天界編 Sanctuary of heart 前編
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「…彼は、地獄に落ちました」
色の無いその場所で、女が口を動かした。
いや、あるとすれば、白色だけか。
ただ二つ、真っ赤に輝く目。
女はそれを、ある一点に向けて話す。
「…シン。今は誰もいないわ」
言葉と共に、女の前に人が姿を見せる。
金色の髪に、蒼い瞳を持つ青年だった。
女の、銀髪と赤い瞳と、対照的な色だった。
「…やはり、いつも姿を隠すのは疲れますね…。」
「仕方無いわ。今正体を明かしたら、天使達に動揺が起きますから。何があるか、分からないから…」
「そうですね。それに、私には貴女が居ますから、マリア。」
微笑を浮かべていた彼は、若干それを消す。
彼は金髪を頂く頭を、マリアの額にくっ付けた。
「…良い、ですか?」
マリアは、その意味にすぐに辿り着いた。
頬を赤らめ、潤み始めた目を逸らす。
「……」
「…返答が無いなら、良いという事に受け止めますよ。」
「……、です」
小さく、彼女は言った。
彼は、聞き洩らした言葉を問う。
「何ですか?」
「…良い、です」
その言葉を待っていた。
態度からも、行動からも、その想いはマリアによく伝わった。
顎を持ち、上向かせ、唇を合わせる。
どこか強引で、しかし優しいその行動に、マリアは一瞬とても強い喜悦を覚えた。
小さく、彼女はシンの白い衣の袖を掴んだ。
無意識に、マリアは魔法を発動していた。
自分の代わりに啼いてくれる、『福音』【金糸雀】の力で。
彼女達は、此処とは違う次元に転移した。
声など全く届かない、彼等の不可侵の領域へ。
* * *
幾度、こうしただろうか。
覚めぬ意識の中、マリア・ブレス、いや、大天使静歌・キャロルは思う。
(…何故だったかしら、私が彼に惹かれたのは…)
真っ白い自室、銀の髪をベッドに散らし、彼女は天井を見つめる。
今、彼女が身に着けているのは、ラインの入ったワイシャツだけ。
上着はもちろん、動き辛くて少し窮屈なオーバースカートも、椅子の上に放っていた。
人前では勿論、愛する人の前でもしない格好だった。
愛に溺れた後、彼女は『福音』で自室に戻り、そのままぼんやりとベッドの上にいた。
壁や天井、床と同じぐらい、今の彼女の頭の中も真っ白だった。
首を横に傾け、見慣れた部屋を目に入れる。
何百年も見て来たその部屋の中では、目を閉じても彼女は生活出来た。
静歌はそれを見ながら、ふと思う。
(私は…何時から此処に居たのでしたっけ…)
目を伏せ、思いを過ぎた日々へ。
そして彼女は、過去の記憶の蓋を開けた。
* * *
ずっと昔。今のように機械は無く、ただ人は自然と共にいた頃。
ある少女は、平穏無事に日々を送っていた。
彼女の白い肌、美しい金の髪に紫の瞳、素晴らしい美貌は、同性さえも見惚れる程であった。
ある日彼女は、親の言い付けで隣町に行く事になった。
隣町には森を抜けて行かなければならなかった。
早く行きたかったが、少女の家に馬は無かった。
当然、彼女は森を徒歩で抜ける事になった。
森は広く、馬でも早足で二時間はかかった。
徒歩なら、隣町に着くのは夕方頃になりそうだった。
暗く、大きな森の中を、少女は周りを気にしながら歩いた。
太陽は段々と傾き、丁度沢山の葉で日光が遮られた時だった。
ガサガサ、と近くの茂みが動いた。
少女は狼かと思い、恐くなって逃げた。
だが、その何かは逃げる彼女に追い付き、覆い被さった。
そこで少女は、何かが狼ではなく、人間だという事に気が付いた。
少女は仰向けにさせられ、そこで見た。
人間は一人ではなく、四人もいた。
皆、男。目をぎらつかせ、息が荒い。知らない者ばかりだった。
少女は恐怖で動けなくなった。
どこか遠くの世界からのように、彼等の声は聞こえた。
綺麗な良い女だ、食べてしまおうか、そうしよう、それは良い考えだ。
そして、おぞましい行いは、恨むなよ、という言葉から始まった。
手足を抑え付けられ、彼女は彼等の好きなようにされた。
四人の男に、服を破られ、肌を見られ、何かを奪われた。
抵抗も彼等の前では無意味で、むしろ男達の勢いを強めてしまった。
何回も、何回も、少女は貪られた。
助けを求める少女の叫びは、広大な森の中で全て消えてしまった。
そして日が山に入る頃、ようやく少女は自由を得た。
しかし。
身なりの良い男達は、喋る。
この女はとても良い、素晴らしいからこいつは飼おう、誰が飼う、お前の家など良いじゃないか。
少女の意志など無視して、彼等は少女を連れ、馬車に乗った。
そして、少女は男達の玩具にされた。
ある時は華美な服を着せられ、ある時はみすぼらしく露出の多い服を着た。
ある時は執拗に苦痛を与えられ、ある時は激痛を負わされた。
寒い石造りの部屋の中、少女は常に手首を縛られていた。
絹のようだった肌は麻のように潤いを失くし、美しかった顔は青白くなり頬がこけ、以前の姿は想像も出来ない。
彼女の自慢の金髪は老人のように白くなり、希望を宿していた紫の目は、人を喰う獣のように充血していた。
ろくに食事も摂れず、ただ毎晩のように与えられるのは無遠慮にかけられる汚物。
苔むした環境は、ボロボロの彼女を更に壊していった。
そして、ある日。
ほぼ、決まった時間に現れる、男の襲撃。
その中で、彼女は自分の身の上を恨んでいた。
瞬間、唐突に訪れた睡魔。
彼女はそれに抗わなかった。
何故か、それが自分を救ってくれるように、彼女は思ったのだ。
そうして、彼女は死んだ。
その後彼女の亡骸は、あの暗く大きな森に、捨てられた。
* * *
「……っ、うぅ…」
静歌は泣いていた。
本当は、分かっていたのだ。過去を思い出す事の意味を。
けれど、思いだしてしまった。辛い昔を。
そうしなければ、彼に出会った時の事を思い出せないから。
静歌は思考の闇に再度、身を沈める。
* * *
少女は目を開けて驚いた。
先程いた暗く湿った場所ではなく、真っ白く温かい場所に自分がいる事に。
しかも、身を起こして彼女は気付く。
上等のベッドの上にいる自分に。
彼女は嬉しくなり、寝転ぶ。そこで自分の手首に鎖が無い事に気付き、更に彼女は喜んだ。
その部屋には鏡があった。彼女はそれに気が付き、その前に立った。
白い肌。美しい顔。いつの間にか変わっていた一張羅。
だが髪は銀に、瞳は真っ赤に染まっていた。
これは自分なのかと少女は自問し、答えを目の前に見て、悲嘆した。
その時だった。コンコンという、何かを叩く音。
音源は、やはり真っ白い扉。
少女は恐る恐る扉を開けた。
訪問者は、美しい青年だった。
長い金髪に蒼い瞳。慈愛に満ちた微笑。
少女は顔が熱くなるのを感じた。
また、自分の容姿を気にした。
彼が大丈夫と告げるまで。
少女はその言葉に驚く。そして、言った。
このようなはしたない姿を、あなたは良いというのか、と。
青年は問いの答えを、笑みと共に放つ。
どのような姿であれ、貴女には変わりない、と。
少女はその言葉に深く安堵した。
しかし、彼女に刻まれた傷は癒えなかった。
* * *
「色々な事を、彼と共に過ごした…」
彼と共にいる内、静歌は敬語が癖になった。
青年―シンが常に敬語で、更に彼が自分より先にこの世界にいた事もあってだ。
静歌は彼に会った後、ここが『天国』で、自分は天使になった事を知らされた。
何も分からなかった彼女は、初めて会った彼にとても頼った。
けれど彼女はいつも、どこかで壁を作っていた。
「まだあの時は…彼でさえ恐かった…」
未だ、生前に受けた仕打ちを引きずっていたのだ。
「それが無くなったのは何時でしたっけ…そうだわ…」
静歌はうっとりと笑って言った。
「悪魔共との…戦争…」
かつての栄光を、彼女は脳内で鮮やかに描き出す。
* * *
まだ、彼女が大天使を目指して、日々使命に明け暮れていた頃。
当時確かに、神はいた。
だから、神に彼女は『神の恋人』だと知らされた。
あの時少女が死んだのも、穢れていく少女を助ける為だと。
感謝はしたが、もっと早く自分を助けてくれても良いではないか、そう彼女は言った。
神はそれに、中々力をそちらに割く余裕が無かったと告げた。
彼女はそれに憤慨し、自室に戻った。
話は、そこから始まる。
* * *
「どうして、どうしてよ…神様…」
怒りと悲しみが同時に湧き起こり、当時マリア・ブレスと名乗っていた少女は、それを押さえ付けるように枕に自分の顔を埋めた。
顔を離し、枕のシミに気付き、泣いている事を自覚する。
当然だ。もっと早く、森で襲われた辺りで助かっていたら、今頃はこんな気持ちで天使になっていない。
「…私は…恋人なんかじゃない。道化よ…」
そう、目を瞑ろうとした、時だった。
凄まじい衝撃と音がマリアの部屋を襲った。
扉が誰かに壊されたのだ。
あまりに強い力だったらしく、扉は欠片も残らなかった。
衝撃波が身を叩いた。
「なっ…」
顔を上げ、見た先には、黒衣の人間。
基本、天使は黒を着ない。
(何故…!?)
そう、悪魔が来たのだ。
すぐに武器を使えるよう、胸元のロザリオに触れる。
銀の小さなロザリオには、虹色に光を反射する石が嵌められている。
彼女の武器、『イースター』である。
握り込みながら、マリアは悪魔に問う。
「…何しに、ここに来たのかしら」
「何だっていいだろ。それより天使、お前を殺しに来たよ」
当時、天使と悪魔の仲は非常に悪く、一触即発といった雰囲気が常にあった。
彼女が死んだ頃はそこまで悪くなかったのだが、この数百年の内に大きく変わっていたのだ。
マリアの目の前にいる悪魔は、左手の刺青を触りながら言う。
「いつまでも俺達がお前等の下にいると思うなよ!」
撫でた左手の甲を下に向ける。深緑の液体が、ぼたぼたと床に落ちた。
「この液体はな。俺以外の触れた奴全員の意識を奥底に封じ込めちまうんだ。けど自分の意識はある。簡単に言うと人形になるんだよ!」
男は得意気に言う。
(…馬鹿ねこいつ)
何故自分の能力をペラペラと喋りたがるのか、彼女には分からなかった。余程勝つ自信があるのだろう。
まあ、こいつをさっさと殺せば良い。マリアはそう考え、『イースター』の宝石を撫でた。
その時だった。
「あーあ、生きてた頃は良かったな。良い女が抱けたからな」
(…え?)
突然の男の言葉で、忌まわしい記憶が目覚めた。
嫌な汗が噴き出て来た。
「金髪に紫の目した女でよ。友達と四人で狩りに行った時に見つけて、可愛がってあげたっけ。嫌がってたけど、途中からはされるがままでなあ…」
「……」
黙れ、黙れ、黙れ、煩い。
これ以上喋るな、マリアは胸中で叫んでいた。
「気に入ったから俺の城で、あ、俺人間だった時は貴族だったんだよ。で、そこの地下に閉じ込めて…」
「……――」
そんなに自慢だったか、私の体が。
青を失った少女の目は、ただ憎悪を込めて悪魔を睨む。
マリアはその時、知った。
彼の服装が、あの森の色だという事に。
地下室の、苔の色だという事に。
手の液体の様が、自分の体内に捩じ込まれたあの液体のようだという事に。
もう、マリアは何も知りたくなかった。
「…ろ」
「あ?何だ、聞こえねーぞ?」
「…まれ」
「ちゃんと言えよ!」
「黙れ畜生以下の腐った死体があぁぁ!!!」
我慢の限界に達したマリアは、強く『イースター』を握り込む。眩しい光が十字架から漏れた。
『イースター』の能力は【復活】。石に記憶された魔法等を再生する力だ。
閃光が悪魔の目を灼く。この真っ白い場所は、悪魔達には眩し過ぎた。
「ざけんな、このアマ…やめ…ぐぎゃあああ!!」
「無様ね!ふふふっ」
「…お前、まさか、あの…」
その時悪魔はようやく、マリアが生前自分が弄んだ女と分かったようだ。
マリアはそれを聞き、笑みを一層強くした。
「あなたと同じように、しましょうかしら」
「…?」
「あなたを人形にするの。…けど、それじゃダメね」
マリアは顎に指を当て、考え、告げた。
「動きだけ、出来ないようにします」
にっこりと、しかし目は笑わずに。
ロザリオを握る。首から『イースター』を外し、悪魔に先端を向けた。
殺気が伝わったのか、突き付けた瞬間彼は出口を目指し始めた。
「恨まないで、下さいね」
かつて彼が言った事を、そっくりそのまま返す。
足音を殺して彼に近寄り、青白く光るロザリオの先端を悪魔のうなじにほんの少し、くっつけた。
感電したかのように身をよじらせた後、彼は膝を付いて倒れた。
『イースター』で扉の跡に壁を築いた後、マリアは彼を魔法の紐で仰向かせ、にやりと笑って言う。
「あの日々の…お返しです」
天使は、魔法陣を描いた。
閲覧、ありがとうございました。