1-2 後片付けの時間
「うう、はな、せっかくの花野菜がぁぁあ」
えぐえぐと焦げた花を片手に泣きじゃくるレクトを、燃やし損ねたゴミを見る目で見下ろして、カイは聞こえよがしに舌打ちした。秀麗な面差しは怒りに歪んでも精悍な魅力を失わず、代わりに氷のような威圧感が増している。
「言い遺すことはそれだけか?」
「迷惑かけてごめんなさい!!! 助けてくれてありがとうございます!」
カイの刃のような声音に、レクトが素早く姿勢を正して叩頭した。滑稽な仕草からは心からの感謝と反省が伝わってくるが、カイにとっては何の価値もなかった。今までの経験上、何かに惹かれて走り出せばすぐに忘れるのがわかりきっている。
レクトはカイの雷を浴びて軽く毛先が跳ね、ついでに汚泥の残骸に落ちたせいでドロドロになっているが、それだけだ。負傷した形跡はない。
剣呑に目を細めるカイに、ネリアが柔らかく声をかけた。
「まあまあ、カイさん。魔物は倒せたんだしいいじゃありませんか。私も神官の端くれ、彷徨える魂を放置するという選択肢は最初からありませんし」
お前は真っ先に放置していただろうが、とカイが毒づく前に、ネリアは軽く膝を曲げて、頭を下げたままのレクトを労わった。ネリアの背丈は成人女性としては平均くらいだが、それと比べてもレクトの背は少し低い。
「お疲れ様でした、レクトさん。お怪我がないようでなによりです」
「うう、ありがとう、ネリア。迷惑かけてごめんね」
「そんな風に仰らないでください。この旅が終わるまで、私たちは運命共同体。お助けするのは当然のことです」
だからお前は指一本動かしてないだろうが、というツッコミは、ない恩を着せられて感激しているレクトには届かないだろう。舌打ちして、カイは魔物の残骸を指差した。
「そんなに神官の職務に忠実なら、葬送曲でも奏でてやったらどうだ? あの魔物は散らしただけだし、そろそろ復活するぞ」
カイの雷に四散した汚泥に、人の顔が浮かんでいた。ブクリと泡立ち、腕が伸びる。飛び散った泥が一つになり、再び起き上がろうとしている。
魔物とは、現世に残留する死者の怨念が受肉したもの。肉体は物理領域に落ちた影に過ぎず、魔物を生み出している残留思念が消えない限り、何度でも魔物を再構成して襲いかかってくる。
その怨念を鎮め精霊に還すのは神官の重要な職務なのだが、その一員であるはずの女は、腰に差した横笛に触れもせず、あっさりと首を横に振った。
「私より適任がいらっしゃいますし、そちらに任せますよ」
花の匂いが、間近に香った。
雷に撃たれて焦げた腐肉の臭いが、淡いスミレの香りに包まれ、和らいでいく。辺りに飛び散った泥が地面に染み込んで、肥沃な黒土に変わっていく。
それを為しているのが誰なのか、場の全員がわかっていた。崖の上で呑気に蝶を追いかけていた緑髪の少女が、ふわりと崖から飛び立つ。
『じゃーんぷっ♪』
伸びやかな声が、動作が、自分が無事に着地すると信じて疑わない心が、その通りに世界を動かした。
虹色に反射する白い燐光が少女の爪先に踊る。宝石のように磨かれた靴が軽やかに宙を跳びはねて地面に降り立つと、弾む足取りで飛び散る汚泥へと駆けていく。
躍動する剥き出しの手足は瑞々しく白く、日焼けもシミもホクロも見当たらない。絹糸を染めたような若草色の髪が、仔馬の尻尾のように腰の辺りで毛先を弾ませる。髪を束ねる金細工のような蔓草が満開の花を咲かせ、色とりどりに少女を彩っていた。
『おはなも ちょうちょも にっこにこ~♪ みんないっしょに くらっぷ♪ ふらっぷ♪ だんす♪』
気ままな拍子に、弾む手足。それ自体が、精霊に捧げる祈りだった。蝶のように閃く指が、花のように静止して、風に揺れるように回る。手足といっしょに翻るマントから、華やかな刺繍が施された短衣と南瓜めいた形の短脚衣が覗く。花から覗く花芯が粉を散らすように、陽光を浴びて煌めいている。
金糸に絹の豪奢な衣装を、それと感じさせぬ無邪気な動きで、ランと呼ばれる少女は無念に口を開く汚泥の元にたどり着いた。
『おうたのじかん わくわく くるるん♪ ないてる あのこも れっつ♪ だんす♪ すうぃんぐ♪』
鈴を振るような澄んだ声が、転んだ子どもを慰めるように歌う。大気に広がる歌が虹色の波となって大地に染み渡り、穢れを知らぬ指が恐れも嫌悪もなく汚泥に伸びる。
『いたくない~♪ いたくない~♪ こわくない〜♪ こわくない〜♪』
鼻の曲がりそうな饐えた腐臭も、汚らわしく濁った泥も、そこに浮かぶ痛ましい死に顔も、少女を穢すには至らなかった。
歌声は狂いなく澄み渡り、微笑みは曇りなく、泥に沈んだ指先で、薄桃色の爪が蓮の花のように色づく。
『もう どこも いたくない~♪』
『ふぉぉぉぉぅ』
触れても傷つかず、自らを傷つけようともしない温もりに、終わりのない飢餓に苛まれていた死者の顔が、安らいだ吐息を漏らした。起き上がろうとしていた泥から、硬ばった怨みが抜けていく。
そうして、すべての汚泥が土に還った。風に香るのは、湿った地面の素朴な匂い。黒い土に芽吹いた若葉が、白いスミレを一輪咲かせる。
「おやすみなさい」
白磁めいた指がスミレを撫でて囁く。立ち上がった少女の姿は、一流の名工が岩から見出した神像のようだった。
成熟する前の過ぎゆく美を、永遠にしたような細い肢体。幼さを残した唇に、真珠を削ってはめ込んだような小鼻、赤子のようにふっくらした頬と、すべてが完璧に調和した華やかな顔。
一つとして狂いなく整っているがゆえに、少女の美貌は人の形を真似て作られた虚像のように感じられた。この世のものとも思えないのに、確かにそこにある、不自然な美しさ。
身動ぎすら躊躇われる静寂の中。濃やかな睫毛に挟まれて星のように輝く、稲妻のような金緑色の瞳が、ゆっくりと自分を待つ人間たちを振り返る。
「ラン、お疲れ様!」
その瞳がカイたちを射抜く前に、レクトの呑気な歓声が静寂をぶち壊した。
「みっしょんこんぷりーと!」
ブンっと元気よく腕を掲げたランが、にぱっと弾けるように笑う。それだけで神秘的な気配は霧散した。美醜を超えてただ愛らしい、子どものような笑みがそこにある。
駆け寄ったレクトが、ランといっしょにパァンっと手のひらを重ね合う。真珠色の光が閃いて、レクトの全身に垂れていた泥が一瞬にして乾き、パラパラと剥がれて落ちていった。もう片方の手に握られたままだった焦げた花が、ランの指に撫でられて瑞々しい茎葉と花びらを取り戻す。
「わぁっ、ありがとう、ラン!」
「どういたしまして〜」
「おい、そいつに無駄な力を使わせるな。また摘めば済むことだろうが」
「食材を無駄になんてできないよ」
頬を栗鼠のように膨らませたレクトが、すぐに復活した花野菜の束を嬉しげに撫でる。
言っても無駄だと首を振ったカイは、いけしゃあしゃあとランを労わるネリアの鉄面皮に呆れることになった。
「お勤めありがとうございます、ランさん。お疲れではないですか?」
「げんき!」
「それは良かったです」
安堵したふうに微笑むネリアは、見てくれだけは神官の鑑だった。その腰に下げてある横笛は何のためにあるのか問い正したいが、聞いたところでろくな答えしか返ってこないのはわかりきっている。
「おい、さっさと行くぞ。昼時までには例の洞窟に着くからな」
「はい、カイさん」
「ゆあ~りか〜」
「あっ、まってまって、荷物詰め直さないと」
逃げ回っていた間に梱包が崩れた麻袋の中身を、レクトが入念に点検し始める。
それを置き去りに、カイは芽吹いたスミレを踏まないように避けながら、足早に歩を進めた。短く鎮魂の祈りを捧げたネリアがその後に続く。
ネリアを真似て祈る仕草をしたランといっしょに、荷造りを終えたレクトが黄色い花を一輪スミレの隣に捧げて手を合わせ、並んで遠ざかっていく背中へと駆けていく。
空はまだ青く、日は高い。しかし一行が目的地に着いたのは、日の暮れる夕方になってからだった。
次回更新:7/22(日)18:00