああ、本当にびっくりしてしまったよ。」
そんな和やかな忘年会の二次会は2時間程度で終了した。この日の飲み代を寿人と将は割り勘で支払い、バーを後にする。
「まいど。」
そんなマスターの声を背にして。当のマスターは、寿人と将が帰った事から渡された封筒を開けてみた。
「やっぱりね。困るよー、しょうちゃん、ひーちゃん。」
そこには、「ツケ」にした「あの時」の飲み代の10倍相当の金が入っていた。暗がりの中、マスターは寿人と将を追いかけたが、姿を見ることはかなわなかった。
◆タイアップ
愛和音の社屋が遅くとも年末には完成すると見込まれている1999年が始まってはや数ヶ月。愛和音には、新入社員が数人来ていた。社長である将は、事務所で簡単な入社式を執り行っていた。
「これから、皆には、いい働きを期待する。」
一方、寿人は陽太のレコーディングに立ち会っていた。陽太は、それが終わると、こう言った。
「入社式、部長職の僕らが出なくて本当によかったんですかね?」
「仕方ない、『納品』期日を前倒しさせられたんだから。」
愛和音は、初のタイアップ曲の注文を受け、「城野博」が歌う事になっていた。発注元の担当者が期日を間違え、この日にレコーディングをしなければ間に合わないと見込まれたため、急遽ここに来ていた。
「荒削りになるとは思ったけれど、ちゃんと歌ってくれた。これで大丈夫!」
寿人は、「納品」作業に移ることにした。その様子を見て、陽太はこう言った。
「どんどん人増やしていったら、小橋さんがそこまでの仕事、しなくて済む日が来そうですね。」
「まぁね。」
そうして「納品」された「黄昏まで / 城野博」は、高級車のCMソングとして聴衆の耳に届いた。優雅な車の出で立ちとその穏やかな曲が最高にマッチし、短いCMではあったが感動を呼んだ。ジェランでは、愛和音始まって以来の月間7位を獲得し、寿人は、将や陽太と喜びを分かち合った。
「狙いどおり、ってやつかな?」
「次は、年間ひと桁を目指すぞ。」
将は、決意に溢れた目をした。
◆見学
そんな1年が過ぎようとしていたこの年の秋、遂に社屋が完成。寿人は将に誘われ、その内部を見に行った。その寿人の声が響いた。
「さすがに、綺麗だな。」
「当たり前の事だな。」
まだ物が少ないがらんどうとした空間だったが、明るい印象の社屋であった。そこかしこの窓が大きく光が降り注ぐ。
「ここが、『制作部』の部屋だ。」
「おー!ピアノ!!あっちは部屋狭いから動かせるキーボードとかギター位しか置けない所だったからなー。腕が鳴るよ。」
「いい曲、期待するぞ。」
そして、歌唱部の部屋にも案内された。
「こっちには、キーボード?あっちの流用すればよかったのに。」
「いや、『歌う練習』のために、それに特化した物がいいとは思ってな。新しく置くことにした。あっちのキーボードは、『遊び』にでも使え。」
「それにしても、歌唱部の部屋、すんごい広い。制作部の部屋も広いって感じたけど、ここ見たら、狭く感じるな。」
「まあ、別にいいだろう?」
何故か将にはぐらかされた寿人は、次の場所、レコーディングブースの部屋へと案内される。
「凄い機材だ!けど、ブース、小さく見える。レンタルスタジオに慣れちゃったからなー、俺の目。」
「機材の方に力を入れたからな、その分狭くなってしまったんだ。」
「そうだったのか。楽しみだな!これ使うの!!」
その後も寿人は将と共に新社屋のすべてを見た。最後は、社長室だった。白を基調とした調度品が並んでいた。
「白かー!お前に似合うな!!」
「そうか?適当な事言ってるように聞こえるが?」
「あ、正直。」
将は笑った。そして、寿人と将の新社屋見学は、そんな将のこんな一言で締め括られた。
「一週間後の移転作業、大変だと思うが、よろしくな。小橋。」
◆困惑の
それから一週間後、移転作業に忙しくしていた愛和音の事務所に1人の女性が訪ねて来た。 その姿を見た女性社員がこう声を上げた。
「佐崎佑里?」
そう呼ばれた周囲が洗われそうな雰囲気の女性は、お辞儀をしながら挨拶をした。
「こんにちは。お忙しそうですね?お手伝いさせてください。」
寿人は、旧事務所の荷物搬出の指揮担当としてそこにいた。
「いや、お客さんにそんなことをさせるわけにはいきませんよ。」
そう言いながら、寿人は作業の手を止め、『佐崎佑里』に対応することにした。
「室井徹彦さん?ですよね?」
「はい。本名は、小橋寿人です。」
「はじめまして。私は佐崎佑里こと野崎理沙です。私、あなたとお仕事をしたくてここに来たんです。」
「いやいや、そのお気持ちは嬉しいですけど、あなたは、既に立派なシンガーソングライターとして活躍されてる方じゃないですか?駆け出しの会社に来ていいんですか?」
「はい、是非そうしたくて。」
「えっと、社長の橋野がどう言うか。」
将は、移転先の新社屋の方で荷物搬入の指揮を同じ時間行っている。理沙は、状況を再度見回し、こう言った。
「いずれにしても、お忙しい所に来てしまって申し訳ありません。日を改めます。」
「橋野には伝えておきます。あと、連絡先いいですか?」
「はい。」
理沙は、名刺を置いてその日は去って行った。
その日の夕方、新社屋に寿人は移動。名刺を渡しながら事情を説明した。将は、眉間に皺を寄せるだけだった。
「この件は、俺が預かる。伝えてくれてありがとう、小橋。」
◆面接
新社屋のこけら落としを済ませた一週間後、将は理沙をその新社屋に呼び出した。理沙の手には念のためと、履歴書があった。
「野崎理沙です。よろしくお願いします。」
理沙は将に向かって綺麗にお辞儀した。将は、真新しい椅子に理沙を座らせた。
「どうぞ、おかけになってください。」
そんな将に、履歴書を渡す理沙。
「頂戴します。」
将は、軽く頭を下げ、それを受け取った。そして、それを見ながら質問を始める。
「小橋にもお話ししてくださったかと思いますが、もう一度、志望理由を教えてください。」
「私、小橋さんの作る音楽に感銘を受けました。『この人と一緒に音楽を作りたい』と思うようになりました。」
「具体的にどのような事を想定していますか?」
「曲を小橋さんと合同で作って城野博さんや滝野宮子さんに歌ってもらったり、小橋さんが作った曲を歌ってみたりしたいと思っています。それが、私の夢になりました。」
「わかりました。弊社の人材への評価、ありがとうございます。ただ、弊社は駆け出しなもので、十分な報酬を与える事が難しいです。今の収入より大きく下がる可能性がありますが、そこのところはどうでしょうか?」
「夢を実現できるのであれば、しばらく無給でも構わないと思っています。人材を募集しているわけではない時にお願いに上がった身ですから。」
「そうですか。採用するかどうか、判断します。後日連絡を差し上げますので、お待ちください。」
理沙は、深々とお辞儀をし、その日は帰って行った。
理沙は、フリーで活動している身だが、26歳にして既に大物シンガーソングライターだ。将は悩んだ。
「採用は、したくない。だが。」
◆返答
将は、疑心暗鬼的な思考に陥った。そして、真新しい社長室で独り言を言い始める。
「ジェランで結果は出てきてはいるが、それも、何かスキャンダル的な情報が出たら一気に崩れてしまうだろう。それが今の愛和音だ。」
次第に頭を抱える。
「もし、万が一、佐崎佑里が『愛和音は自分を拒否した会社だ』と喧伝したら、ひとたまりもない。ジェントルを『倒す』前に、愛和音は『自爆』してしまう。」
将は、抱えた頭を戻し、まっすぐ前を見つめた。
「採用は、したくない。だが。」
そして、将は寿人と陽太を呼び出した。
「小橋、神谷君、佐崎佑里こと野崎理沙を制作部と歌唱部の掛け持ち社員として迎えることにした。2人とも、部長として面倒見てやってくれ。」
「わかった、橋野。」
「社長、わかりました。」
翌日、理沙の元へ「採用」の連絡が入る。
「ありがとうございます!」
理沙の弾む声が響き渡った。
1999年の年末、理沙は愛和音の社員となり、そこで少ないながらも収入を得ることになった。
◆発展と焦り
2000年となった。愛和音は、「佐崎佑里」の「移籍」を発表。早々に理沙の夢が実現。寿人が作った歌を引っ提げ理沙は愛和音の歌手としてのデビューを果たす。
当然、室井徹彦作、佐崎佑里歌唱のその曲は、少し情報が出ただけでたちまち話題になり、実際発売された「たくさんの愛に包まれて / 佐崎佑里」は、ジェラン週間初登場1位を獲得。その透き通る歌声で歌われたあたたかみのある曲は、5週連続で1位の座から落ちることはなく、月間1位も同時に獲得。音楽界に愛和音旋風が起こりはじめてきた。
この年で63歳を迎える南山は、ジェントルの社長室でジェランの一覧を忌々しそうな目で睨んでいた。
「その座は、ジェントルの物だ。愛和音のものではない。」
同じくジェントルの社屋の中、制作部では、いち職員に降格していた58歳になる順が穏やかに笑っていた。
「小橋君、いいよ、いいよ。」
順が見渡した制作部のフロアには、原の姿はなかった。
◆歌唱部
京子は、後輩である理沙に話しかけてきた。
「新入りさんに、やすやすと月間1位を獲られるとは思いもしなかったわ。」
「京子先輩。」
「『先輩』?気に障るわね。先輩呼ばわりする必要は、ないわ。」
「どう呼べば?」
「好きにしなさいよ。」
「京子さん?」
京子は、それに返答しなかった。
「とりあえず、月間1位おめでとう。」
「ありがとうございます。」
理沙は、京子からふんわり匂う香水の香りに癒された。
「いい香り。」
理沙は微笑んだ。
「これねー。もうすぐで無くなっちゃうから、また、買ってもらうのよ。」
「誰に?」
「『小橋制作部部長様』にね。」
「えっ?」
理沙がそう言うと、その寿人が来る。
「野崎さん、希望のあった合作の打ち合わせいいかな?制作部の方に来て?」
「わかりました。小橋さん。」
2人で立ち去ろうとしたその時、京子が絡んできた。
「ねぇ?小橋部長様?これ、また買って?」
「じゃあ、これ、読み込んでおいてね。」
寿人は、京子に滝野宮子の新曲のスコアを手渡した。
「前払いしてよー。」
「後払い、いいね?」
「もー、や。」
◆合作
「実は、俺単独で曲を作ることしかしてなかったからさ、合作って初めてのチャレンジなんだよね。やりづらいかもしれないけど、よろしくね。」
寿人は、理沙にそう言った。
「そうなんですか!」
寿人自身も、どうやって2人で曲を作るかここまで決められずにいた。しかし、将から合作曲制作に対する催促があったため、この際、理沙と話し合いをしながら作ろうと呼んだ。
「だから、作業のイメージが全然無くてさ、最初は、君におんぶにだっこ、させてもらおうかな?君は、どんな形で俺と曲、作りたかった?」
「歌詞を私が作って曲をあなたが作る、とか、逆も考えてました。」
「じゃあさ、どっちもやってみていい方の曲、出してみようか?それも、男性曲と女性曲1曲ずつさ。」
「4曲出来ますね?」
「そうだね。作ったらさ、社内で聴いてもらって一番を発売しようよ。」
「わかりました。」
それから、寿人と理沙は2人で顔を突き合わせながら歌詞を書いたり、ピアノやギターにて曲を作ったりした。
時折、雑談などを挟む寿人と理沙。
「野崎さん、『フリー』ってさ、どんな感じで仕事してたの?」
「作曲とかは、自宅でしてましたけど、どうしてもCDを出す時は、専用の設備が必要なので、その時その時で施設を『借りる』っていう『契約』をいろんな総合音楽会社と結んで、CDを作ってもらってたんですよ。小橋さんの古巣のジェントルの施設も時々『借りて』ました。」
「へー、そうなんだ。俺、会社の正社員になることでしか『音楽人』になれないと思ってたんだけど、そんな道もあったんだ。中学の頃の俺に教えてやりたいよ。」
そんなやり取りを含んだ時間を過ごしているうちに4曲が出来上がる。社内の人間に聴かせるため、デモを作ることにした。男性曲は、寿人が相変わらずの「棒読みの歌」で作り、女性曲は理沙が「教科書通り」に歌う。
ある日、そのデモを将はじめ、時間のある社員たちに集まって聴いてもらった。
「ふふ、下手。」
京子は、男性曲のデモで小さく笑った。それを寿人は耳にしたが、相手にはせず、4曲聴かせた後、こう言った。
「どれが良かった?」
意見はだいぶ割れた。どれも甲乙付けがたいという意見もあった。そして、将は言った。
「4週連続企画として出そう。すべて。城野博と滝野宮子交互にな。先に予定していた滝野宮子の曲から出して、この企画は、城野博から始めよう。」
「すべて採用していただけるんですか?」
理沙の言葉に、将は頷き、こう続けた。
「ちょうど、こちらに移転してから製造部の生産能力は格段に上がったからな。可能だろう。」
その言葉に寿人は表情を引き締めた。
「それに、機材も色々揃えてくれたからな。それで、最高のアレンジをして発表しよう。」
そうは言ったものの、寿人は、ひとつ気持ちが重かった。滝野宮子の曲を出す、という事は、再び、京子に振り回される。
「はぁ、どうするか。」
◆先手必勝
後日のことだった。寿人は、対策を練って京子の所に乗り込む。
「京子さん?今回のごほうびは、香水だけじゃ足りないよね?何がいい?」
寿人は、京子にこう言った。すると、京子は顔を一瞬しかめた後、こう言った。
「要らないわ。香水も。」
「本当に?新曲3曲、『報酬なし』でやってくれるの?」
「そう訊かれると、つまんない。」
「何?遊びでやってたのか?」
「そうよ。」
寿人は、動きを一瞬止めた。そして、とりあえずの「勝利」を得たと確信。
「じゃあ、のどの調子を見ながら3曲連続でレコーディングするよ。覚悟はいいかい?」
京子は「負けた」というような顔をしながら、真新しい匂いが残るレコーディングブースにて、いつもの通りの歌声を披露していった。
「京子さん、いつもながら。」
寿人は続いて「凄かったよ。」と言いたかったのだが、京子はその言葉を遮り、
「お疲れ様。」
と、素っ気なく言ってスタジオを後にしていった。
「完全勝利、かな?さて、これからが本番だ。」
◆立て込む仕事
京子に続いて陽太のレコーディングも実施。何事もなくそれは終了する。寿人は、気合いを入れる為、独り言を言う。
「5曲のアレンジ、行くぞ。」
寿人は、与えられた新機器にて、作業を開始するが、あれもこれも「いい」と感じてしまい、なかなかそれが終わらない。寿人は、将にこう言った。
「なぁ、会社に泊まっていいか?」
「そんなに難しいか?」
「夢がいっぱいでな。」
「そうか。休息は取るんだぞ。」
それを受け、寿人は夜遅くまで作業。仮眠の後、朝早く起き、再び作業。5曲目まで完成させ、確認の為、1曲目を聴くと、決まってこの感想を抱いてしまい、1曲目から作り直す。
「何か、違う。」
寿人は堂々巡りのような作業を締め切りを気にしながら進めた。
そんな中、将が来る。
「タイアップ曲の話が、3社来た。資料置いておくな。」
「わかった。」
そうは言ったが、頭のキャパシティーが追いついていない自覚があった。そこに、理沙が来る。
「アレンジ、なかなか決まらないですか?」
「まぁね。」
「ごめんなさい、私の夢を実現してもらうために無理させて。」
「俺の活動に対して、評価してくれたからね。君は。その君の夢は、叶えてやるよ。ああ、そうだ、そこの資料、見ておいて。タイアップ曲の依頼来たようだから、場合によっては君に全部任せることになるかもしれないから。」
「わかりました。」
「出来ればそうしたくないから、俺頑張るな。」
そう言いながら寿人はこの状態は、「缶詰め」だ。と、ふっと思った。その「缶詰め」という言葉に順を思い出す寿人。
「先生、俺、大丈夫かな?」
そう呟いた。すると、順の声が聞きたくなった。
「小橋と申します。順さん、いらっしゃいますか?」
あいにく、仕事中で順はジェントルにいるとのこと。折り返してもらうことになった。そして、その日の夜に順から電話があった。
「久しぶりだね、小橋君。」
「先生、俺、限界かもしれません。」
正直に気持ちを吐露し、今の状況を説明した。
「うーん、橋野君がどう判断するかわからないけど、そこまで行ってるのなら、編曲専門の人材を採ってもらいな。君が『自分でやるんだ!』っていう考えだったら、その限りじゃないけども。」
「橋野に無理言ってやってもらいます。」
「健闘を祈るよ。今では、ライバルだけど、君のファンでもあるからね。その5曲、楽しみにしてるよ。」
「ありがとうございます。」
「そうだ、僕、携帯電話持ったんだ。これからは、こっちに電話もらってもいいよ。」
「そうなんですか!」
そして、順の携帯電話番号をメモし、通話を終わらせようとした。すると、順はこう言う。
「橋野君に、僕の所に電話するよう伝えてくれないか?」
「はい。」
「じゃあ、頑張ってね。」
翌日、将にその事を伝えた。将は、早速順の携帯電話に電話した。
「橋野君、久しぶりだね。」
「お久しぶりです。」
「久しぶりなのに、苦情から言わせてもらうのは気が引けるけど、いいかい?」
「なんですか?」
「君は、小橋君を潰す気かい?」
「え?」
「『え?』じゃないよ。小橋君の状況、見てやってないでしょ?小橋君の気持ち次第だけど、近いうちに小橋君から話があると思うからそれを聞いてやりなよ。」
「はい、わかりました。」
将は、何の事で叱られているのか全くわからなかった。
そんな通話中、別の所で寿人は決意していた。
「橋野、申し訳ない。今、言いに行く。」
◆依頼
寿人は、社長室へ入室した。
「橋野、凄く心苦しいんだけど、編曲担当の人を募集してくれないか?俺は、ベースとなる作詞作曲に野崎さんと専念したい。」
「矢吹さんが言っていた。最近、お前の事を見てなかったかもしれない、すまなかった。ちょうど、歌手の方も増員しなければと思っていた所だ。同時に募集、かけてみる。」
「金の方、厳しいんだろう?」
「それはそうだ。だが、それを心配するのはお前の仕事じゃない。俺の仕事だ。」
「悪いな。」
「いや、それでこそ、最近の俺の失態への罪滅ぼしだ。その代わり、お前の仕事で苦しい財布事情を救ってくれ。いいな?」
「わかった。5曲連続発売の話は編曲担当の人が来るまで少し保留させてもらって、野崎さんとタイアップ曲の方に力を注ぐ。こっちは、外部的な締め切りがあるからな。それでいいか?」
「勿論だ。」
将は、そう言い切ると、寿人の顔をじろじろ見る。
「小橋、今日は作業途中でも何でも定時に帰れ。」
「え?」
「髭面でずっといるつもりか?」
寿人は自らの顎に触れた。ジョリジョリするような、モサモサするような自らの髭に苦笑いした。
「そうさせてもらうよ。」
そして、寿人は社長室を出ていった。それを見送る将は頭をかいた。
「野崎をどうやって排除するか、そんな事ばかり考えてた。まずかったな。この件は、落ち着くまで棚上げにしよう。まずは、歌手と編曲者を募集だ。」
◆応募
愛和音は、求人を出す。そこに、倍率5倍程度の応募があった。
面接等を経て、新しい歌手3名と編曲者2名の採用が決まる。
◆編曲者
寿人は、早速編曲者に制作部部長として挨拶した。
「制作部部長の小橋寿人です。今年で29になりました。2人の存在は、本当に、助かります。応募してくれて、ありがとうございました。これからよろしくお願いします。」
「林治行、34歳です。よろしくお願いします。」
スラッとした印象の治行が挨拶したのに続き、まろやかな印象の要が挨拶した。
「今井要、28歳です。よろしくお願いします。」
◆多数の曲の誕生
愛和音独自の5曲と、タイアップの3曲は、治行と要の存在に助けられ、すべて完成した。
タイアップ曲は、寿人が2曲作り、陽太と京子が1曲ずつ歌った。残りの1曲は、理沙が作詞作曲歌唱すべてを担った。
そうして、無事「納品」となった。寿人は、制作部部長として、感謝を述べた。
「皆のおかげだ。一時期はどうなるかと思ったけど、8曲、世の中に送り出せるよ。」
制作部に集まった理沙、治行、要は頷き、ほっとした様子だった。それを受け、寿人は感慨深そうに言葉を続ける。
「『愛和音』立ち上げ当初は、制作部なんて言っても、俺だけだったから、『部長』なんてなぁ、なんて思ったけど、こうして支えてくれる人がいるのは、心強いよ。ありがとう。この態勢で、新人歌手3人のデビュー曲、作ってやろう。社の方針で大々的に宣伝する曲だけど、それに甘えない素晴らしい曲、皆で作ろうと思ってる。引き続き、よろしく頼むよ!」
寿人の「部下」3人は、一斉に「はい!」と返してくれた。
それを聞き届けると、寿人は「制作部部長」として、8曲の完成報告に社長室に足を向けた。
その途中、新しく入って来た編曲者の印象を呟いた。
「林さんは、普通のアレンジを作るけど、仕事、早かったな。今井さんは、仕事は遅かったけど、凄いアレンジだったなぁ。どっちも見習う所ある。なんだか俺、編曲者としては『あんまり』な奴だったんだなぁ。」
寿人は、歩きながら自らの顔を両手の手のひらで何度も叩いた。
「野崎さん、林さん、今井さんの足引っ張らないように、また、凄い曲、作らなきゃ。」
そうしているうちに、社長室にたどり着く。
「橋野、いいか?」
「入れ。」
そして、8曲の資料を寿人は将に見せながら実際完成した曲たちを披露した。聴き終わると、将は言った。
「これを、どんな順番で発売するか、考えるのは楽しみだな。後は任せろ。」
「頼んだ。それと、新人歌手のデビュー曲、方向性考えてたら提示してくれ。なければこちらで考える。」
「それは、そっちに任せる。選考の時の歌声録音したの、あるだろう?それを聴いて3人の『歌いやすそうな曲』を与えてやってくれ。後は、言わなくてもわかるな?」
「最初が肝心ってヤツだろ?『合わない曲』で下手な歌声晒したら、一巻の終わり、だからな。」
「その通り。歌手にとって、宣伝してやれる最初で最後の曲になるからな。とびっきりのデビュー曲プレゼントしてやってくれ。」
「了解。」
「ああ、そうだ。あの『デモ』、よかったな。あれをこれ以降も作って資料と一緒に俺の所へ持って来い。表に出す曲を俺が決める体制を取ろうと思う。言わば、『社長決裁』ってヤツだな。」
「わかった。じゃあ、次の曲からそうする。」
「そうすれば、何年前かの『安野雲案件』で神谷君を困らす、という事がなくなるだろう。」
「あ、その節は本当に迷惑をかけた。」
「気にするな。『次のデモ』、楽しみにしているぞ。」
寿人は力強く頷いた。
◆8曲の功罪
その後、タイアップ曲は後発ではあったが、優先的に発売され、ジェランの上位に食い込む売上を記録した。その3曲は、タイアップ効果もあり、継続的な収入を愛和音にもたらした。
その波が落ち着いた頃、満を持して5週連続の新曲発売を愛和音は果たす。特に寿人と理沙の合作の4曲は方向性が全く違うもので、様々な層の聴衆に響き、過去最大の売上をもたらした。
将は、笑顔で社員たちにその旨を伝えた後、こう訓示した。
「この勢いで新人歌手3名を、同時デビューさせる!」
気づけば、2001年を迎えていた。
一方、ジェントルの企画経理部内では、社員たちが頭を抱えていた。ベテランの女性社員2人の嘆く声が響く。
「社長からの命令、あれ、どうしよう?」
「『愛和音の妨害』なんて、思いつかないわよね?」
南山は、愛和音の曲が目障りだと怒鳴り散らかした。その上で、そんな命令を下したのだった。
「思いつかなかったら、私たちクビになるかもね?」
「間違いなく、ね。どうしよう?」
「橋野も、本当にふざけたことしたわよね!」
「本当に、ちゃらんぽらんだった新人時代の面倒を見てやった恩、忘れたのかしらね?」
◆宣伝機会の減少
その昔、「水入りの音楽界」と言われた程、テレビでは、音楽番組が多数あったのだが、2000年を越えたこの時代、それも半減していた。
ジェントルはそれで苦戦していたが、愛和音も例外ではない。
新人歌手を多くの人々にお披露目する為、そして、効率よく注目してもらう為、将は、言った。
「バーター作戦で行こう。」
それは、今乗っている陽太、京子、理沙と新人歌手を同時に音楽番組に出演させること。
それにより、陽太、京子、理沙は、1人ずつ新人歌手を引き連れ、音楽番組を渡り歩くことになった。
その日の音楽番組の収録に出かける間際の事だった。
「行くのめんどくさいー。」
京子はぼやいたが、兄である将が厳しい目で送り出す。
「言ってる暇があったら、後輩の面倒見てこい。」
横でその言葉を聞いた寿人は、思わず笑ってこう言った。
「橋野、辛辣。」
「身内も身内だ。いいだろう?」
笑った寿人を睨み付けながら、京子は、後輩の男性歌手と共にテレビ局へと向かって行った。
同時に陽太は、男性歌手、理沙は、女性歌手を連れてこちらもそれぞれのテレビ局に向かって行った。
◆攻撃のはじまり
その時だった。愛和音の女性社員が、将を呼んだ。
「社長、ジェントルの南山さんからお電話です。」
「わかった。」
寿人は、心配な様子で将を見送った。
「お電話代わりました、橋野です。」
南山との電話中、将の顔が鋭い物に変わる。
「来週、火曜14時ですね。お待ちしています。」
愛和音に、南山が乗り込んで来るということが確定した。電話を切った後、将は大きく息を吐き、こう言った。
「おかんむり、だな。」
そう言い終わると、笑い声を社長室に響かせた。
ひととおり笑った後、将は、寿人の元へ行った。
「小橋、来週火曜14時、空けておいてくれ。」
「ん?手を休めて行くけど、何するんだ?」
「南山が来る。同席しろ。」
「え。」
寿人は、固まった。
「嫌か?」
「俺がいる必要、あるか?」
「必要はない。」
「じゃあ、何で?」
「ただ、見てもらいたいだけだ。」
「何だ、それ。曲作りの手を止めて行くんだからな。変な物を見せないでくれよ。」
「ああ、わかった。」
◆訴訟
「ようこそ、南山さん。」
火曜、14時が来た。将は、南山を迎えた。その南山は、愛和音側が2人となっていること、そして、予定にない対応者が寿人だったことに驚いた。
「小橋君!!」
「お、お久しぶりです。」
寿人の体は、南山の声に体が硬直。
「何でだね?何で、小橋君をこの席に連れてきたんだね?橋野君!!」
「『オブザーバー』みたいなものです。どうぞ、おかけください。」
3人は、応接スペースにて着席した。
将は、こう切り出す。
「それで、本日は、どのようなお話しですか?」
「『20年契約』の事だよ!次は『響義浩』の名前を一体いつ使うんだ?」
「適宜、使用するつもりですが?」
「4年くらい使ってないじゃないか!」
「現在は、『その時期』ではないと考えています。」
「想定とは違う!」
将は、不敵な微笑みを浮かべはじめる。
「南山さんがどのような『想定』で弊社と契約を結んだか私にはわかりかねます。参考までに教えていただけますか?」
「20年、『看板』として使うと聞こえたが?そう言った意味で、ジェントル側は契約違反と判断している。よって、この事を訴えるつもりだ!」
寿人は、「訴える」との言葉に慌てた。「そんな事をされたら困る」と。そんな寿人を尻目に、将は、淡々と答えた。
「訴えたければ、どうぞ。しかし、弊社側としては、契約通りに4年を過ごしてきたと考えています。よって、徹底抗戦をとらせていただきます。」
「では、決まりだな。訴訟手続きにジェントルは移る。」
「わざわざ、予告しに来社いただき、ありがとうございました。」
将は深々と頭を下げる。寿人もそれに続く。将は、頭を上げながら再び口を開く。
「『訴訟』と言えば、南山さん、水島良典の『闇夜の影』の件は、忘れていませんからね。」
「何っ?」
「状況が状況だったので、当時は訴える余裕もありませんでしたし、微妙なラインで『当方』が敗訴する可能性もありますから、『この件』は、墓場まで持っていくつもりですが、『何かしらの事』があれば、敗訴覚悟で世に知らしめるつもりであることをここに申し上げておきます。」
「橋野君っ!」
南山は、言葉に詰まる。それに追い討ちをかける将。
「南山さん、原さんは、お元気ですか?」
「は、原君は、あの後、退職したよ。だから、元気かどうかわからないよ。」
「そうですか。それは、残念ですね。『闇夜の影』を世に出された『立派な社員』をジェントルは失ってしまわれたんですか。心中、お察しします。」
南山は、手をわなわなさせ、立ち上がった。
「今日のところは、失礼するよ。」
「次は、法廷でお会いすることになりそうですね。楽しみにしていますよ。」
◆撤退の後
結局、2社の社長の会談に、寿人はひとつも口を挟むことは出来なかった。
「愛和音、訴えられてしまうのか。」
「南山は、やれない。」
「え?」
「過去の戦略に足を掬われているということを伝えたつもりだからな。それに、『訴訟』の件は、話が無理矢理過ぎる。『どっかの部署』の社員に入れ知恵されたんだろう。ああ、『どっかの部署』の社員には、悪いことをしたかな?いや、他社の人物を、あたかもまだ部下のように扱う社長がいる会社の社員がどうなっても構わないか。」
寿人は、将が悪魔になってしまいそうでこわくなった。
「あ、あの、橋野?落ち着こうか?」
将は、はじめその言葉に疑問の目を向けたが、すぐにニコリとした。
「とりあえず、落ち着いてるが?」
「そう、ならいい。」
寿人は、そう返しながら将がいつもの雰囲気をまとってくれたことに安心した。
「ありがとう。なんだか凄い物を見せてもらったよ。曲作りに戻るな。」
将は、そんな寿人を見送った。
◆複数デビュー
その翌々日の木曜日から、3夜連続で歌番組が放送された。新人歌手はそれぞれのテレビ局で先輩に付き添われながら、寿人たち制作部が作ったデビュー曲を緊張の面持ちで披露していた。
それを寿人はじめ愛和音の面々は見届けた。
そこで、寿人はこう呟く。
「デビュー、か。」
自らのデビュー曲、「君のための翼 / 響義浩」を思い出す。そして、サビ冒頭を歌い出した。しかし、それはすぐに止めた。
「下手くそ。」
自らの曲すら、棒読みの歌でしか歌えなくなっていた。
「橋野、悪いけど、俺の中にもう『響義浩』はいない。」
寿人の目が1人の自宅で曇った。
そして、翌週の水曜日、新人歌手3人のデビュー曲が同時に発売される。ジェランでは、1位とはいかなかったが、週間初登場5位以内を3人はデビュー曲で記録した。それ以降も愛和音は6人となった歌唱部の人員の兼ね合いを考慮しながら新曲を出していき、その都度ジェランの上位に名を連ねた。
◆節目
時は、2003年。CDの売上で得た収入にて、十分な現金が用意できることから、愛和音は社屋建設時の借金を銀行との話し合いの上、繰り上げ返済し、完済を果たした。また、この年から保留していた株主配当も始め、社外的にも信頼される会社となった。更に、社内的にはこれを機会に大幅な昇給も行われた。
◆企画
この年で32歳となる寿人は、38歳となる将にこう言った。
「結局、2年くらい待ったけど、ジェントルは訴えてこなかったな。」
将は笑った。
「法廷で会いたかったのにな。」
ひととおり将は笑った後、さらっとこう宣言した。
「まぁ、ここいらでジェントルに明確な形で対抗するのは止めにしよう。これからの愛和音は、独自の路線でこれから走っていこう。」
「え?急にそこを変えるのか?」
「ああ、別に大々的に宣言した物でもないしな。何故俺がジェントルに対抗しようと思ったかを考えてもらえれば、そこを簡単に変えていい理由がわかる筈だ。」
「うーん、わかるような、わからないような。考えておく。」
寿人は首を傾げつつも話を続けた。
「それはそうと、資金の事考えて今まで言えなかった事があるんだ。」
「何だ?金の心配はするなって言ったのに。」
「あ、すまない。だけど、これは金がかかる。愛和音の歌手に、ライブを経験させてやりたい。『響義浩』の場合、煽られたファンが来てたけど、あの時は知らなかったのもあって、俺正直気持ちよかった。それを神谷さんたちに味わわせてやりたいんだ。愛和音の歌手たちは、純粋なファンが来るだろう。もっと気持ちよさそうだ。なんとかならないか?制作部の『外野』から言うのもなんだけどな。」
「前向きに検討しよう。」
「ありがとう。」
◆妨害の可能性
その後、将は初のライブを行う事を決定。寿人はその為に実際動こうと手を挙げた。
そして、ライブの為には、会場が必要だということで、様々な会場をピックアップ。その中で雰囲気等を考慮した会場を選定した。
その日、その会場を下見に寿人と将は行っていた。
「いいな。ここでやれたらいい。橋野。」
「そうか?なら最初は、ここで神谷君を歌わせよう。」
会場の予約を取り、そこを後にしようとした。すると、ジェントルの社員数人の姿を見た。それぞれ歌唱部や企画経理部、管理部の社員だった。特に、寿人は歌唱部の社員、将は企画経理部の社員とは顔見知りで、軽く会釈する程度の挨拶をし、すれ違いながら2人は帰社した。
数日後、愛和音に信じられない連絡が来る。ライブを予定していた会場が急遽使えなくなったと。理由を問い質したところ、なんでも先約があったことを見落としていたとのこと。そして、その後もしばらく会場の空きがないとの情報ももたらされた。
あの時の状況から、これはジェントルの妨害と判断。別の会場も同じようになる可能性を感じた為、ライブの企画は、立ち消えになりそうになった。
寿人は、ライブにて歌う予定だった陽太にこう言った。
「悔しい。でも、なんとか、どんな形でもいい、愛和音最初のライブを開きたい。」
理沙も含め、部下が9人に増えた35歳になる陽太がこう返した。
「歌唱部の事を考えてくれて、ありがとうございます。本当ならば、歌唱部の部長の僕が動かなきゃいけない案件なんでしょうけど。」
「言い出しっぺの俺がやんなきゃ、誰がやるんだ。ああ、神谷さんに、ライブを体験してもらいたかったな。」
「気にしないでください。」
陽太は、そう返したが、少し考えた後、言葉を続けた。
「ライブの話、初めて聞いたときは、僕だけ?って思いましたけどね。わがまま言えば、歌唱部皆で歌いたいな、と、思ったのが正直なところで。」
「それも、いいなぁ。本気でそっちの方向でもやりたくなった。橋野とまた相談してこよう。」
「あの、小橋さん、無理しないでくださいね。それに、曲の方、忘れないでください。」
「わかった。ありがとう。」
そして、寿人は、将の所へ行った。
◆決定
「夢が、また広がったのか。」
将は言った。
「問題山積のところだけどな。すまない。」
「神谷君も、いい提案してくれた。そうだな、『試金石』としてやってもらおうと思ったが、もし、駄目だった場合、他の歌手はライブを経験出来ないからな。」
「ここに来るまでに考えたんだが、もし、これがジェントルの妨害ならば、『民間』の会場は、絶対に俺たちは取れないと思うんだ。」
「と言うと?」
「公平に見てくれそうな『公共』の会場をあたってみないか?そして、お客さんには投げ銭してもらってさ。そんなライブもいいなって思ったんだよ。」
「おお、それで行こう。」
そして、自治体が運営している施設をあたってみたところ、公園の野外音楽堂を使用していいとの許可が出た。日曜開催がいいと空きを確認した所、少し先になってしまうが、10月26日にそれが出来るとの見通しがつく。
将は呟いた。
「いかに、ジェントルに知られないようにファンに周知するか、だな。」
現在、5月20日。あと5ヶ月、どのようにするかがこれからの課題だった。
寿人は、いたずらっ子みたいな顔をしながら、こう言った。
「それを考えるの、お前、得意そうだけどな。」
それに将は声を上げて笑った。
「小橋、お前、どんな目で俺を見てる?」
「え?どんな目でも、いいじゃないか。俺たちの社長だよ。」
「よーし、『社長』、頑張っちゃうぞー。とか言わせたそうだな?」
その将の冗談に、寿人が今度は大声で笑う。すると、寿人の頭の中にまた聴いたことのない曲が流れ始める。
「ああ、歌が、歌が流れてるよ。橋野。」
将が弾かれたように、こう言った。
「そうだ、新曲だ。新曲のCDに極秘の招待状を入れ込むんだ。」
「おお!それ、いいな!!頑張って10人全員の新曲、制作部で作る!ああ、新曲と言えば、ライブでもそれとは別の新曲を聴かせるってのも楽しいかもな!!」
「よし、それで行け!」
「了解!!」
寿人は、制作部に戻って行った。
◆積極的缶詰め
部長として、制作部の3人を召集する寿人。
「皆、立ち消えになりそうだったライブ企画が復活した。」
理沙が喜んだ。
「神谷さん、歌えるようになったんですね?お客さんを目の前にして。」
「野崎さん、君もだよ!君もライブで歌うことになったんだ!!」
「本当ですか?私にとっては久しぶりのライブです。頑張ります!」
「実はね、愛和音の歌手全員のライブになったんだよ。新人を含めてね。」
「楽しそうですね!」
「だけど、知っての通り、ジェントルに邪魔されないようにしなきゃならない。そこでだ、新曲のCDに招待状を付けることになったんだ。そして、ライブの場でも、別な新曲を全員に初披露してもらおうとも思ってる。」
寿人は、部下3人を改めて見回し、こう言った。
「だから、急ぎで10曲、そして、9月の末頃までにまたそれとは違う10曲を作ることになる。協力をお願いするよ。」
理沙は、目を丸くする。
「私と、小橋さんで20曲ですか。」
「単独作、合作問わない。20曲作るよ。覚悟はいい?数が多いからって手抜きはしないつもりだから。少なくとも俺はね。野崎さんもついてきてくれ!」
「はい、頑張ります!」
そして、編曲の2人にも寿人は向き合った。
「林さんは、仕事早いから、10曲以上編曲頼むことになる想定だから、よろしくね。」
「はい、出来た順でこちらに渡してくれれば、最短で仕上げます。」
「今井さんは、曲の旨みを出す天才だと思ってるからさ、万が一、俺と野崎さんが『取りこぼした』曲を君の腕で最高の曲に引き上げてくれ。」
「全力尽くします。」
◆驚きの知らせ
理沙は、寿人から話を聞いたことから、歌唱部の指示も受けなければと思い、一旦制作部から離れ、歌唱部へと移動した。
「あれ?神谷さんは?」
京子がそれに返した。
「お兄ちゃんに呼ばれて行ってるわ。急にね。もうすぐで戻ってくるんじゃないかしら?」
「そうですか。」
理沙はそわそわしてしまう。京子がそれを察知した。
「何よ、鬱陶しいわね。」
「ごめんなさい、ちょっと。」
すると、陽太が嬉しそうな顔をして戻って来た。
「皆、集まってるね?今年の10月に、ライブが正式に決まった。それも、ここにいる僕を含めた10人を出させてもらうことになったんだ!」
京子は訝しげに陽太に尋ねた。
「えー?本当にー?」
それを受け、理沙が言った。
「本当です。今しがた、制作部でも聞いてきました。」
京子が何度も頷きながら言った。
「だから落ち着かなかったのねー?」
その2人の会話を聞き、陽太は言った。
「僕も正直、落ち着かないよ。皆とお客さんの目の前で歌えるんだから。」
陽太のわくわくしている顔が歌唱部の全員に届く。しかし、それは次第に引き締まる。
「でも、手ぶらでライブは出来ないよ。まずは近々、全員に1曲ずつ新曲が宛がわれるそうだ。」
京子は、それを受け、こう言った。
「ただで行かせてはくれないのね。」
「そのCDにライブの招待状が付くんだってさ。表向きは、『愛和音のファンサービス』ってことにするようだからね。」
「制作部も全力で曲を作ります。その曲たちをよろしくお願いします!」
陽太や京子、他の社員は力強く頷いた。
◆来訪
そんな中であった。制作部の曲作りが始まったある日、愛和音の社屋の前に1人佇む人影があった。
その人物は、矢吹順61歳。順は、愛和音の社屋へ入って行った。
「アポ無しですまないけれど、社長さんか制作部部長さん、いらっしゃるかい?僕は、矢吹順。そう言ってもらえればわかると思う。」
受付の女性社員は、こう返した。
「どちらもおりますが、どちらがよろしいですか?」
「じゃあ、無理じゃなければ、どっちとも会わせてもらいたいね。」
愛和音の社長、制作部部長共にそのアポ無しの来客と喜んで対面した。
「先生!お久しぶりです!!」
「どうされたんですか?矢吹さん。」
「いやね、去年ジェントルを定年退職してさ、大手を振ってここに顔を出せると思って、来てみたんだ。」
寿人も将も笑顔になった。それを見渡し、順は話を続ける。
「こうして、2人の顔、見れてよかったよ。んで、ここからが本題。」
寿人と将は首を傾げる。
「ジェントル辞める時ね、退職金を辞退したのよ。」
「え?それ、大変じゃないですか?先生!」
「心配、ありがとう。小橋君。」
「どうしてそんな事を考えたんですか?矢吹さん。」
「現役時代に、かなり給料、もらってたしね。一応の蓄えは確保出来てると判断したんだよ。」
「先生、お金持ちなんですね?」
順は、笑った。
「そう、『お金持ち』。でもね、それだけじゃないんだ。退職金の代わりに今まで僕がジェントルで作って来た単独作全部の権利を無償で譲ってもらったんだよ。」
将は、真剣な面持ちになりながら、こう返した。
「では、響義浩の『君のための翼』『月下の心』辺りはもう、ジェントルの物ではないと?」
「そう言うこと。もし、入り用だったら、僕から借りるか、買ってもいいよってことを伝えたくてね。」
「是非とも、買わせていただきます。」
「先生、ありがとうございます。でも、歌ってた本人の俺が、歌下手になってしまって。」
順の顔が少しかなしげになる。
「まぁ、色々あったからね。でもさ、愛和音には素敵な歌手、集まって来たじゃん?その誰かにカバーしてもらう手もあるよね?」
「それ、いいですね!さすが、先生!」
「いや、その為には使わない。」
「え?橋野、いいじゃないか?」
将は、首を横に振る。順は、それに対してこう返す。
「そこら辺は、愛和音の方針で決めていいよ。」
「そうします。」
将は、言いきった。
「いやー、アホ無しで『営業』みたいなことしてごめんね。」
「いいえ、感謝してますから、矢吹さんには。」
「先生の顔を見れただけで本当に嬉しいです!気にしません!」
そう言い終わると、寿人は時計を見る。
「ああ、戻らなきゃ。この辺で、俺、失礼します。先生、ゆっくりしてってください!」
「ん?ああ、わかったよ。」
順は、寿人を見送った。そして、将に問う。
「小橋君、忙しかったんだね?」
「そうですね。」
「あー、まずい所に来ちゃったねぇ。」
「いいえ、お気になさらず。実は、内緒にして欲しいんですが、愛和音は、初のライブを10月にやることを決めていて、それに関して新曲を20曲作ることになってるんですよ。」
「ほー!それは楽しみだね。新曲もライブも待ってるよ。」
「なんなら、制作部見学していきますか?」
「いいのかい?」
「社長命令で受け入れてもらいますよ。制作部には。」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな?」
◆見学
制作部では、寿人と理沙がピアノの前に立ちながら難しい顔をしていた。寿人が演奏しながらこう言う。
「ここは、こうするのと、こうするの、決められないんだよね。」
「私も、どっちもいいって思っちゃって。迷いますけど、最初の方が私、好みです。」
「じゃあ、1番目を採用しようかな。」
そんな会話中、ドアが開く。そして、将の一声が響く。
「ここに、見学者だ。受け入れてやってくれ。」
寿人は振り返った。すると、先ほど別れたばかりの順が立っていた。
「先生!」
「追いかけて来ちゃったよ。」
理沙、治行、要は驚く。寿人が部下に順を紹介した。
「俺の音楽の先生だった人なんだ。見学、させてもいいかな?」
3人は、頷いた。すると、それを見ながら将は退出していった。
「はじめまして。矢吹順っていうんだ。よろしく。ちょっと前までジェントルの制作部にいたんだけどね、定年退職して今は『無職』やってるよ。」
「はじめまして、野崎理沙です。」
「君は、佐崎佑里だね?よくぞ愛和音に入った。」
「林治行です。よろしくお願いします。」
「今井要です。はじめまして。」
「編曲、お疲れ様だね。頑張ってね!」
制作部の社員にひととおり声をかける順に、寿人は再び話しかけた。
「来てもらったから、いい機会なんで、ひとつ訊いていいですか?先生。」
「いいよ?」
「俺と野崎さんで合作を作ってて、作詞作曲分けて作ってるんですけど、なんか面白いの、ないですかね?」
「うーん、作詞はどっちかでいいと思うよ?『面白い』のを求めてるんだったら、曲を2人で作ってみるといいよ。」
理沙が首を傾げながら尋ねた。
「どうやって?やるんですか?」
「ベースを決めて、部分毎に分けて曲作るの。イントロはこっち、サビはこっち、みたいにね?それで、出来たらお互いが作ったのを繋げてみるんだよ。ガシッと合った時の気持ちよさは半端なものじゃないよ?忙しい今じゃなくていいから、やってみなよ。」
寿人と理沙は顔を見合わせる。そして、2人は同時に「やってみたい!」と言った。順は笑い、こう言った。
「仲良くやってみてね。」
そして、順はひととおり見学を終えると、帰宅していった。
◆直筆
一方、歌唱部では、陽太が「招待状」の件で京子に提案していた。
「京子さん、『招待状』を皆で一言ずつ手書きで書いてみないかい?」
「あら、それ、いいかもしれないわね。制作部にも行ってるあの子は、大変そうだけど。」
「確かに。野崎さんはね。やっぱりやめておこうかな?」
「何?そこまでする必要はないと思うわ。気を遣うだけでいいわよ。あの子は。」
そして、その件は将に伝え、採用になった。歌唱部10人、それぞれの言葉で、「このライブは、自分とファンとの秘密のイベント。当日、ファンの皆に会いたい。他の人には内緒で来て欲しい。」との内容を書き、それを寄せ書きのような紙1枚にしてCDに封入することにした。
◆嗅ぎ付けられるイベント
制作部は、「招待状付き」の新曲10曲を完成させた。そして、立て続けに歌唱部とそれをレコーディング。その後のアレンジを急ピッチで行い、2003年9月3日に新曲を一斉発売。
ジェランでは、陽太、京子、理沙は週間初登場10位以内、その他の歌唱部7人の曲も、週間初登場20位以内という結果が出された。
それを受けて将は言った。
「これで、どのくらいのファンが来てくれるか、だな。」
寿人は願いを込めてこう返した。
「会場、いっぱいになればいいな。」
そんな言葉をかけ合った2人。寿人は制作部、将は社長業へと戻った。
新曲発売から10日後の出来事だった。愛和音に電話が殺到する。相手は、マスコミだった。問い合わせ内容は、初のライブ開催に関しての真偽を確かめるのと、事前の取材の申し込みだった。
それに対して、将は決まってこう返答した。
「ライブは、実際に開かれます。しかし、『ファンとの時間』を作るのが目的ですから、取材は事前、当日、後日共にお断りします。」
特に、事前にマスコミから情報が出ると、ジェントルからの何かしらの妨害が出てしまう可能性がある。それを避けたかった。
寿人は、マスコミ対応に追われる将を心配した。
「嫌いなマスコミと、続け様に話さなきゃならなかったんだよな。大変だったな。まさか、マスコミに情報が行っちゃうとは。何から何まで迷惑かけてるな。」
「ああ、蕁麻疹が出そうだ。なんて言うのは冗談だ。これも、イベントの為だ。最善を尽くす。」
「ありがとう。当日、いい天気になればいいな。」
◆2003年10月26日
心配したジェントルからの妨害の気配はなく、雲ひとつない晴天のもと、ライブは開催された。
数千人を収容出来る野外音楽堂だったが、超満員のファンが駆けつけた。その中には、順の姿もあった。
寿人は、その光景に、気持ちが上がる。
「まさか、ここまでお客さん来るとは思ってもみなかった。」
将はそれに反応しながら、嘆いた。
「マスコミまで来るとは思わなかったけどな。」
「断ったのにな。」
「まぁ、仕方ない。始めるぞ!」
「ああ!」
寿人は、ライブの「実行委員長」として、最初にステージに上がり、挨拶した。
「皆さん、愛和音初のライブに来てくださってありがとうございます!これから、10人の歌手が、ここでの初公開の曲含めて30曲披露します。トップは、佐崎佑里が歌います!!楽しんで行ってください!!」
挨拶を終えた後、拍手喝采を浴びながらステージの裏に下がった寿人とトップを飾る理沙がすれ違う。
それを見届けた後、寿人は出演する歌手たちを見渡した。すると、新人の女性歌手が緊張しているようだった。
「大丈夫?緊張しちゃうよな。よし、体動かそう!」
そして、寿人はいつかやっていたストレッチを新人歌手に見せた。その女性歌手は、それに続いた。すると、表情が緩む。
「いい表情だね!行ける!行ける!!」
それ以降も、歌手たちは、ライブ用の新曲含めた曲を3曲ずつフルコーラスで披露していく。歌い終わった歌手が次の歌手を紹介しながら時は過ぎ、中盤、京子がステージに上がり、トリは、陽太が務めた。そのトリの陽太が最後の挨拶をする。
「皆さん、愛和音の歌手全員の歌を聴いていただき、ありがとうございました!これからも、皆さんのために私たちは歌います!応援してください!!」
その挨拶をもって、愛和音初のライブは終わりを告げた。想定を大幅に超える投げ銭が集められ、ライブは大成功を収めた。