ミモザナ王国へ
ムスカリラ王国は、大陸の西岸にぽっこり突き出たこぶのような形の大きな半島にある。その根元の大陸側にも少しだけ国土があり、国の東辺の北半分はミモザナ王国、南半分はフリージアン王国と接している。
ステラは伯母クレアに連れられてタルトン公爵家に二泊したあと、ステラの体調に問題がないことを確認して、早々にミモザナ王国に出発した。
公爵夫人パトリシアは久しぶりに会ったクレアを引き留めた。
「一ヶ月くらいここにいてくれたっていいのよ」
「公爵がもうすぐ外交に出られるのでしょう? あなたも一緒に行くのではないの?」
「私だけ残るわ」
「もう、そんなことできないくせに」
パトリシアは王妹、学生時代のクレアは子爵令嬢。この身分差でどうやって親しくなったのだろうか。
「学院の同期でお茶会くらいしたかったわ。ほら、クレアが折った中庭の木、今ではだいぶ大きくなったんですって」
「まあ! それなら、あの壁の穴も?」
「あれは代々引き継がれているんじゃないかしら」
――どういう学生時代だったのだろうか。
首をかしげるステラにふたりは嬉々として教えてくれたのだけれど、どうにもお転婆の域を超えている話ばかりが出てきて楽しかった。
少し時間があるといろいろ考えてしまうステラには良い気晴らしだった。
そんなパトリシアに見送られ、馬車はミモザナ王国を目指した。
「あら、夜露茸だわ! これはおいしいのよ」
国境の街を出て最初の休憩。馬車を街道脇に設けられた広場に止めて、ステラたちは付近を散策していた。ずっと座りっぱなしで固まっていた身体を伸ばす。
街道の左は森、右は柵があって向こうは牧草地だ。春の始めの若草が明るい緑に光り、茶色の牛が草を食んでいるのが遠くに見える。
国境を越えるまでに六日かかった。ステラは王都と領地の往復しかしたことがなく、国外に出るのは初めてだった。
これから先は、このミモザナ王国が自国になる。
低木のやぶの下に生えたきのこに手を伸ばそうとしたクレアを、「奥様、それは朝霧茸です!」とブルーノが止める。
「毒のある方?」
「そうです。きのこは難しいんですから、むやみやたらに手を出さないでくださいよ。旦那様にまた叱られますよ」
ため息をつくブルーノは二十歳前後の赤毛の青年で、侍従兼護衛だそうだ。「護衛は最低限しかできません」と言っていたとおり、彼とは別に騎士が三人ついていた。御者も護衛ができるらしい。侍女のマーサもいれて、八人の一行だ。
――もしかしてマーサも護衛ができるのかしら。
ラージエンド子爵家でステラの身支度を手伝ってくれたマーサは、ブルーノよりいくつか年上のようだ。彼女も赤毛だけれど、ブルーノと血縁はなく、辺境領に多い髪色らしい。
「あら、これは食べられる草じゃない?」
「ちょっ、待っ! 奥様! 食べられますけど、こんな人の行き来の多い場所に生えてる草はやめてください!」
クレアは街中で休憩したときも興味の赴くままに歩き回り、ブルーノに注意されていた。
母アガサはもちろん、今まで会ったどの貴族夫人とも違うクレアに、ステラは驚くばかりだ。
「奥様は大変自由な方で、皆振り回されてます。ステラお嬢様は奥様を反面教師に、おしとやか路線を貫いてくださいね」
「辺境でおしとやかなんてやっていたらもったいないじゃない」
「奥様は程度が違いますわ」
マーサも苦言を呈すけれど、ふたりともクレアを敬愛している様子が伝わってくる。クレアも気軽な態度を許しており、パターリアス辺境伯家は居心地が良さそうでステラは安心した。
パターリアス辺境伯家は、辺境伯ダレルと辺境伯夫人クレアのほか、先代辺境伯ニコラス、ステラより四つ年上の嫡男オスカーがいるそうだ。
うまくやっていけるといいな、と思う。
毒きのこの生えているやぶの向こうは森になっていた。それほど深い森ではなく、街道を逸れて少し進むと農村があるらしい。
なんとなくぼーっと見ていたら、クレアに話かけられた。
「パターリアス辺境伯領の北側は大きな森になっているの。その森には不用意に入らないように注意してね」
「深い森なのですか?」
それとも北の国境だからだろうか。
「魔獣が出るのよ」
「えっ! 魔の森みたいな?」
「魔の森ほどじゃあないわ。……といっても、魔の森に行ったことがあるわけではないけれど」
ムスカリラ王国の聖女の結界の外、半島の先端には今もわずかに魔の森が残る。定期的に騎士団が調査しており、そのときに身に着ける護符は聖女の祈りを込めたものだ。
家庭教師から習った歴史やセレナの見習い聖女の教科書から得た知識しかないが、魔の森は昼でも真っ暗で、いたるところから魔獣の唸り声が聞こえ、少し歩くだけでも気分が悪くなるほど瘴気に満ちているらしい。
「ムスカリラ王国では魔獣に出会うことなんて全然ないけれど、他の国では普通にあるのよ。……そうねぇ、狼とか熊とか、そういう獣と同じくらいの頻度ね」
「どこにでもいるのですか?」
ステラは思わず、森の方を見回してしまう。木々の先の暗がりに魔獣が潜んでいる想像をしかけて、魔獣の外見を知らないことに気づく。
聖女の教科書にも「ひどく悍ましい見た目の獣」としか書かれていなかった。
その疑問を口にする前に、クレアが先ほどの答えをくれる。
「大きな街道の近くにはいないから大丈夫よ。人が多く住んでいる場所にも出ないわ」
「狼とか熊みたいに、ですか?」
「そうね」
クレアは笑って肯定してから、「でも」と表情を改める。
「辺境の森は危ないから、勝手に入らないこと。いいわね」
「はい」
ステラは神妙にうなずく。
「魔獣もですけど、狼も熊もいますからね」
「はい。気を付けます」
「奥様、あんまり怖がらせたらだめですよー。辺境伯領だってそこそこ大きな街じゃないですか。魔獣が出る森なんて、お屋敷から一日歩いてやっと着くかどうかの距離なんですから」
ブルーノがステラに笑いかける。
「ステラお嬢様には常に護衛がつきますから安心してください」
「護衛騎士でも倒せるの?」
「聖水や護符も使いながら、剣で倒します。強さも狼とか熊くらいですね」
「そうなのね」
ムスカリラ王国では聖女の結界があるため魔獣は出ない。だから魔獣の倒し方は習わないのだ。
「護符って、聖女の祈りを込めた護符?」
「いいえ、教会の司祭様の護符です。聖女の護符はムスカリラ王国だけですよ」
「そうなの? 聖女の護符は国外に輸出してるって習ったのだけど」
「ああ。高価なので買える人は限られてますねー。王族の近衛騎士は支給されてるみたいですけどね」
ステラは思わず胸元に目をやった。
出発するときに餞別として、聖女の護符を王妃から賜ったのだ。
その護符は畳んで守袋に入れて首から下げ、服の中にしまっている。
ステラの視線に気づいたクレアが、
「全員に聖女の護符をいただけるなんて、破格のことよ」
「はい。あの、辺境伯領に着いたら、王妃様にお礼のお手紙を書いてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ。パトリシア様やハミルトン公爵令嬢にも書いてあげて。それからセレナにもね」
クレアは少し声のトーンを落とすと、
「チャーリー――あなたのお父様――には私から連絡するから、あなたは何も気にしなくて大丈夫よ」
「はい。伯母様、ありがとうございます」
ステラがそう言うと、クレアはにっこりと笑う。
「私たちは母娘になるのだから、もっと態度を崩してくれていいのよ? 呼び方は伯母でも母でも、あなたの好きにしてかまわないわ」
「はい、がんばります」
ステラがぎゅっと拳を作ると、「無理にがんばらなくてもいいのよ」とクレアはステラの拳を両手で包み込んだ。
「いつか、自然にそう思えるようになったらでいいの。あなたはまだ若いわ。十三にもなっていない。これから先の人生のほうが長いのだから、気長にね」
クレアの手は温かい。
こうしてステラはミモザナ王国で新しい一歩を踏み出したのだ。




