地獄編 月下菖蒲
真っ暗闇を、元気に走る少女がいた。
白金の髪、紫の目。少女は走って行って、闇より暗い場所に向かった。
「イリスさまー!」
幼い声は、ある一人の人を呼ぶ。
そしいて、それに応じる者が、暗がりから姿を現す。
「何でしょう…、メシア?」
「んーん!なんでもない!」
「あら…、そうですか」
柔らかく笑う、イリスと呼ばれた女はメシアと呼ぶ少女の前にしゃがむ。
「本当は…、何ですか?」
メシアはその言葉を待っていたかのように本当の事を打ち明ける。
「えと…えとね…まおーさまのことききたいの!」
「まあ…、誰に聞いたんですか?」
メシアはそれに驚いたような顔をして答える。
「イリスさまにきいたんだよ?」
「あら…、忘れていました。では、お茶でも飲みながらお話しましょうか」
「うん!」
小さな子供を連れて、イリスは暗がりの中へ入って行った。
* * *
昔、地獄に月の光があった頃。
その月を持っていた男が、魔王になった頃。
まだ、彼が愛を知らなかった頃。
地獄に、新たな住人が増えた。
角度によっては紫に変わる黒く長い髪を持ち、濃い紫の瞳を宿す少女だった。
彼女の名は、イリス。
彼女は初めての地獄に、恐れを抱いた。
いつも、月の光の一番近くに行こうとしていた。
ある日、魔王は暗がりから外に出て、月を眺めていた。
魔王の名は、ツキ。
月を生み出した彼は、時折こうやって月を眺めていた。
その時、月に一点の影が差した。
自分の月を汚された、そう思ったツキは、ツキに向かって走った。
そして彼は、彼女に会った。
「…誰だ、御前は」
跳んでいた少女は地に降り立ち、小さな、怯える声で答えた。
「…イリス。」
美しい少女の名を繰り返し、ツキは聞く。
「イリス、良い名だ。名字は?」
地獄の者は皆、名字に名前という名乗り方をしていた。
ツキの場合なら名字は南風、名がツキだった。
だが少女は名字を言わなかった。
その理由はすぐに来た。
「…無い。知らない。何、ミョウジって?」
「付けられていないのか?生前は?」
少女はそれを聞き、俯く。
「…名前だけしか、いつも、呼ばれなかった。…小さい子は名前も無かった」
成程、とツキは推測する。
この少女は奴隷か何かだったのだろう。
でなければこんなにも、個性に乏しい筈がない。
それに、ツキを見る彼女の目には、恐怖の色がありありと見て取れた。
そんな彼女に、彼は提案する。
「そうか。ではイリス、我が直々に名字を与えてやろうか?」
「…?」
黒い髪を揺らし、イリスは首を傾げる。
幼子のような無邪気な仕草に苦笑し、もう一度言った。
「イリスよ。魔王である我、南風・ツキがそなたに名字を与えよう」
そうして、二人は出逢ったのだった。
* * *
少女の名字は「踊飛」―踊るように跳んでいた彼女を見て、そう決まった。
殆ど人に懐く事の無かった少女は、最初に会ったツキの傍を離れなかった。
彼の傍にいて色々な事を学ぶうち、閉ざしていた彼女の心は次第に開かれていった。
それと同時、二人は惹かれていった。
ある日。その日はイリスが初めて地獄に来た日だった。
二人が初めて会った時から数年が経っていたが、地獄の者に年月はあまり重要ではなかった。
月が照らす中、イリスはステップを踏む。ツキはそれを数歩離れた所で見ていた。
「…楽しいか?」
短い問いに、イリスは頷いて答える。
淡い光に、漆黒の髪が輝く。
「…なあ、イリス」
「何?」
ツキの呼びかけに、イリスは振り向いて答えた。
「我の、妻にならぬか」
「…え?」
イリスは耳を疑った。
「…妻?」
「ああ。夫婦にならぬかと、問うている」
今まで、ツキは誰にも心を動かさなかった。
ツキを好いて近付く女は沢山いた。落ち着いた物腰、整った顔。嫌う者はまずいなかった。
だからこそ彼は、イリスに惹かれた。
無邪気に、ただ自分を信頼して近くにいる少女。決してその心の裏にどす黒い感情は無い。
純粋に自分に近付く少女に、彼は心を動かされたのだ。
だが。
「…何、言ってるの」
「イリス?」
「何で、あたしなの」
その言葉が触れてはいけない所に触れたのだろうか。
イリスは叫んだ。
「何で、どうしてあたしなのよ!?」
「待て、イリス。説明してくれ。何故そんなに嫌がる?」
「だってあたしは…あたしは!異端だから!!」
「異端?」
叫んだ事で上がった息を鎮めながら言う。
「そう、異端。…誰かが言った。あたしは変な奴だ、って。自分がどこから来たか分からなくて、名前しか知らなくて。
きっとツキをタブラカシに来たんだって。もしかしたらツキを殺しに来た異端児だって、誰かが…」
イリスがこれ程までに長く喋った事は無かった。
そして、彼女が妻となる事を拒む理由を、ツキは知った。
だが魔王は尚も尋ねる。
「…だから、妻となる事を嫌がるのか?」
頷いて、一言。
「…それに魔王の妻は、あの人が良い」
「あの人?誰だ?」
「…羽霧・クリ。」
聞くと、ツキは駆けた。
イリスはいつも通り、彼の後をついて行った。
理由など、考えずに。
* * *
羽霧・クリ。
灰の目を持ち、悪魔にはまずいない銀の髪を持つ女。
彼女は悪魔になってから、一度たりともツキを想わない日は無い程、彼の事を好いていた。
当然、彼女はイリスを妬ましく思っていた。
なので、ツキとイリスが揃って自分の元に来た時も、それを隠そうとしなかった。
「…何かしら、ツキ様に、踊飛さん」
「イリスに、何を言った?」
「何も…?あたくしは何かを踊飛さんに言った覚えはありませんわ」
クリは笑って肩程の髪を払った。銀髪が月光で艶を増す。
「しらを切るなら、無理矢理吐かせるぞ?」
「…ツキ様、おかしいですわ。彼女が嘘をついているとは思いませんの?このあたくしを陥れようとして」
クリは腕を組み、ツキの後ろのイリスを見た。
ツキには決して向けない、冷たい眼差しで。
「イリスが嘘をつくとは考えられん」
「ツキ様…あの女に何をされましたの?」
突然、クリは悲しそうな顔をして、ツキの顔に手を伸ばした。
だがツキは虫を払うかのように手を落とす。
「御前のその考えこそ可笑しい。…所詮女。醜いな」
「……」
黙ってイリスはそれを見た。
クリは払われた手に手を重ねながら、目を潤ませる。
「やっぱり、あの女に何かされましたのね…」
クリはツキとイリスの間に立った。
「ツキ様…あたくしが、あなたを解放してみせます。この女から」
「…あたし、何も」
イリスが喋ると同時、クリは左手の刺青をなぞった。
ダークグレーに鈍く光ると、彼女の背に翼が現れた。
一回羽ばたき、宙に浮くと羽根を二枚抜く。
そしてイリスの元へ高速で降り立つ。
すれ違いざまに腕を振る。
その手の羽根は、ナイフのように鋭かった。
彼女の名字の力だった。
しかし、イリスはそれを半歩後ろに退くだけでかわした。
「ちっ」
舌打ちを一つ残し、クリは旋回する。
そしてまたイリスを狙いにかかる。
「イリス、下がっていろ」
ツキがイリスの前に出た。
それを見たクリは眉間にしわを寄せ、羽根で彼等の側の地面を砕いた。
同時、羽ばたく。
その翼のどこからか、濃い霧が発生した。
真っ黒い霧は、視界を狭くする。
その後、しばらく攻撃は来なくなった。
「…?」
イリスは首を傾ける。
「羽霧…成程な。『羽で切る』と、『羽から霧』を発する名か…」
月は、では名前はどんな力かと考えを巡らす。
その時、ツキの目の端で何かが動いた。
「「!」」
何かが、イリスを叩く。
だがイリスは自身の能力でそれを回避した。
「…っ!」
ツキはその何かを睨み付けた。
黄金の瞳が妖しく光る。
瞬間、何かは声もなく悶え、前方に倒れた。
「……」
「これ…人形?」
イリスはそれを見て呟いた。
ツキが名前の能力『尽き』を使って殺したそれは、真っ黒い人だった。
いや、人の形をした、土だった。
「人形なんて言わないで欲しいわね。あたくしの可愛いゴーレム達を」
声がした。女の、クリの声が。
風を切って、霧の中に何かが飛び込む。
イリスはそれをも避けた。
ツキが見たそれは、クリの持っていた羽根だった。
(…飛ばしたのか、羽根を)
今、それがイリスに向かって飛んで良かったと、ツキは思う。
彼女なら能力で避けられた。しかし、彼なら避けられなかった。
安堵した瞬間に、イリスの背後をゴーレムが襲う。
しゃがみ、側転して避けたイリスは、振り下ろされたゴーレムの腕に指を置いた。
たった一本の指を、何かを差すように置いただけ。
それだけでゴーレムはとれ、動かなくなった。
イリスの名前の能力だった。
イリス、それは菖蒲という花の名。
あやめとも呼ばれるそれは、「殺め」とかけられているのだ。
つまり、彼女の名前の力は殺しの力だった。
二体目のゴーレムが倒れ、ツキは考えた。
(このままイリスばかりが狙われては、彼女はいつか力尽きる。…仕方ない)
イリスが立ち上がるのを見て、ツキは口を開く。
「おい…クリ」
一秒程の間。返事が来る。
「…はい、ツキ様」
「何処に居る?この霧で分からないのだが」
「…ツキ様、それは…」
「ああ、御前を妻にする」
だが、ツキの目は霧の向こうの女ではなく、側を離れない女を見ていた。
イリスの紫の瞳を見ながら、ツキは続ける。
「我は今手を伸ばしている。この手に捕まってくれ」
「…はい」
ツキは今、手を伸ばす。そして、頷いた。
イリスが静かに歩き、ツキに抱き付く。
否、抱き付いてはいない。腕は回さず、手をツキの肩に乗せている。
そして、クリの手が来た。
来た瞬間、イリスの手が伸び、クリの手に指を置いた。
「え…?」
それが、クリの最期の言葉になった。
クリはツキの足元に、跪くように倒れ、やがて、消えた。
その顔は、笑っていた。
* * *
「すまない。嘘とはいえ、あの女を妻にするなどと」
「別に。気にしてない」
「そうか」
消えたクリを見送った後、二人は自室へ帰る為に歩いていた。
相変わらず、風は起きず雨は降らない黒い地で、確かに二人はそこにいた。
ツキは、クリが消えた事で出来た疑問を口にする。
「イリス…羽霧は、消えたぞ」
「うん」
その意味は、イリスも分かっていた。
「…奴が居なくなっても、嫌か?」
「…」
イリスは左右に首を動かした。
「そうか」
憑き物が取れたように明るい表情になったツキを見て、イリスは喋る。
「…けど、ダメ」
「何故だ?」
「だってあたしは本当におかしいから。そんな奴が魔王の妻になっちゃダメだもん」
ツキはそれに聞く。
「何時、誰がそんな事を決めた?」
「…知らない」
「では我が決める。『異端であれ魔王が愛する者を、魔王の妻とする』」
イリスはそれを呆然と聞いた。
小さく唇を動かし、問う。
「あたしで…いいの?」
「勿論。」
そしてツキは腕を、イリスに回した。
「もう一度言う。…我の、妻になれ」
「…うん」
イリスは一度ツキの胸に顔を埋め、すぐに上げる。
どちらからともなく、二人は唇を付けた。
瞬間、夜空に虹がかかった。
* * *
「その後は…、大変でした。言葉遣いを直して、この重いワンピースを着せられて。けれど苦ではなかったです」
「ちゅーしたから?」
「違いますよ…、あの人が喜んでくれたからです」
「えー?わかんないっ」
「いつか…、分かりますよ、メシア。あなたにも」
(一緒に見守りましょう、ツキ。この小さな悪魔の子を…)
イリスはそっと、ツキの目がある額を撫で、笑う。
月下に照らされながら揺れる、菖蒲の花のように。
どこまでも優しく、清らかに。
月下菖蒲 fin.
地獄編はこれで終了です。
本当はもう一編あったのですが、別の話とする事にしました。
いつか掲載します。お待ち下さい!
次は長編、本編のその後となります。
閲覧、ありがとうございました。