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第一楽章:黎明

◆保護の名の下

時は、1970年代。一部のトップ歌手以外の者たちは、冷遇されていた。歌手だけでは食べていけない状況で他の仕事を掛け持ちするなどして体調を崩す者、また、犯罪に手を染めてしまう者等が多数出た。

そんな状況に心を痛めていた新妻夫妻は、「総合音楽会社」を考案、設立した。

この会社は、音楽に関する人材を全て従業員化し、管理していくものだった。売れない歌手は、会社の管理の下、別部門を手伝うなどして生活の基盤を確固たるものにできた。安定した生活を糧に歌手たちは良質な音楽を提供できるようになっていく。

そんな中だった。1971年、とある所で元気な男の子の産声が上がった。


◆追従

1980年。南山源太43歳は、そんな「総合音楽会社」に商機を見い出し、新妻夫妻を追いかけるようにして総合音楽会社「ジェントル」を設立。人材を集めていった。


◆新入社員

1984年4月。ジェントルの社屋にて入社式が行われていた。すべての新入社員は自己紹介を求められた。そんな中、1人の男性新入社員がこう自己紹介した。

「企画経理部に配属になりました、橋野将と申します。高卒です。よろしくお願いいたします。」

更にその3年後の1987年4月。ジェントルは入社式を執り行う。この年も、すべての新入社員に自己紹介を求めた。それを受けた1人の男性新入社員がこう言った。

「歌唱部に配属になりました、小橋寿人と申します。中卒です。よろしくお願いいたします。」


◆スター

寿人は、「響義浩」という芸名で、入社から数ヶ月で歌手デビューした。デビュー曲の「君のための翼 / 響義浩」は、ジェラン週間初登場5位と健闘する。

「いやー、すごいねぇ、小橋君。」

デビュー祝いと共に、寿人は、社長の南山にこう声をかけられた。

「これからも頑張ります!!」

寿人はこう返した。それに対し、貫禄のある佇まいの南山は激励の言葉をかけ去っていった。

「うん!頑張ってくれよ!!」

寿人は、その甘いマスクのお陰もあってか、それから半年もしないうちに「月下の心 / 響義浩」でジェラン週間初登場1位を獲得し、その後3週連続週間1位の座を維持する。

ジェントルの社内では、男性社員たちのこんな会話が繰り広げられていた。

「大型新人じゃないか?響義浩は。」

「だと、いいけどね。」

「まぁ、今度はジェラン月間1位とか?年間1位を獲れたらって話かな?」


◆歌番組

巷の家庭では、こんな会話があった。

「今日、水曜日だよね?あー、つまんない!歌番組ないもん。」

その家庭の登校前の高校生の娘が愚痴をこぼした。それに母親が返す。

「まさに、『水入りの音楽界』だわ。明日からまたやるから一緒に観よう。」

「響義浩、早く観たいよー。」

「何?あんたも響義浩好きになったの?お母さんもだよ。」

「えー?お母さんも?ハンサムだもんね、響義浩。」

2人で笑顔になった。


◆多忙の

入社から2年が経った1989年のとある金曜日、寿人は、その日のレコーディングを終わらせ、一息ついたが、管理部の女性社員からこう声をかけられた。

「あと15分で、スタジオへ出発しますよ。小橋さん、準備大丈夫ですか?」

「え、もうそんな時間?急いで準備しなきゃ。」

歌番組の収録、そのあとの生放送に向けて慌てて準備する寿人。これは、もはや日常だった。その寿人の手は心なしか楽しそうだった。そして、こう呟く。

「今日の収録の方には、確か梅村晴香もいるよな。」

更に顔をほころばせ、社用車の後部座席に飛び込んだ。

「えーっと、今日は、『君のための翼』と新曲『愛の貯金』だったな。」

寿人は小声でその歌を復習した。その後、助手席の管理部の女性に話しかける。

「今日の収録、梅村晴香、いるよね?」

「えーっと。」

女性は、資料に目を通す。そして、こう返した。

「収録の方もそうですけど、生放送の方にも出演しますよ。」

「本当に?」

「はい。」

寿人の顔が満面の笑みに包まれた。


◆銀行窓口

同じ日、企画経理部に所属してから6年目を迎えた将は、銀行窓口に振込手続きのため来ていた。込み合う窓口。かなりの時間待たされていた。

「あと、何分で呼ばれるか。」

ため息混じりで将は呟く。

多数ある振込先の一覧を暇潰しに再度チェックする。ミス等全く見当たらないその一覧を見る将の目は何故か曇る。

「今回も、か。」

見上げれば、客サービスとして流されているテレビ画面。短い番組宣伝の時間となった。そして、ナレーションの女性の声は、こう宣伝する。

「今夜の『歌の宴』は!先月ジェラン月間第1位を獲得した響義浩出演!」

寿人の顔が画面いっぱいに映し出される。将に微笑みが訪れた。更に宣伝の声は続く。

「更に梅村晴香、春木康雄、佐原貴矢など、豪華な出演者!」

次々に出演予定の歌手たちの過去映像が流される。

「更に、更に!響義浩からは重大発表も?今夜8時!お楽しみに!!」

それを聞き、将は呟く。

「あの件、だな。今夜の生放送、残業なければ観るか。」


◆生放送までの移動

午後の時間帯の音楽番組収録を終えた寿人は、再び社用車の後部座席に座っていた。

「あと、何分で次、着く?」

管理部の女性は、答えた。

「あと10分ってところです。」

「そう。」

寿人の顔は、ワクワクしている様子だった。管理部の女性は、話を続ける。

「それにしても、今日の収録は、びっくりしましたねー。アメージングサウンドの梅村晴香、歌詞飛んじゃうなんて。」

「そんな、俺だってやっちゃう手前まで行く時、あるんだよ?」

寿人は少し苛立った声色でそれに返した。そして、咳払いした後、こう続ける。

「まぁ、そこも含めてかわいい歌手だよ、梅村晴香は。ねぇ、あと、何分で次のスタジオ着く?」

「えと、10分ですかね。」

管理部の女性は、困惑した様子でこう答えた。


◆生放送

将は、午後7時前に帰宅した。そして、諸々の作業を終え、夕飯を目の前にテレビをつける。チャンネルは、「歌の宴」が予定されている放送局だ。

一方、寿人はその頃楽屋で緊張をほぐすためにいつもやっているストレッチをしていた。そんな中、管理部の女性が入室してきてこう言った。

「スタジオ入りの時間です。」

寿人は顔を引き締め、管理部の女性の先導で生放送のきらびやかなスタジオに入った。そして、指定された席に着く。すると、隣に梅村晴香が座る。寿人の顔がわずかに紅潮する。その顔のまま、寿人は小声で梅村晴香に挨拶をした。

「こっちでもよろしく。」

「こちらこそ。」

梅村晴香も微笑みながら小声でこう返してくれた。

そして、8時を迎えた。カメラが出演する歌手たちの前を走るように移動する。寿人はそのカメラに最上級の笑顔を向ける。そしてカメラは、最後に司会者の男性1人とアシスタントの女性1人の所で固定される。司会者の男性は、とびっきり元気な声で第一声を上げた。

「皆さん、こんばんは!!今夜も始まりました!『歌の宴』!!今夜は10組の豪華なゲストでお送りします!」

アシスタントの女性はそれに続き、ゲストの名前を順不同で読み上げる。

「今夜のゲストは!響義浩さん!梅村晴香さん!」

それ以降8組のゲストを紹介した。その後、トップを飾る歌手の名前をアシスタントの女性が呼ぶ。それに続いて司会者の男性は、補足情報を読み上げる。そうして、10組の演奏が始まる。

時間は過ぎ、アシスタントの女性がこう紹介する。

「次は!梅村晴香さん!!」

更に、司会者の男性が続ける。

「新曲を本邦初公開!では!どうぞ!!」

梅村晴香は、それを受け、歌い出した。軽いダンスを加えながらかわいらしい歌声を披露。寿人は、そのステージ袖でその様子を観ていた。

「梅村晴香の新曲、聴けて幸せだ。こんなに近くで。」

そうしていると、梅村晴香の出番が終了。司会者の男性がこう言う。

「梅村晴香さん、ありがとうございました!」

その声を背に、梅村晴香はステージ袖に歩を進めた。寿人はすれ違う。それと同時にアシスタントの女性がこう言う。

「今夜のラストを飾るのは!響義浩さん!!」

その声でステージに上がる寿人。更に続く司会者の男性の声を聞きながら気合いを入れた。

「こちらも新曲本邦初公開!なにやらお知らせがあるそうですよ?ラストまでお見逃しなく!!」

寿人の「愛の貯金 / 響義浩」が披露される。「君からの愛をたくさん受けた。この愛がお金なら、僕は大富豪になるね。」と言うような甘い旋律の歌を甘いマスクに負けない甘い歌声で愛おしそうな仕草を加えながら寿人は歌う。

破格の扱いで、1曲丸々歌わせてもらった後、伴奏が消える。一瞬の静寂の後、寿人は、大きく息を吸ってこう言った。

「ありがとうございました!ここでお知らせです!僕の初の全国ライブツアーが決定しました!!この後、チケット発売です!皆さん、是非僕に会いに来てください!!」

リアルタイムで字幕も出る。それを将は見守った。

「遂に、か。」

そして、将はテレビを消し、夕飯の後片付けに向かった。


◆生放送終了

夜9時を回り、「歌の宴」の生放送は終わった。寿人に管理部の女性が駆け寄る。

「お疲れ様でした。家まで送ります。」

「ちょっと待ってて。」

「え?」

管理部の女性を置き去りにし、寿人は駆け出して行った。

「梅村さん!梅村晴香さん!!」

寿人に呼ばれた梅村晴香は1人、楽屋に入るところだった。

「響さん?」

「あの、突然だけど、俺、君のこと好きなんだ!」

梅村晴香の目が見開かれる。そして、顔を紅潮させた。更に寿人はこう続けた。

「最近、歌番組でたくさん共演してるうちに、君とは運命だって感じたんだ!!俺たち付き合わないか?」

「はい、是非。その、私もそう思ってたの。きょ、今日、その、歌詞飛んじゃったの、あなたと一緒が嬉しくて嬉しくて、今日は舞い上がっちゃって、あなたのことでいっぱいで、頭真っ白になっちゃって。その、プロ失格ね。」

「そうだったんだ。なんだか嬉しいよ。俺、本名は、小橋寿人。これから、寿人って呼んで?」

「私の本名は、大川和子。和子って呼んで?よろしくね。寿人。」

「うん!和子、よろしく!!」

「寿人、全国ツアー、忙しそうね。内緒にして欲しいけど、私も近々全国ツアーの発表があるの。お互い、頑張ろうね。」

「そうか。じゃあ、あんまり会えなくなるんだね。あ!そうだ、俺たち、文通しよう!!」

「それ、いいね。住所、教えるね。」

寿人と和子は、住所を交換。そして、寿人はこう言った。

「『愛の貯金』じゃないけど、俺たち、お互いの愛で大富豪になろう!!」

「うん!」

その夜、2人は別れた。

「お待たせ!」

寿人は、社用車にて帰宅した。和子の住所が書かれたメモを胸に大事そうに持ちながら。


◆手紙と花束

それから1ヶ月後、和子の全国ライブツアーの発表もあった。そのニュースを見て笑みを浮かべる寿人。そんな寿人に接触してきたジェントルの社員がいた。企画経理部の将だ。

「全国50箇所ツアー、本日、チケット完売を確認しました。おめでとうございます。」

「ありがとう!そうなんだ!知らせてくれてありがとう!!」

寿人は、にこにこしながら、その社員の情報も取らずに立ち去った。

「響義浩。」

将は、呟く。

一方、寿人は届いたばかりの和子からの手紙を開いた。お互い、日記のような手紙を毎日のように送った。また、そんな手紙への返事も書き、送るを繰り返し、この和子の手紙で記念すべき20通目を迎えた。決まってその手紙の最後には、「愛してるよ。和子」と書かれていた。勿論、寿人も同じように「愛してるよ。寿人」と書いて和子に送った。

やがて、寿人は全国ツアーを開始。大規模会場で満員の客に対して歌声を披露していった。

それから、1年が経った。

寿人の全国ツアーが終わったのに続き、和子の全国ツアーも幕を下ろした。その和子のツアー最終地にある会場に、寿人の姿があった。

変装した寿人は、和子が会場から出てくるのを待っていた。

「まだかな?」

きょろきょろ寿人は周囲を見渡す。見渡しているうちに、和子が出てきた。

「和子!」

呼ばれた和子は、驚いた。

「寿人!どうしたの?」

「ツアー終了、おめでとう。そして、お疲れ様。」

そう言うと、寿人は物陰に姿を一旦消した。寿人はすぐに和子の元に戻ってくるが、その手には花束が握られていた。

「お祝いの花束だよ。」

「ありがとう。寿人。」

和子は、それを受け取った。更に、寿人はポケットからあるものを取り出す。

「和子、ねぇ、俺たち結婚しない?」

寿人の手には、指輪が。和子は驚くと共に、涙を伴った嬉しそうな声を寿人に聞かせた。

「勿論、結婚したい!嬉しいよ!寿人!!」

和子は指輪も受け取ると、寿人に抱きついた。寿人も和子を抱きしめた。

「和子。」

「寿人。」

そして、2人は、婚約者として初めてのキスをした。


◆報道

寿人と和子の婚約から翌々日のことだった。寿人は、社長室に呼び出されていた。その目の前には、ゴシップ雑誌が広げられていた。社長の南山は、低い声でこう言った。

「小橋君、これは、どういうことだ?」

そこには、変装した寿人と花束を持った和子が抱き合っている写真と共に、「響義浩&梅村晴香密会!!熱愛か?」と、書かれていた。

「何で?」

変装には自信があった。しかし、ゴシップ雑誌の記者の目は騙せなかったようだ。

「あ、の、その、彼女にプロポーズしたくて。」

南山の顔が険悪になる。

「そんな話は聞いてない!」

南山は、怒鳴った。萎縮する寿人。言葉を返せなかった。

「その『プロポーズ』は、どうなったんだ?」

「あ、受け入れて貰いました。」

「今すぐ、今すぐ撤回してきなさい!!」

「え?」

寿人の心を、「そんなのは嫌だ。」という一言が支配した。そして、それを口にした。

「か、和子とは、『運命』なんです。だって、あんなに、歌番組で共演したんだ。『運命』でしょう?できません。絶対に!」

「小橋君!!」

南山の大声が響く中、話が終わっていないのにも関わらず、寿人は社長室を出ていってしまった。

「何で?何で、俺たちを社長は邪魔するんだよ。」


◆抵抗

寿人は、それから和子に手紙を書いた。「和子との結婚の件、社長に反対された。」との内容だった。その手紙の返事は、「私も会社に雑誌の件で怒られちゃった。」との内容だった。それは、双方の結婚への強い意志を認めた手紙でもあった。

「俺たちは、結婚しちゃいけないのか!」

寿人は、1人叫んだ。そして、強行突破をする決意を固めた。

年は開け、更に月日が経った1991年9月15日、寿人と和子は闇夜に紛れて婚姻届を提出した。

「和子、今日から夫婦だね。」

「寿人、私、幸せ。」

プロポーズの時のように抱き合い、2人はキスをした。


◆同居の悲劇

内密の結婚生活は、同居の時期を遅らせた。寿人名義でアパートの一室を借り、そこに少しずつ荷物をお互いに会わないように運び込む。

そうして、明くる年、1992年2月21日に全ての作業が終わり、同居生活が始まった。

「やっと、この日がきた。和子。」

「寿人、これからずっと一緒よ。」

2人は、かつてないほどの熱量を込めたキスをお互いに贈り合った。次第に深くなるキス。唇は、どちらのものかわからない唾液で潤う。それは、寿人の欲求を煽った。寿人が和子の服の中に手を入れようとしたその瞬間だった。

「何するのよ!!」

和子の大声が新居に響いた。そして、和子の可憐な容姿から想像出来ない程の強い力で寿人は、突き放された。

「和子?」

戸惑う寿人。和子はそんな寿人にもう一度問いをぶつけた。

「私に何するつもりだったの?」

「え、君の身体が欲しくなった。夫婦だからいいだろう?」

「嫌よ。そんなことして赤ちゃん出来たら私、仕事出来なくなるわ!」

「夫婦に子供が出来るのは、当たり前じゃないか?」

寿人の身体を支配していた欲求は徐々に冷めていく。

「それはそうかも知れないけど、私は、『梅村晴香』よ!体型変わっちゃう赤ちゃんは、いらないわ!!」

「そんな、じゃあ、避妊して、しようか?」

「それも嫌よ!そんなことして、肌荒れしたら『梅村晴香』のブランドに傷がつくわ!!」

寿人は、頭が真っ白になっていく。その中ではあったが、自分が思い描いていた結婚生活を語り始める。

「そんな、そんなこと言わないでくれよ。俺は、和子が隣にいて、世間と変わらない『奥さん』をやってくれたらいいな。と、思って結婚したのに。」

「そんなこと言われても困るわ!私は、歌手の苦労がわかる寿人に『梅村晴香』を支えて欲しかったのよ?」

お互いにそれ以降の返答を失う。しばらくの沈黙の後、和子がこう言った。

「狼になる寿人とは今夜は一緒にいたくない。私、ホテルに行くわ。」

そして、寿人の返答を待たずに和子はアパートを出ていった。取り残された寿人、放心状態になった。

翌日、和子は帰って来たが、全く言葉を交わしてくれなかった。寿人もだんだんそんな和子と話をしたくなくなり、新居には物音のみが響くようになった。


◆更なる同居の悲劇

それから、1週間もしないある日のゴシップ雑誌。「響義浩&梅村晴香結婚か?極秘の同居生活開始!!」という文字が踊っていた。

「小橋君!全く君は言うこと聞かない社員だね!!」

そんな南山の怒鳴り声がジェントルの社長室に響き渡る。南山から寿人に提示されたそのゴシップ雑誌には、少しずつ新居に荷物を運び、共に部屋に入ることが出来た2月21日までの寿人と和子の姿が事細かく写真つきで紹介されていた。

「もう、庇うことは出来ない!覚えておきなさい!!」

「はい。」

寿人は、その一言を返すので精一杯だった。社長の怒号と、和子の拒絶。そして、ゴシップ雑誌に記録された最後とも言える幸せだった日々に込み上げるものを止められなかった。溢れ出る物を認めた南山は、そのゴシップ雑誌を寿人に投げつけ、更に怒号を浴びせかけた。

「泣くんじゃないよ!!」

「はい。すみません。」

そう言うと、寿人は社長室を飛び出した。あの日のように。


◆接触

寿人は、これまでの行動が間違っていたと悔やんだ。自分は、和子に告白するべきではなかったと、18歳の頃の自分を呪った。

ジェントルの社屋を宛もなく泣きながら彷徨う寿人。そんな寿人の姿は、他の社員の衆目に晒されていたが、ゴシップ雑誌のことは周知の事実で、皆、腫れ物を扱うように近寄っては来ない。

「俺に、居場所が、ない。」

そんな一言で更なる涙を呼び込む寿人。自業自得の涙が出ては落ち、出ては落ちを繰り返す。それでも、氷を張った沼のようなアパートに帰ることしか出来ない身分に心が破けてしまいそうだった。

そんな時、声をかけてきた社員がいた。企画経理部の将だ。

「会社で泣くなんて、感心しませんねぇ。小橋さん。」

寿人は、その声を受け、涙を両手で拭った。

「すみません。」

「場所、移しましょう。」

「え?」

将は手招きした。それに寿人はついていく。帰宅準備や、退勤手続きを経て社屋の外に出ると、既に空は暗く、星が瞬いていた。寿人は、そんな空を見上げながら心の中で「ど、どこに連れて行かれるんだろう?」と言った。

将は、一旦社屋の目の前にある電話ボックスに入り、タクシーを呼んだ。程なくして呼んだタクシーが来る。2人は、後部座席に乗り込む。将は、場所を指定。そして、そこにたどり着いた。寿人の目に飛び込んできたのは、なんの変哲もない雑居ビル。将の先導にて、寿人は2階に階段で上がった。そこには、バーがあった。

「こんばんは。」

将は、そこに入店。寿人もそれに続いた。そこのマスターが客を歓迎した。

「いらっしゃい。しょうちゃん。」

マスターの眼鏡の奥の小さな目が、ふにゃりとなる。将は、それに対してこう言った。

「今日は、2人で来た。」

「お初のお客さん?って、まさか!響義浩?」

「そう、よろしく。」

「いやー、スターさんを迎えられるとはー。」

「マスター、『スター』は。」

将は顔を一瞬しかめた。

「ああ、ごめん。しょうちゃん。」

マスターは、場を取りなすため、話題を変えた。

「いやー、先月は開店祝い、ありがとね。しょうちゃん。」

「少ない額ですまない。」

寿人は、年上と思われる顔馴染ではない同じ会社の社員と、その社員より年上と思われるマスターに萎縮して何も話せなかった。


◆バーで

寿人の緊張は、高まっていた。そんな様子にマスターは気づく。

「響さんって呼んでいいのかな?」

「あ、いや、本名は小橋寿人です。」

「んー、じゃあ、ひーちゃんって呼ぼうかな?常連になってくれたら、の話だけど。」

「いいですよ。そう呼んでも。」

将はそのやり取りを聞きながらマスターに注文をした。

「マスター、とりあえず、最初の一杯、見繕ってくれないか?ちょっと小橋さん、傷ついててさ。」

「承知したよ。」

その言葉に寿人は慌てた。

「えっと、のどに悪いかと思って、お酒飲んだことなくて。」

「おやー。」

マスターは、ソフトドリンクに切り替えようとしたが、将はそれを止めた。

「折角だから、少し酒、飲ましてやってくれないか?」

「うーん、じゃあ、刺激弱めの作ってみるね。」

そして、甘さを加えた薄い酒が寿人に提供された。将には普通の酒が提供。

「とりあえず、小橋さん、乾杯。」

「か、乾杯。」

寿人は、初めての飲酒を経験する。

「美味しい。」

「でしょう?マスターの酒は最高なんですよ。」

「あの、あなたは俺のこと知ってるようだけど、俺、あなたを知らないです。なんて呼んでいいかわかりません。」

将は、「しまった。」というような顔をしながら、 自己紹介を始める。

「申し遅れました。私は、企画経理部の橋野将です。」

「その、企画経理部の人が何で俺をここまで連れて来てくれたんですか?」

「おそらく、社長おかんむりだっただろうな、と思って、話、聞きたくなったんですよ。」

「それは、もう、怒られました。だいぶ。」

「やっぱり。」

寿人は、だんだんこの場に来た緊張で忘れかけていたこれまでの自らの失態を思い出し、苦しくなる。その様子を察したマスターが、こう声をかけた。

「もう一杯、行ってみる?」

寿人は頷いた。同じ酒が提供され、寿人はそれを一気で飲んだ。マスターはふにゃりとしつつ、こう言う。

「おー、いい飲みっぷりだねぇ。」

「もう一杯行きますか?小橋さん?」

「ください。」

寿人は、それから何杯も酒を飲んでいった。次第にとろっとなる寿人の目。そして、寿人は、これまでの事を振り返る。

「何で、あの時和子に『好き』って言ったんだ、俺。」

将は、それを受け止めながら、言葉を返していく。マスターはそれ以降、黙ってやり取りを聞くことにした。

「それは、想いが走ったんでしょう。」

「あの『好き』がなければ、こんなことにはならなかったのに。いや、それからも、引き返すこと、できたな。」

「チャンス、あったんですか?」

「ツアーですれ違ったあの時、指輪を買う前、プロポーズした事を社長に怒られた時。」

「いっぱい、あったんですね。」

「何で、和子との結婚後の夢を話さなかったんだろう。」

「え?そちらでも問題あったんですか?」

「俺は、和子を『妻』として、愛したかった。けど、和子は俺を『梅村晴香の支え』として愛すつもりだった。ああ、何でその話をしなかったんだろう。それがわかっていたら結婚しなかったかもしれない。悔しい、悔しい。」

寿人は、何杯目かわからない酒のおかわりを望んだ。マスターは複雑な顔をして再び酒を寿人に提供した。酒は、一瞬にして消える。今度は将がこう言う。

「マスター、同じのを。」

「ああ、もう、俺は和子を愛せない。そして、和子も俺を愛せないだろうな。仕事も、あんな記事出たんじゃ、駄目になったろうし。馬鹿だ、俺。」

寿人は再び酒を一気飲みし、涙を流し始める。

「大いに反省すべき事、だと思いますよ。でも、頑張ってください。私は小橋さんを応援したい。だから、今日はここに来てもらったんです。」

「う、ありがとう。」

寿人はうなだれる。そして、バーに静寂が訪れる。少しした後、将は口を開く。

「いや、でも、いい機会なんですよ。これは。」

その言葉に寿人は何も反応しなかった。

「あれ?小橋さん?」

寿人は、眠ってしまった。マスターが苦笑いしながらこう言った。

「あらら、ひーちゃん、寝ちゃった。」

「あー、ここからが本題だったんだけどなぁ。」

「飲ませ過ぎたねぇ。」

「やってしまったな。」

からかうようなマスターの声が将に届く。

「『のーませすーぎてごめんねーごめんねー。』みたいな歌あるじゃん?そんな感じだねぇ。」

「それは、アメージングサウンドの曲だ。」

「ああ、失礼、しょうちゃん。」

「いや。」

「でも、しょうちゃんも悪だねぇ、酒知らないひーちゃんにこんなに飲まして。」

「それは、否定しない。」

「さっきの歌、しょうちゃんの美声で歌ってくれたら、ひーちゃん運ぶの、手伝うよ?」

「罰ゲーム、か。」

そして、将は入れられたカラオケにてそのコミカルな曲を歌い上げた。そんな声に起こされることなく、店全体に降り注ぐ落ち着いたオレンジの光に寿人は包まれながら眠りつづけた。


◆バーを出て

マスターはタクシーを呼び、将とマスターで寿人を抱えた。それでも目を覚まさない寿人。マスターは、再び苦笑いをし、こう言った。

「本当に飲ませ過ぎたね。こっちも反省しなきゃねぇ。しょうちゃん、話したいこと話せなくなっちゃった。」

「酒の勢いで伝えたかったんだけど、失敗だ。もう、こんな機会ないかもしれないのに。俺も、反省だ。」

そして、タクシーは3人を乗せ出発した。


◆翌日

寿人は、ベッドにて目を覚ました。知らない風景に驚く。そして、外を見ると日が高い。

「どこ?何時?」

時計を探して見ると、もう既に午後の1時過ぎだった。頭はぼやっとしていて気分が悪い。知らない空間を彷徨うと、テーブルに書き置きがあった。

「小橋さん、昨日は飲ませ過ぎてすみませんでした。途中で寝てしまわれたので、急遽私の自宅にて休んでいただくことにしました。おそらく、体調あまり良くないと思われますので、歌唱部部長には私から休みと連絡しておきます。合鍵を置いておきますので、都合のいい時間にお帰りください。鍵は、厳重に管理していただければ返却の必要はありません。企画経理部橋野将」

寿人は、まだ頭がぼやっとしていたが、長居するのもどうかと思い、合鍵を使って将の自宅を施錠し、退出した。

知らない場所からの帰宅は、少々苦戦を強いられたが、なんとか自宅にたどり着く。そこには、和子。

「何?帰って来たの?出てったのかと思った。」

「色々あったんだよ。」

それ以降の会話は、なかった。


◆夏

「離婚しよう。」

寿人は離婚届を和子の目の前に提示しながらそう言った。

「やっと言ってくれたのね。待ってたわ。」

2人で必要事項を記入し、その足で離婚届を提出しに行った。1992年8月15日、寿人、和子共に21歳の出来事だった。

それから、アパートを引き払った。


◆報告

寿人は、その後、ジェントルの社屋にてこう言った。

「社長、離婚しました。」

「遅い!」

「今までの不手際、申し訳ありませんでした。」

「そんな言葉で片付けるつもりなのか!」

南山は、机を拳で叩いた。寿人の体はピクッとなる。

「君は、終わりだ。金をかけてやったのに!」

「金?」

「君の人気はね、最初以外は『買った』ものだったんだよ!」

寿人は、足元が崩れ去る感覚を抱いた。

「リターンは、多かったけれども、もう、それはない。だいたいね、梅村晴香は、アメージングサウンドの売りたい歌手なんだよ。推測が正しければね!ただそれだけの女なんだよ。こっちが推した君と歌番組で共演が多くなるのは当たり前!!それを『運命』だ?そんな勘違いでこっちの不利益を出して!君は駄目な社員だ!!まあ、下がりなさい。」

それに寿人は従うしかなかった。


◆迷子

寿人の頭の中で、南山の怒号が繰り返し流される。

「嘘だ、嘘だ、信じない。」

再び宛もなく社屋を彷徨う寿人。そうしていると、全国ツアーの様子を思い出さざるを得なかった。

「あのファンは、俺を見に来てくれたんじゃなくて、金をもらいに来てた?」

記憶の中の超満員の客席にいる客の1人1人の顔が、紙幣や硬貨になっていく。

「あああ。」

いつかのように泣きたくなったが、この日は涙が出てこない。苦しい心が悲鳴を上げる。妻を自業自得の罪で失った。今度は客を失った気分になる。拠り所が欲しくなった。そこで浮かんだ顔が、将だった。

「企画経理部。」

その部署のフロアに足を向けるが、あいにく将は外出中だった。戻りは遅くなるとのことで待ってもいられない。仕方なしに自らの所属する歌唱部のフロアに戻り、退勤時間までそこで過ごすことにした。

「戻ってるかな?」

夕方再び企画経理部に足を向けると、将は直帰に変更になったとのこと。

「家か?あのバーか?」

寿人は家路につかず、バーか将の自宅に行こうとした。しかし、どちらも道がわからず、右往左往しているうちに、今どこに自分がいるのかがわからなくなってしまった。見かけた公園で、遂に寿人は崩れ落ちた。

「橋野さん、助けて。」

助ける手は差し伸べられなかった。


◆説明

結局寿人は自分の自宅にも戻れず、見かけたホテルに一泊した後、翌日道に迷いながらも出勤。歌唱部に顔を出した後、今日こそはと企画経理部に足を向けた。企画経理部の人々は、私服が許されている歌唱部の人間と違って男女共にスーツを着用しながら仕事をしていた。

「あ。」

その中を外から見渡すと、きっちりスーツを着こなしている凛とした将が立っていた。将も寿人に気づき、近寄ってくる。

「小橋さん?どうしました?」

「は、橋野さん。えっと、話がしたくて、来たんです。」

「今夜でもいいですか?」

「勿論。」

「じゃあ、ここに夕方来てください。また、マスターの所に行きましょう。」

その夕方、再びタクシーにてあのバーへと行った。

「いらっしゃい。しょうちゃん、と、久しぶりだねぇ、ひーちゃん。」

マスターがまたふにゃりとした。

「いやー、よかったねー、しょうちゃん。また、ひーちゃんと話出来て。」

「お陰さまで。」

寿人と将は着席した。そして、将が、

「はじめの一杯は、どれにしようかな。」

と言う。するとマスターがこう返した。

「話が終わるまで、烏龍茶にしなよ。しょうちゃん。」

「え?ああ、そうだな。」

将は一転苦笑いした。そして、こう続ける。

「しかし、ちょっと心細い。」

「頑張れ、しょうちゃん。」

マスターの声に将は気合いを入れた顔になる。

「小橋さん、私もあなたに話したいと思ってたことがあるんですが、まずは、小橋さんの話、聞きましょう。」

「ありがとうございます。橋野さん。」

2人は、提供された烏龍茶を飲み始めた。

「橋野さん、俺のファンは、お金のために俺についてきていたらしいです。」

将は、その言葉に目を覆った。その様子に怪訝な表情を浮かべながらも、寿人は話を続けた。

「俺、俺の所には何もなかった。俺は、何も力を持ってなかった。俺の歌が認められて、世間がついてきてくれたのかと思った。でも、違った。社長は、『人気を金で買った』って言ってた。」

寿人は、烏龍茶を一気に飲み、更に続けた。

「仮に、金で買われたファンじゃなかったとしても、そのファンを裏切るようなことしたんだ。俺、歌手辞めようと思います。」

将は、弾かれたように言葉を返した。

「それは!見送ってください!!」

将の声に寿人は驚く。

「駄目、ですか?」

「すみません、大声を出して。釈明、と言うか、それに対する私の答えと私の話したかったことを聞いてもらえますか?」

「はい。」

空になったグラスに再び烏龍茶が注がれた。

「確かに、『金でファンが買われた』と言うのは言い得て妙なんですが、少し、複雑な話なんです。」

「イメージ的に、特にライブ会場でお金が配られたんだと思ってますが。」

「違いますよ。どう社長が話したのかはわかりませんが、これだけは言えます、社長は、話が省略気味なきらいがあるので、それは誤解です。」

「そうなんですか?」

「なんて言葉で表現したらいいかわかりませんし、結局は同じように聞こえるかもしれませんが、小橋さんの人気は『作られた人気』なんですよ。」

首を傾げる寿人。それを見つつ、将は続けた。

「決して、ファンは金を受け取るために小橋さんを支持したわけではないです。ジェントルがやったのは、マスコミの実質的買収なんですよ。」

「え?」

「推して欲しい職員の一覧を各社に送りつけ、一方的に多額の『寄付』をする。それが、ジェントルの常套手段です。『金』が入った大半のマスコミは、その一覧の職員を推さざるを得ない。それに扇動された聴衆がその一覧の職員に『金』を落としていく。それをもって、ジェントルの資金回収は完了です。」

将は、グラスを割ってしまいそうな力で握る。

「ハイリスクハイリターンの博打みたいな戦略をとるのが、南山源太なんです。その博打の駒のひとつに使われたのが、小橋さんなんです。」

「なんで?それを知ってるんですか?」

寿人は震える声で尋ねた。

「企画経理部は、その一連の作業をすべて担ってますからね。しかも、質が悪いことに、このことは、『駒』にされた職員含めて他言を禁じられています。」

「そんな!話しちゃいけないことを何で!」

「私自身が、それが気に入らないからです。他の企画経理部の職員は、何も考えていなさそうですが。」

「そう、なんですか。」

「小橋さんは、回収率のいい職員だった。だからこそ、そのお金を落としてくれたファンの中には、小橋さんの歌を純粋に支持している人が相対的に多いと推測しています。そんな考えですから、小橋さんには歌手を辞めないで欲しいと思ってます。」

「じゃあ、少しだけ、続けてみようかな?」

「是非とも、そうしてみてください。おそらく、もう小橋さんは、一覧に載らないと思いますから。逆にこれはチャンスなんです。新しい響義浩を作る、ね。」

将は柔らかい笑顔で言った。寿人はそれに返した。

「でも、途中で嫌になるかもしれません。」

「予告、ありがとうございます。それはそれで、私は受け入れます。どの選択肢を取ろうとも、戦う小橋さんを私は、同じ会社の人間として応援します。頑張ってください!」

「橋野さん、ありがとうございます!」

その様子に、マスターは右手でサムズアップした。

「しょうちゃん、お疲れ様。やっと言いたいこと言えたねぇ。」

「ありがとう、マスター。ちょっと悔しいけどな。俺が言う前に、この事実を社長から小橋さん、突きつけられてしまったから。」

「それは、『のーませ』、あ、いや、なんでもない。あの時、ひーちゃんに2人で飲ませ過ぎたからね。」

「あ、お二人、あの時は色々ありがとうございました。」

寿人は、後れ馳せながらこう言った。そして、寿人は思い出した。

「ああ、橋野さんこの合鍵。」

「ああ、それ、約束通りにしてくれてたんですね?お荷物でなければ、引き続き持っていていいですよ?」

「いいんですか?」

「ええ。」

その会話を聞きながら、マスターは2人向けの酒を作り始めた。そして、寿人と将の目の前にそれは運ばれる。

「じゃあ、しょうちゃん、ひーちゃん、ここからは飲んで?」

2人は頷いた。

「それじゃ、小橋さん、乾杯。」

「橋野さん、乾杯。」


◆バーでの雑談

寿人は、マスターに興味が沸いた。

「あの、マスターの名前、なんて言うんですか?」

「内緒。」

将は苦笑いしながら話に加わる。

「それは、私にも教えてくれないんですよ。」

「そうなんですか。」

「これだけは、言っておこうかな?歳は、しょうちゃんより8個上。」

「俺が27歳だから?35歳?だよね。」

「やっぱり、俺が一番下だ。21歳だから。」

「若いねぇ、ひーちゃん。」

「だからこそ、まだまだ小橋さんには可能性、あると思うんですよ。」

「頑張ります。橋野さん。」

「『作られた人気』ではない、真の小橋さんの人気が私は見たい。実のところ、あの雑誌には感謝してるんですよ。」

「俺には、嫌なイメージしかないですが。」

「ええ、小橋さんには悪いとは思ってますが、南山になびかない立派な雑誌と思ってて、あの雑誌のファンになってしまいました。すみません。」

「そう、そう言うことなら、いいですよ。」


◆飼い殺し

節度ある飲酒の後、2人は家路につく。寿人は、かつてない心の軽さを感じていた。自宅前にたどり着いた頃には、鼻歌が自然と漏れていた。

「歌、頑張る。」

その気持ちは、次第に薄れて行くことになる。

それから半年後の1993年初頭、寿人は新曲を出すが、ジェラン週間初登場26位と奮わなかった。その代わり「一覧」に新たに入ったと思われる別の歌手の歌が週間初登場1位を獲得した。

「俺の、歌は、こんなものだったのか。」

寿人の心に絶望感が支配した。

「本当に、会社が買ってくれてたんだな。俺の、人気。」

どうしようもない思い。

「思いきって、クビにしてくれたらいいのにな。」

何故かその声はかからない。そして、何故か絶えず新曲の話は舞い込んでくる。その度にジェランの下位に名前が挙がり、同僚の歌が上位に食い込む状況が続く。

1993年秋、寿人は社内で将に会えなかったことから、バーに足を運び、マスターに気持ちを吐露した。

「俺、気持ちが折れそうです。」

「うーん、しょうちゃんなら、どう言ったろうね?うーん。」

マスターは、多少の時間頭を抱えたが、とある一言を思いつく。

「しょうちゃんなら、『ランキングは、気にしないでー。』とか、『それでも売れてるんだからー。』とか言いそうだけどねぇ。」

「ありがとうございます。」


◆退職

1994年が始まった。その頃になると、寿人と将の心にきっかけは違えど、同じ思いが沸き上がっていた。

数ヶ月それをひた隠しにして働いたが、4月、限界を迎えた。寿人は、歌唱部部長に、将は、企画経理部部長に同じ書類を提出した。「退職願」そんな文字が書かれていた封筒だった。

それを受け、後日2人は南山に呼び出された。社長室の前で鉢合わせする寿人と将。

「小橋さん?どうしたんですか?」

「橋野さんこそ。」

問いの投げ合いをしてしまった。寿人は、先に問われたので、返答をする。

「いや、辞めるんです。ジェントルを。」

「気が合いますね。私も辞めるんです。」

当初、個別に面談の予定だったのだが、この際、2人で南山と話そうと社長室に入室した。

「2人同時に入ってくるんじゃない。はじめは、橋野君だ。」

「お言葉ですが、お断りします。小橋さんと3人での面談にしましょう。時間短縮になります。」

「社長、お願いします。」

南山は、それをとりあえず受け入れた。南山は、自らの席に座ったまま、目の前に立つ2人に鋭い目で単刀直入に問いかけた。

「じゃあ、何でジェントルを辞めたいのか説明してもらおうか?」

「私は、社の方針について行けなくなりました。」

「私は、歌に自信がなくなりました。」

「そうかね。わかった。今までご苦労様。退職を認めよう。しかし、橋野君には、特に条件はないが、小橋君には条件を出そう。」

寿人に緊張が走る。

「『歌に自信がなくなった』と言うことだから?間違っても歌手活動などしないとは思うが、万が一活動するというのなら、『響義浩』の名前は使わせない。いいね?」

将の目が血走る。そして、両手がきつく握られる。寿人は、苦しい目をして言葉を返した。

「色々ありましたけど、なんだかんだ言って愛着がある『響義浩』と別れるのはさびしいです。」

「なら、退職を撤回するか?」

「いえ、それでなくても、色々ご迷惑をかけたので、ここにはいられないと思います。だから、その名前は、ジェントルにお返しします。」

そう言った寿人の顔を将は横から凝視する。

「なら、話は終わりだ。下がりなさい。」

2人は、「はい」と言い、社長室から退出した。将は、そこから動けなくなった。

「橋野さん?」

寿人は声をかける。

「10年ジェントルにいたが、一番辛い日だ。」

真意が掴めない寿人。一転、将は寿人を置き去りにするように自らの部署に戻って行った。

「辛い?」


◆無職

寿人は、諸々の手続きを終え、それから月日をおかずにジェントルを去った。7年通った社屋を背に、これ以降の道を思案した。

引き継ぎ等があった将は、寿人より遅いタイミングで10年過ごしたジェントルを去った。その目には、これからのビジョンが見えていた。

2人は、今までの蓄えと、少ないながらも出た退職金を生活費として使う「無職期間」を過ごすことになった。寿人23歳、将29歳の出来事だった。

「まさか、しょうちゃんとひーちゃんがどっちも仕事、辞めちゃうとはねぇ。」

マスターが笑いながら言った。特に連絡先を交換してはいなかったが、この日、偶然にもバーにて寿人と将は再会していた。将は、その言葉にジェントルへの恨み辛みを爆発させ、演説を始めた。

「『ジェントル』は、俺の敵だ。いや、音楽業界全体の敵だな。新妻夫妻の遺志に反する行為をしている。新妻夫妻は、『良質な音楽』のために『総合音楽会社』の構想を成立させた。なのに、ジェントルの戦略は、回り回って『音楽の質の低下』を招いている。」

「その片棒を担いでしまって、すみません。」

寿人は、謝罪。

「小橋さんは、悪くありません。むしろ、『良質な音楽』を提供していた1人と私は思っています。」

「そう、ですか?『一覧』から外れた時は、ジェランの上位に食い込めなかったのに。」

「よく思い出してください。その時、あなたより上位にいた歌手は?ジェントルが『一覧』に載せた歌手ばかりだったでしょう?」

「あ、その、『一覧』の内容わからないのでなんとも言えないです。」

「ああ、失礼。企画経理部の人間しかわからない事でしたね。とにかく、『一覧』の歌唱部の人間を除けば、かなりの上位に小橋さんはいました。その、『響義浩』は、消されてしまいました。悔しいですよ。音楽業界にとって損失です。」

「俺、辞めない方がよかったですか?」

「いいえ。今となっては、退職は正解と思います。あれから、小橋さんは『飼い殺し』にされてましたから。『一覧』の歌手が曲を出す時、わざと響義浩の新曲を出して、『落ちた歌手』を演出しましたからね、南山は。そんな所にずっといたら、小橋さんが潰れてしまいます。頃合いを見計らって小橋さんに退職を迫ろうと思っていたくらいです。」

「そう言うこと、だったんですか。それにしても、橋野さんは、音楽に熱い人ですね。」

「ああ、熱くなってしまいました。」

「いや、そこまでの熱意、今の俺にはないので、見習わなきゃな、と思いました。」

「いや、お恥ずかしい。でも、熱意ついでにここでお話したいことがあります。」


◆誘い

将は、寿人に向きあった。

「酔っ払った席で宣言するのもどうかと思いますが、私、ジェントルに対抗するための総合音楽会社を立ち上げようと思っています。」

「新しい会社、を?」

「そこで、私の理想を実現したい。そこに、小橋さんがいてくれたら嬉しいんですが。」

「俺?俺でいいんですか?」

「是非とも。」

「でも、橋野さんは褒めてくれましたけど、社長の前で言った通り、歌に自信がなくなってます。なので、歌は歌えません。裏方、とかになりそうですけど、いいですか?」

「そう言うと思っていました。しばらく、曲を『歌う』社員ではなく、『作る』社員として迎えようと考えています。」

「え、えっと、俺、曲作ったことないんですけど?」

「勉強してもらいます。」

「どこで?」

「矢吹副部長の元で、曲制作を学んでもらおうと思って、既に声をかけています。ジェントルに対抗するために、ジェントルの人を頼るのは、不本意ですが、そこしか心当たりがなくて、退職前に声をかけたら、二つ返事で引き受けてもらいました。」

「そこまでやってくれてたんですね。」

「音楽のため、です。矢吹副部長の自宅でやってもらうことになってます。」

すると、将はメモを取り出した。

「矢吹副部長の連絡先と自宅の住所です。」

寿人は、それを受け取り、凝視した。そして、感慨深そうにこう言った。

「矢吹副部長は、『君のための翼』とか、『月下の心』を作ってくれた人。その人の『弟子』になるのか。」

「そうですね。あとは、小橋さんと矢吹副部長で連絡を取り合って勉強していってください。私は、起業のために出資してくれる人を探さなくてはならないので。」

「わかりました。」

「では、いつ新会社を立ち上げられるかわかりませんが、よろしくお願いします。」

将は、寿人に握手を求めた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

寿人は、その将の手に応えた。

「いいねぇ、しょうちゃんとひーちゃんの会社かー。応援するよー?」

寿人と将はそんなマスターに頭を下げた。その後、2人は連絡先と住所を交換しあった。

「飲み代は、ツケでいいよー。出世払いってやつかな?稼げるようになったら、何倍にして払ってねー。」

「ありがとう、マスター。」

「いいんですか?マスター。」

マスターは、ふにゃりとした。そして、こう言った。

「もうさ、しょうちゃんとひーちゃんは、友達みたいなもんだね。敬語じゃなくていいんじゃないかな?と、思ってたんだけど。どう?」

「確かに、それもそうだな。小橋さん、いいですか?」

「いいよ、橋野。」

「じゃあ、小橋、よろしく。」


◆修行の始まり

「あの、小橋と申しますが、順さん、いらっしゃいますか?」

日を改め、寿人は「師匠」となる男の自宅に電話をした。対応したのは順の妻のようだったが、その女性は、順に電話を取り次いでくれた。

「電話代わったよ。小橋君。」

「はじめまして、橋野さんから話が行ってるかと思いますが、曲制作の勉強をさせていただきたくて、お電話しました。」

「いいよ。なんなら、今日、今から家、来なよ。」

「はい、伺います。」

寿人は、順の自宅に行った。

「お邪魔します。」

「いらっしゃい。」

迎えてくれたのは、ジェントル制作部副部長、矢吹順52歳だった。

「引き受けてくれてありがとうございます。」

「どういたしまして。」

「でも、その、なんでこのことを引き受けてくれたんですか?」

「いやね、ジェントルの制作部にも、いい若いのはいるけども、骨のあるのが少なくてね。小橋君がこの先の音楽界のための人材になってくれたらって思って会社に内緒で引き受けたんだ。」

「ありがとうございます。」

順は、自宅にあるピアノの前に寿人を招いた。

「早速だけど、下手でもいいから、1曲作ってみて。」

「ええっ。」

寿人は、予想外の指導に驚いた。そして、やってはみたが、形にならなかった。

「小橋君は、歌上手いのに曲作るのは、からっきしだったんだね。」

「そうみたいです。困ったな。」

「まぁ、変に凝り固まったスタイルがなくて逆にいいかもね。と、言ってはおくけど、この先このままなら、途中で教えるの、辞めるからね。」

「わかりました。」

そこから順は、作詞作曲の基本から教えていった。

「わかった?大丈夫かい?」

「復習します。」

「復習ついでにさ、自分だったらこういう曲が聴きたいって物を考えてみるといいよ。僕もたまにやるからさ。それに、いろんな曲を聴いてみるといい。似たような曲を作っちゃうこともあるけども、何かのヒントになるかもしれないからね。」

「参考にします。」

順の小柄な体からは、はっきりとした「音楽の力」を感じた。なれるかどうかわからない、しかし、いつかこんな風になりたいと、寿人はおぼろげながら思った。

「また、次、楽しみにしているよ。」

順は、そう言いながら、寿人を見送った。


◆参考

順の言葉に、寿人はある発見をする。

「そう言えば、ジェントルにいた頃は、新曲を覚えるのに必死で他の歌手の曲、あまり聴かなかったな。」

梅村晴香という例外はあったものの、寿人は歌うために時間を費やしていた。それが今では時間が余りある状況。音楽を買うお金を節約したかったことから、テレビやラジオで情報収集することにした。

「これと、これと、これもか。」

たくさんある歌番組。それを時間が許す限りチェックした。

「なんだ、これ。」

中には「いい」と思えるものはあったものの、特にジェラン上位を埋め尽くすジェントルから出された歌にこんな感想を抱いた。

「下手くそ。」

つい最近まで同僚だった歌手たちには悪いとは思ったが、1人、暴言を吐いた。

「俺だったら、こう歌う。」

それをしてみたが、寿人は棒読みみたいな歌しか歌えなくなっていた。

「俺も、他人のこと言えないか。」

自信を失った歌。今自分に求められているのは、それではないと思ったのと同時に、将の言っていた音楽界の現状を身にしみて実感した。

「上手な歌手に、俺の作った曲を歌ってもらって音楽界をいいものにする!!」

そこからの寿人は鬼気迫るものがあった。順から教えてもらった事を繰り返し繰り返し頭の中で反芻し、「自分の心地いい歌」を想像した。そして、ある日、頭の中で生まれてくる聴いたことがない音楽が流れてきた。


◆承認

寿人は、後日順にその曲を披露してみた。

「どうですか?」

順は、しばらく目を瞑って黙っていたが、こう言う。

「出来れば、もう一回聴かせてもらえないかい?」

「はい。」

順の自宅のピアノは、順に寿人の曲を聴かせた。そして、2回目の演奏が終わった。すると、順は拍手した。

「感動してるよ。まさか、短期間でここまで作れるようになったとは。君、本当に小橋君?別人が変装してきてない?」

「いや、俺は、俺です。」

「なんだか欲張っちゃうなぁ。」

と、言いつつ順は、ピアノを前に先ほど寿人が披露した曲を見よう見まねで演奏した。

「凄い、2回聴いただけで。」

寿人は、順を称賛した。それを受け、順は、こう言う。

「まぁ、長年やってるとね、こうなるよ。しかし、ここは、こうだったよね?」

と、寿人の曲のとある部分を再び演奏。

「はい。」

「それを、こうやると、僕は『いい』って感じるけどなぁ。いやね、元の曲も十分いいんだけどね。」

順が変更を求めた部分を聴いた寿人は鳥肌が立った。

「忘れないうちに、スコア書こう。書き方、教えるから。」

順は興奮気味に言った。寿人は、それについていく。今度の課題は、スコアの書き方と寿人は認識、それにも力を入れるようにすることにした。

「いやー、いい時間だったよ。もっと、もっと、いい曲聴きたいから、また近いうちに来なよ。」

「はい。」

寿人は、スコアを書いたノートと共に帰宅して行った。その背中を見た順は、こう呟いた。

「ジェントルもうかうかしてられないな。」


◆進む学習

寿人は、それから書き慣れないスコアに苦戦しながらも、1つ1つ頭に浮かんだ曲を書いていった。

そこで、寿人の心にある思いが芽生える。

「もっと、もっと、いい曲を書きたい!」

そうしているうちに、いつの間にか1995年になっていた。順と寿人の師弟関係は、板についてきた。その日、順はこう言った。

「歌ってのはね、自由な考えで出していい時と駄目な時があるんだ。歌っていた君ならわかるよね?」

「えっと?」

寿人は、どの事を言われているのか一瞬わからなかったため、口ごもった。すると、順はすぐに答えを言ってくれた。

「例えば、タイアップだね。何かの、そうだなー、ドラマの主題歌を頼まれたりもする。」

「あ、そうでしたね。」

「それに合わせて曲を作らなきゃならない時もある。その練習、してみようか?」

「はい。」

「じゃあね、推理物のドラマの主題歌を頼まれたら?どんな曲を出す?これを宿題にしよう。」

「わかりました。」

寿人は、この順との時間が楽しくなってきていた。新たな形式の課題にわくわくした。

「推理物、か。ちょっとこわい感じでいいのかな?」

そして、後日、順に曲を披露する。

「惜しい!惜しいんだよー。推理物だから、その雰囲気でいいんだけど、最後まで『こわい』感じだったら曲の中では事件解決ってなってなくてスカッとしないだろう?」

寿人は、はっとした。

「確かに。」

そして、即興でラストの部分を重点的に変化させてみた。

「オーケーだね。そんな感じ。」

その修正した部分含めてスコアを書き直した。

「書き慣れてきたようだね?スコア。」

「はい!」

順の自宅に、和やかな雰囲気が流れる。

「小橋君、よかったら今夜ここで食べてかないか?」

「え?いいんですか?」

「折り入って、話もあるからね。」

寿人は、首を傾げた。そうこうしていると、夜になり、順の妻の手料理を馳走になった。

「奥さんのカレー、美味しいです!」

寿人は、それを頬張りながら笑顔を見せた。順の妻は喜んだ。一方、夫である順は、少しさびしそうな顔をしていた。そして、口を開く。

「小橋君ね、ちょっといいかい?」

「なんですか?」

「実はね、ジェントルの制作部、これから忙しくなるんだよ。しばらく会社に缶詰めになる予定でさ、君に曲作り、ここで教えてやることができなくなるんだ。」

「えっ。さびしくなります。」

「君の作曲の腕は僕が保証できる所まで行ってるから、ここで『卒業』でもいいのかも知れないけれど、なんだかもっと何か君に伝えたいって思ってる僕もいるわけ。だから、君がよければだけど、ジェントルの中にこっそり来てもらって、仕事の合間に引き続き『授業』したいなって思ってるんだ。」

「ジェントルに、また、足を。」

「無理だよね。」

「ちょっと抵抗は、あります。けど、けれど、俺も先生にもっと何か教えてもらいたい。だから、行きます。下手だけど、変装して行きます。」

「いつでも待ってるよ。」


◆影

後日、寿人は、何年ぶりかの変装をし、ジェントルの社屋へと入って行った。制作部も私服が許されている部署。私服しか持っていない自分には、都合がいい。そんな事を考えながら、制作部のフロアに行く。

「先生。」

「ん?あ!」

順は、嬉しそうに寿人を迎え入れた。

そこで、連日のように「授業」が行われる。その光景を濃い目元で見つめる人物が。その名前は、原康太。ジェントル制作部の職員で、交流はなかったが、寿人と同い年の男だった。原は、不審な男が連日のように通ってくることに疑問を抱いていた。そして、その不審人物の声を聞いた。

「響義浩?」

原は、誰にも聞こえないようなごくごく小さな声で呟いた。

「何で奴が?」

原は、お飾りと言っても過言ではない制作部部長や、「響義浩」に直接対応している実質部長の副部長にこの事態を咎めることができず、思い余って社長の南山に報告しに行った。

「本当かね?」

「はい、なにやらこそこそやってるようです。」

「わかった。しばらく様子を見て、また報告を頼むよ。」

原は、その足で思いきって副部長の順と「響義浩」の輪に入って行った。

「楽しそうですね。副部長。何を?」

「え?ああ、副業、副業。」

「私も手伝いましょうか?」

順は、寿人を教えるついでに、原という部下の研修を思いつく。

「いやね?作詞作曲教室やってんのよ。君も参加しなさい。生徒としてね。」

順は、原の制作者としての腕を常々不安視していて、技術を上げるいい機会だと思った。

「わかりました。『先輩』?よろしく。」

寿人は、ビクビクしつつも「先輩」として「後輩」にお辞儀した。

後日、原は、南山に順が「教室」なるものを開いている事を報告。

「報告、ありがとう。どうしたものか。」

南山は、しばらく思案した後、原にこう命じた。

「その『響義浩』に、君が考えられる『攻撃』を許可しよう。」

「え?」

「作詞作曲を矢吹に習って何をしようとしてるんだ?小橋君は?まあ、なんとなくわかった。ここで潰しておこう。」

「はい。」

原はそれを受け、順の「授業」を受けながら、「響義浩」にどんな「攻撃」を加えられるか思案する日々を過ごした。

ひと月後、もうそろそろ順の「缶詰め」状態が終わりを告げようとしていたその時、原は思いついた。とある「攻撃」を。

「先輩、今まで授業で作ってきた曲を交換して、感想述べ合いませんか?」

「それ、いいかも。よろしく。」

この時、寿人の心に、順以外の人の感想も聞いてみたいという欲求が沸き上がった。喜んでスコアのノートを交換した。

そして、数日後、ノートは戻ってきた。

「いや、先輩、最高ですね!」

「ありがとう。君のも、なかなかよかったよ?」


◆衝撃

それから、更にふた月後、寿人は自宅にてつけっぱなしにしていたラジオからとある新曲を耳にした。ジェントルから出た「闇夜の影 / 水島良典」という曲だったが、そのメロディーに呼吸が激しくなる。

「こ、これは。」

何冊かになった「授業」のスコアノートに目を移す。その「闇夜の影 / 水島良典」は、そのノートの中の1曲に酷似していた。ある程度、変化は認められたが、間違いなく寿人が作った無題の1曲そのものだった。

「なんかの、偶然?いや、なんだ、これ。」

めまいを覚える寿人。心を支配しつつあるとある事実を振り切るように、街のCD屋に走った。そして、店頭に並んだ「闇夜の影 / 水島良典」のシングルCDを手に取り、購入。自宅に戻るのももどかしかったため、店を出るなり、フィルムを乱暴にはがし、中身を確認。

「ああ。」

その「闇夜の影 / 水島良典」のクレジットには、「原康太」と書いてあった。

「盗まれた。」

久しぶりのどうしようもない思いに宛もなく歩き出す寿人。また、自分はやってしまった。軽率に行動してしまった。その結果、自らの心に苦しみを与えてしまった。

「何で、俺は、いつもこうなんだろうな。」

翌週のジェランは、週間1位「あなたの隣で / 佐崎佑里」に次ぐ2位に「闇夜の影 / 水島良典」を据えた。


◆鍵

その日、将は帰宅すると、自宅の鍵が開いてしまっていることに慌てた。

「今朝の閉め忘れ?」

部屋に異常がないかを確認するため、見て回る。すると、人影を見る。

「誰だ!」

声を上げたと同時に寿人の顔が目に飛び込んでくる。

「小橋。」

そう言えば、合鍵を渡してあったと安心するが、寿人の暗い顔に何かがあったと察した。その事で声をかけようとしたが、寿人の方から声が上がる。

「橋野、橋野、また、俺、やっちゃったよ。」

その手には、ノートとシングルCD。理解が追いつかない将。

「今度は何をやったんだ?」

「悔しい。」

寿人は泣き始める。

「泣く、資格なんて、ないのに、すまない。」

必死に涙を抑えようと両手で何度も自らの涙を拭った。そして、次第に落ち着いた寿人は、将に事情を説明。そして、こう締めくくった。

「こんだけ、やらかしてる俺、お前の会社に入ったら、凄く迷惑かけそうだ。俺の入社の件はなかったことにしてくれ。」

当該の無題曲のスコアの上に問題のシングルCDを乗せた風景を見つつ寿人は言った。

「何を言ってるんだ!!」

将は一瞬の激昂を見せた。それに、寿人は短くこう返した。

「すまない。」

将は、シングルCDを指差し、一転、落ち着いた口調で寿人に語りかけた。

「確か、ジェラン2位の曲、だったな。そんな状況とは知らないで聴いた。ジェントルに何か変革が起きたのかと思った位、衝撃を受けたぞ。この曲が『一覧』に入ってる可能性は否めないが、それを考えたくない程、いい曲だった。『お前の曲』だったんだな。」

その言葉に再び涙する寿人。将は続ける。

「こんないい曲を作る人材は、俺の新会社に絶対に必要だ。何がなんでも入社してもらう。」

そう言いながら今度はスコアノートを見始める将。

「頑張って、くれてたんだな。俺の方はなかなか出資者が集まらなくて、苦戦しててな。このノート、励みになる。しばらく、預かってていいか?そのCDと一緒にな。」

「橋野なら、いい。俺、まだ、頑張っていいのか?」

「ああ、勿論だ。」


◆真実

後日、将は順に電話をかけた。そして、「闇夜の影 / 水島良典」の件を伝えた。すると、順は心から申し訳なさそうにこう言った。

「その曲は、小橋君のだってわかってたから、止めたかったんだけど、社長の鶴の一声で発売まで行っちゃったんだよ。2人には、申し訳ないことした。」

「いいえ、小橋のノート見て、矢吹さんがどれだけの尽力をされたかがわかりました。咎める気にはなれません。」

「でも、ケジメはつけるよ。小橋君の「先生」をこれをもって降りるよ。僕もね、小橋君にもっともっと色々教えたくてさ、欲かいたんだ。その結果、小橋君には重い傷負わせちゃって、本当に悔やんでるよ。」

「そこまで求めませんが、これ以上、矢吹さんに負担かけたくもないので、その意見を尊重します。これまでの尽力、ありがとうございました。」

「いいや、本当に、久しぶりに、楽しかったよ。こちらこそありがとう。小橋君にもよろしく言っておいてくれないか?」

「小橋には、改めてご挨拶に向かわせたいんですが。」

「駄目、駄目。僕の方が辛くなるよ。逃げさせてもらっていいかい?」

「わかりました。小橋には、伝えておきます。」

その件は、寿人に伝わった。

「会えないんだったら、礼状、書くよ。」

寿人は、順に手紙を出した。

「矢吹先生、今までありがとうございました。矢吹先生のおかげで私の音楽の世界が広がりました。私はこの先、橋野の新会社で音楽を皆さんに提供します。今度はライバルになってしまいますが、お互い、頑張りましょう。そして、音楽を盛り上げて行きましょう。小橋寿人」

それを読んだ順は、かなしげではあったが、いい音楽を作ると言う決意に溢れた目をした。


◆頑張り

それから、寿人は、自分が書ける曲の幅を広げるため、順から教えてもらった「自分が聴きたい曲」や「他を参考にした曲」以外に、「自分が歌ってみたい曲」も課題にして独自で曲作りの腕を磨いていった。

将は、1曲だけ聴くことの出来た「小橋寿人の曲」を糧に改めて出資者を探した。すると、徐々に出資者が集まりはじめた。

そんな中、風の噂で和子が歌手を引退したと聞いた。

「和子。」

寿人は、久しぶりにその名前を呼んだ。


◆門出

その日、将と寿人の姿は、とあるテナントビルの一室にあった。その外部には、「愛和音」と書かれていた。そこで将がこう言った。

「これより、『愛和音』発足です。」

拍手が起こる。

「代表取締役社長を務めます、橋野将です。皆さん、よろしくお願いします。」

その将の言葉に続いて、社員達が次々に自己紹介をし始める。

「制作部部長の小橋寿人です。よろしくお願いします。」

寿人は、これから「室井徹彦」という名前で曲制作をすることになる。

「歌唱部部長の神谷陽太です。よろしくお願いします。」

陽太は、愛和音の社員募集に応募してきた29歳。これより、「城野博」という名前で歌手活動をすることになる。

「歌唱部の橋野京子です。よろしくお願いします。」

京子は、将の29歳の妹で、兄の会社が面白そうだと無理矢理入社してきた。「滝野宮子」という名前で歌手活動をすることになる。

それ以降も、集めることの出来た社員の挨拶が続き、愛和音発足式が終了する。

1997年6月1日、寿人26歳、将32歳の出来事だった。

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