90 悪意は二倍、恩は三倍
レイは(魔力切れで倒れてもいい! あとで美味しいものをたくさん食べるんだから!)と思いながら全魔力を放出した。
美穂には見えないが、マルミルムは見える。マルミルムは我が娘の魔力の奔流に圧倒されていた。
(アレクサンドラの魔力量はウジェ王国で一番か二番と思っていたけれど、そんなものじゃなかったわ。高魔力保有者を十人くらい集めたような魔力の柱が……)
太い魔力の柱が空に向かって立ち上っている。その太さは大人二人でも手が回らないように見える。
魔力の柱は低い位置の雲を貫いて伸び、ある程度の高さに達すると今度はてっぺんが円形に広がっていく。
(拡大が止まらない。どこまで広がるの?)
我が娘は? と見れば、今も魔力を放出し続けていて、青空いっぱいに白く輝く魔法陣が拡大していく。
さっき娘が必死に覚えていた魔法陣は、マルミルムが想定していた直径をやすやすと超えて広がり続けている。今はもう、その端は見えない。
「もう、もう、限界です!」
そう言ってレイがゆっくりしゃがみ、そのままコテンと地面に仰向けになった。額や首筋に冷や汗をかいている。魔力の柱は消えて、空に白く輝く魔法陣だけが残っている。
「レイさん! 大丈夫? どうすればいい?」
「なにか……食べたいです。できればカロリーが高いものを」
「わかった。持ってくるから待ってて!」
返事を待たずに美穂が家の中に駆け込み、お盆に食べ物を山盛りに載せて引き返してきた。
「なるべくカロリーが高いものを持ってきた! 食べて!」
「ありがとう」
レイは地面に仰向けになったまま、まずは昨夜のおかずの残りらしい春菊の天ぷら、海老天、サツマイモの天ぷらを摘まんで口に入れた。
空を眺めながらモグモグと食べていたレイが、少しぼんやりした顔でマルミルムを見た。
「お母様、お行儀が悪いのはわかっています。今だけは怒らないでください。そのうち起き上がれるようになりますから」
「いいのよ。これだけの大仕事を成し遂げたんですもの。体がしっかりするまで寝てなさい」
「そうします」
会話している間にも天ぷらをひと通りモシャモシャと食べ、次は急いで握ったと思われる塩むすびを食べ、次はバタークリームをクッキーで挟んだバターサンドに手を伸ばした。
「レイさん、何か飲んだほうがよくない? 見ている私の喉が詰まりそうよ」
「いただきます」
「体、起こせる? 私が支えるから」
「美穂さん、ありがとう」
美穂とマルミルムに支えられて上半身を起こすと、ペットボトルの水をゴクゴクと飲んだ。
水を飲み終えると今度はポテトチップを食べる。袋が空になったところで「ふうう」と息をついた。上空には精緻な魔法陣が展開されていて、拡大は止まっている。
「落ち着きました。まだまだ食べられますけど」
「わかったわ。どこかに出かけましょうか。好きなものを食べなさい。お前はよくやり遂げました」
「出歩いて大丈夫かなあ。レイさん、ちょっと顔色が悪いわよ。出前を取るから、うちの中で食べたほうがいいと思う」
「うん。そのほうがいいかな」
レイがそう返事をして美穂の家に入ろうとしたところで、走ってくる足音が聞こえてきた。
「レイさーん!」
「あ、アキラ君だ。どうしたんですか?」
「今、何かしたよね?」
「ええ。悪いものが送り込まれないよう、防犯の意味で魔法を反射する魔法陣を展開しました。なんで?」
「だって、今、各地の道祖神から『これはなんだ?』と僕に問い合わせがきていて……」
「待って、アキラ君、私、家の中に入って横になりたいし何か食べたいの」
「あ、うん。そうして」
一行が全員家の中に入り、美穂がスマホで次々食べ物を注文している。
「ピザとハンバーガーと握り寿司を注文したけど、足りなかったら言って」
「ありがとう、美穂さん」
「いいってことよ。東京を守ってくれたんだもの」
「いや、それが」
アキラがおずおずと口を挟んだ。
「今、各地の道祖神や馬頭観音から声が届いているんだけど、北は猪苗代湖、西は木曽山脈まであれが空にかかっている。僕たちには細かいところまでは見えないけど、なにか凝縮されたエネルギーが空を覆っているのはわかる」
「ちょーっと待ってくれる? 今、地図で見てみるから」
美穂がそう言ってスマホで地図を見ている。
「北は猪苗代湖、西は木曽山脈か。レイさんの魔力はどんな形に広がったの?」
「完全な円形ですけど」
「うわぁ。だとしたら、魔法陣とやらの半径は二百キロあるわね。東京どころか関東を全部覆って、他も覆ってる。新潟県も半分入っているし、南は三宅島まですっぽりよ。レイさんの力って、もしかしてとんでもないレベルとか?」
「ええ、この子の魔力量はとんでもないのです。前人未到の魔力量です」
マルミルムが鼻高々に自慢して、レイは恥ずかしそうに目を伏せた。
美穂は(世界が違っても母親の我が子自慢は同じなのね)と笑いを堪えた。
すぐにピザや寿司などが続々と配達され、レイが黙々と食べている。美穂は見ているだけでおなかいっぱいの気分だが、レイは一定の速さで食べ続けている。
「ふう。落ち着きました。ご馳走様」
「お粗末様。で、レイさんのお母様、これでもうレイさんがいても東京に魔獣は送り込まれることはなくなったんですね?」
「ええ。魔獣を送り込もうとしたら、自分たちのすぐそばに送り返されるはずです。ふふっ」
マルミルムがえらく嬉しそうだ。
レイが困った顔でチラリと母を見てからコーラを飲んだ。
「お母様、他人の不幸を喜ぶようになっては、人としての格が落ちるそうですよ」
「誰が言ったの?」
「キカワ金属の木川社長が」
「シャチョウ?」
「私を雇って賃金をくれていたボス、ですね」
マルミルムは上品にポテトを一本ずつつまんで食べていたが、ピタリと動きが止まった。
「あなた、ウジェ王国に帰ってから、こちらに何度も来ているけど、ちゃんとシャチョウ? キカワさん? にお礼はしたの?」
「いいえ。だって、不義理をした形で突然会社を辞めたので、申し訳なさ過ぎて顔を合わせられなくて……」
「なんてこと! その人のおかげで飢えずに済んだのに?」
「えっと……はい。いきなりいなくなった理由をどう説明していいのかわからなくて」
「そんな説明は二の次です! まずは謝る。誠意を伝える。放たれた悪意は倍にして返し、受けた恩は三倍にして返すのが当然ですよ? そんなことではオリエール家が笑われます!」
「オリエール家は笑われないと思いますけど……はい。おっしゃるとおりです。でもお母様、悪意を倍にして返すのはよくないと思います」
マルミルムはそこだけは玉子の握りを口に入れて聞こえない振りをした。
アキラはマルミルムの言葉に苦笑しながらも黙って聞いていたが、「僕はとりあえず仲間に事情を説明するので失礼します」と言って美穂の家から帰った。
マルミルムは夜になって娘と二人で客間の布団に入ってもまだ、「貴族として恥ずかしいことだわ。明日は私も付き添うから、ちゃんとお詫びとお礼に行きましょう」と念を押している。
「もう、わかりましたから。必ず行きますから! 寝ましょう。今日は疲れましたので」
最後はレイがややキレ気味に返事をしてマルミルムに背中を向けた。
「食べ疲れもあると思うわ」とマルミルムがつぶやいた声は、六畳間の暗闇に吸い込まれた。





