1.赤色の少女と灰色の『魔物』
まだ日は高い時間だというのに、森の奥は薄暗く、空気は湿り気を帯びて不気味な雰囲気を醸し出していた。
その中を、一人の少女、シーマが必死に駆けていた。時折右足を押さえながら、忌々し気に顔を歪ませる。
すぐ後ろには、シーマの腕程の大きさがある蛇が迫っていた。
蛇も体の一部の鱗が、人の足の形にひしゃげていた。シーマに踏みつけられたことによる怒りは、その足への噛みつきだけでは収まらないらしい。逃げるシーマを執拗に追いかけている。
傷の治療をする暇もなく走り続けたせいで、足の出血は止まらず痛みも増していく。シーマの体力の限界は近かった。
「ぐっ、痛……きゃあ!?」
一際大きな痛みが足を襲い、気を取られた瞬間足がもつれて、シーマは派手に転んでしまった。
立ち上がろうにも体が震えて、伸びかけた腕はぺしゃりと曲がってしまう。衝撃で地面に積もっていた枯葉が小さく舞った。
蛇はシーマが逃げられないと理解したのか、細長い舌をちらつかせながらゆっくりと距離を縮め始めた。
「誰か……助け……」
森の中でそう都合よく人と出会うことは無い。
そんな事は分かっていたが、もう自分の力だけではどうしようもない。助けを求めるしかなかった。
誰かに見つけてもらおうにも、叫ぶ体力は無い。代わりに必死に手を動かし、周りに落ちている枯葉や枝をかき分けてがさがさと音を立てた。
ふと体に生暖かい違和感を覚えた。目を移すと至る所から血液が滲み出て、肌は真っ赤に染まっていた。
転んだときの怪我にしては血塗れすぎる。きっと毒が回って出血しやすくなっているのだろう。
「嫌だ……死にたくない……」
ぱりぱり。手で枯葉を握り潰した方が大きな音が出る事に気付き、かき分けたものを手元に寄せ集めた。
しかしそんな足掻きも空しく、蛇はシーマを射程に捕らえ、鎌首をもたげた。
ふわりと風が吹いた。柔らかな刺激は、傷だらけの体には激痛へと変わって襲い掛かる。
しかしそのおかげでシーマの頭は冴え、そこに一つの疑問が生まれた。
(風? さっきまで吹いていなかったのに────)
「《叶え給え、風の舞》」
凛とした声が紡いだ呪文で、森に突風が巻き起こった。
嵐の中に放り込まれたかのように木々が激しく揺れ、枯葉が舞い上がる。吹き付ける風が体中の傷に染みて、痛みに閉じかかる目をシーマは必死に見開いた。
突風が最も強く吹き付けたのは目の前にいた蛇の首だった。研ぎ澄まされた刃物で一閃された様に、頭と胴体が綺麗に別れて宙を舞った。
まるで魔法の様な現象……シーマがその意味を悟る前に、決定的な証拠が現れた。
風はすぐに止み、近くの木から人影が飛び降りてきた。背は高く、細身ながらしっかりした体付きだが、顔にはあどけなさが残る少年だった。
この少年が先程の風を起こしたのだろう。だから。
「ま、『魔物』……!」
シーマは軋む体に鞭を打って、更なる逃走を試みた。
この世界では、魔法を使える生物は限られている。
そして魔法を使える人間は、総じてその力に溺れ、魔法の化け物────『魔物』になる。
小さい頃からずっと聞かされてきた話だ。『魔物』が村や町を滅ぼしたり、魔法の研究に使うために人攫いをしたりする話は腐るほどある。
とても危険な存在で、決して近づいてはいけない。それがこの世界の常識だ。
物音をたてたのが仇になってしまった。これなら蛇を相手にする方がよっぽどましだった。何とかして逃げなくては。
『魔物』に対する恐怖心が、限界を迎えている体を突き動かした。
「そうだよな……」
少年は何故か悲し気に呟くと、その場から逃げようと身じろぎするシーマの体を両手で持ち上げ、胸の前で抱えた。
いわゆるお姫様抱っこの状態だが、何の感動も沸かない。むしろ『魔物』に捕らえられてしまった恐怖で体が冷え切った。
「ひっ、離してっ……」
「このままじゃ死ぬぞ」
「え……?」
「いいから動くな」
このままじゃ死ぬ? まるで助けてくれるかのようなセリフに、シーマの頭の中は疑問符で満たされた。
いや、最低限死なないようにして、魔法の実験台にされるに違いない。無事に助かる訳が無いのだ。
今はもう動けそうにないから、体力を回復して『魔物』の住処に入るギリギリで逃げ出すのが最善か。
逃げ出す算段をたてながら、シーマはふと少年の方を見た。
ボロボロの外套に不釣り合いな、綺麗な鳥の羽のネックレスが首元で輝いていた。
輝いていると表現できるほど、その一枚は美しい金色に染まっていた。
魔法のアイテムだろうか。『魔物』が付けているにしてはとても優しく、温かみを感じる光だった。
目線を上げると、少年と目が合った。灰色の髪の毛の隙間から、シーマと同じ真っ黒な瞳がこちらを見つめている。おぞましい『魔物』の目……にしては、やけに澄んだ瞳をしていた。
ほんの少しだけれど眉も口元も下を向いていて、なんだか寂しそうな表情をしている。
いちいち『魔物』らしくない素振りだ。普通の人間に見えてしまう。
じっと見つめ合っていると、はっと目を見開いた少年は物凄い勢いでそっぽを向き、そのまま一言こう告げた。
「か、《叶え給え、安寧の微睡み》」
途端に激しい眠気が襲ってきた。満身創痍のシーマが抗えるはずもなく、意識は簡単に闇に落ちた。
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