1-5 働く神官
漆黒の闇を走る。目の前も足元も見えない黒い靄の中、後ろから迫る悲鳴に背中を押されて、ただ走る。
硬いものが肩にぶつかる。段差のある地面に爪先が埋まって、傾いた拍子に鼻が何かに激突した気がした。たたらを踏んだ足の裏で、靴の中に入り込んだ小石がゴロゴロする。
それら全部を無視して、レクトは走った。夕餉のときは穏やかにすら感じた夜気が、今はピリピリと肌を刺す冷気に変わっている。舌に感じる酸っぱさは、生き物が死んで、腐り、溶けていく臭い。
背後に押し寄せる魔物たちが、触手をくねらせレクトを喰らおうと唾を散らした。
『うぶるぉおおおおおっ!!』
「しーーーーぬうううううううううっ!! しにたくないぃぃいいいいいいっ!!」
唇からその悲鳴を読んで、ネリアは呆れ混じりに独りごちた。
(いえ、傍から見てると全く死にそうにないんですが)
ネリアは谷底を一望できる崖に身を潜めていた。斜めに迫り出した岩から首を出し、下を覗き込む。山はすっかりと夜闇に包まれているが、双眼鏡に仕込んだ暗視の術式が、逃げ回るレクトと追い回す魔物を視認させてくれる。
谷底の岩を飲み込みながら押し寄せる泥は牛のように鈍いが、夜闇と混乱でいちいち砂利に爪先を突っ込んだり頭から岩にぶつかっているレクトも相当に遅い。それでもレクトが捕まる気配を見せないのが、ネリアには驚きだった。
「レクトさんって、ほんとに理想的な囮ですね。丈夫ですし、魔物がこっちに見向きもしません」
「そりゃ、あれだけの霊力を無駄に垂れ流していたらな。魔物には格好の餌に見えるだろう」
「うささん♪ うささん♪ ひとやすみー♪ がんばる かめさん だいきょうそー♪」
岩にもたれて休んでいるカイが、面倒臭そうに相槌を打つ。二人をここに運んだランは、今はどこからか小枝を拾って、カイの周りにガリガリらくがきをしていた。幼児がでたらめに描いたものにしか見えないが、ほのかに光っているあたり、疲労回復か何かの術式として作用しているらしい。
このふたりは埒外としても、ネリアの霊力も相応に強い。この距離なら触手がこっちに伸びてきてもおかしくないのだが、蔓延る魔物はどれもがレクトに夢中だった。
視界の中で、汚泥から伸びた手がレクトの袖を掴む。岩を溶かし草を焼き尽くす触手に、レクトは気づきもせずに腕を振り回した。触れるだけで肌を爛れさせ肉を腐らせるはずの触手が、無力に千切れて液化する。
ついでに蹴飛ばした石礫が汚泥に浮かぶ人面をいくつか潰したのだが、レクトはそれにも気づかないようだった。怯んだ泥の群れが動きを止めているのを知らないまま距離を取り、そびえる崖に正面からぶつかって、よろめきもせずに別方向へと駆けていく。ちらりと見えた横顔は鼻が折れた様子もないし、魔物に掴まれた袖も焦げてすらいない。
「さっきから何度も魔物に囓られているはずなんですが、片っ端から無力化しているみたいですね。あれで無自覚とは恐れ入る……あっ、落石がレクトさんの頭にぶつかりました」
「そうか。どうなった?」
「岩の方が砕けました」
一瞬朝まで放っておいていいんじゃないかと考えたが、カイはひとまずもたれていた岩から身を離した。汗も引き、呼吸も落ち着いた。術を使うのに支障はない。
ランの灯したらくがきを頼りに、ネリアの隣まで登る。谷底に満ちる汚泥の死臭が、崖上まで漂ってくる。
鼻どころか眼球も刺してくる苦い酸味に、カイはきつく眉を顰めた。暗視の術を使わずとも、おびただしい瘴気が五感に伝わってくる。
「ネリア、魔物の総数は?」
「七身一体が全部で七組、合計で四十九。潰れると洞窟が五秒で吐き出しています。一度に全滅させるのは、ちょっと現実的じゃないですね」
レクトを追いかける泥とそこに浮かぶ人面の数を、ネリアは正確に計測していた。レクトに密集しているのでわかりづらいが、泥の群れは七つの大きな塊に分かれている。一塊の泥に浮かぶ人面は最大で七つ。潰れると洞窟が新たな泥を吐き出し、人面の欠けた塊に合流する。
それがあの洞窟、の変じた巨大魔物の使役限界なのだろう。つくづくこの人数で立ち向かう規模じゃないとカイは舌打ちした。昼間ならまだマシだったのだろうが、本気で夜明けまで時間を稼ぐのを検討すべきかもしれない。
(そもそも、なぜ洞窟に近寄ってもいないのに湧いて来たんだ? 夜とはいえ春。こんな大規模な現出が起こる条件は満たしていないぞ)
よっぽどレクトが格好の餌に見えたのか。あるいは、本当に助けを求めているのか。
だとすれば、その相手はレクトでもネリアでも、ましてやカイでもなく。
「ゆく?」
考え込むカイを下から覗き込んで、ランがにぱっと笑う。
若葉色の髪を飾る花のような笑みに気を削がれ、カイは洞窟に視線を向けた。怒り狂う洞窟の顔は、苦悶に泣き叫んでいるようにも見える。
「ラン、ここから洞窟まで飛べるか?」
「んぅーーー、ねむくなる!」
期待はしていなかったが、胸を張って断言されるとゲンナリする。
渋面でこめかみを抑えるカイの隣で、ネリアが立ち上がる気配がした。
「これだけの瘴気の中を飛ぶのはご負担でしょう。私にお任せください」
軽やかに請け負って双眼鏡を小鞄に仕舞うと、しなやかな両手を重ね、剣に見立てた右手を鞘に見立てた左手から抜き放つ。短く唱えた祝祷に、細身の輪郭が薔薇色の燐光に包まれ夜に浮かび上がった。
「では、参ります」
「任せた。半数も潰せば十分なはずだ。そうだな? ラン」
「うんっ」
その返事を背に、崖から身を投げる。レクトでもない人間には自殺行為だったが、ランはおろかカイも当のネリアも慌てはしない。
集中する。五感とは異なる感覚が拡張され、世界の揺らぎを肌で聴き取る。自分から広がる波が大気の波に抱かれ、岩に流れる波と弾んで跳ねる音色を、ネリアは見た。
万物が放つ波動、霊思領域が奏でる世界の音色、人が霊力と呼ぶ旋律を導に、譜面をなぞるように岩壁を蹴り谷底へと駆け下りる。
一寸先も見通せぬ闇の中で、ネリアは蹴るべき岩の凹凸からその衝撃で転がる小石まで、すべてを聴き取っていた。膝を曲げて着地すると同時に、足音も立てず走り出す。
すぐそこでレクトを追いかけていた泥の塊が、遠くの星より近くの花と言わんばかりに、うねる触手をネリアへと伸ばした。
『うぐるぉおおおおおおおっ!!』
「触れないでください」
不協和音を断ち切るように手首を振る。夜目にも華やかな刀身の投剣が、触手を蝋のように焼き切って人面へと突き刺さった。
『ゔぁ゛あ゛あ゛あああああっ!!』
(これだけ大きいと、どこに投げても当たって楽ですね)
思考とは裏腹に、ネリアは汚泥に浮かぶ人面に的確に投剣を命中させていった。脆く実用的とは言い難い宝石の刃が、次々に魔物の額に突き刺さる。
神殿で清められた宝石が、魔物の体内で霊力を断音のように響かせるのが聴こえる。宙をもがく触手が萎れ、見上げるほどに巨大だった魔物の体が、見る見るうちに縮んで膝丈程度の大きさになる。
それを音で見届けながら、ネリアは夜闇を駆けて次の塊に投剣を投じた。七つの人面のうち四つ、当たりどころが良ければ三つに投剣を命中させれば動きを封じられる。霊思構造を破壊ではなく停止された肉塊は、洞窟で再生することもなく、額に刺さった投剣に呆けた顔を晒していた。
(塊は残り五つ。全部を仕留めるには投剣が足りませんね。あと一塊は確実として、できればもう一つくらいは、っと)
敵意を稼ぎすぎたのか、レクトを追いかけていた塊が二つ、同時にネリアを襲ってきた。憤激する十四の瞳が鞭をしならせる。ネリアの身のこなしは機敏だが、さすがに四方を触手に囲まれては逃げ場がない。
挟み撃ちをどう切り抜けるか思案した一瞬。ネリアが決断を下す前に、状況が動いた。
「ねっ、ねねねねねねネリアっっあぶなぁいっ!」
『ぶるぉおおおおおおっ!!』
吃りながらレクトがこっちに駆けてくる。感心なことにネリアを助けようとしているらしいが、その背中を残り三つの肉塊が追いかけていた。
ネリアを囲む触手の網が、レクトの矮躯に引きちぎられる。足に絡みついた触手を踏み潰しながら、レクトは琥珀色の目を煌めかせて叫んだ。
「ネリア、助けにきたよっ! ……あれっ?」
そのときには既に、ネリアはレクトが来たのとは反対の方角に走り出していた。
腕を前に交差して、薔薇色の障壁と神官服の防魔性を頼りに触手の網を突き破る。
「十秒ほど時間を稼いでくださいっ!」
「ぇっ? えと、わかっぎゃぁあああああっ!!」
頷くより先に魔物に集られて揉みくちゃになったレクトを置き去りに、ネリアは無事包囲網を抜け出した。泥塗れになった神官服を見下ろして、纏わりつく触手を手で払う。
元より千切れていた触手は、白い指の纏う薔薇色に焼かれてパラパラと崩れるが、そのぶん障壁の嵩が減ってしまった。真っ白だった神官服に茶色い染みが付き、遮られていた瘴気――虫のはらわらを煮詰めたような死臭や、頭蓋を振動させる断末魔が、肌に纏わりついて五感を苛んでくる。
出し惜しみはしないことにして、ネリアは腰の小鞄を開いた。
「まったく。服が汚れたじゃありませんか」
文句を言いながら取り出したのは投剣ではなく、霊菫の詰まった硝子瓶だった。魔除けの紫炎を灯らせるそれを、高く弧を描くようにぶん投げる。
一拍を置いて、レクトに密集する汚泥の向こう側に破砕音が響き渡った。スミレ色の光が夜の暗闇に燃え上がる。
『『るゔぉぉおおおおおおおっ!!』』
怯えた魔物たちが四方にばらけようとするのを逃さず、ネリアは左右と手前にも硝子瓶を投じた。ばら撒かれた花が光を立ち昇らせて円陣を組み、退路を断たれた魔物たちが身を寄せ合って縮こまる。
光に照らされ悲鳴をあげる人面の中に、見覚えのある童顔がボコリと這い出した。埋もれていたレクトが根性で泥から抜け出し、魔物を踏み台に高く跳躍すると、光をくぐってネリアの足元まで転がってくる。
「ぷはっ。はぁ、はぁっ、し、しししししぬかと思ったぁ。あっ、ネリア、無事!?」
「はい。ありがとうございます。レクトさんのおかげで魔物を全部封じられました」
「僕、役に立った? よかったぁ」
泥まみれで笑顔になるレクトに、満更お世辞でもなくネリアは頷いた。ネリア一人でも半数は仕留める自信があったが、全部封じるに越したことはない。
レクトは口に入った泥を吐き出し、気持ち悪そうにこびりついた腐肉を拭い始めた。ヒルのように蠢く腐肉が懸命にレクトの肌に歯を立てようとするが、レクトは気づかず気軽にポイ捨てしている。ネリアはさりげなく距離を取った。
「ぇっと、でも、花が燃え尽きちゃうとまた襲ってくるんだよね? 逃げたほうがいい?」
「そうですね、一応退避しておきましょうか。その前に決着するとは思いますけど」
頭上を仰ぐネリアに、レクトは琥珀色の目を瞬かせた。黒々と漆を塗り固めたような夜空を裂いて、虹色に煌めく白い光が矢のように走る。
シャボン玉のように歓声が弾けた。
「しゅっぱつしんこーぅ!」
瘴気の減じた上空を、マントを羽ばたかせてはしゃぐランと、ランの腕にぶら下がって仏頂面のカイが、洞窟目指して一直線に飛んでいった。
次回更新:7/25(水)18:00