逆鱗3
タツノリが目を覚ますと、そこはいつも自分が使っている寝床だった。キトの声がする。
「ウーダラが行きますよ。見送らなくていいんですか」
タツノリは勘づいた。これは夢だ。あの日の朝のことは、たびたび夢に出てくる。
タツノリは身を起こそうとした。だが、意識はあるのに、体が全く動かない。タツノリは焦った。急がないといけないのに。こういうときは、たいてい現実に起こったことが影響している。しかし今度は、現実に何があったのか、全く思い出せない。
覚めない夢が、永遠に続くと思われた。タツノリはひたすら念じ続けた。今動かなければ、すべてが終わる。それだけは分かっていた。
すると、視界が突然、真っ暗になった。次の瞬間には、タツノリはもうもうと巻き上がる砂塵の中に立っていた。
「やっと起きたか」
タツノリの目の前に、見たこともない生物がいた。空中に漂って、タツノリを見下ろしている。
「なんだ、こいつは」
蛇のような胴体は鱗に覆われ、四肢をもち、鋭い爪が見える。角があり、ひげを生やし、らんらんと輝くまなこで、こちらを見つめている。
「わたしは竜神だ」
「竜の、神様……」
「そうだ。竜族に竜を与える存在でもある」
「竜族……。そうだ、思い出した。今大変なんだよ、竜族が全滅するかもしれない」
「もう遅い。竜族は滅んだ。全員、海の底よ」
「なんだって」
「わたしは歴史の管理者でもある。どんな選択をしても、この事態は避けられなかったようだな。最後に、ひとりだけ取り残された可哀想な男がいることを思い出したのだ。名を、バシコウという」
「聞いたことがないな……」
「その男は、昔、わたしが地上で人間の毒矢に撃たれたとき、たちどころに治療してくれた恩人だった。天界に連れて行き、永遠の生を与えてやったのに、あるとき、さびしいから地上に降ろしてくれと泣きついてきてな。仕方がないから陸竜を与えて降ろしてみたのだ。するとやつは、竜族という集団を作り上げた。わたしも面白がって見ていたが……帝国も考えたな。火も毒も効かぬなら、水に沈めてしまえ、か。これではさすがに竜を消滅させないと不自然だ」
「竜は死なない生き物なのか」
「あれは生き物ではない。私の記憶から現出させた、映像のようなものだ」
「えいぞう……」
「この時代のお前に言ってもわからんか」
竜神は静かに笑った。
「ちょっと待て。その男って、ウーダラのことか」
「そうだ。地上ではそう名乗っているのかな。やつに、冥土の土産でも渡そうと思ってな。お前が竜に乗った姿を見れば、やつも喜ぶだろう」
「えっ……」
タツノリは意外な展開に、目を丸くする。
「念願だっただろう。竜に乗ることは」
「それはそうだけど……」
「やつに会ってこい。それが終わったら、わたしは地上から竜のいた痕跡を消す。あらゆる記録や人々の記憶から、竜はいなくなる」
「そんな、勝手な……」
タツノリは今いた空間から、急激に引っ張り上げられるような感覚を覚えた。同時に、現実の出来事を思い出し始めた。
「おれはまだ、諦めてないから。ウーダラのことも、竜族のことも」
タツノリの声は届いたのか、竜神は前足で自身の顔をぼりぼりとかいた。
「残念だ。全知全能のわたしでさえ、お前には悲劇的結末しか用意してやれん」
タツノリのいなくなった空間に、竜神の声がこだました。
竜神のもとから戻ったタツノリの目の前には、竜がいた。今のタツノリのために現れたかのような竜の力を借りない理由はなかった。
タツノリは竜に乗った。
乗り心地は悪くない。硬い皮膚にもすぐになじんだ。乗り方は誰にも教わっていなかったが、馬と同じ要領でよさそうだ。タツノリはゆっくりと前進させた。
「行くぞっ」
徐々に速度を上げていく。タツノリは自信をみなぎらせた。これなら、追いつける。竜神はああ言っていたが、タツノリは希望を捨ててはいなかった。竜族は無事だ。そう思いたかった。竜族が生きているのを確かめて、遠征を中止させるまでは気が抜けない。気がつくと、傷は治っていた。竜神が治してくれたのか。竜神と会ってからは時間の感覚が曖昧だが、空はまもなく日の出を迎えようとしていた。
「ウーダラあああああっ」
タツノリの竜だけが、主人の声にならない叫びを聞いた。
日も高く上った頃、タツノリはとうとう、一度も竜族に会わずに港町に着いてしまった。そこでタツノリは人々から奇異の目で見られながらも、情報を集めるため町の中を竜で歩いた。町人は遠巻きにこちらを見てこそこそと話をしている。
「おい、竜だ」
「まだいたのか」
なかには、兵士を呼んでくる者もいた。
「なんだよ、みんな……。竜に助けられたんじゃないのか」
タツノリはその場を逃げ出し、古びた納屋に身を隠した。ウーダラと初めて出会った、思い出深い場所だ。
とそのとき、外で大声がした。
「帝国兵が竜退治から戻ったぞ」
群衆から歓声があがったのが分かった。誰もが、この日を待ち望んでいたかのように喜んでいる。タツノリは頭を抱えた。まるで逆賊だ。
「こんなの……おれが憧れた竜族じゃない……」
人は往々にして強すぎる者に対して辛辣になっていく。目覚ましい成果をあげたときは賞賛しあがめても、痛い目に遭ったときはいい気味だとほくそ笑む。タツノリは思い知った。
帝国にとっても、竜族は腫れ物だった。いつ反乱分子に唆されて敵側に寝返るか分からないという問題がついて回る。シラレの乱で起こったようなことが、また起こらないとも限らない。竜族はいわば諸刃の剣なのだ。召し抱えるには、危険すぎた。
「本当にみんな、死んだのか……」
タツノリは竜の顔を見つめた。
「そうだ、竜神は、ウーダラに会ってこいと言った。その言葉が真実なら、ウーダラはまだ生きている」
タツノリは竜の体当たりで納屋の壁をぶち破り、海岸に沿って竜を走らせた。
ウーダラは浜に打ち上げられていた。辺りは静かで、打ち寄せる波の音だけが響いている。濡れた衣服は乾きつつあった。それでも、体は重く、動きそうにない。どれくらい時が過ぎただろうか。何かが砂を踏む音が聞こえた。ついで、人の呼びかける声が聞こえた。声は次第に大きくなり、ウーダラは抱き起こされた。耳元で名前を呼ばれている。ウーダラは、薄目で声の主の顔を見た。
「ウーダラ、大丈夫か」
「タツノリか……」
タツノリは、ウーダラが反応したので、ひとまず胸を撫で下ろした。
「一体、何があったんだ」
「……やつら、帝国兵が、海の真ん中で船に火矢を射かけてきよった。船は燃え、我々はやってきた嵐になす術なく飲み込まれた」
「それじゃ、やっぱり竜族はもう……」
タツノリは唇を噛んだ。
「さっき、帝国兵が帰ってきたのを見たんだ。おそらくウーダラたちを襲ったやつらだ。ここへ来る途中で、何人かに竜を見られたから、じきにおれたちのことを見つけるはずだ。とにかくこの場から逃げよう」
タツノリは動けないウーダラを背負って、竜に乗せた。ウーダラは、驚くほど軽かった。
「そうか……。お前、竜神に会ったか」
「ああ。ウーダラのことも聞いたよ。本当は、バシコウっていうんだって」
「そこまで知ったか……。ならば、今日が審判の日だな」
「審判の日って」
「竜神に言われたのだ。人と竜が共存できる世界を実現させることが下界へ降りる条件だ、その道が閉ざされたとき、お前の生は終わる、と。おれもまた、竜と同じような存在なのだ」
「なんだよ、まだおれがいるじゃないか」
「竜神も、飽きたのだろう。やつは、気まぐれだからな」
「そんなことって、ないよ……」
「……見ろ。時間だ」
タツノリとウーダラを乗せて走っていた竜が、不思議な光を放っている。光を放った部分から、竜の形を失っていく。腕がなくなり、尾がなくなり、脚がなくなると、タツノリとウーダラは空中に放り出された。地面に叩きつけられたタツノリが起き上がって見ると、今度はウーダラが光っている。
「そんな……本当に、消えてしまうのか。ウーダラは、それでいいのか」
「……いいんだ、タツノリ。ようやく、長いおれの生が終わる。最後にお前に見届けてもらえて良かった」
タツノリの目には涙がにじんだ。
「ウーダラに追いついて、認められることがおれの目標だったのに。聞いてくれ、ウーダラ。おれは、初めて竜に乗ったとき、ちっともうれしくなかった。竜族のことが心配で、気が気じゃなかったんだ。おれの人生、こんなのばっかだ。どうして消えちゃうんだよ」
タツノリは涙ながらに訴える。
「竜神は言っていなかったか。この世界から竜を忘れさせると。お前も、お前を縛りつけている竜というものから解放されるのだ」
「嘘だろ、すべてがなかったことになるなんて」
「なかったことになるわけではない。すべてが水泡に帰したように思えても、消えない、残されたものが必ずどこかにあるはずだ。やってきたことは、消えない。それを忘れるな……」
ウーダラが光の粒となって消えていく。
「絶対、忘れない。おれは一生、竜の乗り手だ」
「……頼もしいな……」
ウーダラの最後の一言が、かすかに耳に届いて、光の粒は空に吸い込まれていった。
世界から竜は消え去った。
この茫漠とした平原に立っている理由を、タツノリが知ることはない。