10 春の風
ワイドショーに取り上げられて以降、あの桜の木は地域の人たちによって花びらの掃除がなされていた。毎朝毎夕、桜の下を通ると誰かしらが箒で花びらを掃いている。レイの出番はなさそうだった。
その家のお婆さんも一緒に掃除していることも多い。疲れないのかな、とレイは心配していたが、お婆さんの表情には逆に気力が満ちている気がした。レイは自分の魔法が少しは役に立ったことが嬉しかったこともあり、今朝は思い切って声をかけることにした。
「おはようございます。毎年きれいな桜を楽しませていただいてます」
「おはようございます。ご丁寧にありがとうございます」
「ここの桜は見応えあるからね。私も長年楽しませてもらってるからさ、花びら掃除を少しだけ手伝ってんのよ」
掃除をしていた女性が会話に加わって来た。
桜の花びらはほぼ落ちていて、お婆さんとご近所さんの女性の足元には掃き集められた花びらでピンクの小山ができていた。
そこでビュウッと風が吹いた。せっかく集めた花びらが少し飛ばされ、女性二人が「あらら」「大変」と言いながら急いで掃き集め始めたのをきっかけに、レイは頭を下げて会社に向かった。
その日は一日中風が強く、書類が飛ばされないように窓を閉め切って仕事をした。
「帰りはあのお店に寄ってみようかな」
散歩で見つけたその店は、大通りから一本入った道に店を構えていて、木造の古い古いお団子屋さんである。サッシではなく板ガラスの木枠の引き戸、店内のショーケースには三個ずつ串に刺してあるお団子が並んでいる。
引き戸をカラカラと開けて店に入ると、痩せたお爺さんが出てきた。
「いらっしゃい」
「あの、一本ずつでもいいですか」
「もちろんです。お散歩の途中に一本だけお買い上げになる方もいらっしゃいますよ」
「そうなんですね。ではこのみたらしと、漉し餡、黒胡麻、磯部でお願いします」
「春は風が強い日が多いからお帰りは気をつけて。お代は四百円です」
包んでもらい、支払っている間にも風が引き戸をガタガタと鳴らしている。お団子の包みを受け取り、ついでだから遠回りして帰ろうと、風の中を大回りして歩き出した。
レイは雨の日も風の日も嫌いではない。
嵐の日はさすがに外出は控えるが、多少の天気の崩れはむしろ自然のエネルギーが感じられて気持ちがしゃっきりするので好きである。
「もしもしお嬢さん、バッグから飛ばされたみたいですよ」
声を掛けられて振り向くと、黒いトレンチコートを着た三十代の男性がレイのハンカチを差し出して立っていた。風がビョオッと吹いて男の前髪を乱す。男は右手でハンカチを差し出したまま、左手で前髪をかき上げた。うつむいているので顔ははっきりとは見えない。
「ありがとうございます。トートバッグは風の日には不向きでしたね」
笑顔でハンカチを受け取り、トートバッグにしっかり入れて頭を下げて歩き出した。すぐ先の小さな神社の隅にある休憩所でお団子を食べるつもりだ。
その神社はいつもきれいに掃除されていて、休憩所があるのと、大木が生えているからか空気が清々しいのが気に入っている。こんな日に一人でくつろぐのにはピッタリだ。
レイは休憩所の自販機でお茶を買ってからベンチに座り、トートバッグからお団子の包みを取り出して開いた。
まずはみたらし団子にかぶりつく。とろりと濃い甘辛のタレを落とさないように慎重に口に入れた。甘いのにしょうゆ味というのは最初こそ驚いたが、いまでは大好きな味だ。
「次はあんこかな」
二本目を手に取ったところでこの神社の社務所から袴姿の宮司さんがこちらに歩いて来るのが見えた。(食べ物の持ち込みは禁止だったかしら。でもお弁当を食べてる人もいたわよね)と思いながら漉し餡のお団子を包みに戻して紙包みをパタパタと畳んだ。
七十はとうに過ぎてそうな宮司さんは真っすぐに休憩所に入って来ると、レイに話しかけた。
「ああ、食べ物を食べてもいいんですよ。お参りに来てくださった方に開放しているのですから。それよりあなた、何か拾って鞄に入れませんでしたか?」
「拾って? あっ、はい、さっきハンカチを風に吹き飛ばされて、後ろを歩いていた方に拾っていただきました」
「ちょっとそのハンカチを拝借」
どういうこと? と思いながら先ほど拾ってもらったハンカチを宮司に手渡した。宮司はそれを受け取るとすぐにバッと広げてパンパンパンと勢いよく三回払った。タオルを干す前にシワ伸ばしするような動作だ。
「はい、結構。お邪魔しました。どうぞごゆっくり」
ハンカチを返し、それだけ言うとスタスタと立ち去って行く。
(何事ですか)と驚いたが、わけがわからないまま漉し餡の団子を食べお茶を飲んだ。そしてひと休みしてから帰宅した。
一方の宮司は立ち去りがてら、足元を逃げ出そうとしていた黒い小さな物をさりげなく草履で踏み潰した。微かに「ギエェェェ」と悲鳴をあげながら黒い物は消えた。
ちらりと女性を見たが、その女性は黒い物の姿も見えず声も聞こえなかったようである。それが普通だ。
「湿気の多い風だから用心しておいてよかったわい。春分のあとは気が抜けない」
春の湿った南風は、時に悪い物を遠く南から運んでくる。それを知らずに口から体内に入れてしまうと厄介なことになるのだ。あの悪い物がなんなのか、宮司も正確には知らないが過去に何度も見たことがあった。
「清めておくか」
社務所に常備してある粗塩と日本酒を手にして、敷地の角という角に少しずつ塩と酒を振った。
◇ ◇ ◇
「なんだー。気づかれちまったかー。ものすごくいい匂いのする人間だったのになぁー」
電柱の上に止まって一部始終を見ていたカラスがバサリと翼を広げて飛び立った。カラスの姿をしていたのは『疫』である。朝、やたらにいい匂いがする人間がいることに気づき、職場を出たところから後を付け回し、我慢できずにハンカチを風で吹き飛ばしてから仕込みをしたのだが。
神社の境内に疫は入れず、カラスに姿を変えて上から眺めていたら思惑はだめになった。疫は狙った人間の口から入ると、相手の心や身体のエネルギーを吸い上げて肥える何か、だ。
「だいたいこの国には神社が多すぎるんだよー」
疫は愚痴ると次の獲物を探して風に乗った。





