1 夏川レイ
現代日本風の国を舞台にしておりますが、フィクションでありファンタジーなので同名実在の国、人物、組織とは全く関係がありません。
夏川レイはキカワ金属という町工場の事務員である。
「レイちゃん、明日、残業頼める?」
「ごめんなさい、明日は保護司さんとの面談の日なんです」
「あ、そうなの。もう一年たったんだね。早いなあ。私がどんどんおじさんになるはずだよ」
「こちらでお世話になって、もう五年ですね。中田さんはおじさんじゃなくてイケてるおじさまですよ」
「また上手いこと言っちゃって。そんなこと言っても何も出ないよ?」
えへへ、と笑うレイ。
満更でもない顔でニヤつく中田は五十歳過ぎの愛妻家。
レイは五年前に海岸で意識不明の状態で発見され、保護された。現在二十五歳である。
保護された当時、警察で事情を聞かれた。自殺未遂ではないと判断された後は福祉課の世話になった。なぜならその時、レイが非常に混乱していたことと「これまでの記憶がない」と本人が訴えたからだ。
「まあ、見た感じと健康状態、診察の結果から推測すると二十歳くらいかな」
という医師の判断で当時二十歳とされた。
夏川レイという名前と保護施設の住所を与えられ、夏川レイは日本人になった。少々顔の造りが洋風だが、完璧な日本語を話すから日本人または日本育ちだろうと判断された。
職業訓練を受けたあとで仕事も紹介され、三年間は月に一度保護司さんとの面談があった。
だが今は一年に一度の面談以外は何もない。
「さて、今日は丸菱工業さんに連結金具五箱と、飯田産業さんにトラス小ネジを十箱配送、と」
「レイちゃん、忙しいとこ悪いんだけど、後藤工業の集金に行ってくれるかい?」
「お昼を食べてからでもいいですか?」
「んんとね、なんだか嫌な予感がするから先に集金に行って来てくれるかい?銀行が閉まる前に入金してほしいんだ。お昼はそのあと外で食べておいで。これ、昼食代。お駄賃だよ」
「ありがとうございます。じゃあ、先に集金に行ってきますね」
千円札を一枚貰い、赤いトートバッグの中の財布に入れて、パタパタと机の上を片付けて集金に出た。
後藤工業は大手建築会社の孫請けで、世間の景気がいい時はいいのだが世の中が冷え込むと真っ先に冷たい風を叩きつけられる種類の会社だ。
部長が嫌な予感というのは本当の予感ではないだろう。おそらく後藤工業の支払いの仕方や時期がこれまでと変わってきてるのだ。相手の振りこみを待たずに直接取りに行けというのなら、きっと後藤工業は経営状態が相当危ないに違いない。
(払ってもらえる時に払ってもらわないとキカワが損しちゃう)
ぶつぶつと心でつぶやきながらバスに乗る。目的地は都バスで十五分ほどの場所にある。
後藤工業に到着すると、出入り口のシャッター三枚が下ろされ、そのうちの一枚は半分下ろされたままだった。
「あらぁ。これは本当に危ないかも」
半分開いている出入り口から黒いモヤが漂い流れている。
この世界には瘴気こそないが似たようなものはある。今、目の前に見えるのがそれだ。だがこれは人が作り出す禍々しい何かだ。
「こんにちは!キカワ工業ですぅ!入りますよぉ!」
不法侵入と言われないように一応声をかける。いや、それでも不法侵入かもしれないが、ちゃんとこういう時のためにスマホの動画を撮りながら後藤工業に足を踏み入れた。こういう知識はキカワに就職してから中田に教わった。
シャッターの中に入り、人の気配のしない事務所に向かう。外まで漂っていた黒いモヤはますます濃くなっていく。
「これって……」
何か微かに匂う。炭火焼きの店で嗅いだ覚えのある匂い。自分の身体は大丈夫だと思うが念のためにハンカチで口と鼻を覆って事務所と居住部分を分けるドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。それだけではない。中から猛烈に黒いモヤが波のようになって漂って来るではないか。
「浄化!」
小声で、しかし語気鋭くつぶやいてレイはドアに向かって手のひらをかざす。手から真っ白な光が広がり、悪い気は消えていく。
「開錠」
再び白い光が細くドアノブに向けられカチャリと鍵が開く音がする。
素早くドアノブを回して中に入ると、後藤工業の社長、後藤宏が来客用ソファに横になって目を閉じていた。
「チッ!」
レイは思わず舌打ちをする。これが下品な行為であることは知っていたが、一度一人のときにやってみたら胸の辺りがスッとしたので人目がない時は多用している。
部屋の床には練炭コンロが置かれ、円柱状の練炭が真っ赤に燃えている。窓を開けようとしたら窓はびっちりとガムテープで目張りしてあった。
ビッ! ビッ! とガムテープを剥がし、空気を入れ替えるべく、カラカラとサッシを開けた。練炭コンロも外に出す。
そしてソファーに戻る。後藤社長はご丁寧に焼酎の一気飲みも済ませてあるらしい。「赤鬼殺し」の一升入り紙パックを持ち上げたらほぼ空だった。
「ったく。解毒! 治癒!」
後藤社長の上半身を白い光が包む。止まりそうだった呼吸がしっかりして、後藤が身動きした。
それからは忙しい。スマホの録画機能を停止させ、救急車を呼び、警察に通報する。それから電話で中田に事情を説明した。
数分で救急車が到着し、パトカーも駆けつけた。
発見者として救急車に同乗しなくてはいけないのかと思っていたが、警官に止められた。
「あー、ちょっとちょっと、あなたは残ってくれますか?いろいろお話を聞きたいんで」
「はい。わかりました」
レイは華やかな笑顔を作りながら心でがっかりした。
(やっぱり昼ご飯を食べてから来ればよかった。とは言えここは善良な一市民として協力すべきね)
夏川レイのおなかがグウと鳴って不満を訴えた。