ベルギー消失
架空戦記創作大会2023夏
リハビリで書いてみました。
少々修正加筆しました。
1940年5月9日 西ヨーロッパ ドイツ ベルギー国境付近
1939年9月より始まったナチスドイツによるポーランド侵攻から始まった第二次欧州大戦は、フランスドイツ国境での半年を超えるにらみ合いが続いていた。一時期はフランス軍によるドイツ領侵攻が行われたが僅か10kmほど進行しただけで終わり、結局はマジノ線にこもるフランス軍とドイツ軍のにらみ合いは千日手となっていた。
そんな中、ドイツは天才的戦略家である、フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン中将の作戦案が出されたが、OKW(国防軍最高司令部)では批判的な論調であったが、ヒトラーがマンシュタイン案を絶賛した結果、OKWとしても却下できずマンシュタイン中将とすりあわせの上で修正案が承認された。
ドイツ軍はマジノ線に対抗するC軍集団、ベルギーとオランダに侵攻する歩兵主体のB軍集団と、アルデンヌの森林地帯を抜ける装甲師団主体のA軍集団の三つに分かれ準備を終えていた。後は明日5月10日のフランス侵攻を待つだけであった……
空が白み始めた5月10日4時を越えた頃突如としてA軍集団司令部からの通信が途絶えOKWが騒然となる。
「フランス軍、あるいはベルギー軍の奇襲か?」
「通信状態の異常なのか!」
等々の怒声が走る。
通信課は他の部隊であるBおよびC軍集団に連絡を入れるが異常は無かった。
すでに作戦自体は始まっているため、A軍集団へ無線により連絡を行うも応答が無い。
ますます慌てるOKW内、そこでA軍集団所属の各師団に通信を行うも全く連絡が取れなかった。
そうこうする中、B軍集団司令部より、アーヘンにいる部隊と連絡途絶したとの連絡も入り更に騒然となる。
5時20分超え夜が明けると、ケルンやボンから緊急連絡が入り始めた。
『西方に巨大な雲らしきものが立ちはだかっている』
『雲は地上から天高く壁のように遙か彼方まで見える』
夜が明けたとこでケルン航空基地やB軍集団やC軍集団から偵察機が発進すると、彼らからも同じような連絡が入る。
高度1500メートルを超えるほどの巨大な雲が遙か彼方までドイツ国境からベルギー、ルクセンブルク、ネーデルランドの一部を覆っていると、そして雲の中へ入ろうとしても入ることができないと……
10日7時過ぎに雲まで到着した部隊が外側から内部に進入しようとするも、20メートルから30メートルのあたりでそれ以上進めなくなり、部隊長権限で外部から銃弾を撃ち込んでもはじき返された。
電波などは内側から発信されて居ることが確認できず内側の状態は不明であった。
この事件により、ドイツはA軍集団という宝石より貴重な装甲師団7個師団を含む45個と2分の1師団とB軍集団の3個師団を失い、戦力不足とともに進行すべきベルギーとアルデンヌの森が無くなったことで、フランスへの中入り作戦が実現不可能となり、かろうじてネーデルランドの一部占領のみに終わった。
一時は占領したネーデルランドの海岸地帯からのフランス侵攻も考えられたが、エスコー川河口にロイヤルネービーが戦艦まで着底させる勢いで防衛戦を引いたためと渡河に必要な資材が準備できなかったために戦線は膠着状態に陥りフランス侵攻作戦は頓挫することになった。
その間に、フランス、イギリスともにアメリカに注文した各種装備が届き始めた上で両国の軍需産業がフル操業になり、植民地や自治領からの増援が成されたために戦力の強化が進んだ。
ドイツも失った戦力の立て直しを必死に行おうとするも、すでに数年前より戦時体制に切り替えていた産業界はもはや一杯一杯の製造能力で思い通りの増強ができずにあがいていた。更にすでに限度に近い徴兵を行っていた結果もあり再度の徴兵は産業界の崩壊を招きかねないと各所から指摘された。
このような結果、参戦を狙っていたイタリアのムッソリーニは参戦は危険であると冷静に判断しイタリアは参戦を取りやめ再度の局外中立を宣言した。
後に各国から選りすぐりの科学者たちが集まり調べた結果、雲はベルギーの首都ブリュッセルの西南西60kmの都市ヴァッセーニュ付近を中心に直径130kmほどに達し、ベルギーほぼ全土と、ルクセンブルク、ネーデルランド、ドイツ、フランスの一部をを覆っていることがわかった。
雲の成分自体は水蒸気であり、オゾンとアルゴンが平均値より多少多い程度だが、周囲で重力場の乱れが観測された。