1-1 山道にて雷鳴
空に向かって傾斜する崖の上で、鷹のように鋭い目つきの青年が、ひとり風を浴びていた。
鼻筋は高く、肌は滑らかな黄白。そこらの美女よりも整った顔立ちの美青年だが、鳶色の眼は研いだ刃のように鋭く、しなやかに長い肢体に柔らかさは微塵もない。凛々しい直線の眉をきつく顰めた表情は、見惚れるよりも先に気圧されそうだった。
(いい風だな)
後ろで一括りにしている艶やかな茶褐色の髪が、尾羽のように肩甲骨の辺りをなびく。はためく外套は防寒防水に加えて防魔性も高い一品だったが、そろそろ買い替え時かもしれない。
くたびれた裾を長い指で抑えながら、青年はしかめ面を和らげ、珍しく爽やかな気分で頭上を仰いだ。
頭上の空は柔らかな青に富み、綿のような白雲が地上で見上げるよりずっと近くを浮いている。自分が山にいることを意識して冷たい空気を嗅ぐと、甘い香りが鼻をくすぐった。春の訪れを告げる、スミレの匂い。
この大陸の多くの住人に親しまれている花の香りを深々と吸い込んで、青年は崖下から聞こえてくる悲鳴を聞き流した。
「たぁすぅぅけぇてぇぇぇぇ」
しつこく尾を引くやかましい悲鳴だが、傾聴には値しない。降り注ぐ陽光に鳶色の目を細めると、青年は遠い時代に思いを馳せた。
かつて、神々が好き勝手に大地を作り替えたせいで、旧き世界は滅んだ。滅びた大地は精霊によって掬い上げられ、精霊の恩寵厚き一族によって統治された。
その一族が築いた古き王国も滅んだ現在。大陸には精霊の理から外れた魔物が跋扈し、特に街道から外れるときには警戒が必要となる。
「たーーすーーけーーーてーーーー」
そう……精霊の導きを得た神官たちが守る花街道から外れれば、そこは死霊渦巻く魔境。精霊の力が強まる春であっても、神官でもなければ武器の類も持ってもいない人間が、好きにうろついていい場所ではない。
「たすけて、ちょ、カイ、聞こえてる?! 聞こえてますかっ? ねえ、たすけてー!」
それを、食器に調理器具に調味料と、魔除けどころか登山の役にも立たない荷物を無駄に背負って、「あの花美味しいからちょっと摘んでくるね」などとほざいて道を外れ、挙句の果てに魔物の縄張りに足を踏み入れるなど、自殺志願者と呼ぶ他ないだろう。
そう結論づけると、青年――カイは速やかに決断を下した。
「よし、放っといて先に進むか」
「ちょっ、みすてなぃでぇぇぇええ!!」
カイが背を向けたのを目敏く見つけて、崖下でボサボサのホウキ頭がネズミのように跳びはねる。
断末魔に取っておけと言いたくなる叫びを上げるのは、カイとは対照的に背の低い――その低めの頭身より大きく膨らんだ麻袋を背負った、丸っこい童顔の男子だった。
髪は一応金色なのだろうが、艶がなくあちこちに跳ねてるせいで黄土色と言ったほうが近い。短い手足を包む旅装は丈が合っておらずブカブカで、しょっちゅう藪や獣道を突き進んでは激しく逃げ回っているせいで、あちこちほつれて土埃に黄ばんでいる。
全体的に小汚く、見窄らしい見た目の中で、琥珀色の円らな瞳が煌びやかに潤む。が、カイにとっては鬱陶しいだけだ。見た目と同じくらい幼く響く声が、キャンキャンと吠える。
「カイ、見てよこの花! さっき摘んできたんだけど、塩茹でするとシャッキリほろ苦くて、甘みのある料理の差し味に最適なんだっ。けど、このままだと、枯れちゃうぅうう!?」
丈の長い黄色い花束をブンブン振り回して訴えるレクトに、カイは鋭い目つきをますます冷ややかに細めた。無駄に泣き叫んで手足をバタつかせながら、逃げ足の速度が全く緩まないのはいっそ見事だが、ちっとも褒める気になれない。
それでも、元は自分が雇った男であるため、カイは嫌々ながら声を張り上げた。低く冴えた声が、まっすぐに崖下に届く。
「レクト!」
「うんっ」
名を呼ばれた男子が、助けを期待して琥珀色の目を輝かせる。
カイは無情に告げた。
「保険金はお前が入りたがっていた美食探究会に寄付してやるから、安心して食われろ」
「名誉会員には生きてなりたいです!! カイおねがいっ、僕が食べられたらせっかく摘んだこの花まで犠牲に、っっぎゃーっ!!」
『ゔぇあげぅぼぉおおお!!!』
絶叫して跳び上がったレクトより耳障りな咆哮に、カイは顔を顰めて鼻を袖で覆った。
長閑な青空に、春先の涼やかな風と、スミレの香り。それらを台無しにする、傷んだ肉にカビが生えたような腐臭が、崖下から立ち昇ってくる。
「ぎゃー、死ぬ、ほんとに食われて死ぬー!!」
『ぐぇぼおおおおおっ!!』
うるさく泣き叫ぶレクトの背中を追い回すのは、一言で言えば、腐敗した泥の塊だった。
油絵の具のようにぬめる茶色く濁った触手が、歪な手足の形になって地面を叩く。飛び散った液状の腐肉がジュウジュウと黒煙を噴き上げ、地面を這うナメクジのような泥の塊に吸われていく。
レクトくらいの図体なら一呑みにできそうな汚泥が、更に一回り大きく膨張する。表面の泡が弾けて人面に似た凹凸を作ると、口と思しき穴が腹の虫のような声を轟かせた。
『ぐぅぅぅ゛ぉぉ゛お゛お゛お゛』
空気を慄かせる咆哮の代償に、黒々とした腐汁が涙のように滴り落ちる。ドロリと溶けた顔面の代わりに生えた手足が、獲物を求めて宙を掻き毟った。
その怪物は、生まれながらに死んでいた。この世に未練を残して死んだ魂が、精霊の元に還るのを拒み、大地を食らって蘇ろうとした成れの果て。即ち、魔物。
生き返るために生者の血肉を欲する魔物が、ちょこまかと逃げ惑う獲物めがけて腕を振り下ろす。
「カイっ、カイさん、カイさま、たすけてぇええええっっっ!!!」
躱しはしたものの、さっきまで自分がいた地面が腐って沸騰するのに青ざめて、レクトが声も嗄れよとカイの名を連呼する。魔物の動きは鈍いが、伸びる触手はどこまでも追いかけてきて、狭い山道に逃げ場はなく、ついには崖下に追い詰められる。
その様子を冷ややかに見下ろすカイに、背後から戻ってきた女が遠慮がちに尋ねた。
「あの、カイさん。助けてあげないんですか?」
「断る」
にべもなく告げて、カイは隣に来た女へ視線を移した。
親しみやすく、警戒しづらい、優しげな風貌の女だった。細く白い首に乗った小顔は形の良い卵形。小さい唇に低い鼻と彫りの浅い顔立ちの中で、不釣り合いに大きな薄青の瞳が目を引く。弓形に整えられた金色の眉は眉間にシワを寄せているが、カイと違って威圧感はカケラもない。
細い肢体は無駄なく引き締まり、それでいて輪郭は柔らかく、真っ白な神官服がよく似合っていた。腰の帯に差した小鞄と横笛の他に荷物は見当たらない。白い布地に施されたスミレの刺繍は、この女が公国中央神殿に属していることを示していた。
女の青い瞳がカイを見上げる。人に好まれるのを生業とする声が、物柔らかに言い聞かせた。
「どうせ件の洞窟はこの先なんですし、ついでに助けてあげればいいじゃありませんか。この近辺の安全を確保するのも依頼の内ですよ」
「あいつをこのまま囮にするのが楽だと思うがな。そこまで言うならお前が助けてやったらどうだ? ネリア」
「私、魔物退治は専門外ですから」
あっさりと無情に首を振る女の細首に、左右で緩く結んだ淡い金髪がふわりと揺れる。白い神官服から花のような石鹸の香りが立ち昇るのに、カイは一歩横にネリアから距離を置いた。
見る目のないお人好しはすっかり気を許しているが、カイはこの女を猫のような女だと認識している。一見可憐で、人当たりの柔らかい……それでいて本心は窺わせず、油断すれば鋭い爪を立ててくる。そんな女だ。
事実、崖下を見下ろすネリアの瞳は涼やかに青く、レクトの苦境に微塵も心を痛めていない。腰に差した横笛を吹いてやるだけでも助かるだろうに、逃げ回るレクトを眺めて「あらあら」と呑気に呟いている。
もっとも、どんなに善良な人間でも、レクトを心配するのは難しいだろう。大荷物を背負ったままの無意味やたらに機敏な動きが、ヤツの置かれている状況から緊張感を削ぎ落としている。
「俺だって本業は学者だ。有害なお荷物を助ける義理はない」
「とは言っても、放っておいたら余計面倒なことになりませんか? 予測不能なのはレクトさんだけじゃありませんし」
「そっちはお前の管轄だろう。とにかく、あいつを助けたいなら勝手にやれ。俺は知らん」
「じゃあ、たすけるーっ♪」
シャボン玉が弾むような声に、カイとネリアは同時に振り返った。
一行の最後の一人、黄色い花畑で蝶と戯れていた少女が、ニコニコとした笑顔で両手を掲げていた。少女の若草色の髪を束ねる黄金色の蔓草が蕾をたくさん実らせ、肩を覆うマントが花びらのように羽ばたく。渦巻く風が光を帯びて、少女の頭上に力が花開く。
「ランっ、お前の出番はまだだ!」
「遊んでいていいですよ! ランさんっ」
「んぅー……わかった!」
その点では意見の一致を見せたカイとネリアに、ランと呼ばれた少女は素直に腕を下ろした。集おうとしていた力が呆気なく霧散する。
こめかみを抑えたカイと安堵のため息を吐くネリアを置いて、少女は一人遊びを再開した。腕を水平に広げ、花畑を幼児のように駆け回る。少女の遠慮のない腕と踵に、丈の長い黄色い花――レクトが摘んでいた花だ――が薙ぎ払われて横倒しになっていく。
人形めいた横顔は気にした素振りも見せなかったが、なぜか、花は少女が駆け抜けた端から起き上がり、元通りに風にそよいでいった。まるで、最初から踏みつけられてなどいないように。花弁すらも散らずに少女のふくふくとした指先に撫でられている。
花畑の長閑さを他所に、崖下からはレクトの悲鳴がひっきりなしに聞こえていた。舌打ちしたカイへ、物憂げにネリアがささやく。
「カイさん。ランさんも気にし始めましたし、そろそろ助けてあげましょうよ。いい加減うるさいですし」
「断る。これで何度目だと思ってるんだ。あいつが死ぬか自力で切り抜けるか二つに一つだ」
「時間の無駄だと思いますけど。いいじゃないですか。レクトさん、料理の腕はお世辞抜きで一流ですし。アレに慣れた後で味気ない携帯食に戻るのは、ちょっと……」
「俺は一向に構わん。これ以上あいつの奇行に振り回されるくらいなら、野宿に不釣り合いな美食なんぞ惜しくもなんとも」
「ガぁぁぃ゛イ゛い゛ぃい!! だぁずうげぇでぇぇぇえええ゛」
先ほどより近くなった泣き声に、カイは視線を崖下に戻した。
レクトが、両足だけで崖を登っていた。
「まあ、すごい」
絶句したカイの隣で、ネリアが感嘆する。食器や調理器具や食材調味料一式その他諸々を詰め込んだ背中の麻袋は決して軽くないはずだが、レクトの動きに重力は感じられない。
垂直の切り立った崖を、花束を掴んだまま平地のようにひた走るレクトの姿に、カイは後退り、ネリアは肩を竦めて踵を返した。「でばん? でばん?」と声を弾ませるランを、「カイさんだけで十分ですよ」と背中を押して、足早に黄色い花畑へと避難していく。
一人崖上に残ったカイは、わなわなと肩を震わせた。指先に、力が籠もる。
レクトを追いかける魔物が、蠕動する襞で崖を這い登る。土を腐らせる魔物に障られ、積み上がった土の層がグズグズと溶けて根元からひび割れる。崖が崩れるまでどれ程の猶予があるか、必死に目の前の土を蹴るレクトは気づかない。
麻袋の中で調理器具がガチャガチャ擦れる音を響かせながら、レクトは人間離れした脚力で崖の上へ跳び上がった。
「カイ、たすけてーっ!!」
馬鹿の一つ覚えなその台詞に、カイのこめかみがブツンと音を立てた。
体の奥から指先に向かって、力が迸る。結果を考えるより先に慣れた感覚が、緻密な術式を宙に描いた。
霊思領域と物理領域の摩擦で発光した鮮烈に青い幾何学模様が、カイの祈り――と呼ぶには物騒な意思を世界に繋げ、顕現させる。
「悪気なしに人を巻き込んでんじゃねえ、この、馬鹿っ!!」
怒号が、稲妻となって地を走る。
放たれた雷撃は炸裂音を響かせながら、魔物ごとレクトを叩き落とした。
次回更新:7/21(土)18:00