85 攻撃魔法は使っていないわよ
男は少女の手首をつかんだまま、早足で歩いている。
少女は時々男の足についていけなくなりよろめくが、男はグイッと引っ張り上げるようにして速さを変えることがない。
レイがアキラと母に追い付くと、アキラが声を小さくして話しかけてきた。
「一番よい方法は警察に委ねることです。この先に交番があります。レイさんはそこで事情を説明して警官を呼んできてください」
「警察ですか?」
レイが驚いた顔をすると、アキラが説明する。
「僕は人々を守るのが専門で、人間を攻撃する術を持っていません。もし僕がなんとかしてあの少女を助けたとしても、あの男を逃がせば、男はまた別の子を襲うでしょう。それでは本当の解決にはならない。あの男が再び同じことをするような方法ではいけないんです。レイさん、もうすぐ右手に交番があります。走って」
「わかりました」
母の目が殺気立っている状態で離れるのは不安があるが、アキラの言うことが最上の答えなのは理解した。レイが走り出してアキラと母を追い越し、男と少女を追い越す。男の頭上三メートルくらいの位置に、キラキラとマークが光っていた。
少女はきっと、自分たちを追い越していくレイの背中に絶望の目を向けていることだろう。
(待ってて。絶対に助けるから)
交番が見えた。レイがドアを開けて中に飛び込む。中年の警察官が机に向かって何か書いていたが、息を切らして飛び込んできたレイを見て怪訝そうな顔をした。
「どうしましたか」
「女の子の腕をつかんで歩いている男がいて、女の子が怯えています。助けてください。もうすぐここの前を通ります。とにかく助けて。ファミレスで女の子が怯えていたし、私が話しかけたら男がテーブルの下で腕をつかんで……」
警官は立ち上がって通りを見た。そして険しい声でひと言。
「どの人です? 少女を連れて男が二人いる」
「ええと、あっ! あの人です! 青いシャツにジーンズの」
警官はドアを開けて早足で二人の前に向かう。すると男は警官を見るなり急に右手に曲がった。警官が男に声をかけた。
「ちょっとすみません。お話を聞かせてもらえますか」
振り返った男の顔が一変していた。追い詰められた魔獣の目に似ている、とレイは思う。
「助けて! 助けて!」
少女が叫ぶ。男は少女の手を放して走り出した。レイが少女を抱きしめ、アキラとマルミルムは警官と一緒に男を追いかけていく。
少女はレイの腕の中でガタガタと震えている。
「もう大丈夫。安心して」
「助けて。助けてください」
「大丈夫。もう大丈夫だから。怖かったわね」
コクコクとうなずく少女の肩を抱えて、レイは少し離れて事態が解決するのを待った。
男は全力で走り、ビルとビルの間をすり抜け、雑居ビルの外階段を駆け上がって二階の踊り場から別の敷地の塀の内側へと飛び降りた。追いかける警官とジリジリ距離が開く。
アキラとマルミルムは一定の速度で追いかけている。このあたりの道を知り尽くしているアキラが前を走り、マルミルムが追いかける。男は個人商店が立ち並ぶ区画に入ると、姿を消した。
警官が辺りを見回しているのを見て、マルミルムが声をかけた。
「あの塀の向こう側に男がいます。早く行って」
警官は(なぜわかるのだ?)という顔をしているが、マルミルムが「早く!」と苛立った声を出すと、そっと塀に近寄った。
「男が移動しています。こっちです。早くしないと逃げられてしまう」
マルミルムの気迫に押されるように、警官がアルミ製の門扉を開けようとするが、鍵がかけられている。警官が扉を諦めて塀を乗り越えようとすると、空中に浮かんでいるマークが動き出した。男は走って逃げ始めたらしい。
「仕方ないわね」
仕方ないと言いながら、マルミルムがやたら嬉しそうな顔になった。
空中の星の下にいる男の位置に目を向けて、口の中で何事かをつぶやく。すると同時に……。
「うああああっ!」
塀の向こうから、苦悶の声が聞こえてきた。
マルミルムはついでに「開錠」とつぶやき、銀色のアルミの門扉の鍵も開ける。塀を乗り越えようとしている警官よりも先に、マルミルムが門を開けてアキラと共に敷地の中へ。
そこには股間を押さえて地面に転がっている男がいた。男の顔は青いを通り越して真っ白になるほど血の気が引いている。
アキラ達に続いて警官が走ってきた。
「どうしたんです?」
「僕たちは何もしていません。この人が転がっていました」
アキラとマルミルムから男は三メートルほどの距離がある。警官が男に駆け寄り「どうした?」と声をかけるが、男は声も出せない様子。救急車が呼ばれ、警察官があちこちに連絡をしている。マルミルムたちは交番に戻って事情を説明することになった。
少女の親が呼ばれ、三人は事情を説明し、無事に解放されたのは数時間後。少女は今朝早く、駅で男に誘拐されたらしい。
「無事に助け出せてよかったです。マルミルムさんのおかげです」
アキラはそう言って笑っているが、レイの顔は引きつっている。マルミルムはレイの視線に気づいていながら気づかない振りをしていて、レイは(これ、絶対に魔法でなにかやったわ)と確信した。
とりあえず美穂の家に向かおうということになったが、マルミルムが途中で足を止めた。
「アレクサンドラ、私、なんだかやたらに空腹なの。なにか食べてから帰りたい。お世話になる家で品のない行いはしたくないわ」
「ああ、わかります。この世界では魔法を使うと猛烈におなかが空くんですよ、お母様」
「あら」
とぼけた顔で「あら」と言っている母に「あら、じゃありませんよ」と苦笑しつつ、アキラと三人で店を探す。マルミルムは空腹が酷いらしく「どこでもいい。手早く食べられればなんでもいい。でも、できれば肉を」と切羽詰まった様子。
三人は近くの焼肉店に入った。そして今。
「美味しい。薄切りの牛肉をこんなにおいしいと思ったのは生まれて初めてよ」
「わかります。私もこの世界でこの焼き肉を食べたとき、感動して八人前の肉を食べて、会社のみなさんに引かれました。しかもこの白いごはんと肉が合うことと言ったら!」
「そうなのよ。甘みを感じさせるこのごはんとやらが、味の濃い肉と食べると……全くもって最高の組み合わせね」
アキラはナムルでビールを飲んでいて、マルミルムの猛烈な食べっぷりを楽しそうに見眺めている。
「お母様、怒りませんから本当のことをお話しください。あの男に何をしたんです?」
「攻撃魔法は使っていません」
「そうですか。それで?」
マルミルムは「肉を焼くのが忙しい」みたいな顔をして返事をしない。
「アキラくん、男はどんな様子だったんですか? 救急車が呼ばれたのなら、生きていたんですよね?」
「うん、生きていたよ。顔色は悪かったけど。股間を押さえて苦しんでいたね」
「股間……お母様?」
「攻撃魔法は使っていません。お前との約束は守りました」
網の上で肉をひっくり返している母をレイがジッと見つめていると、ふいにマルミルムが晴れ晴れとした笑顔になった。
「治癒魔法を使いました。止血しただけよ。睾丸に行く血管と睾丸から出ている血管を両方同時に、完全に閉じたの。あんなにすぐに激痛が生まれるとは知らなかったわ。帰国したら、報告しなくてはね。刑罰としてはいい方法じゃない? 安心しなさい、死ぬことはないから。まあ、血が通わなくなったから、おそらく組織は死にますけど」
「それならまあ、いい、のかしら?」
マルミルムが焼きあがった肉を甘辛のタレに浸して口に入れた。
「美味しいわねえ。このタレもだけど、肉が違うわね。この世界の肉を、ウジェ王国に持って帰りたいわ」
駅でさらわれ、半日連れまわされたという少女の心の傷はおそらくこの先も長く残るだろう。体を傷をつけられる前だったのが、せめてもの幸いだった。警察で聞いた話では、男には同じような前歴があったらしい。
「そんな前歴を持っている男が、市中を堂々と歩けるのはおかしいと思うけどね。ウジェ王国ならあの手の犯罪者は……」
「食事中なので言わなくていいです。どんな罰を受けるかは私も知っています」
今回レイたちがあの少女に気づかなかったらどうなっていたか。下手をすれば、つかまって再び投獄されるのを恐れた男が、犯行を隠すために少女を殺めていたかもしれない。あの少女が無事でよかった、とレイは改めて安堵する。
少女は機転を利かせて「今すぐトイレに行きたい」と泣いて訴えて、仕方なく男はファミレスに入ったらしい。
(あの黒いモヤにお母様が気づいてよかった)
レイは母のために「カルビを三人前と、タン塩三人前お願いします」と追加注文した。





