81 新展開
お銀がクワッと大きな口を開け、戯に噛みつくかと思ったところで動きを止めた。
「やめたやめた。お前なんかを噛んだら私が穢れる。その代わり……こうしてくれる!」
お銀は尻尾の毛を一本引き抜くと、戯の背中にスッと刺した。戯は「ぎいぁぁ!」と叫んで暴れる。それを怖い笑みで見ていたお銀が手を放すと、戯はその場でスッと姿を消した。
それをレイが美穂に実況中継し、美穂が「なんで?」と不思議そうな顔をした。
「そんな悪さをするヤツなら、アキラ君に消してもらえばよかったんじゃないの?」
「人間の側からするとそうなるんだけど、この世の全てを人間の都合で判断するわけにはいかないんだ。だから僕らは人間に害なすものを追い払うけれど、滅多なことでは消さない。それはお銀さんも同じ」
「そうなんですよ。旦那様に害をなした戯ですが、あいつをどうするかは私が決めていいことではないのです」
「へえ……」
美穂は納得できない顔だ。美穂を見ながらレイは、お咲ちゃんのことを思い出していた。
お咲ちゃんは乱心して人々を斬り殺した男の魂を、救ってやろうとしていた。お咲ちゃんもきっと、同じ考えなのだろうと思った。
(ウジェ王国でずっと生きていたら、こんな考え方があることも、悪さえも救おうとする存在に出会うこともなかった。召喚の失敗でこの世界に放り込まれただけだと思っていたけれど、召喚の失敗も私には意味があることなのかもしれない。……ううん、違うわね。自分を召喚失敗の犠牲者と思うか、貴重な学びの機会を得たと思うかは私次第よ)
「もしかしてアキラ君やお銀さんも、疫や戯と同様に、人間の世界の常識を善悪の基準としていないってことかしら」
「レイさん、よくわかったね」
「なんとなく。だって、人間の基準で善悪を決められない存在が日本には多すぎるもの。人間には見えない黒いアレ、人間の体から精気を吸い取る疫、面白ければ人間がどうなってもいい戯。そうとしか思えない」
「僕らは人間の祈りや願いに応えて人間を守る。でもそれは、疫や戯を見つけ次第消していいという意味じゃない」
美穂が考え込んでいたが、「そういえば」と口を開いた。
「悪霊退散とか魔除けって言葉はあるけど、悪霊や魔を消すって言わないわね」
「そういうこと」
アキラが「よくできました」と言わんばかりの笑みを美穂に向けた。
「僕らは人間を疫や戯から守る。だけど消しはしない。僕らが進んで動くのは、事情があって残っている魂を成仏させる時だけなんだよ」
「ふううん」
美穂は「理解はしたが納得までいっていない」という風情で考え込んでいる。
あたりが薄暗くなってきたのに気づいて、レイが立ち上がった。
「アキラさん、太陽がもうすぐ沈みます。そろそろ国に戻らないと。こんな途中ですごく残念」
「あ、そうだね。次はいつになるの?」
「なる早で。梅の実、去年はたくさん実りましたので塩漬けにしてあるんです。蛇の親方様は『三日しかいられない』と言ったそうですけど連続で食べてはいけないとは聞いていませんから」
「……レイさんはチャレンジャーだね」
美穂は事情が分からず、アキラとレイのやり取りを聞いている。
「アキラ君、あの場所に人が立ち入らないようにしてほしいです」
「わかった。立ち入り禁止の札を貼っておくよ」
「じゃ、美穂さん、もうこの際だからこのままここでお別れしますけど、なるべく早く戻ってきます。何を見ても驚かないでね」
「このまま? ここで?」
「はい」
「どういうこと?」とつぶやいている美穂の前で、レイは胸の前で祈るようなポーズになった。目を閉じ「ウジェ王国へ」と小声を出すと、目の前でレイがスウッと消えた。休憩所に「ええええっ!」と美穂の叫びが響き、茫然としている美穂に、アキラが笑顔で説明する。
「レイさんは自分の国に戻ったんだよ」
「……」
理解のキャパを超えた美穂が絶句していると、休憩所の入り口に宮司が現れた。
「なにかありましたか?」
「あら、宮司さん、こんにちは」
「お銀さんもいましたか」
「はい。うちの旦那様に戯が悪さをしたので、懲らしめたところです」
「ああ、やはり。今日の風はどうも油断ならないと思っていたところです。旦那様はご無事でしたか」
「ええ。私がついておりますので」
宮司は「それはなにより。では皆さま、ごゆっくり」と言って休憩所を出ようとして立ち止まった。
「お銀さん、道祖神様、うちの禰宜の健一を、今度ご一緒させていただけますかな。健一はいずれはこの浅水神社の宮司になる身ですが、いまはまだ心許ない。このあたりの平穏を守って下さる道祖神様とご一緒させていただけば、多くのことを学べます」
「僕はかまいませんよ。近いうちにあの夏川レイさんが戻ってきます。彼女が戻り次第、こちらに声をかけますね」
「よろしくお願いします」
宮司は深々と頭を下げて去っていく。
相変わらずキャパオーバーしたままの美穂がアキラに(説明してくださいよ)という視線を向けた。
「健一さんはこの神社で禰宜として修業している、宮司さんのお孫さんだよ」
「その人は人間なの?」
「うん。美穂さんと同じ人間だよ。レイさんみたいに姿を消したりしないから安心して」
「そう……。私、誰かが『普通の人間』ってだけでこんなに安心する日がくるとは思わなかったわ」
◇
その頃、ウジェ王国ではレイが自宅に姿を現していた。自宅の居間に姿を現したレイを見て、本を読んでいた母マルミルムが笑顔を向けた。
「おかえり、アレクサンドラ。日本は楽しかったかい?」
「お母様、ただいま帰りました。日本は相変わらず興味深く、考えさせられる経験をたくさんいたしました。ただ……日本に小さな召喚紋があるのを見つけました。小さいけれど、私を召喚したのと同じ文字と記号を使っていました」
「なんですって」
マルミルムの顔が一気に険しくなり、立ち上がった。マルミルムは奪われた娘アレクサンドラを取り返すべく、十年間も召喚紋、および召喚術の研究にのめり込んだ凄腕の魔法使いである。
「しかも、その召喚紋から、キッカトリルがあちらの世界に侵入していたのです」
「キッカが? それで?」
マルミルムの声に静かな怒りが滲み出ている。
「キッカは私が焼却しました。でも、あちらの世界の人たちはキッカの姿が見えない上に、召喚紋の方は私が消し方を知らないのでそのままなんです。キッカに限らず、全ての魔獣が見えないとしたら……」
「だめだめだめ。キッカのような小物ならまだしも、大型の魔獣が行ったら大変なことになるじゃないの。しかも人間の側は魔獣の姿が見えないなんて! とんでもない大惨事になるわよ」
レイはマルミルムの前に進み、ひた、と母の目を見つめた。
「お母様、お力をお貸しいただけないでしょうか。私と一緒に日本に行って、召喚紋を消していただきたいのです」
「もちろんよ、アレクサンドラ。私がその召喚紋を消すわ。愛娘がお世話になった国ですもの、恩返しするのは親の務めです」
「ありがとうございます!」
レイは自分の部屋へと走り、白い壺を抱えて戻った。
「塩漬けの実をどうぞ。そして私と離れ離れにならないよう、手をつないでください」
「この塩は取り除いていいのかしら?」
「あ、そうでしたね。お待ちください」
台所へ走り、二つの青梅の塩漬けを洗って居間に戻る。
「では」
母と娘は、同時に青梅を口に入れた。





