80 戯
「戯は疫のような悪意は持たない。興味が向くままに行動する。でも、結果を考えずに行動するから、人間にとっては災いになることも平気でする。例えば……」
高い場所の枝が枯れて落ちそうな時、その下を人が通るのを待って枝を落とす。
道路に釘が転がっていたら、風で転がして走ってくる車のタイヤをパンクさせる。
苔で滑る河原を人が歩いていたら、風を送ってほんの少し背中を押して転ばせる。
「自分が何かして、その結果を見て笑うだけ。でも、それで人は簡単に命を落としてしまう。戯はそれを見ても笑うだけ。悲しんだりはしない。人間がその辺に生えている草花が枯れても泣いたりしないのと同じ。人間の善悪の概念は、戯には通用しないんだ」
それを聞いていた美穂が話を続けた。
「それって、ハロウィンの由来に登場する悪い妖精みたい。カボチャのランタンを作って玄関の前に置いておくのは、祭司様に分けてもらった火を灯しておくことで悪い妖精を家に入れないようにすることから始まった……ような」
「同じかもね。おそらく戯は、風に乗って世界中を動いていると思う。いたずらできそうなものを見つけると、戯はちょっかいを出す。そして戯がいるときは、こんな感じの風が吹くんだ」
「こんな感じの、風……」
レイには風の違いがわからないが、お稲荷さんの朝霧もヤモリの千代も風に異変を感じ取っていた。美穂が首をかしげた。
「でも、戯という名前がついているってことは、存在を知っている人間もいるのね?」
「美穂さんは鋭いね。その通り。現代のように夜が明るくなる前の人間には、戯を感じとれる人が結構いた。今はほとんどいない。人間に限らず、使わない機能は衰えて、世代を重ねるにつれて失われてしまうんだ。スナック由紀子の常連、シゲさんは数少ない感じ取れる人だよ」
チュルッと音を立てて、美穂がアイスコーヒーを飲み干した。
「あっ。いつだったか、シゲさんが私の背中を何か所か触れながら、お経みたいのを唱えていたわね」
「そう。シゲさんは美穂さんのお母さんを感じ取って、一時的に引き離してくれたんだよ」
「シゲさんにはお礼を言わなきゃ。それにしても……私が見ている世界が、他の人の見ている世界と同じとは限らないのね。今まで、考えたこともなかった」
美穂の言葉を聞いて、レイも同じことを思う。
黒いアレを見えず感じられないことは、普通の人間にとっては幸せなことだ。そこらじゅうにいるアレが見えてしまったら、退治する手段を持たない現代人の心は壊れてしまうだろう。
「私の国の神官様が集会で、『全ての真実を明らかにすることが、幸せにつながるとは限らない』とおっしゃっていました。あの言葉は真実を言い当てていたんですね。日本の人たちは見えていないし真実を知らないから平穏に暮らしている、ってことでは?」
レイの言葉にアキラが何度もうなずいた。
「そうだね。全てを知ることが幸せとは限らない。全ての真実を誰かに知らせることもまた、相手の幸せになるとは限らない」
「アキラ君の言葉って、含蓄ある。さすがは……」
美穂が「さすがは道祖神様」というのを我慢したところで、店の外で事故が起きた。
ガシャン! という音に、店内にいた客が全員窓の外を見た。
周囲の人たちが「事故だ」「事故だね」と言い合って眺めている。
「あ。お銀さんだ」
レイがそう言うのと同時に、アキラが立ち上がってするりと店を出て行き、すぐにお銀と一緒に店に戻ってきた。
「お銀さんこんにちは」
美穂がそう言っても、レイは驚きのあまり声を出せない。
お銀が手に、猫くらいの大きさの子供みたいなものを持っているからだ。その子供が異様に小さい。そしてその子供だけが、夏の日陰にいるように黒っぽい。そして絶対に子供ではない。お銀は、猫の子を母猫が咥えて運ぶように、子供みたいな何かの首の後ろをつかんでいる。
お銀がその小さな子供を片手にぶら下げたまま、「レイさん! 先ほどはどうも」とにこやかに近づいてきた。
レイは「な! な!(なんですかそれ)」と目を丸くして銀の手元を見ているが、美穂には見えない。「レイさん? どうした?」とレイの引きつった顔と、レイの視線の先であるお銀の手元を目で往復している。
お銀は「ああ、これ」と言いつつ席に座り、首根っこをつかんでいた子供の首をがっちりとつかみ直した。
「これは戯ですよ、レイさん。ここ最近、うちの周りをチョロチョロしていたのです。いつもなら見て見ぬふりをするのですが、どうにも旦那様の病とレイさんが燃やした魔獣とやらに、コイツが関係している気がしましてね。あれから探していたんです。そうしたらあの事故が起きて」
そう言って窓の外をチラリと見る。
「あの事故も、おそらくこの戯の仕業です。そうなんだろ?」
お銀の問いかけに戯は答えず、小さい子供みたいなものは「ギ、ギ、ギ」と虫のような声を出した。
アキラが「出ようか。ここじゃ話がしにくい」と言って、四人はファミレスを出た。お銀は戯をつかんだまま離さない。
どこへ行くのだろうと思いながらお銀のあとを歩いていくと、着いた先は浅水神社だ。霊力の強い宮司がいて、美穂の母親を祓った杉の木がある、あの神社である。
お銀が戯を持ったまま、休憩所に入った。いつぞやレイがお団子を食べようとして、宮司に声をかけられた場所だ。お銀が戯に語りかける。
「おい、戯よ。正直に言えばお前を自由にしてやるが、嘘を言えばその首をねじ切ってやる。旦那様の部屋にいた悪しきものは、お前が連れて来たのか?」
声がいつものお銀の声ではない。低く迫力のある声に驚いて、レイが戯からお銀の顔に視線を移した。
(お銀さんの顔が!)
お銀の目は吊り上がり、口も裂けたように大きくなっている。三角の耳が立ち上がり、ふさふさとした尻尾が着物のお尻から生えていた。黒い爪も鋭く伸びている。その手にグッと力を入れると、戯が暴れだした。
「ソウダ。ハナセ。コノ、クサレギツネ! ハナセ!」
甲高い声は可愛げが全くない。ずっと下を向いていたから顔がわからなかったが、戯が首をひねってお銀を見上げ、睨んだ。その表情の邪悪さに、レイは怯む。
(なんて醜い……)
アキラは戯の顔を見ても声を聞いても表情を変えず、黙ってお銀と戯のやりとりを見ている。
「戯よ。悪しきものを、どこから連れて来た? 答えろ」
「テヲハナセ。ハナシタラ、オシエテヤル」
「はっ。お前の側に条件を付ける権利なんかないだよ。言わないなら……」
お銀が戯の首に強く力を加えると、アキラが止めた。
「お銀さん、そいつの首をねじ切っても死なないのは知っているでしょう? 雲散霧消してどこかへ行ってしまうだけだ」
「ああ、そうでしたね。こいつのせいで旦那様の精気が吸われていたかと思うと、つい頭に血が上ってしまって」
アキラがスッと戯に手を伸ばした。とたんに戯が激しく暴れる。
「ヤメロ! サワルナ!」
「そうだね。僕に触れられたら、お前は消滅する。僕も好んでお前を消したいわけじゃない。お銀の旦那様の部屋に、悪しきものがいた。お前がやったのかい?」
「ソウダ。マチノナカデ、ミツケタ」
「街の中? そこへ案内してくれるね?」
アキラの声は優しかったが、戯は目玉を左右にせわしなく動かして何度もうなずいた。
「ワカッタ」
「レイさんはどうする? そろそろあちらに帰る時間じゃない?」
「日没までは大丈夫。一緒に行きます」
戯をつかんだお銀を先頭に、一行が神社を出た。何も見えない美穂が「レイさん、状況の説明をしてよ」と小声で頼んだ。
「わかりました」と答えて、レイが歩きながらこれまでのことを説明すると、「うわ、こわっ」と言いつつも一緒についてくる。
「美穂さんはお家に帰ってもいいんですよ?」
「帰らないわよ。これを全部記録したら、本が書けそうじゃないの」
「本を書くんですか?」
「書いたことはまだないけどね」
レイは思わずクスッと笑った。一見普通の人に見えるが、美穂もなかなかの変わり者だ。
「アソコダ」
戯の声で我に返った。アキラがそれを見て顔をしかめた。
「これは、困った状況だねえ」
「ヒビが入っていますねえ。どうしましょう、道祖神様」
アキラとお銀が見ているのは、放置されているらしい空き家の、木の塀と玄関の中間だ。美穂の目には何もないように見えるが、レイの目にははっきりとそれが見えた。複雑な文字と記号が書かれた円形状の召喚紋。それが空中で縦になって浮かんでいて、その周辺の空間が歪んで見える。
(小さい召喚紋だわ。なにこれ)
レイが知っている召喚紋はもっとずっと大きい。差し渡しが何メートルもあったはずだ、だが目の前のそれは、直径八十センチくらいだろうか。
「ココカラ、アシ、ダシテタ。アシ、ヒッパッタ」
「それだけじゃないだろう?」
アキラの問いかけに、戯は再び目をキョロキョロと動かす。答えない戯に向かって、アキラがスッと手を伸ばすと、戯が叫ぶ。
「キツネノイエニ、ホウリコンダ!」
「こんのやろう!」
お銀が吊り上がった目をさらに吊り上げた。





