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石と誰かの物語

紫陽花の咲くころ

作者: 河 美子

石と誰かの物語です。

 大きな洗濯機を狭い脱衣所にやっとこさ入れてもらう。

「ほう、ぎりぎり入ったな」

 夫は暢気な声で言う。

「はい、奥様の計測が正しかったから入りましたね」

 取付業者が苦笑いしながら言った。

「いや、それ僕だから」

 はいはい、あなたが測りました。


 この梅雨空の毎日に、フル回転の洗濯機が壊れたのだ。

 雨でも、子どもたちのサッカーで汚れたユニフォームや景気よく使うバスタオルが山積み。洗濯機とは思えないようなじゃりじゃりという音。明らかに泥もつれのものを入れた音が毎回していた。

「洗ってるから」

 という息子の声を聞いたけど、朝見たものは洗濯機の中で浮いている空しいユニフォーム。背番号は55。

「ちょっと、洗えてないわよ」

「それは知らない。洗剤入れて洗濯機を回したところまではやったもん」

「もう、私出かける時間なのに」

「僕も朝練あるから」

 弁当代を机からとると、パンを口にくわえて出かけてしまった。

 妹はのんびりと朝からシャンプーして涼しそうな顔で、我関せずを決めているようだ。

「ちょっと、まあちゃん、ママ出かけるから洗濯機の水抜いておいて」

「だめ、私ももう学校。だって、スイッチが入らないんでしょう。水も抜けないわよ」

「そ、そうね」

「パパ、ママが呼んでる」

 下から叫ぶと夫が眠そうな顔で起きてきた。

「ほら、洗濯機が壊れてる。ママが水を抜いてって」

「えーっ、僕は電気製品わからない」

 そうなのだ、夫は蛍光灯すら替えられない。できないといえば、妻が何とかしてくれると思っているのかもしれない。でも、この人を動かすより、私が動いたほうがはるかに速いのだ。

「説明書はどこ?」

 それを探す間に日が暮れる。

「もういいわ」

 怒ることもあきらめて家を出る。駅まで立ちこぎすればいつもの電車に間に合う。風でスカートが舞い上がる。もう知らない。今日に限ってこのワンピースを着たのがばかだった。太ももを見せながらも立ちこぎ。もう、誰もヒューヒューとは言ってくれないが、いいのだ。

 電車が私の目の前で扉を閉めた。いじわる。

 この日は一日働いてもいいことは一つもなかった。会社でも上司が急にインフルエンザで休み、同僚は二日酔いで朝からウトウトするばかり。苦情の電話も一人で対応するしかなく、腹立つことばかり。

 やっと、昼休みになり、家電量販店に電話する。

「洗濯機が壊れて、買って10年ですけど」

「そうですか、そのタイプの洗濯機はもう寿命ですね。直すより、買ったほうがいいかもしれませんよ」

「そうね、子どもも大きくなったし、容量が足りないかも。また、帰りに寄ります」

「はい、お待ちしてます」

 そうよね、あの子たちが小学生低学年だったもの。今は大人が4人。7キロでは足りないわよね。でも、ボーナスは家のローンに大半とられるからなあ。夏休みには夏期講習のお金もかかるし。

 ため息をつきながら夫に電話する。

「ああ、そうだな。新しいのを買うか」

「寸法を測ってくれる?」

「いいよ、縦、横、奥行きだな」

「排水ホースの位置がどっちになるかも調べて」

 夫は夜勤明けだから今日はゆっくりしている。

「任せて。得意だから」

 電機は苦手でも、彼はこういうコツコツ仕事は向いている。

 家電量販店は欲しいものがいっぱいだった。

 美顔器、風呂でも見ることができるテレビ、野菜ジュースができる静かなジューサー。我が家のは隣の受験生も起きてしまうほどの騒音だ。

 それでも、洗濯機売り場に行くと、なんとまあ高価なこと。

「電話していた片山です」

「お待ちしてました。ご家族は何人様ですか」

「大人が4人」

「それではこの大きさがおすすめです」

「わあ、これ大きいわ。我が家の洗濯場には無理だわ」

「そうですか、横幅がどれくらいならいいですか」

「このくらい。65センチくらいまで」

 指さしたものはやはり7キロクラス。

「これだと二回はする必要があるでしょう」

「ええ、困るの。もっと大きくないと。でも家が小さいし。今時外で洗うことはないわね」

「そうですね、外の置く家は最近ないですね。ガレージに置く家はありましたよ」

「車もないわ」

 他愛もない話を入れながら、この店員さんは優しく感じがいい。

「このタイプはどうですか。先ほどより大きめです。10キロです」

「あら、サイズは入るかしら」

「大丈夫です。61ですから」

「そう。これにしようかな。乾燥機は置けないのよ」

「乾燥の送風がついてますから、あとはお風呂場乾燥機があればいいと思います」

「そうなの、いいわね。値段もこれなら買えそうだわ」

「ええ、この品物は今新しいタイプが出たのでお安くしてます」

「ますますいいわ」

 カード払いで8万弱。よし、一件落着。

 エスカレーター横の美顔器を見ると、いい感じでスチームが出ている。

「いかがですか、これも」

「うーん、使う暇がないのよね」

「お休み前の10分。自分へのご褒美に」

「でも、その10分がないの」

 本当はあるけど、今日の財布の中身は洗濯機でなくなった。

 とにかく、家の洗濯機の中のものをどうにかしないと。

 

 家に帰ると、あの洗濯物がきれいにたたまれている。

 どうしたの、あ、このたたみ方は義母だ。

 台所からはいい匂い。

「お帰りなさい」

「わ、いらっしゃるならお迎えに行きましたのに」

「いいのよ、みんな忙しいんだから」

「洗濯機が壊れていたのにどうしたのかしら」

「ああ、それは敦が出してコインランドリーに持って行ったわ」

「よく開けれたわね」

「違うわよ、私がコンセントを抜いてやればスイッチが入ることあるからって言ったの。そうしたらふたはあいたのよ」

「そうですか。知らなかった」

「ゴミ袋に入れて敦が自転車で運んだの」

「良かった」

「あなたが洗濯機を買ってくるから、これぐらいしておかないとって」

 ああ、こういうところを見られたか。仕方ない。

「ところで、お母さん、どうされたんですか」

「同窓会なの。50年ぶり」

「わあ、すごい」

「ホテルでやるのよ、明日。だから、今晩泊めてね」

「どうぞ、何日でも」

「はいはい、気持ちだけ受け取るわ。お父さんが寂しがるから」

「仲がいいですね」

「あの人は毎月同窓会っていうけど、わたしのこの同窓会は本物よ」

 ケラケラと楽しそうに笑う義母。このあっさりした感じが好きだ。友達はみんなそう仲良くなれないっていうけど。私は結構うまくいってると思う。どっちが努力してるって? 私ではないみたい。

 その夜、おいしい煮込みハンバーグを義母が作ってくれたので、みんな満足に夕食タイムを過ごせた。

「おばあちゃん、もっといてよ」

「そうだよ、この手作り感、いいなあ」

 娘や息子の気持ちはよくわかる。いつも簡単メニューの夕食だから。

「本当に。お父さんにも来ていただけたらいいのに」

「そうなの。でも、あの人は将棋の教室の会長さんだから忙しいんだって」

「毎日開けるんですか?」

「ええ、最近は人気が出てきて。ところで、このブローチを作ったの」

「わあ、すごい」

 見ると義母の手にクリスタルのブローチが。

「どうしたんですか?」

「ビーズ教室を老人クラブで開いてくれたの」

「本当はこれを宝石で作りたいんだけど。まずはビーズで」

「おばあちゃん、使わなくなったら私に頂戴」

 娘が早速おねだり。

「だめよ、まずは私に」

 義母が小さいポーチからイヤリングを出した。

「これをあなたに」

「どうかしら」

「素敵です」

 小さく揺れるクリスタルのイヤリング。

「わあ、いいなあ。おばあちゃん、私には?」

「はい、キーホルダー」

 こういうところがいいのよね。娘にもカラフルビーズのキーホルダー。

「わあ、ありがとう」

「え、おばあちゃん、僕には?」

「あなたはこれ」

 見ると、ミサンガ。紺のビーズが腕を引き締めて見せる。

「ひえーっ、おしゃれ」

「お母さん、みんなにこんなにたくさんありがとうございます」

「いいのよ、喜んでくれる人がいるのはいいものよ。お父さんだと渡すものがないもの」

 笑う義母にみんなもつらされて笑う。

 子供たちが寝ると、義母が話を始めた。

「お父さんがね、軽い認知症が出てきたの。旅行も行けなくなりそうだから今回は姉に頼んできたの。話しておかないといけないと思って」

「敦さんは?」

「あの子には話したわ」

 夫の寂しげな様子が目に浮かぶ。

「私もいずれ同じになるかもしれないけど、その時は施設に入れてね。お父さんもそういう時が来たらまた相談するわ。とにかく来年の喜寿はみんなで祝ってあげたいと思うの」

「ええ、段取ります。心配しないで」

「ありがとう。それから、大切なものはうちの金庫に入れてるわ。これがそのノート」

 ノートをめくると、銀行預金のナンバーや、保険の証書の会社名、印鑑証明書や家の権利証、実印もひとまとめにして金庫に入れてるという。

「投資信託や株はそこに書いてるぐらいで、いずれ処分して現金化するわ。そうしたらこの通帳に」

「お母さん…」

 言葉を失った。

「現金は私たちが施設に入るまでは必要だから、残ったら使って」

 そんなことを考えながらビーズでいろいろと作っていたのか、そう思うと寂しくてたまらなくなった。

 ポロポロと涙がこぼれると、義母は静かに言った。

「私は本当に感謝してるのよ、敦がいろいろあって会社に行けなくなったとき、あなたはいつも支えてくれたわ。銀行マンだったのに、今は食品工場勤務。本当に苦労掛けたわ」

「お母さん、気にしないでください。私は外で働くほうが向いてるし、家に彼がいるほうが子供も落ち着いたから。これでよかったんです」

 

 翌日、着物を着て同窓会に出かけた義母。

 私は胸にあのブローチをつけて出かける。

 娘の自転車で揺れるキーホルダー。

 息子の腕にはミサンガが光る。


 夫は義母に作ってもらった小さなポーチにこっそり小さな写真を入れている。アルバムにあった古い将棋盤とにらめっこしてる父の写真。


 いつか将棋も忘れてしまうかもと、小さく笑った夫。


 いいえ、忘れないわ。


 私たちが。




 


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