売れる為に個性は必要ない
私の言いたい事はタイトルの通りだ。売れる為には「個性」は必要ない。むしろ必要なのは個性の無さだ。人気者は、無個性である事が求められる。
だが、人々の方からはそんな風には見えないだろう。眩いばかりのタレントは「個性の塊」に見えるだろう。
実際にはそんな事はなく、タレントの方では、大衆の望むポーズを取っているだけだ。彼の内面は空虚であり、彼は他人が望むポーズを取る。その凝固したポーズが、「キャラクター」とか「作家性」に見えているだけであって、実際にはタレントという人形に命を吹き込んでいるのはそれを見ている大衆の方なのである。
だが、人はこう反論するかもしれない。「いや、そんな事はない。木村拓哉は個性の塊で、あなたのような何の才能もない人とは違うんです! 彼は特別なんです!」
しかしその「特別」とは一体、どうして作られたものなのだろうか? 木村拓哉という人が今まで行ってきた雑多な仕事を思い返してみれば、彼が実に多くの事を引き受けてきたのがわかる。彼は大衆の求める像を演じ続ける努力をし続けてきた。彼は「自分の望む仕事」を選んだりしていないだろう。昔の役者のように「脚本が悪ければ役は受けない」のような事はしていないはずだ。そんな事をしていたら、仕事の量はぐっと減り、大衆に自分をアピールするチャンスは激減する。
木村拓哉という人がやってきた仕事とは、大衆の求める像を演じ続ける事だ。そこに個性はない。彼が個性を持っていて、人々の欲望とは違う自分の仕事とか、自分にしかわからない何か大切な事に取り組んでいたら、木村拓哉は「スター」になれていなかっただろう。
「スター」とは内実を持たない、外面が本質になってしまった人なのだ。しかし、大衆はスターを見て、「この人は凄い人だ、奥深い人だ」と思う。実際には、「スター」の背後にあるのは大衆の欲望、つまり自分達自身なのだ。
タレントに望まれる資質というのは、何よりも自分を失う「勇気」を持っている事だ。与えられた事は全力でやる性格の真面目さが必要とされる一方で、その仕事が「何であるのか」と考える力は持っていてはならない。「この仕事は一体なんだろう? やる価値が本当にあるだろうか?」なんて考えているのはタレント失格だ。タレントは考える事なく、踊り続けなければならない。
最近人気の橋本環奈なんかはまさにそういう存在だろう。上戸彩なんかも同じだろう。与えられた仕事は真面目に取り組むし、きちんと結果を出す。見た目も良いし、性格も良い。だが、考える事は決してない。一旦、考えてしまえば、自分を取り囲む空虚に気づいてしまうから。
タレントの誰かが「他人から見た自分が自分」だと言っているのを私は聞いた事がある。この「他人が見た自分が自分」というのがタレントという存在の哲学の中心にあるものだろう。「他人がどう言おうが自分は〇〇だ」ではなく、「他人が見た自分が自分」だと心に念じながら仕事を行う。
私の言っている事には有力な証言がある。長年に渡ってエンタメ界の「トップ」に位置している「サザン・オールスターズ」の桑田佳祐の発言だ。彼はヤフーニュースの特集インタビューでこう答えている。
「僕自身は空っぽな容れ物みたいなのもでね。空気とか情報とか、市井に浮遊しているものをキャッチしては、自分という空っぽの容れ物にポンポンと詰め込んで、それをシャッフルしたり、色付けしたりして吐き出してきた。『世の中を呼吸』しながら作品を紡いできたという感じ。そこに多少のエゴや性格もあぶり出されているのだろうけど、僕自身にあまり強い自我のような感覚はないんですよ」
桑田佳祐の言っている事は本当だろう。人は桑田佳祐を「音楽の凄い才能がある」と言うが、本人は「市井の空気を入れて吐き出しているだけ」。人は桑田佳祐を「凄い個性」と言うが、本人は「あまり強い自我のような感覚はない」。
私がこの世界を空虚だというのは、タレント(的なもの)ー大衆の連関で多くの事柄が決まっているからだ。大衆はタレントを凄いと思う。凄い人だと考える。だが、実際には、大衆の中にある空虚さを塗り固めた人形を、自分達で崇めているだけなのだ。黄金の仔牛を崇める群衆のように。
※
上記書いてきたように、この世界で「売れる」為には強い個性は必要ではない。キャラクター性とは個性ではない。キャラクター性とは、自分自身を演じる事なのだ。常人であれば、空っぽな自分を演じ続ける事にいつしか虚しさを覚えていくが、スターはその虚しさに耐えなければならない。
アントニオ猪木が先日亡くなったが、彼は自分のキャラクターを意図的に作り上げていた。彼の代名詞の一つは「元気ですかー!」という掛け声だったが、死に近づく彼はその代名詞とはかけ離れた存在となっていった。それでも人は、その乖離を深刻には受け止めなかった。一人の人間の痛ましい姿を直視しようとせず、「また元気になりますよね」といった論理に逃げていた。一人の人間の生死を深刻に受け止めるというのは、おそらく想像以上に難しい事なのだろう。
売れる為には「個性」というのは必要ない。むしろ、自分というものを捨て去る必要がある。タレントというのは、自分の中にある塊を表現しようとする本物のアーティストとは、全く違うものだ。私の見ている限り、ガクトとか、エックスジャパンのヨシキとかいう人は、「アーティストっぽいキャラクター」を意図的に作り上げている。彼らは本当のアーティストではない。
自分の全存在を表現しようとするアーティストは、そのほんの部分しか表現できない「キャラクター」のようなものを嫌うだろう。タレントだった立川談志はテレビを退いて、落語の世界に逃避したが、それは立川談志が、本物の表現を求めたからだ。
そういう事がわからない人は「立川談志は人気がなくなって落語に逃げた」と言うのだろうが、表現の世界はテレビの世界よりも遥かに広くて深い。しかし大衆にこの世界が渡る事は永遠にないだろう。売れる為には個性は必要ない。そんなものがあれば、大衆の願望を受け入れる容器としての機能を果たせないからだ。