9 桜の花びらと道祖神
夏川レイは桜の花が好きだ。
それまでほとんど存在感を示さなかった木が、ある日いきなり華やかに存在を主張する瞬間は、地味な少女が髪を結い上げ、豪華なパーティードレスを着た途端に貴公子たちの注目を浴びる様のようだと思う。
レイは特に夜の桜が好きで、花がごく弱く光を放っているかのようにぼんやりと白く佇んでいるのを見ると、辞書の説明文ではよくわからなかった『幽玄』とはこのことだろうかと思う。
レイの勤めるキカワ工業の近くにも桜の大木があって、レイはこの世界に来てから毎年咲くのを楽しみにしている。
「部長、知ってます?あの古い家の庭の桜、今年は咲く前に伐採しちゃうんだそうですよ」
「ええ? なんで」
「近所からクレームが来たんですって。花びらが車に貼りつくから迷惑だって。あの家、お婆さんの一人暮らしだから、掃き掃除もままならなくてよそ様に申し訳ないからって」
「確かに桜の花びらは風に乗って遠くまで飛ぶけどさ。せちがらい世の中になっちまったなあ」
パートの女性と部長の話を聞いたレイはショックを受けていた。
花びらが散るのは十日間くらい。たとえ十日でもそれが嫌な人がいることは想像がつくけれど。伐り倒してしまっては取り返しがつかない気がした。
日本全国の桜は助けられないけれど、せめて自分ができる範囲でどうにかできないだろうか、とレイは考える。
「あ、そうだ」
レイはその日の夜中に伐採予定の桜を見に行った。
街灯に照らされた桜の木は枝の先がほんのり赤く色づいていて、花開く準備を始めていた。レイを見て桜の木が少しだけ震えたような気がして、レイは胸が詰まった。
「もう少しで春の主役になれるのにね。ほんの数日だけの主役なのにね。伐られる前に咲かせたいよね。最後だからちょっとだけ早く咲かせてあげるね。……成長促進」
枝の先の赤く色づいていた部分がどんどん膨らむ。
つぼみの中で折り畳まれていた白い花びらが、意思を持つ物のようにするすると伸び広がる。やがて、ぽつりぽつりと花が開き始め、あっという間に満開になった。
「花びらが散るときは、私が魔法で全部集めてあげるから。安心して咲きなさい」
翌朝、キカワ工業では突然満開になった桜の話で盛り上がっていた。それだけではない。
通勤通学でそこを通る人がツイッターでつぶやいたらしく、昼のワイドショーで取り上げられていた。テレビの中で、桜の所有者のお婆さんがインタビューを受けていた。
近所の有志が花びら掃除をかって出てくれたそうで、おばあさんは涙目で
「私がこの木を伐ろうとしたから、桜が悲しんでその前に花を咲かせたんだと思います」
と言っていた。
夕方にキカワ工業を出て桜を見ながら帰ろうとしたレイは驚いた。
たくさんの人が桜を観に来ていた。近所の有志の方々らしい人たちが見物客を誘導していて、整然と人の流れが捌かれていた。
「これでよかったのかな」
魔法学校の校長先生は、六十年に一度の強制召喚のことを「世界の理に反する行為」と言っていた。桜の花を早く咲かせたのはこの世界の理に反するだろうか。運送屋さんの斎藤君がよく使う「ぎりせーふ」って範囲だろうか。
「やり過ぎないようにしないとね」
そもそも自分の存在自体がこの世界の理に反している。
この世界に放り込まれた時から「この世界に波風を立てず控え目に、つつましく生きること」が自分の在り方だと夏川レイは思っていた。お邪魔させてもらっている、と自分をいつも戒めている。
家に向かって帰る途中、いつもの道祖神に目を向ける。
道祖神は村や集落の境に建てられて、外からやって来る疫病や悪霊を防ぐものらしい。二人一組の道祖神もあるが、この道祖神は一人だけだ。
「長いお勤め、お疲れ様です。これからも頑張ってください」
レイは自分の世界の神ラーシェの洗礼を受け、ラーシェの恩恵を浴びて生きていると信じているので、他の神に手は合わせない。その代わり、そっと道祖神の頭を撫でた。
「頭を撫でても怒らないでくださいね、道祖神様」
なんとなくほっこりして笑顔で家に向かう。
その夜は近所の焼き鳥屋さんで夕食にした。
夏川レイが立ち去ったあと、道祖神からじんわりと灰色のモヤが湧きだした。モヤは次第に人の形となり、ふわふわ天然パーマに眼鏡の若い男になると、その男『アキラ』は嬉しそうな顔で自分の頭を撫でた。
「久しぶりに人間に頭を撫でられちゃった」
アキラはここに置かれてもう五百年以上になる。最初の頃は道行く人は皆自分に手を合わせ、声をかけてくれたものだが、最近はもう誰も目を向けてくれることがない。敷地と敷地の境に打たれる杭みたいな存在になっていた。
あまりに寂しく退屈なので、時々ここを抜け出して世の中の見物に行くようになった。
時には乗り物に乗って古く強い神様の九つ星神社にも遊びに行く。
そこで出会ったのが夏川レイだった。
「また頭を撫でてくれるといいな」
アキラはそうつぶやいて夜の下町の散歩に出かけた。